上無津呂地区現地調査レポート

                  

        話者:谷口 五十男さん(大正14 320日生)

調査者:苅屋 千加 

                        篠原 由貴子

   

 

     地名・しこ名一覧

ウランタニ(裏谷)

    コウバル(高原)

    ミチアカリ(道明)

    マツビラ(松平)

    ヤマガミ(山神)

    マエダ(前田)

    シモウラ(下浦)

    オオフジ(大藤)

    タイラ(平)

  * 川の名前

    シオイガワ(神水川)

     井手の名前

ヤマガミノイデ

     橋の名前

蓑田橋

山神橋

 

  

     田植えについて

田んぼへの水は出水、古場岳からひいていた。上浦水路は昔水不足だったが減反・ハウス栽培によってそれは解消した。昔は水を争うこともあったそう。水をわける上では、水路ごとに権利があり、それは話し合いで決めていた。

平成六年の干ばつでは耕地が作れないことはなかったが、やはり収入は減った。雨乞いの経験についてたずねると、お年寄りはやっていたとのことであった。祈祷師が特別にいるわけではなく、自分たちでやっていた。

用水路にはアブラメがいて、焼いて食べたり、干して炊いたりしていたが、今はいなくなってしまった。ヤマメは今もいるそう。

麦を作れる田と作れない田がありますか?とたずねたところ、麦はほとんど作らず、米とハウス栽培が主だったそうだ。田のできは水利関係と日照状況により大きく左右される。出来高は良田では反当5,6俵、できの悪い田では反当3,4俵だった。(そばも楽しみのために作ることはあったが、そんなにはとれなかったそう。)農地改革前の小作制度は、田のできで地主のとる小作米の割合が違った。例えば、良田では半々だった。

昔は山草を牛でおろして、肥料としていた。稲の病気には、窒素が多いために根がかれてしまうカイムという病気やいもち病などがあった。日照気温が高いといもち病にはなりにくいとのこと。うんかという害虫は、水奥から水口へ油を流して駆除していた。

共同作業は、双方が加勢するとゆいとよばれ、昭和の初め、山を切って焼き、そばやあずきを作る作業をしていた。お手伝いの早乙女はめったにいなかった。昔は家の苦しい24,5の女の人が奉公をしていたそう。

谷口さんのお宅では牛を飼っていたが、今はもう飼っていなかった。稲のわらを一年とっておいたものをえさとしていた。牛を歩かせるときのかけ声は、以下の通りである。

「ハイ」→先に行きなさい

「オオ」→止まりなさい

「タシタシ」→左に行きなさい

「キシェ」→右に行きなさい

手綱は一本で操作していた。ゴッテ牛(雄牛のこと。雌牛はメンチョ牛。)をおとなしくするためには、荒々しく扱わずに、なでてやったりしてこまめに丁寧に接する。『これはもう人間に対するのと一緒』と谷口さんはおっしゃった。ただし人間に対してつっかかってくるときなどは別で、きびしく痛めつけたそう。馬洗いはあるが牛洗いがないのはなぜかたずねると、馬ほどではないが牛も洗うとのことであった。

 

 

     草山について

草切山は、谷口さんのお宅の裏山あたりがそれにあたるそう。裏山は共有地で、土地を分割して場所を交代しながら使っていた。入り会い山も草切山と同様に自分で管理して作業を行っていた。ただし所有権は移動せず、短期的な作物を育てた。キイノは民有地で、明治になって所有権が移動してきたそう。そこではそばやあずきをつくった。

木の切り出しはドビキといい、これは雄牛に若い内から専門的に仕事を教え込む。その分、ドビキ牛の値段も高かった。川流しは、上無津呂の辺りの川では、石があり落差がはげしいためにできないそう。ヒダのあたりではしているとのことだった。春には防火線をはって、一年にいっぺん草山を焼いていた。これは野焼きや山焼きといった。山焼きをすることによって、害虫がいなくなり、胚が肥やしにもなる。山焼きをしていたのは昭和30年くらいまでで今はしてない。

炭焼きは個人でならやっていた。出荷してもそんなに収入はよくなかった。焼くのはヤキコで、土を乾かしながら焼きがまを作っていく「こう作り」は非常に難しい作業であったようだ。まず地面をほって木を置き、赤土をのせて、水がぬけるまで土をぽんぽんと叩いていく。『これは難しいけれどもとても大事な作業』と谷口さんはおっしゃった。

   かご(楮)はあぜ道に生えていたのを切って出荷していたとのこと。山栗に関してたずねると、昔はおいしい栗があったが、造林してからは採れなくなったとのことだった。『これを食べたら、他のはもう食べられん』と谷口さんは首を振られた。カンネは猪の大好物で『猪の全部ほってしもうた』とのこと。昔は団子にして食べていた。山の木の実には「あけび」や「むべ」があるが今は観賞用。食べられる野草はせりくらいで、『今は食べられるゆうても食べん』とのこと。あとはよもぎ(「ふつ」ともいう)などで、よもぎはゆがいてもちと一緒について食べた。薬にもなる。食べられない野草はめったにないそう。

 

 

     昔の文化と村の変化について

昔の暖房はいろりに薪をたいていた。その煙のせいで昔の家は天井が黒いそう。(ちなみに谷口さんのお宅は築120年)行商人はいまだにきていて、魚売りは呼子からきているとのこと。河原やお宮の境内に野宿しながら蓑をなおしたり、蓑を売りに来る人も昔はいたが今はいない。その人たちはどこから来たということはなく、いろんなところを渡り歩いていたようだ。昔は医者が往診に来てくれていたが、今は病院に行っている。

米は麦と混ぜて食べていたかという質問をすると、『麦飯、昔は当たり前』と谷口さんはおっしゃった。麦ご飯はおいしいですよね、と言うと、谷口さんは首を振って、昔の麦は今みたいに真っ白じゃなく、固くて、味とかではなく量を増やすために入れていたのだという話をしてくださった。『昔は経済的なことで入れよった。今は健康を考えとるばってん』というお言葉には納得であった。米と麦の割合は7:3くらい。

干し柿は昔は出荷もしていたが、今は個人で作るくらい。勝ちぐりも今はお正月用だけであまりしないとのこと。干し柿は「連」で数え、昔は1連に100個もの干し柿をつるしていたが、今は家で食べるくらいの数で、特に1連につるす数は決まっていない。『これは昔と今の消費の仕方が違うから』と谷口さん。

戦後は一汁一菜の生活で、『肉・魚は月に何回食ぶっか』というほどにいつも野菜を食べていたそう。しかし谷口さんは、その野菜ばかり食べていた生活が、だんだんごちそうの食べられる生活になっていったことが、谷口さんの年代の方々が長生きされる秘訣だと考えていらっしゃった。そこから話は、おじいちゃんとしての谷口さんの話に。年金があるおかげで、家族に負担をかけずにすむとおっしゃった谷口さんは、またこうも続けられた。『何世代もの同居は孫とかひ孫の教育によかと。今の核家族はしつけにあんまりようなか!』 

また戦後しばらくはあった、結婚前の青年が集まるわかっもん宿(今は青年クラブ)は、上級生との年功序列がしっかりある中で社会生活の教育をする場であった。これは16,7歳くらいから結婚するまでの男の人だけが参加をし、女の人は「処女会」というものを結成していた。力石は今もお宮にあり、100斤〜150斤(60kg〜)くらいの重さがある。

干し柿やすいかを盗むことは、昔の青年は常習だったそうで、谷口さん曰く『青年の特権みたいなもん』 昔は地域のために、何かあれば若者が無報酬で働いていたので、見つかればこっぴどくしかられたが、犯人が見つからないからと大事になることはなかったそう。

戦後の食糧難のときは、犬を食べることもあった。公然とはできないので、かくれてしていたとのこと。犬は食べ物でつってつかまえていた。わざわざ罠などをしかけなくても簡単につかまえられたそう。

「よばい」もあったが、遊びに行く、会いにいくという感じだった。これについて谷口さんは『いつ兵隊に行くかわからんから迂闊なことはされん』とおっしゃった。

昔は風呂といえばもやい風呂ばかりで、5軒10軒一緒に入り、大きな釜に交代で湯をわかしていた。多くの家が一緒に入るので社会教育の場になっていた。『衛生的にはよくなかばってん、教育的にはよかった』

祭りは八月十七日から青年・消防団の指揮の下に行われ、よそから芝居などをやとってきてお宮でやっていた。祭りは今もあるが、テレビが普及してからは行く人も減ったそう。

戦争がこの村に及ぼした影響は、多くの戦死者が出たために女性がその分働かなくてはならなくなったこと。谷口さんのお宅の近くにも戦争未亡人の方がいらっしゃったそう。国では年間200万人の方が戦争未亡人となっていた。

最後に村は変わってきましたか?とたずねると、谷口さんは『変わってきたぁー』としみじみおっしゃいました。『戦後50年間で、その前の何百年に値する変化をした。農業から何からすごい進歩をとげた。今はもうつっかけはいて百姓のされる時代やから』 この変化は谷口さんにとって大きな収穫であったそうだ。『戦後50何年かしか生きてきていないけど何百年生きてきた価値があった。有意義な一生を過ごすことができたと思っちょる。これはもうとても貴重な体験』

『これは敗戦の賜。だから戦争に負けてよかったな、とこう思う。もし日本が勝ってたら、日本は全世界に手を伸ばして大変なことになってたかもしらん』 ただ、憲法改正をしてこなかったことが日本のあやまちであったと谷口さんはおっしゃった。『とうとう50年間、何も変えなかった。今そのひずみがきとる。』

さらにまた、日本の自国防衛の制度についてもお話ししてくださいました。『自分の家は自分で守らにゃならん。人に頼んどってよかわけのなか。家庭のこと考えてみて、それが大きゅうなっただけのこと。軍隊を持てとは言わん。ばってん、自分の国をぴしっと自分で守る体勢はとらにゃいかん』

 

 

 

77年という歳月を生きてこられ、戦争を実際に乗り越えていらっしゃったからこその谷口さんの深い考えに触れて、たくさんのことを考え、そしてまたその言葉の重みが心に響きました。さらにこの調査の間、谷口さんやお世話になった方々の優しさに触れ、人間のあたたかさも再確認することができました。調査内容だけでなく、私たちが忘れていたとても大きなものを得ることができ、充実感でいっぱいです。最後になりましたが、谷口さんをはじめとする調査に協力してくださったすべての方々に、感謝の辞を述べたいと思います。本当にありがとうございました。