=古場=

     農業などについて

・田んぼへの水は、すぐ前の川からひいているそうだ。特に名前はないが、古場川からの支流ではないかとおっしゃっていた。水争いもなかったそうだ。

・旱魃はあまりなく、前の川が枯れた記憶や水に困った記憶はないそうだ。平成6年の大旱魃の影響も特になく、しいて言えば井戸が枯れたが、別に川から汲めばいいので何も困らなかった。雨乞いの経験はなく、台風が来てもそんなに稲が駄目になるということは少なく、一部が倒れることしかないそうだ。

・昔は、用水路の中にはアブメロ、ヤマメ、ハヤ、キョウトウ、ドジョウ、ホージャーが住んでいた。今それらがいないのは、セキの工事やセメントのためだろうとおっしゃっていた。川辺りにはヨシが増えてきていて、ネコヤナギ等も減ってきている。(二人とも昔の思い出が思い出されたのか、盛り上がってきて二人同時に話し始めたり、好伊さんが話しているのに重ねて奥さんが話し出したりした。)ザリガニなどはおらず、子供のころはさきほどの挙げたような生き物を捕ったり、植物の実を取ったりして遊んだそうだ。

・魚がよく食べている柳虫を昔はよく食べたそうで、フライパンでいって食べたそうだ。生活用水は川から水をバケツで汲んできて、井戸に溜めておき、それを使っていたそうだ。湧き水を汲んできてかめに溜めておいて、飲料水にした。上水道は3、40年前にできた。昔は横井戸という水道のようなものがあった。これは、山の上のほうに深い穴を掘って、その底の方から横穴を掘って次の穴までつなげ、それを繰り返して水を引くというものだった。以前は水は無料で手に入っていたが、今ではかかるようになって、損した気分であるとおっしゃっていた。

・麦については、昔は作っていて、麦を作れない田というのは聞いたことがないそうだ。(不思議そうな表情でお互い顔を見合っていた。)ただ、麦を作っていない人もいたらしい。麦は売るためではなく、家族用につくっていた。小麦も作ったりした。

・化学肥料の導入以前では一反あたり、米は一等田で五表、あかりとれない田で三〜四表、麦は一等田で三表ほど取れていた。

化学肥料導入後では、米は一等田では十表、あまり取れなかった田でも一等田と変わらず十表は取れるようになった。このように、米の生産能力が高まり、減反政策が始まると野菜を作るように転作したりする農家も増えてきたそうだ。

ソバも昔の植林との関連で作っていた。スギを植えるために雑木林を切り、そこを周りの木に燃え移らないように焼き、そこでソバや小豆を育てていた。二、三年して土が肥えるとスギを植えていた。

・昔の肥料には自然のものがたくさん使われていた。刈り肥料といって、茎やワラをすべて刈らずに残しておいたり、田の周りの木や山の木から葉をたくさん取ってきて、乾燥させたり発酵させたりせずにそのまま敷いておいたそうだ。

今ではすべて科学肥料になってしまった。しかし最近ではイノシシやウサギ、タヌキが農作物を食べにくるので大損害であるとおっしゃっていた。昔はそれほど大きな被害はなく、こんなに頻繁に現れることもなかった。特にイノシシはこのあたりでは全く見ることはなく、以前は全然いなかった。他の地域から食べ物を求めて移住してきたのではないだろうか。

また、今年は猿がたくさん来るようになったそうだ。猿も以前は全くいなかったわけではないが、ほとんどいなかったし、あまり人里に姿を見せたりもしなかった。しかも、猿はただ来るだけではなく、追い払っても何度も来るので、被害が大きい。あまり効果的な猿除けの方法もなく、食べられ放題だそうだ。親子の猿をよく見かけるそうで、彼らは人間の世界でもよく見る光景を見せるらしい。それは、親が子の食べている姿を見ているという光景である。人間でも食べ物が少ない時代ならば、子供に食べさせ、親はほとんど食べないという光景は見られたことだろう。猿の親はこのとき子供を見ているが、基本的に人間に襲われないかどうか見張り役をしている。人間を見つけると、子供に気付かせ、すぐに逃げるのである。逃げるときはかぼちゃを持ち帰ったりする。イノシシなどよりとてもたちが悪い。

・田植えについてたずねると、一斗蒔きというのがあったそうだ。一斗蒔きで三十坪。直播きはしないが、麦では苗のない実播きであったらしい。

稲の病気についても、稲が病気になったことはあまりなく、病気のことはあまり知らないとおっしゃっていた。害虫はアブラムシが多かった。害虫の駆除の仕方は、まず竹の節でコップのような入れ物を作り、底には小さな点ほどの大きさの穴を開ける。それを使って廃油を稲にかからないように稲の間を通してたらし、水面を油でいっぱいにする。そこで、稲を笹でたたき害虫を落とすと、害虫は油まみれになり、皮膚呼吸ができなくなり、息ができなくなるので死んでしまうらしい。今ではすべて農薬で駆除を行っているが、人体に影響がでるなどと騒がれてからは、農薬も薄くなる一方であり、さらに虫も耐性ができ、農薬では完全に駆除できなくなってきている。

・また、共同作業は、今では機械化のためやらなくなったが、昔は必ず皆で田植えをしていたそうだ。昔は手で一本一本植えていたので、時間がかかり、家族だけでは植え終える前に掘り起こした土が固まってしまうから皆で手伝い、急いで植えた。手伝うことをかせいと言い、かせいしてもらったら手間返しというお礼の手伝い返しをしていた。また、ゆいというのは聞いたことがないそうだ。

 

・さなぶりというものもあり、春先にやっていて、田植えの後祭りとして行っていたそうだ。また、お祭りは年5回で、一月、五月に2回、七月、十月とある。一月のお祭りはお宮祭りといい、一月五日に行うそうだ。五月の祭りは弁財天祭り、春祭りという。七月のお祭り祇園といい、神主さんとお酒をのんで籠もりをする。籠もりとは一部屋に皆で集まって夜を明かすことである。この時、皆それぞれ一重(ひとえ)を持っていく。一重とは重箱の一重で、酒の肴の入ったものである。つまり、祇園の祭りには皆と神主さんが集まって酒を飲み明かす祭りである。十月のお祭りは、くんち(おくんち)祭りといって、神社に集まって太鼓をたたいたりして収穫を新米で祝ったりするお祭りである。どのお祭りも、基本的に皆で食事をして、大人は酒を飲むというもののようだ。これらの祭りは今でもすべて行っていて、古場の中での五つの古賀で、それぞれ一つの祭りを一つの古賀が担当し、その中で家をローテーションする。だから、例えば中島さん宅では、20年に1度何かの行事を企画からすべて取仕切るというわけである。

・中島さんのお宅では昔牛を一頭飼っていて、家にも牛舎があったそうだ。牛の餌は草切山や田んぼのあぜ道から取ってきた草を米ぬかと混ぜて増やして食べさせていたらしい。牛を操る際のかけ声は、「右へ」は「せいせい」で、「左へ」は「とうとう」、「とまれ」は「おうおう」だったそうだ。左右へは、綱を牛に打ち、そちらの方向に一本の手綱を引き顔をむけさせると、牛は自然とそちらの方向に歩いていく。また、発進・加速をするときは牛をたたくのである。

牛はよくワラでこすっていて、たまに水をかけたりして汚れをおとしていた。どの川で洗うというような決まりはなく、好きな川で洗っていた。また、草切山で取った草は牛の下に敷いた後肥料にしたり、山の谷の陰に広げて保存し、加工したりした。

・薪については、稲刈りをしたらすることがないので、冬の間の分の薪をとっておいてすべて積み上げておいたそうだ。木は草切り山よりとってきて、たくさん積みあがっていくのが何か嬉しく、別に苦ではなく、薪集めは楽しい作業だったと楽しそうにおっしゃっていた。

・入会山はとても広かった。そこでは草切り山としての機能が基本であった。今は杉を植えてしまい、枝も落としてしまったので、カンパツ(間抜;間引くこと)やネザライ(根ざらい;杉の木の下の雑草を切ること)の作業をしているだけである。

・炭焼き場は山の中にあり、雑草を切って作っているようだった。それも戦後の話であって、その商人が売りにきていて、それを買っていたので自家生産はしていない。

キイノについてたずねると、杉とかを燃やした後の田のことだとおっしゃった。キイノは国有林ではなく、村のものだそうだ。

・かごは取っていたそうで、煮て皮を剥ぎ、すいて紙を作っていた。戦時中はシロノハという植物からロープを作っていた。

     山栗は草切山や野山でよく取ったそうだ。ささぐりも取っていた。これは人間が栽培した栗よりも美味しい。カンネもよく取った。根を掘り、ゆりの根のように片栗粉を作ったり、だんごを作って食べたりした。

     山の草では、ウベヤやアケビと言うかずらのようなつるの木になっている芋みたいな赤い実がある。また、ガネブチという山ぶどうのような実も食べていた。山ではよく狩りもして、動物も食べた。ウサギはあまりとれないが、タヌキやイノシシはよく獲って皮を剥いで食べていた。イノシシはあっさりしていて美味しいそうだ。今のタヌキは病気のように毛が抜けていて、やせていて小柄でおかしい。また、ハトはいくらでもその辺に一年中いるが、飼いバトよりも冬の間しかいないヤマバトの方が美味しい。これはチキンよりも骨から肉がはがれやすく、食べやすく美味しいそうだ。

     お菓子は、昔は柿やサツマイモをよく食べたりした。柿は山の中にもあったが、カラスがすべて食べてしまうので、取ることはできず、家にある柿の木もカラスが食べたりしてしまう。サツマイモも、山に畑を作ってもイノシシが食べてしまうので、収穫できない。干し柿は特別な数え方はなく、一縄2〜30個を束ねて市場に出す。

     食べられる野菜はワラビ・ゼンマイ・セリ・ヨモギ・アザミ・フキ・ハギなどがあるが、ヨモギを餅にして食べる以外は野菜の代わり程度にしか食べなかった。毒草はあったが、基本的には野菜しか食べないのであまり知らないそうだ。

     米の保存方法については、今は米保存専用の冷蔵庫にいれているが、昔は米にワラをかけその上にもみがらを乗せてネズミを防いでいたそうだ。しかし面倒なので缶に入れて鍵をかけたり、カマギというワラの袋にいれておいたりもした。

◎生活について

冬は寒く、雪は1015aつもった。しかし、30aまで積もることはない程度の寒さだったそうだ。この寒さをしのぐために、暖房としては、いろりを使用していた。長年いろりを使用した家では、すすで天井の板が黒くなってしまうそうだ。実際、訪問したお宅にもいろりの後があり、天井がすすけていた。また、いろりのほかに、火箱(小さめの箱の中に火をたく)を利用して、現在のこたつのようなものもつくっていたそう。ちなみに、夏は涼しかったので冷房のようなものは、必要なかった。コバダケ山荘というところでは夏でも冷蔵庫が必要ないというほど。
・村への物資については、行商人、魚売りは、唐津のほうからきていたそうだ。塩ものや、いりこなど悪くならないものを売っていた。また、ザトウさんはかまどにではなく、仏壇にお経をあげにきたが、ここ数年はこなくなった。お正月には、かまどにお経を上げにくるお坊さんもいたとのこと。
病気になったときはすぐ近くに病院があったので、病院へ行っていた。
・青年宿については昔はあったそうだ。結婚前の若い男性がおどりのけいこをしたりする場所だった。とくに2223歳頃の人が集まっていたそうだ。そこへは、主に泊まりに行き、トランプや花札をしたり、お酒を飲んだりして、男同士でわいわい遊んだものだったそうで、規律や厳しい上下関係などは特になく自由で楽しかった。ちなみに女性の舞は、お寺の御堂を利用して、先生をやとって稽古していた。祭などの機会に青年たちにみせていた。
・すいかや干し柿をぬすむことは、多くのひとがしていることであり、楽しんでいた。当時、その程度の盗みは、それほど責め立てられることではなかった。
・犬はすき焼きにして食べる人もいた。主に青年宿でしていたようだが、実際に食べた事は無いので、詳しい事は分からないそうだ。
・夜這いは村内でしていた。よそのむらから、夜這いしにくることはなかったので、よそから来る青年とのけんかはなかった。当たり前だが、夜這いはこっそりいくものだった。
・共同風呂は2つくらいあったそうで、5〜6人が入れる程度の大きさで、家族や友達と一緒に行ったそうだ。
・昔はお見合いがほとんどで恋愛結婚はほとんどなかったそうだ。しかし、いいなずけというものはあまり聞かなかった。ちなみに、ご夫妻もお見合い結婚だったという。当時はそれが普通のことだったので、お見舞いについて特に何とも思わない。
・農地改革で地主は小作人に土地を売ることになった。それまでは小作人は地主の土地で農業をしていたそうだ。格差はなかったとのこと。
祭りの参加・運営は平等だったらしく、子供から大人まで幅広い年齢層の人が参加していた。
・戦争がこの村に与えた影響については、とくになかったと思うとおっしゃってた。しいていえば、戦時中、疎開に行った人は、村から出て行ってしったこと。戻ってきた人もいれば戻らなかった人もいた。戦争によってその人の人生が変えられたといえるのではないだろうか。