「歩き、み、ふれる歴史学」現地調査レポート
調査日2003年1月12日
調査者:永吉信幸、伊藤哲郎
調査地域:
話者:森永俊吾さん(大正9年生まれ)、森永ハルヨさん(大正13年生まれ)、
岩井長平さん(大正10年生まれ)、吉原スギさん(大正2年生まれ)、
森永ヒロさん(大正6年生まれ)、江口トヨさん(大正8年生まれ)、
森永ナミさん(大正6年生まれ)
■ 村の地名、小字、しこな(基本的に北から)
クラタニ
コウヤンド
ヘイケンツジ(平家辻)…村の共同墓地がある。
タニガシラ(谷頭)
ウシロノタニ(後谷)
ゴタンガク(五反岳)
ウメントウゲ(梅の峠)…村の共有地。入り会い山であり、草切山だった。
ヤカットコ(館所)
■ 川・渕の名前(以下すべて神水川に関するもの。上流から下流の順。)
ミヤノフチ…乳母神社の前あたり。
サラサラ川…ミヤノフチから下流へライスセンターまであたりの川をさす。
クルマノフチ…水力発電の施設があった。
ムクノキ…大きなむくの木があった。
ナタトリ…ここは川がとても深かったそうである。
■以下聞き取りの内容
◆田んぼへの水はどこから引いていますか。
田んぼの水は出水(湧き水)だった。出水で十分足りていた。(水争いはなかった。)神水川の水も上の田んぼから順々に使って下の田んぼへまわしていた。
◆旱魃の時の思い出はどんなものがありますか。平成6年の旱魃はのときは?雨乞いとかの経験はありますか。どんなことをしましたか。
旱魃はない。平成6年の時には、北山ダムも水が干上がったが、このあたりは井戸を使っていたので大丈夫だった。雨乞い等はしたことがない。
◆台風予防の神事などはありましたか。
一度、台風17号か19号で被害を受けたが、ここは山に囲まれていて、ほとんど影響がないので、神事などはない。
◆田の中や川、用水路の中にはどんな生き物がいましたか、昔も今も変わりませんか。
どんこ、はや、どじょう、あぶらめ、いだ、ぎょうとく等。むかしは、いっぱいいた。今では全然見られなくなった。
◆麦を作れる田と作れない田はありますか。村の一等田はどこで、むかし(化学肥料の導入以前で)米は反当何俵でしたか。悪い田は反当何俵?麦は何俵?そばは?
昔は麦は少しだけなら作っていたが、自分で消費する分くらいだった。今は米の後は、野菜を作っていて、麦はつくっていない。大串あたりの田が一等田だった。米は反当6俵か7俵くらいとれていた。そばはつくっていなかった。
◆むかしはどんな肥料を使いましたか、いまはどんなものですか。
肥料としては草とか牛馬糞をまいていた。今は科学肥料を使っている。
◆稲の病気にはどんなものがありますか。害虫はどうやって駆除しましたか。
稲の病気にはいもち病があった。害虫には油をまいて落としていた。
◆共同作業はありましたか。ゆいといいましたか。かせいといいましたか。田植えはゆいでしたか。
基本的には共同作業はなかったけど、時にはした。「いい」といっていた。田植えも基本的には、家族でやっていた。
◆さなぶり(さなぼり・田植えのあとの打ち上げ会)はありましたか。その思い出は?
さなぼり(中原ではさなぼりという)は家族単位でやっていた。ご馳走をたべたり、お酒飲んだりした。
◆田植え歌はどんなものでしたか。
なかった。
◆飼っていたのは牛ですか、馬ですか。
牛を飼っていた。牛は田を耕させたり、肥料を取ったりした。荷物運びも牛だった。牛に荷を引かせることを、ドウビキ(道引き)といっていた。
◆えさはどこから運んだのですか。
えさはそこらへんの草をとっていた。冬は干草をあげていた。今はもういない。
◆牛を歩かせたり、鋤をひかせるときのかけ声はどんなものでしたか。右へは?左へは?
歩かせたり、鋤をひかせるかけ声は特になかったが、右へは「キセ」左へは「トウ」といっていた。
◆どうやって手綱は操作しましたか。一本ですか、二本ですか。
普通に手綱を操作していた。
◆ごって牛をおとなしくするためにはどうしましたか(*雄牛がゴッテ牛、雌牛がウノ牛)。
いっぱい働かせて疲れさせておとなしくさせるくらいしか方法はなかった。(ゴッテ牛とは、気性の荒い牛のことをさす。普通の人はわざわざそんな牛は飼っていなかった。しかし、仕事(農作業等)は、ゴッテ牛のほうが早かった。)
◆馬は毎日洗いましたか。どこで
馬は飼ってなかった。牛は全然洗わなかった。
◆馬洗いはあるが、牛洗がないのはなぜ?
分からない。(牛は洗わなくても、病気にはならなかった。)
◆草切山はありましたか。
草切山はウメントウゲ(梅ノ峠)(共有地)だった。
◆薪はどうやって入手しましたか?
農閑期の冬に入り会い山(ウメントウゲ)や自分の山からとってきた。製材所から買ってくる人もいた。
◆入り会い山はありましたか。どこに?そこでどんな作業をしましたか。
ウメントウゲ(梅ノ峠)が入り会い山だった。薪をとったり、草をとったりした。
◆炭は焼きましたか、収入はよかったですか。焼いたとすれば自家生産ですか。
炭は焼いていたが自分で消費する分くらいしか焼いていなかった。自家生産だった。
◆山を焼くことはありましたか。
年に一回、春先にあった。杉を伐採して焼き払って農業をした。
◆何を作りましたか、何年間荒らしましたか。
野菜をつくった。一年間荒らした。
◆草山を焼くことは?
よくやっていた。
◆かご(楮・こうぞ・かじ)は取りましたか。
取っていた。昔は紙すき工場もあった。そこでは製茶や筍の缶詰も作っていた。
◆山栗は取りましたか。山の木の実にはどんなものがありましたか。
山栗はおいしかった。実の小さい笹栗という栗。
◆ほか山の幸はどんなものがありますか。
ぜんまい、わらべ、あけびなどもとっていた。
◆おかしはどんなものがありましたか。干し柿の作り方を教えてください。
酒饅頭、いもだんご、おはぎをおやつにしていた。干し柿はひもにつないで干して作った。干し柿を干すための小屋を持っているところもあった。干し柿は売っていた。
◆米はどういう風に保存しましたか。
米は‘だぶつ’という容器(四角いおけ)で保存していた。二畳くらいの大きなものを持っている家もあった。
◆ネズミ対策はどうしていましたか。
ねずみ穴という罠を使っていた。猫もかっていた。
◆米作りの楽しみ、苦しみはを教えてください。
「稲を刈る時が本当に楽しみだね。田植えや田の草取りが大変だった。」
◆昔の暖房はどんなものでしたか。
囲炉裏だった。
◆むらにはどのような物資がはいり、外からはどんな人がきましたか。魚売りはどこからきましたか。カマドのお経を上げる目の見えないお坊さん(「ザトウ」さん)はいましたか。
行商人は衣料品などをもってきた。魚売りは唐津から自転車できていた。ザトウさんは、毎年冬に神埼からきていた。
◆むかしは病気になったときはどこでみてもらいましたか。
集落にある病院で見てもらっていた。前原のハッタンダには良い医者いるといわれていて、そこまで行くこともあった。
◆川原やお宮の境内に野宿しながら箕をなおしたり、箕を売りにくる人を見たことはありますか。その人たちはどこからきたと考えられていましたか。
箕は自分のうちで作っていたので、買ったりはしていかった。しかし、お寺の境内に野宿している人はいた。どこからきていたかはわからない。
◆米は麦と混ぜたりしましたか。何対何ぐらいでしたか。
混ぜていた。割合はその家によって違っていた。
◆結婚前の若者たちの集まる宿(わかっもん宿・若者宿・青年宿)・青年クラブはありましたか。男だけでしたか。そこでは何をしていましたか。規律は厳しかったですか。上級生からの制裁とかありましたか
青年クラブがあった。女の人はほとんどいなかった。そこではみんなで集まって酒を飲んだりしていた。冬には、あしなか(わらで編んだ足の半分くらいまでしかない履物。農作業時等にはいていた。)を編んだりもしていた。規律は厳しくなかった。
◆干し柿を盗んだりすることはありましたか。
そういうこともあった。
◆戦後の食糧難、若者や消防団が犬をつかまえてすき焼きやナベにしたことはありますか。犬はおねしょの薬だと聞いたことがありますか(体がぬくもる)。
戦後の食糧難の時には、犬(赤犬が美味しいという話だった)も食べた。おねしょの薬という話は聞いたことがない。また、食糧難のときには、芋飯(芋を混ぜたご飯)を食べたりすることもあった。
◆犬はどうしたら捕まりますか。
犬は飼っていたのを食べたので、野犬を捕まえることはなかった。
◆「よばい」はさかんでしたか。
よばいもあった。(しかし、話をしてくれた森永俊吾さんも、岩井長平さんも自分はしたことがないとおっしゃっていた。)
◆もやい風呂(共同風呂)はありましたか。
あった。風呂を沸かすのは当番制だった。
◆恋愛はふつうでしたか。
恋愛は十八夜のとき盛んだった。
◆盆踊りや祭りは楽しみでしたか。祭りはいつでしたか。
十八夜(八月十八日にあった。)という祭りがあった。
◆農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか。格差のようなものはありましたか。
山間部のため田があまりないので、大地主はいなかった。格差のようなものは、とくになかった。
◆むらは変わってきましたか。これからどうなっていくのでしょうか。
中原は嘉瀬川ダム建設に伴い水没する。