二塚一
金子光太
芦田貢史
9時に九大前を出発。天気は良好。まるで遠足のような雰囲気だった。途中で休憩を入れて、11時30分頃目的地のバス停に到着。住宅地図で確認しながら行ったが、地図が古かったらしく、描いてある道が消えていた。それでも何とか相手方宅近くまで来たが、到着したのが予想以上に早かったので、近くの公園で時間をつぶそうとしたが、その公園が取り壊されていた。そこで仕方なく怪しげな神社でひとやすみして昼食をとった。後で聞いたところによると、その神社は由緒正しい神社だったらしい。12時30分ごろ相手のお宅を訪問したところ、ご主人が出迎えてくれていた。涼しげな縁側に通されてお話をお伺いすることになった。奥さんが親切にジュースとお菓子を出してくれた。そのお菓子は手作りでとてもおいしかった。周りにはトンボがたくさん飛んでいた。トンボは蚊を食べる、とおっしゃっていた。
そしていろいろな貴重な話を聞き、ちょうど時間も4時近くになったので、おいとますることにした。時間も迫っていたので急いでバス停に向かった。とても親切な人で良かった。
お伺いしたお宅 二見信行さん宅(昭和8年8月1日生まれ)
・ 屋号について
屋号には、綿屋(わたや)などがあるらしいが、すべての家にあるわけではない。
・ 水について
田に引く水は、近くの棚側と山崎川、宮迫池から引いていた。水に関する規則がきちんと決められていて、争いごとは起こらなかった。水には比較的恵まれていたようだった。また、旱魃が起きても、きちんと規則を作っていて水の係りや池の係りなどもいて、機械で水を汲んだりもしていた。
ちなみに、棚見川(しがらみがわ)のことが、住宅地図では多波川と表記されていた。
・ 田について
田や川にいた生物は、フナ、ナマズ、ドジョウ、ウナギなどがいて、こどものころはそこで魚を採ったりして遊んでいたそうだが、今は水が汚くなって生息していない。また、昔はヒルが大量にいて、血を吸われて困ったらしい。
田植えが終わったあとにかえさくと呼ばれる雨乞いの祭りをしていた。また9月のはじめごろには二百十日という催し物があった。
田や畑では昔は大豆、菜種、米、麦など様々作物を栽培していたが、今では米だけしか栽培されなくなった。二塚一一帯の田はすべてが上等な田で、昔は一反当たり4俵ほどとれていて、今は一反当たり8俵ほどとれているらしい。肥料は、昔はたい肥を使用していたが、今は化学肥料を使用するようになった。
昔の田植えは今よりもはるかに大変で忙しかったらしい。ひとつの田に10日ほどかかっていて、近所で遅れる家があった場合にはみなでかせいに行っていたらしい。また、収穫の時期が近づくと他の一角を刈り取って稲の出来具合を見る、つぼがりというものを行っていたらしい。
・ その他農業について
この村では9割ほどの人が牛を飼っており、馬を飼っている人はほとんどいなかった。また、飼っていた牛もメス牛がほとんどだったらしい。えさも自分の家で稲のわらや田んぼに植えたれんげを食べさせていた。忙しい5月ごろには麦も与えていた。
草は自分の切る場所が決められていたが田んぼや川のあぜでも手に入れていた。焼畑などは行われていなかった。薪はグループを作って遠方の山に買いに行っていた。入り会い山はなかった。
この村には昔から様々な行事、祭りが盛んに行われており、今でも続いているものが多い。
馬は、山崎川に洗う場所があり、そこで洗っていた。蹄鉄は、一里ほど離れた行橋の町まで付けに行っていた。牛を歩かせるときの掛け声は右へ行かせるときが「たし、たし」で左に行かせるときは「しえ、しえ」と言っていたらしい。牛はえさを食べさせてくれる人を覚えていて、その人になつくようになるらしい。子供は学校から帰ると牛にえさを与えるのが仕事だった。他にも、井戸の水を汲んでくる仕事がきつかったらしい。
米は米俵にして家の土間に積んでいた。20年ほど前までは土間に竈があった。今では民家には残ってないが、公民館や寺にはあるということだった。土間にはネズミがよく来ていたので、杉の木の枝をさしたり、あるいはあらかじめ米を何粒かまいておくなどの対策をしていたが、今はもうほとんどいなくなったらしい。
・ 日常生活について
車社会になる前、昭和30年か40年ごろまでは国道201号線まですべて砂利道だった。当時は灌漑工事がされてなかったので、道や田んぼまで水に浸かっていて、一度大きな台風が来て町全体が水に浸かったこともあるらしい。十数年前に灌漑工事が始まり、それにより雨のときに困ることはなくなった。
村には、時折リヤカーで魚を売りに来る行商人が来ていた。他にも卵や蓑を売りに来る人も来ていた。
主食は米に麦を混ぜたもの。比率は米:麦=7:3だった。魚や肉を買う以外の食糧はすべて自給していた。芋をうえたり、蚕を飼ったりしていたらしい。その芋を使ったふかしいもはこどものおやつにもなった。他にもかわたけの塩づけ、干し柿、ずばな(草)、野いちご、山ぶどうなど、自然のものをいろいろと食べていた。また、子供たちは近所の家から干し柿やスイカを盗んで食べていたりして、どこの家のがおいしいということを知っていた。
暖房施設は掘りごたつで、それに使う炭もすべて自分の家で焼いて作っていたらしい。
結婚前の男女が青年団を作っていて、祭りや盆踊りなどの様々な催し物を運営していた。盆踊りは盆にあった。規律はかなり厳しかったが、上下関係はそれほどでもなかった。恋愛関係になることもあったらしい。夜這いがあったといううわさはあったが実際にしたという話は聞かなかったそうだ。女性だけの団体もあったらしい。そういった青年団が若者の社交場のような場所だったらしい。
犬を食べる習慣はなかったが、村の外から犬を捕まえに来る人がいたらしい。犬はあまりおいしくなかったようだ。
共同風呂はなかったが、薪を節約するために順番でいろいろな家に入りに行ったり、ということもしていた。もちろん昔は五右衛門風呂だった。
昔の移動方法はほとんど徒歩で、自転車は高級品だった。子供も学校へは4〜8キロを徒歩で通っていた。
小作制度は存在したが農地改革が行われてなくなった。身分格差や差別はなかったらしい。今は、田を持っていても若者が出て行き高齢者の方ばかりになったので、人に頼んでつくってもらっている人が多い。つまり人任せになってしまっている。
昔は住居は二塚一だけにあったが、だんだんと二塚二、三、四と広がっていった。昔からある家はほとんど二塚一にしか残っていないらしい。昔から食料や水には恵まれていて、ほとんど自給していたので、10人家族ぐらいでも農業だけで生活できた。
・ 戦争について
戦争がおきて、人手が足りなくなると中学生が農家に泊り込みで働きに来ることがあった。話を伺った方は当時小学生で、学校では授業をせずに山にサツマイモやかぼちゃを植えに行っていたらしい。B−29が空を飛んで行ったり、八幡製鉄所の上空で空中戦が起こっているのを見たりしたこともあったらしい。また、竹やりで相手をつく訓練もしていた。たくさんの若者が兵隊に取られ、中には自分から志願していく人もいた。戦時中に飢えたり、ひもじいと思ったことはあまりなかったが、寺の鐘や刀は没収された。戦争で死ぬ人はあまりなく、戦争によって生活が大きく変わるということもなかった。比較的影響は少なかったということだった。
・ その他
この村には享保院霊塔供養というものがある。享保17年(1732)、享保の飢饉が起こり、九州地方に多大な被害が出た。そこでこの地区の正受寺の竜文禅師という人が毎日郡内を回り、住民とともに穴を掘り、一体ずつ埋めて葬った。その法要が今でも続いている。お伺いしたお宅にその案内状があり、見せていただいた。正受寺は昔、寺子屋だったところで、今の延永小学校の前身に当たるらしい。
・ 感想
300年も前の行事が今でも続いているのはすごいことだと思った。
一面田んぼばかりで、こんな風景は始めてみたかもしれないと思った。この地域の子供は学校に行くのが大変そうだった。
生活のほとんどを自給自足で営んでいた。だからこそ戦争にも左右されず、自分たちの生活を続けられたんだと思う。
子供たちにもそれぞれ仕事が与えられていて、きちんと一人前として認められているんだな、と思った。
都会に住んでいる僕たちとしては、昔のような苦労を知らず恵まれているんだな、と実感した。
自分たちとはかけ離れた世界に触れることができ、とても貴重な体験ができた、と思った。(終)