二塚地区

福澤 健

三ヶ尻 勇輝

平井 尚志さん(68歳)は、昔は二塚一区に住んでいて百姓をしていた。現在は二塚四区で仏壇店を営んでいる。40年ほど前に、今の奥さんをめとって今の場所へと移ってきたが、当時そのあたりには3,4軒しか家がなかったという。

向井原の南に位置する山と本村付近の寺(正受寺)は500年ほど前に小笠原藩の殿様からいただいたものである。正受寺は黄檗宗の寺で、北九州のこうじゅ山の直系であり、このあたりの最初の寺子屋として教育が行われていたが、百姓などの身分の低い人々は受けることができなかった。また、300400年ほど前に、京都郡でイナゴの大災害が発生し、7000人以上が餓死した。よって、正受寺では、毎年夏になると、」死者に戒名をつけ、供養している。

二塚には、井尻川(地図には棚見川、多波川とあるが、地元の人は井尻川と呼んでいたらしい)という川があり、付近の田んぼにはその川から水を引いていた。昔はほぼ毎年その川が氾濫し平地は海のようになっていた。そのため、田には肥えた土が運ばれ、米はよく採れていた。ちなみに、山の上のほうの水が冷たい地域では、米はうまいが収穫量が少なかったらしい。また、山の方には「深田」と呼ばれる深い田(だいたい人の腰までつかるくらい)があり、そこには牛馬が入れないのですべて人の手でやっていた。米は、40年ほど前は1反当たり6俵ほどで、現在は810俵ほど採れるという。1020年ほど前に三面側溝の工事が行われ、それ以来、川が氾濫することはなくなった。しかし、その反面、川に昔はたくさんいた生き物がほとんどいなくなってしまったそうである。主な生物はどんこ、フナ、ザリガニ、うなぎ、ハエ(ハヤ)、サワガニ、シジミ、えび、などである。しょうけですくうと一度に大量の魚が採れたという。

昔の肥料はわらと牛馬の糞を混ぜた堆肥であった。化学肥料はチッソ、りん酸、カリなどが、単品で売られていたため、自分たちのかんで調合して使っていた。稲の病気にはイモチ病というものがあり、かなり収穫が減ったという。また、害虫の駆除の方法は、まず油を田んぼにまき、それから稲についた虫を払い落として駆除するというものである。平井さんの家は牛を飼っていたそうである。馬よりも牛のほうが扱いやすいので、牛を飼っている家のほうが多かった。また、耕運機を使い始めたのは40年ほど前からである。牛のえさは、わらと草と米ぬかを混ぜたものを与えていた。わらは通称「わら切り」というもので切ったもので、草は井尻川の土手で採ってきたものである。どこの家も自分の牛かわいさに、より多くの草を採ろうとするので、場所をきちんと割り当てていたという。また、牛には塩を別に与えたり、水に混ぜたりして塩分をとらせていた。その際に用いる塩を「山塩」(少黄色みを帯び粗い。人が食べているのとは別もの。)呼んでいた。牛は糞などですぐに汚れるので、週一回くらいブラシで体をこすってやっていた。また、暖かくなると川まで洗いに連れて行ったという。川の、洗濯をする場所をすいじんば(炊事場が由来?)と呼んでいた。牛を引くときの掛け声は、右が「せえ」左が「たし」といい、牛におしえこんだそうである。共同作業は「加勢」といい、雨が降ったときにいろいろな人に田植えを手伝ってもらっていた。若い女性の田植え姿を「早乙女」と呼んだらしい。百姓は、昼は田で働き、夜は内職をし、ふお(かごのようなもの)やぞうり、俵などを編んでいた。農作物はたいていリヤカーで運んでいた。馬車を使うこともあったという。また、牛、馬以外にも鶏を飼っており祭りなどの特別な日にはさばいて食べたり、卵を食べたりしていた。

祭りはまず4月末〜5月初めに神幸祭というものがあり。昔は大きな山車を引いていたという。

現在では山車は使っておらず、御輿(100150kg)のみが使われている。次に、百姓同士の親睦を深めたり、豊作を祈願して、「おこもり」という行事があった。お宮に食べ物や酒を持ち寄り、飲み食いをするというものである。だいたい春おこもり、開作おこもり、(田植えの前に行われる)、秋おこもりの三回が行われ、年によってはもう一回行われる年もある。ほとんどのまつりの行事は本村の人が主催している。

今は作っていないが、昔はたいてい麦も作っており、麦飯をよくたべていた。また、母親がパンを作ってくれたりもしたという。昔のおやつには干し柿(わらにさして天日干しして作る。)、じゅくし柿(わらに柿を入れて、完全に熟させる。種まで食べれる。)、あおし柿(塩水に渋柿をつけて作る。)、かきもち、あられ(かきもちの小さいやつで、炒ってたべる。)、とう豆(そら豆を干したものを炒る。)おはぎ、きな粉もちなどである。食べられる野草はヨモギ、入道草、(どくだみ)、フキ、わらび、つくしなどである。「ギシギシ」という草は食べられるものと食べられないものがあったらしい。また、犬を食べたことはないというが、赤犬が美味いという話は聞いたことがあるという。そのほか食べ物に関しては、魚の干物を作ったり、貝掘りに行って、アサリやマテ貝などを採っていた。また、村には行商人も来ていた。リヤカーを引いて新鮮な魚や干物を売る人や、富山から来た薬売り、四国の伊予から来て、作業着などを担いで売っていた人などがいた。

家の半分は生活する部屋、後の半分は米などを貯蔵する空間であった。ネズミにはどうしようもなく、米を食べ放題という状態だった。冬の暖房について、まず下側の暖房は、畳の下に土を山状に盛り、真ん中を窪ませて、ロウに火をつけて暖めていた。上側の暖房は、編んだ竹の上に土を盛って寒さを防いでいた。昔、冬は今よりも寒く、雪も10cm15cmは積もっていたが、家の中は結構暖かかったそうである。子供は冬にはぞうりを履いていたが、たいていは裸足だった。学校には足の洗い場があったが、みんな水の上をぴちゃぴちゃっと駆けて行くだけだったらしい。

平井さんはは昔、自転車で豊津高校まで通っていた。学校では、先輩後輩の上下関係が厳しく、先輩に空気銃で撃たれたりしたこともあったらしい。ただし絆は非常に強く、けんかでやられたときなどには、かたき討ちに行ってくれた。昔のけんかは、今のように、カッとなってナイフで刺すようなことはなく、正々堂々殴り合いをし、ある程度決着がつけば自分たちでやめていたという。

今回の調査出で感じたことは、昔は、今のような便利さこそはないが、生活の知恵や工夫がたくさんあるということである。そこから私たち若い世代が学べるものは、意外に大きなものではないかと思った。また、それらをさらに若い世代へと伝えることも重要なことであると感じた。