12月23日の午前11時ごろ、山口正徳さん宅に到着した。そのとき山口さんご夫婦は、干し柿を干してあった場所から下ろしている最中であった。約束の時間より早くついてしまった私たちであったが、山口さんは暖かく出迎えてくれた。石油ストーブが3つほどある、懐かしい感じの作業場に案内された。『突然手紙が来たからびっくりした。』と、山口さんは笑っていた。奥さんは『昔のことを聞きに来るのがはやっとるとでしょう。学校の宿題でほかにも聞きに来るもんね。』と言い、2人は昔の話を始めた。
昭和のはじめは、小学校が6年、高等中学校が2年、青年学校が2年だった。4月29日(今のみどりの日)はテンチョウセツ、11月3日(今の文化の日)はメイジセツと呼ばれ、学校では式典が行われ特別な歌を歌って天皇の誕生日を祝い、紅白のもちをもらった。ほかにも11月23日の新嘗祭などさまざまな祭りがあった。戦時中は、昭和2年生まれの人はほとんど兵隊に行き、20歳になったら学校の先生にさえ召集令状(赤紙)が来ていた。昭和3年生まれの20歳以下の人も、大勢の人に万歳で見送られて特攻隊として戦地へ赴いた。彼らは、『行きます』と言っていた。それはもう二度と帰ってくることがないだろうという思いからだった。そのため子供たちは『行きます』ではなく『行ってきます』というように教えられた。終戦後ものと人が不足したため、古湯温泉の2軒の旅館で学生は勤労奉仕として薪取りや炭焼きをしていた。
話が一段落したので、今度は当時の生活の話を聞いた。
男性は暇で時々山に入って林業をしていた。女性は薪取りや繕いなどの家事をして忙しかった。着物は自分たちで作って、それに男女の区別はなかった。まだ小さい子供は親が一緒に山に連れて行って、ゆりかごの代わりにかごを木にぶら下げて揺らしあやした。お小遣いはなく必要になるごとに必要な分だけお金をもらい、余ったら残らず返していた。昔は共同風呂があってそれぞれの家で持ち回りで炊いた。その残り湯で洗濯をしていたから、全員が風呂に入り終わってから午前2時ごろに洗濯をし、すすぎは川で行い山や田んぼに干した。おい(山口さん)は、昭和30年代に自動車の免許を取ったが、その当時はとてもまれでみんな歩いてばかりだった。道幅は今の半分ほどで、坂道もきつかったので自転車のコスター(ブレーキ)が焼け利かなかった。そのため郵便屋さんも歩いて配達していた。今は雪が降っても20センチくらい積もってすぐに溶けてしまうが、ここは標高250メートルはあるし周りは1000メートル級の山に囲まれているから、昔はこのあたりでも今よりもっと雪が多くて30〜40センチ積もっていた。特に昭和38年には、50センチほど積もり遭難者も出たくらいだ。雨が降るとおいたちはみのをかぶって学校に行ったし、雪になると毛布をみのの代わりにかぶって、ひざ上くらいまであるわらでできた長靴を履いていったものだ。学校から遠くに住んでいる人は、すぐに運動靴がだめになってしまうので町から運動靴が支給されていた。勉強道具は風呂敷に包んで持っていった。落穂をたくさん拾ってきた人や、イナゴをたくさん捕ってきた人は学校でノートや鉛筆をもらえたので、みんな競ってとっていた。富士町では95パーセントが人工林なので、家を作るときなんかは部落のみんなで山からのこぎりで木を切り出してきた。山にはちゃんとした道がなかったので牛や馬に材木を引かせたり、あるいは人が数人で担いで山から下ろしたりした。山から材木を運ぶ際には力が強いため雄を使った。しかし雄は気性が荒く、田んぼを耕すのには雌が適しているため農家ではほとんど雌を飼っていた。しかし牛は田植えの時期や秋にしか使わなかった。乳牛はちからが弱いから物を運ばせることはしなかったし、乳牛は乳が出なくなったら処分してしまうからあまり飼ってはいなかった。牛が食べるのは田んぼのあぜに生えている草で、女性が鎌で刈って牛に運ばせてえさにしていた。牛が怪我や病気になると獣医に診てもらったが、その怪我のほとんどは落下のための怪我だった。牛を洗うことはあまりなかった。
<田んぼについて>
・
牛を飼っていたということだった。講義で先生がおっしゃっていた通り、めったに洗わなかったそうだ。病気という病気もなかったが、骨折などをするときはあった。そのときは獣医に診せていたと。
・
田んぼに入るときはいつも素足ではいっていた。いつも。暑かろうが寒かろうが、春夏秋冬素足ではいっていた。夏はいいだろうが、冬は相当つらかったに違いない。
・
猪に田んぼを荒らされることも時々起こった。
・
肥料については、昔はまったく使っていなかった。その代わり、人間の排泄物を田に撒いて肥料としていたのだが、街のほうから嫁にきた人のなかには「そんなものを肥料としてつかってできたものなんて食べられない」という人もいたそうだ。化学肥料なんかよりとてもおいしいのに、と先方はおっしゃられていたが、食べられないという人の気持ちもわかる。というより、おそらく私も食べられないであろう。
・
米と麦の作り方は同じだった。ひとつの田んぼでまず米を作り、米が出来て収穫し終わったら次に麦を作り、麦が終わったらまた米‥といった事をやっておられたと。
・
旱魃のとき。付近は山が小さく、湧き水が少ない上に、水路もないといった悪条件下だったので、相当きつかった。「まったくといっていいほど足しにならない」そうだが、近くにある小さな川からバケツで水を汲んできて、田んぼにかけるということをやっていたという。確かに足しになりそうもないが、なにもしないよりもはるかにいいのではないか。また、雨乞いもやっていた。村に神様を祭ってあるところがあり、そこにオミキをあげたり、太鼓をたたいたりしていた。旱魃のときだけでなく、雨が多いときにも神様にお祈りをしていた。
・
田植えの後の打ち上げ会として「さなぼり」をやっていた。また、はじめるときにも「おいたち」という祭りのようなことを一週間くらいしていた。村全体で行うため、そのときはもちを五升いっぺんに作ったりしていたという。「おいたち」は現在もやっているが、今では一日しかしなくなったそうだ。
・
田植えの時は、苗代を縄できびったものを投げてまいて植えていた。大百姓と呼ばれる人たちは頼んで植えていた。田植えが早く終わった人は遅い人を手伝っていた。手伝われた人は何かの時にその手間を返していた。テマギャー(手間返し)と言うらしい。「もらったものは返す」というのが当たり前らしい。今は加勢に行く人はない。
次に当時の食生活について話を伺った。
『昔は、梅干に塩魚で、卵は高価で買えなかった。家に鶏を飼って、卵は家ではほとんど食べず、店に売って生計を立てていた。当時は白米だけではなく、麦を入れてヘッチサン(かまど)で稲わらで炊いていた。それはおいしいものだった。ご飯に混ぜる麦には、押し麦とひらかし麦があった。ひらかし麦は丸くなって膨れておいしくなかったので、手間がかかるが、女の人は急いで帰って、毎日押し麦を炊いていた。コーリャンというものもあったが、ぼろぼろしておいしくなかった。米はもみのついたまま、ぬかと交互にもみぐら(木造できちんと仕切られている)に貯蔵していた。食べるときに精米していた。もみぐらは小さいころに悪いことをしたら罰として閉じ込められていて、とても怖かった。
田んぼに行く時は竹縄の弁当箱にシオミクジラ(生)を持っていって山で焼いて食べていた。弁当箱にわずかに残った油を稲にまいていた。当時クジラはとても安かったのでよく食べていた。「300円でたくさん買えたのにねぇ。」
葬式のときは米がないときは、麦を代用していた。田植えのあとはさなぼい、田植えの前はおいたちといい、当番になった家に仲間で寄り、食べ物を一週間ほど振舞ってもらっていた。今ではそれは誰かの家に寄るのではなく、外にみんなで食べに行くようになった。正月はぼたもちを作り、杵で一度に60キロ程餅つきをしていた。また、結婚のときは、嫁は家を出るときにワカレといって新しい村に入るとき夫の家でお世話になるという意味でご馳走を振る舞った。夫は嫁の家に大きい餅をついて持っていった。嫁入り道具は一週間ほどかけて親戚で作っている。買うのは箪笥だけである。
昔はそばも畑で作っていた。当時のおやつといえば、そば粉を水で練ってもちのように焼いたキャーモチ(今で言うそばがき)、アワ・キビを混ぜた餅、いも、柿、なし、塩ゆでしたじゃがいも、ササグリ(皮をむいて蒸したり、囲炉裏の灰に入れたりしたもの)などであった。金持ちのほんの一部の子供たちだけがお菓子を買って食べていた。かごと麻(畳の糸)が自生していたので、それを蒸して乾かしていたが、その蒸すときに一緒にサツマイモを蒸して、それをもらうのが楽しみだった。
アザミには2種類あるがオンナアザミの柔らかいものを3月の祭りのおつゆの実として食べていた。よもぎは春のものの方が香りがあるので春のものを多く収穫している。よもぎを食べると一年間無病息災といわれた。ユキノシタは天ぷらにして食べ、セリ・ヨメナも食べていた。学校帰りにはギシギシを皮をむいて食べていた。
柚木では3月10日に春祭り、9月にくんち、てんつくまい、12月5日に百姓の神様を祭るお祭りがある。春祭りと12月5日の収穫祭のときには全員で寄って、いわしのちくわやかまぼこを食べる。9月のくんち、てんつくまいは後継者がいないため現在は行われていないが、行われていたころは、自分たちで作ったどぶろくを飲み、大きいヘッチサン(かまど)を赤土などで前の晩に作った。そしてそのヘッチサンで夜通し部落いっぱいの赤飯を作り、赤飯を作る煙でいわしをもしていた(蒸していた)。山焼きや野焼きの時は済んだら、区長さんのところであめうちをした(あめを飲む)。
しょうゆ・味噌は手作りで、味噌搗きのときは人に見せてしないといけないと言う言い伝えがあった。昔、継母が味噌を搗くと言って、子供を搗き殺したという話があったからだ。また、味噌を寝かせるときは中になすやごぼうを入れないと骨無し子が生まれるという言い伝えもあった。
湿田(フカタ)にいたドジョウは大根とにんじんといもと一緒に味噌で煮て食べていた。食べてはいけないと教わったものは名前は忘れたが、黄色い小さい花のつくもので、毒花と呼んでいた。また、食事の作法については、女は肩を上げて食べてはいけないと教わった。』
次に教えてもらった当時の病院や青年クラブ、部落への訪問者について記述する。
『当時、病気にかかったときはひどくない限りは自分たちで治そうとしていた。腹痛の時は、ゲンノショウコを飲み、風邪をひいた時は、みかんの皮を焼いて、梅干と一緒に食べたり、できものができた時は、どくだみを飲んだりつけたりしていた。どくだみは当時今のように健康茶としては飲まれてはいなかった。自分たちでその病気がどうしてもよくならない時だけはお医者さんに来てもらっていた。もちろんお医者さんは迎えに行っていた。
青年クラブは牛の鞍を作ったり、わら細工をするところだったが、ふざけ遊び(花札)や、柿・野菜・スイカなど貴重な食べ物を泥棒したりもした。しかし、村の人はやかましくは言わなかった。
部落には、袋を下げたザトウサンがやってきて、部落の人は米を皿に一杯ずつあげていた。ザトウサンはキチンヤド(今で言う民宿)に安くで泊まっていたようだ。もしかしたら、もらった米を宿賃にしていたのかもしれない。また薬売りがヤナグリ(唐草模様の包み)を担いで来ていた。薬売りは毎回同じ人で、旅館に泊まっていた。薬売りの持ってくる薬は今よりずっと少ないもので頭痛薬、トンプク(腹痛薬)、赤チンキの3種類だった。ミイ(穀類を選別するもの)を売る人が小城から来ていた。ミノは手作りだったので売りにはきていない。また、魚は町内で仕事をしていない人が買ってきて、米で物々交換していた。
このようにいろいろと楽しく昔の話を2時間ほど聞かせてもらった私たちは、まだ時間も十分あったし、お世話になったお返しに干し柿の選別を一緒に手伝わせていただいた。中学2年生のお孫さんと山口さんご夫婦のほのぼのとしたやりとりをみて、とても心が和んだ。分けても分けても次から次に出てくる干し柿に驚きながらも、初めての体験でとても楽しかった。こんなにたくさんの柿を触ったのは生まれて初めてではないかと思う。干し柿はお正月用の商品で福岡の市場に出荷されるそうだ。年末の忙しい時に関わらず、暖かく迎えてくれた山口さんご夫婦、帰りに2キロの道のりを送ってくれたお孫さんに感謝している。
<地名一覧>
ヒガシコガ ニシコガ カミノマエ(住吉大明神の前だから) ぐらいでした。
話の中にタンナカ(田んぼ)、オオカワ(大きな川)などと言う言葉はありました。地図を見せて話を聞きましたが、上記したものしか聞けませんでした。
屋号もなかったそうです。西古賀にならあるかもと言う話はしていました。