富士町 上小副川の調査報告レポート
話者:吉田義人
報告者:石井千鶴,久我裕美子,古賀千尋
【しこなについて】
・ヒャーマツ…灰松が訛ってそういう読みになったのだろうという事らし
い。
・ウーグエ…ひどく山が崩れてきたという意味らしい。「ウー」が佐賀弁で
すごくとか多くという意味。
・オンドランマエ…昔の小字名。
・ヨリアイダナ…「寄り合い平」と書くのではないかとおっしゃっていまし
た。昔、戦争のときに佐賀と福岡からきた人がここで集合していた事から、寄
り合う場所ということでこのような地名になったのではないでしょうか。ここ
には現在桜が植えられているそうです。
・カマノモト…炭の窯元と言う意味ではないかということです。
・メクロンタイ…メクラ、今でいう盲目の人がいた辺りという意味ではない
のかということです。
・ ツバキ…詳しいことはわかりませんでした。これは椿と書くそうで
す。
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【特別な食べ物】
@「卵」…昔、卵はとても高級な食べ物だったので、風邪を引いた時や、運動
会の時にしか食べられなかったそうです。(現在、卵は消費者にとって手に入
れやすいものになっているが…。)また、「卵めし」(=ご飯に生の卵をかけ
たもの)は、今でもよく食べられています。おいしいです。
A「にわとり」…盆や正月にしか食べることができなかった。
【もやい風呂について】
地域によっては、親戚中が集まったところもあるし、集落中が集まったとこ
ろもあるらしいのですが、上小副川では、「石橋太郎さんのところ」と「ツバ
キの入り口付近」にもやい風呂があったそうです。
【共同作業について】
結(=双方で行う共同作業のことで、「てまぎゃー」と言われていました。
この「てまぎゃー」とは、「手間借り」→「てまがい」→「てまぎゃー」へと
変化してきたものだそうです。
「今日はOOさん家で、明日は□□さん家…」といった感じで、協力してお
こなわれました。
【山伏について】
山伏については、聞いたことはあるけど、見たことはない、ということでし
た。また、山伏という言葉は、子供が泣いている時に、「言うことを聞かない
子供は山伏が来て、つれていってしまうぞ!」という感じでつかわれていたと
いうことです。
【新しくカマドを作ってはいけない日について】
「申、酉の日」と「仏滅の日」には、新しくカマドをつくってはいけなかっ
たそうです。この場合、カマドを作るというのは新しく火を熾すという意味で
す。ただし、前日から燃えている火を使うことは禁じられていなかったそうで
す。…昔は今のコンロのようなものはなかったので、泥でまわりをつくったカ
マドで炊事や風呂をしていました。
また、お正月の1月16日と盆の16日は「地獄の釜があくから」、という
理由で、働かないことになっていたそうです。だから、15日に前もってやっ
ておくようになっていました。(理由は年中稼がぬように。)
【水を分ける時のルールについて】
いくら下の土地の人の作業がすすんでいても、「上から順に田の中に水を入
れる。」というルールがありました。(ポンプがあれば別だが...)
【田んぼへの水について】
昔は「小副川川」や「椿川」から田んぼへ水を引いていたそうなのですが、
今は水道の水ばかりで、川の水は使っていないそうです。
また、飲み水については、この頃は山の水は飲んでいないそうです。その理
由は猪にあって、猪が山の水を濁らすので、飲まないのだそうです。(猪は1
年中でて、米を食べ、一晩に1反(10aくらい)食べてしまったこともある
そうです。)
【干ばつや雨乞い、台風の神事について】
最近は干ばつがおこることはあまりないそうです。それは農業のやり方の変
化に関係があります。
昔は、手で田んぼをつくっていたために田が水をすいやすく、干ばつがおこ
っていたけれど、現在では重機をつかってふみかためてつくるので、田による
水の吸収量が減って、干ばつも減ったそうです。
また、干ばつするところは減反して、杉が植えられたりしています。
雨乞いについては、したことはないそうです。あと、同じく台風の神事もな
かったそうです。
【水害について】
洪水による被害はないけれども、「山崩れ」はあるそうです。特に昔は川が
浅かったので、川をせききって泥が押し寄せてきたたそうです。しかし、近年
では川は掘り下げられたので、ここ5,6年は水害はないそうです。
【青年クラブについて】
16歳で学校を卒業してから嫁をもつまでの男子が所属しており、集落の青
年が寄り集まって公民館のようなところで遊んだり,その中でえらい人(年上
の人や力の強い人)からお説教されたり、叩かれたりしていたそうです。
中には結婚が遅くて24,25歳くらいまで青年クラブにいた、という人も
いるそうです。
また, 時々ではあるけれども、青年クラブの人はスイカや柿をとったこと
もあるそうです。ただし、人に見つからないようにするのが肝心(笑)なのだ
そうです。
【恋愛について】
どういう恋愛をなさっていたのですか?---正しい恋愛でした。
【力石について】
力石(石を持ち上げて力比べをすること)は、昔はあったらしいのですが、
吉田さんの頃にはなかったそうです。
【お祭りについて】
@夏には祇園というお祭りがあって、茶店が出たり、どこかから芸人をよんで
芝居を見たり、「素人のどじまん(?)」のようなものをやって楽しんでいるそ
うです。
A天照大神宮でのお祭りは、昔は旧暦の12月25日(今でいう1月25日)
に行われていましたが,現在では12月の半ばの日曜に行われています。そし
て、お宮に神主を呼んで、村の人(東古賀と西古賀の人)が集まってお神酒を
あげてお参りをして、そのあとで東と西に分かれてそれぞれの公民館でお酒を
のんで宴会をするそうです。
*これら祭りの参加運営は昔から平等でした。
【「さなぶり」について】
「さなぶり」とは、祇園のことで、吉田さんのは、終戦後の素人演芸(男…
歌ったり、「にわか」をしたりする。 女…踊る。)が楽しかったそうです。
【天照大神宮について】
サルダヒコ(?)大明神と天照大神がまつられています。場所は変わっていま
せんが、以前よりも1メートルくらい土を盛り上げてあります。あと、お宮も
新しくなっています。
【その他】
@「六地蔵」…公民館の斜め前の車庫の上にあります。普通はアミダサンとい
います。六地蔵なのに、12面の顔が彫られています。謎も多く、「願主 男
九人 女七人」と彫られていましたが、何を祈願したものかさえわかっていま
せん。以前、その地蔵に興味を持った人がいて、いろいろと調べていたようで
すが、謎はまだ解明されていません。その人が言っていたところによると、
「こんな地蔵は見たことない。」ということでした。それだけ不思議なものの
ようです。
A「じょうぼしさん」…吉田さんの家の裏側にあって、石の神様をまつってい
るそうです。しかし、今は荒れてしまっているそうです。
B「三地蔵」…三体の地蔵(おそらく、父親、母親、子供)があり、お遍路さ
んがまつってあります。通称「やくさん」
【牛や馬について】
1.どうやって手綱は操作しましたか。1本?2本?---1本。
2.ごって牛をおとなしくさせるためにはどうしましたか?(*雄牛がゴッ
テ牛、雌牛がウノ牛)---愛情が一番。(かわいがる!)
3.馬は毎日洗いましたか?---2,3日おき。
4.蹄鉄はしていましたか。馬の病気にはどんなものが?---はいていた。
(病気は知らない)
5.馬洗いはあるが、牛洗いがないのはなぜ?---牛も洗っていた。
*吉田さんの住んでいる辺りでは、坂が急であり、坂の数も多いので、材木を
引かせる(「どう引き」という)ためには、馬よりも牛のほうがよかったよう
です。なぜなら、馬は後足が長く、山(坂道)につよいのは馬よりも牛だった
からです。
【野草について】
食べられる野草は?---たくさんありました。(例.サフラン…紫の花に赤
いめしべが三本ある薬草です。漢方(?)として使われていたそうです。「ちの
みご(?)の薬」か「おなごの血の道(?)の薬」)←こういうものを摘ん
で、乾燥させたそうです。
それ以外にも食べられる野草はたくさんあり、それらを使って、現在、ショ
ウブという集落では、「ショウブ御膳」なんていうのをやっているそうです。
*ショウブ…吉田さん宅から4〜5km離れているところに位置します。福岡
からのお客も多いです!
【山の幸について】
かご(楮、こうぞ、かじ ともいう)はとりましたか?---とっていた。
山栗は?山の木の実にはどんなものが?---栗、柿。
他の山の幸はどんなもの?---山芋(じねんじょう)。
おかしは?干し柿の数え方は?---つくって加工したのが「一縄,二
縄,・・・・」で数えて、売るときは「一連,二連,・・・・」と数えていた
そうです。
*昔は、干し柿は「連」ばっかりだったそうです。ということは以前は売り物
として干し柿を作っていたのではないかと思います。
*バスで移動中、窓の外に、干し柿がたくさん干されているのが目に入りまし
た。どこの家を見ても干し柿がつるされていたのでびっくりしました。
【米について】
@米(兵糧米)の保存の仕方…米かんかんで保有。
Aネズミ対策…罠をしかけたり、薬を使ったりした。
B米作りの楽しみ、苦しみ…余計に収穫できたときの楽しさ。虫や台風で収穫
できなかったときの悔しさ。
C米と麦の混ぜ方の割合…3対1の割合。
*米は今では平地のほうで多く作っている。
【村に入ってきたもの】
村には、魚売り、反物、金物、薬売りが来ていたそうだ。魚売りは、佐賀や
唐津から来ていた。ドのお経を上げる目の見えないお坊さん(「ザトウ」さ
ん)も来ていた。ザトウさんは、米を皿一杯で、かまどのお経をよんでくれて
いた。川上のところに、お経はあげられないが、「お金を恵んでください」と
座って礼をしていた、「ゼンモンさん」という人たちもいた。川原やお宮の境
内に野宿しながら箕を直したり、売りに来たりする人を見たことはあるが、ど
こから来ているかは知らなかったそうだ。
昔病気になったりしたら、現在の農協の前や、ヨリアイダナの西の集落であ
るセキヤ(関谷?)の診療所に行ったそうだ。
*村からは、やみ酒というかなり強い、20度ぐらい)の「どぶろく」を造り
平地のほうで売ったりしていた。
【昔の生活】
@暖房について…囲炉裏や、火鉢、火箱などがあったそうです。火箱とは、泥
で作ってあり、かまくらのような形をしていたそうです。引出しがついてお
り、その中に火を入れ、何個か開けてある小さな穴から暖かい空気が出てくる
というような仕組みをしていたらしい。コタツに入れて使用していたらしい。
吉田さんではなく、吉田さんの祖父母が使われていたそうだ。また現在でもあ
る湯たんぽも使っていた。陶器や金属でできていたそうだ。
A道路について…舗装のしていないでこぼこ道だったそうだ。
【山について】
@草切山…現在ではほとんど杉が植えられているが、終戦後三十年ぐらいまで
は杉山はなく、草場が広がっていた。そこの草は大抵切って、こずんで(二段
位に積み重ねる)その中に草を十把ぐらい入れて乾燥させ、たん中(田んぼ)
の肥料、牛の餌にした。牛には切って干して食べさせた。藁と干し草は冬の牛
の飼料だった。草山は焼くこともあった。
A薪について…山に行って、木を切って、冬の日の暇な時は薪取り(藁をさん
づく)などして薪を入手した。昔は、だいたい60センチ位のにぶき(薪にな
る前のもの)を採ってきて、それを平地の人が買って、割り、わりきにした。
B入り会い山について…周りのすべての山、町有林は入り会い山だった。そこ
では木を切り倒しだしていた。切り出した後、牛に道引きをさせていたそう
だ。
C炭焼きについて…炭は自家生産。自分の山のを切り、焼いた炭を販売してい
た。
【キイノについて】
キイノとは集落の字名で、民有地・町有地であった。荒れたところを切り開
いて、ソマ(そば)や小豆、サトイモを作っていたそうだ。
*ちなみに、昔は、‘そば’は食べられる状態に加工したものを言い、その前
の段階にあるものを‘ソマ’と言い区別していた。しかし現在ではどの状態で
あってもそばと言うのが一般的になっている。
【農地改革前の小作制度について】
村でも小作農業者は特に貧しかったそうです。
【戦争の影響について】
吉田さん達は、兵隊家族(=家の人が出征している出征家族のこと)や、遺
族の家庭の所、つまり、男のいない所帯へ行って、「稲刈り」や「干し柿作
り」を手伝うために、強制的に奉仕へ行かされたそうです。
また軍に徴兵されなかった人は、徴用といって強制的に軍備工場に連れて行
かれ、働かされたそうです。
【戦後の食糧難について】
戦後の食糧難では、米、麦のほかに、「かんしょ」、「里芋」、「大豆」、
「大豆カス」、「こうりゃん」などを食べていました。
*「こうりゃん」とは、戦後に供給された、とうもろこしの実のようなもので
す。
<吉田さんの体験談>---大豆は米と一緒に炊いて食べていたのだが、大豆が炊
けていなくて下痢をすることも多かった。
【その他戦争に関連して】
「DDT」…終戦後のシラミ取りにつかわれたそうです。男子は髪が短かった
のでよかったけれど、女子は髪が長かったので大変だったようです。戦中に
は、シラミをじょうぶくろ(封筒)いっぱい取れば徴兵されないなんていう冗
談もあったそうです。
【村の変化について】
村は変わってきましたか。これからどうなっていくのでしょうか?---変わ
った。今は老人の農業ですが、後が危ぶまれる。(若い者が勤めで家におらな
いから。)
【オススメの本】
『ふるさとあのころ』 相浦實 佐賀新聞社 ←この本は佐賀の昔の生活など
について、生活感あふれる視点で書かれています。その中には、今でも残って
いるものも、そうでないものもありますが、とても楽しく読むことができま
す。吉田さんオススメの一冊です。
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<<感想>>
今回は、事前に質問事項を相手の方に送り、相手の方が既に答えを書いてい
て下さったので、スムーズに話を聞くことができました。そして、スムーズだ
ったおかげで、「しこな」についてはもちろんですが、その他にも、昔の生活
や、戦争についてなど、様々なことについての貴重なお話をたくさん聞くこと
ができました。
また、話の中で出てきた場所を、実際に行って、見て、写真をとることもで
き、これぞ、「歩き・み・ふれる歴史学」といった感じで、とても充実した現
地調査だったと思います。
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lt102008@cse.ec.kyushu-u.ac.jp