富士町麻那古調査報告

 

 

 

話者:吉原奈男美(昭和2年) 

 

   吉原里子(昭和5年)

 

調査者:藤本維佐武

 

日時:2003年11月21日(金)

 

地名:ヒラヤマ タブノキ ハチクマ トビノス ヤマガミ ツジダ モモノキ サツウラ カモウラ フカサコ ゼニガメ オオバソワ ノウテンモト タナカノツジ

 

 

 

 以上に挙げた地名が今回の調査で新たに分かったものである。今回の調査目的としては1996年に東氏が行った調査で場所の特定が出来なかった地名についての特定作業が主である。13あった不明箇所のうち8箇所までは場所を特定することが出来た。残念なことに麻那古の地名に詳しい方が不在であったため残り分の特定は出来なかった。また、前回の東氏の調査によって書き込まれた地名の位置について若干の修正があった。以下は東氏報告と多少重なる所があると思われるが、今回の調査で吉原さんにお聞きしたことについて書きたいと思う。

 

 吉原さん宅で現在納屋として使われている建物は茅葺きである。母屋の方も立派な家で大黒柱を自慢されていた。それもそのはずで、この家はもと円徳寺の庫裏であったらしく、上の寺(大光寺)と下の寺(円徳寺)を合体させて作った140年の歴史を誇る建物なのだそうだ。納屋もこのあたりで一軒しかない茅葺きだがじきに取り壊すことになると言う。昔は村の人が協力して茅葺きの葺き替えをしていたが、今ではもうそれも出来ないのが現状のようだ。

 

実はこの吉原さんの祖父は士族であり、吉原角右衛門(カクの字は聞かなかったため分からない)という人物。筑豊で炭坑に手を出したが失敗した。先祖は龍造寺、次いで鍋島に仕えたのだという。先祖のことについては興味があるのでもっと聞けば良かった。

 

 麻那古には現在6つの古賀がある。和田古賀、下古賀、北向古賀、下日当古賀、上日当古賀、山端古賀がそれである。東氏の調査レポートには、蕨尾、下古賀、和田古賀、寺古賀、中古賀、久保古賀、下日当、上日当、北向、西谷の地区名が見られる。いつ現在の6つの古賀に集約されたかまでは聞かなかったが、蕨尾と和田古賀が和田古賀に、下古賀、寺古賀、中古賀、久保古賀が下古賀に、上日当と西谷が上日当に、下日当と北向はそれぞれそのままで、これに山端古賀が加わって現在の地区になったということである。

 

吉原さんのお宅は和田古賀地区にある。麻那古では吉原さんの家あたりのことを「ノンタ」という。ノンタとは、野々川の田、または単純に野の田という意味。もしくは昔、吉原さんの家のすぐ北側に造り酒屋があり皆が酒を飲みに来た。だから「飲んだ」からノンタになったのだという2つ説がある。造り酒屋があったのがいつ頃かは聞かなかったが、珍しいことだと思った。しかし、造り酒屋説の、「飲んだ」から「ノンタ」に変化し、それが定着したというのは不自然な気がする。野々川流域でここだけが「ノンタ」と言われるのも疑問ではあるが、やはり野々川の田、野の田説が正しいのではないか。

 

タイツクリ(チャーツクリ)というのは夕方まで働いて、帰りには暗くなって松明を焚いたのでこう呼ばれたのだそうだ。里から離れた山の上の地名である。ヘボは道から少し入った所にあるから。イタチミチという地名は場所の特定できなかったが、小さい道ということ。ゼニガメ(銭瓶)はそこを通る時に強く踏みつけると銭の音がするから、銭の入った瓶が埋められているという意味でつけられた。吉原さんもここを通るときにはいつも地面をトントンと踏みつけるそうだ。

 

上に挙げたヘボでは、昭和37年に事件があった。その年はまれに見る大雪で(この年の台風で塩田川が氾濫、塩田辺りは水没し、以後圃場整備がなされた。同じ年に相次いだ異常気象が少し気になった)学校の先生だった中村という教師が遭難してここで亡くなられたのだ。吉原里子さんはこの時の遭難事件で雪の中、お茶を出したりしたのだそうだ。

 

おもしろい話が聞けた。この辺りの人は彼岸花に触れると毒で瘡ができるといって花を採らないのだそうだ。しかし、根っこの方は薬になるといって採るのだという。花は毒があると思われているのに根っこは薬草として使うのがおもしろいと思った。日本国語大辞典によると、彼岸花は全草に有毒成分を含むが煎汁を腫れもの・疥癬などに塗ると効果がある、とのことである。

 

麻那古の祭りについても聞くことが出来た。このあたりの人たちは春日神社の氏子であり、年に神社の大きな祭りが四つある。春(4月4日)に行われるウーマツリ(大祭)、12月の初めの丑の日に行われる丑の日祭り、9月1日に行われる八朔祭りでは灯籠付けという行事があり、氏子には生まれた時に武者の絵などを描いた灯籠を授ける風習があるのだそうだ。これに春日神社のお祭りというものが加わる。このお祭りは戸主のいる家、一軒一軒に鯛一尾が供えられ、大根や人参の料理も作られた。このほかに4月29日に酒や鍋を持って山の上の弁財天(ベンジャーテン)にお参りするもの(タナカノツジと、南南西にある亀岳にあった)。今は山の上まで行くのが大変なので弁財天を移動させたのだという。秋のお彼岸にはお地蔵さんのお祭りが行われる。

 

聞き取りついては以上の通りだが、たまたま帰ってこられた吉原さんの息子さんに大和まで車に乗せて行って頂いた時に聞いた話について少し触れたい。

 

この日、吉原さんの家で御馳走になった御飯は昨日炊いたにもかかわらず非常においしい新米だった。山の上の方にある田で湧水によって育てられたお米、その為刈り入れも普通より一ヶ月遅いとのこと。しかも無農薬だそうだ。おいしいはずである。

 

車の中で聞いたダム建設の話が耳に残った。麻那古から富士町の中心地であり温泉町である古湯の手前まで、神水川(しおいがわ)の流れを止めてダムを造るという「嘉瀬川ダム」計画の存在をこの時初めて知った。十年前から行われている工事はあと五、六年は続くだろうとのこと。山の杉の木が同じ高さまできれいに伐られていて、そこから下がダムの底に沈んでしまうということがよく分かった。杉の木が切られた後には新しく雑木が生え、色づいていて鮮やかだったのが印象的だった。神社の石垣だけが残った境内や、古い石橋も目にした。民家はほとんど無いが、石垣や畑のあとから昔からそこに人が住んでいたことが窺える。何年後かにはダムの底に沈んでしまうこの風景がいとおしく思われる。景観や地名、風習というものはそこに人がいて初めて生まれるものであり、人が立ち入ることの出来ないダムの底にはもはや何もなくなるであろう。吉原さんの同級生は土地を離れるのに4億円の補償金を得たのだという。家の坪数から木の一本一本まで数えたのだそうだ。異常なまでの補償金の話を聞き、新しく高い位置に造られた道路、離村者の居住区に立派な家が建てられているのを見るに附け、ダム建設の真価を問いたくなる。