【佐賀郡富士町上無津呂】
歩き・み・ふれる歴史学 現地調査レポート
1LTO2009 石黒正子
1LTO2021 上田聡美
上無津呂―金曜二限―
調査日:平成14年12月23日(月)
調査地:佐賀県佐賀郡富士町上無津呂
話者:谷口五十男さん(大正14年生まれ77歳)
* まず上無津呂について…
背振山地南部、羽金山(標高900m)南東麓の無津呂川と川頭川の合流する谷間に位置する、富士町北部の地域(標高360m)。
戦国期、千葉氏や神代氏が山内に勢力を保っていたが、竜造寺氏の勢力が伸び、藩政期になると鍋島直茂の隠居料にあてられた。「鍋島直茂所領目録」によると梅野山・三瀬山・合瀬山・六呂山(無津呂山)・轆轤山・古場山・腹巻山・一番ヶ瀬山・黒雲山である。その後小城藩が創設され、直茂の隠居料を中心に所領の基盤ができたが、無津呂村も小城藩領に含まれた。「正保国絵図」では、上無津呂・下無津呂に分けられているが、破金村は上無津呂村の枝村。「文化14年郷村帳」によると、上無津呂には上浦・下浦・相尾・落合・破金(羽金)・宇土・吉田の集落名がある。
江戸期から明治22年までの村名を上無津呂村といい、小城郡のうち、小城藩領(大野代官所支配)、山内郷に属す。明治4年小城県・伊万里県、同5年佐賀県、同9年三潴県・長崎県を経て、同16年佐賀県に所属。「明治7年取調帳」では枝村に下無津呂・谷瀬・古場・藤瀬があり、「郷村区別帳」では枝村に下無津呂があり、反別131町余。「明治11年戸別帳」によれば、1村として見え、戸数146、人口584。同7年8月上無津呂小学校を相尾に開設。同22年北山村'の大字となる。その後、昭和31年に富士村、同41年からは富士町の大字となる。明治37年から国有地に杉・檜の植栽が始められ、村有林・集落林・個人有林の造成も盛んに。落合は人家が多く当地の中心をなし、大正末期までは旅人宿もあった。明治34年上無津呂小学校は北山尋常小学校に統合された。
昭和23年相尾にあった北山小学校上無津呂分校を落合に移転、同47年3月本校に併合。同35年落合に公民館を建設。同43年11月主要地方道前原富士線開通。同49年2月5日、吉村家住宅(天明9年4月建築、茅葺1棟)が国の重要文化財に。同50年の世帯数99、人口289。同55年主要道路の改良工事が完成、前原・博多方面との大動脈となる。
参考文献:『佐賀県の地名』平凡社
『角川日本地名大辞典』角川書店
* 現地調査
12月23日の行動
8時半頃 九大を出発。
9時半頃 現地に到着。バスを降りる。少し歩いたところでゲートボール場へ向かう一人のおじいさんと遭遇。「焚き火にあたっていかんね。」と誘われ、お邪魔する、みかんをいただく。
(写真アリ・省略:入力者)
10時頃 谷口さん宅に到着、お話を伺う。
12時頃 アクシデントによりもう一つの班が合流、一緒にお話を伺う。自家製の干し柿をいただく。
(写真アリ・省略:入力者)
14時頃 しめ縄作りを見学。
16時頃 谷口さん宅を出発。トラックで送っていただく。ここで谷口さんとお別れする。重要文化財の吉村家住宅を見学。
17時頃 バスに乗る。
18時頃 九大に到着。
聞き取り
お話を伺った方:谷口五十男さん(大正14年生まれ77歳)
○地名やしこ名、谷・川の瀬や淵・滝・圃場整備前の田んぼ・井手(井堰)・用水・池・橋・古賀(小集落)・大木や岩・古い道や峠についていた名前、屋号等は地図参照。
*前回調査した地名を載せたプリントを見て頂いたけれど、この地域では昔からの地名がそのまま現在も使われているということで、新たに書き加えられる地名はそう多くなかった。
・以上のような地名の場所に何か思い出はありますか,
谷口さんの若い頃に上浦には17軒、下浦にはもっとたくさんの家があったけれども、下浦には今では一軒もなくなってしまった。「(上浦の家も)今では13に減っとっとです。」子どもも減った。若い人は仕事のために佐賀市や唐津市へ出て行く。高校は佐賀のほうの高校に行くことになり、寮に入らねばならない。教育に不自由である。
上浦の上のほうに元禄時代に建てられたきれいな観音様がある。「上浦の13軒の人はみんなお世話になっとる。」また「石を全て下から運んできて壁を作って、弁財天を作っとらっしゃる。昔はたいしたことをやっとらっしゃった。すばらしか。」
道が変わった。「80年前まではこまか道。大正15年頃から大きか道にしていって、4、5年前に今の道になりました。」
林道を作るときに掘り返した田んぼの中から、千何百年前のものであるというカヤの大木が出てきた。直径1m50cm、長さ15m、そのような大木が倒れたという言い伝えもなく、「学者さんの言うとおり、千何百年前のものなんじゃろうねえ。」カヤの木は碁盤や将棋盤を作るのに最適な木材であり、出土した大木からも碁盤が作られ、富士町役場や公民館に置いてあるという。カヤの木は碁石を打ったときにかすかにへこんで石に無理を与えないらしい。「ほんとか知らん。顕微鏡で見るわけじゃなかけん。」芯は使わず、正目の部分できれいな碁盤が作られたそう。カヤの木は他の木と違い、年輪が等間隔であるためきれいである。「こりゃ何でかはカヤの木に聞いてみらんばわからん。」
○農業等について
・田んぼの水はどこから引いていますか?
上無津呂のあたりはほとんど出水である。古場岳(古場山)から流れてくる神水川などから上浦水路で引いてくる。
・水の量は潤沢でしたか?
普通くらい。「今のところは減反や.ハウス(栽培)で、水を使わんかったりするから水がないことはなか。」
・水争いはありますか?
「あったと思うけれども、傷害とかはなかったでしょう。悪くても、夜に自分とこにこっそりザバーッと流すというくらいでしょう。」
・水を分ける上で特別のルールはありますか?
水利権があって、水を取る場所について今でも権利があり、それは破られることがない。水不足のときは使用法や水利権に基づいて話し合いがおこなわれる。傷害沙汰はなく、比較的穏やかに水は分けられていた。
・用水路や田んぼ、川の中にはどんな生き物がいましたか?
アブラメ(魚)。体長10〜15Cm。串刺しにして焼いて水分を飛ばし、甘辛く炊いて食べるとおいしい。近年は洗剤が水路等に流れたりして、アブラメは減少した。いても変形しているらしい。
落合のあたりを流れる大きめの川には一尺(33cm)くらいのヤマメがいた。「今でも全くおらんではなか。下水工事ができて、禁猟区が守られればまた増える。」嘉瀬川ダムができれば、漁業権設定がされるので、またどんどん魚が増えていくという。「そうすりゃ3、4月にもなれば釣をしに、福岡の人もグーッと来るよ。そんかわりお金とらるう。まあ、ダム完成のあかつきには憩いの場所になっとです。」ゴミなど問題が出てくるのではないでしょうか?という問いに.対して、「人間のモラルの問題で、ちょっと知恵で解決すっとは難しかです。」
・旱越のときの思い出は?(平成6年の旱魃など)
「この近年はなか。まあでも全くなかったではなか。それで減収はしたけど、全く取れんかった、飯が食えんごとなったことはなか。」
・雨乞いの経験はありますか?どんなことをしましたか?
谷口さんはしたことがない。昔はあったらしい。お宮さんや観音様のところに座り込んで自分たちでお祈り。祈祷師などは連れてこない。
・台風予防の神事(風切り)などはありましたか?
「いやあ、そうゆうのはなか。(台風が)来たら来たでしょうのなか。」
・麦を作れる田と作れない田とがありますか?
ある。しかし今では米とハウス(栽培)中心で、麦はほとんど作らない。「全く一粒も作らん。」
・村の一等田について、昔(化学肥料の導入以前)は米や麦、ソバは反当何俵でしたか?また悪い田は反当何俵でしたか?
昔は等級をつけていた。地味地力、日照、水利のよさを基準につける。しかし一等田でも昔は5、6俵しかとれなかった。米の品種の問題、肥料の問題に左右されていたのだろう。現在では増収型の品種改良や肥料の改良により7、8俵とれるようになった。ソバは、「道楽で作る人はおるけど、それで収益をあげるというのは全くなか。」近々、近くにそば屋を出す人がいるらしい。悪い田は3俵か4俵くらいしかとれない。
・何斗蒔きとか何升蒔きとかいった田はありましたか?
何斗蒔きとか何升蒔きというのは、麦の種か何かで畑の広さをあらわす単位。畑に使われていた単位である。
・昔はどんな肥料を使いましたか?今はどんなものを使っていますか?
山草を鋤き込む。谷:「山草を切っといて、積んどいて、牛で引いて下ろしてくる。」石:「牛ですか!?」谷:「牛じゃなきゃ。犬じゃ引ききらんけ。」
最初の化学肥料は硫酸アンモニア(略して硫安)やカリウム、リン酸を自分たちで混ぜていたから失敗が多かった。当時は病気に強い品種がなかったこともあって、いもち病なども多かったので、収穫が皆無ということも多かった。今では薬も肥料(混合肥料)も品種も改良されて、そういうことはなくなった。
・稲の病気にはどんなものがありますか?害虫はどうやって駆除しましたか?
ねぐされ病などもあるが、一番収入に影響があるのがいもち病。いもち病は気温が低くて、日照の少ないところに多い病気であり、このあたりのような山手の病気とも言え、佐賀市などではいもち病はほとんどないという。
害虫はウンカ。油を水奥から水口の方へ流していって、水面に油を広げてその上にウンカをバラバラと落とすと、油がウンカにまきついて殺してしまう。油をひかず水に落とすだけだと、ウンカはすぐに飛び上がってしまうので効果がない。今は薬で一気に片付けられるので、あまり気にならない。
・共同作業はありましたか?ゆいとかせい、どちらでしたか(双方が加勢するとゆい)?
谷口さんたちの頃はなかった。昔はお互いに手伝いするゆいと、自分のところが終わってからよその手伝いをするかせいとがあった。早乙女はなかったようである。家の苦しい娘が裕福な家に年契約で行くことはあったらしい。これは奉公か。
・さなぶり(さなぼり:田植えのあとの打ち上げ会)はありましたか?その思い出は?
さなぶりはごちそうをしてお祝いをしていた。秋には庭上げというのがあった。庭上げというのは、米の精米などが全て終わって米を蔵にしまい、庭を掃いてきれいに片付けてしまうことからこう呼ばれるようになった。ごちそうであった餅をついて食べてお祝いした。
・田植え歌はありましたか?
なかった。
・米はどのように保存しましたか?ひょうろう米(兵糧米、はん米・飯米)は?
一番初めはカマス(わらで作った袋)にいれて、全部二階に上げていた。
・ネズミ対'策は?
ネズミに食べさせる米だけ別に用意しておく。そうするとカマスに穴を開けられずに済む。
・米作りの楽しみ、苦しみは?
「苦しみは植えるまで。楽しみはとるまで。」
・飼っていたのは牛ですか?馬ですか?
「昔は、百姓はみんな牛。馬はおらん。今は全部機械。牛はおらん。」
・えさはどこから運んだのですか?
稲のわらを一年分とっておかなければならなかった。
・牛を歩かせたり、鋤を引かせたりするとき、また右や左にいかせるときの掛け声はどのようなものですか?
ハイ!(歩かせる)、オウ!(止まれ)、キシェ!(右に行く)、タッシ!(左に行く)
・どうやって手綱を操作しましたか?一本使いますか?二本ですか?
普通は一本。つきぼう牛(荒々しい牛のこと)を、よく仕事をするからといって使っていた人は二本使っていたが、そのような人はめったにいなかった。
・ごって牛をおとなしくさせるためにはどうしましたか?(雄がゴッテ牛、雌がウノ牛?)
雄がこって牛、雌がめんちょう牛。確かにこって牛の方に荒々しいのが多いが、みんながみんなとは限らない。生まれもっての性格というものがあるという。牛をおとなしくさせておくには、普段から荒々しく使わない。さすってやったり、こまめに丁寧に扱ってやれば動物も分かってくれる。もっともすぐに分かってくれるものと、なかなか分かってくれないものとはある。それでも人間につきかかってくるようなものには、甘く見られないように少々痛めつけることもある。
・馬洗いはあるのに牛洗いがないのはなぜですか?
「いんや、牛も洗うよ。馬ほどじゃなかやけど。」
・草切り山はありましたか?それはどこですか?
草切り場はあった。この裏の山に牛の草を取りにいっていた。共有地の山に境界をして、分割して個人に分け、草切りに登った。使用する土地は何年かで交代しながら、場所による日照などの差がでないように平等に使うようにしていた。
・入り会い山(村の共有の山、村山)はありましたか?そこではどのような作業をしましたか?
草切り山のような使い方。ただし所有権は移動しない。何かを作ろうかと思ったときに作っただけで、植林などのような長いスタンスで作る作物は作らなかった。短期のもののみ。
・木の切り出しでは木馬・路引き(どびき・ろびき)・川流しはありましたか?
馬はいなかった。どびきで、幼いときから専門的に木を引く作業を仕込んだ雄牛が使われていた。そのような牛は値段も高かった。川流しは、このあたりのような、細くて石が多く、落差の大きいところではできないということだった。
・炭は焼きましたか?それによる収人はよかったですか?焼いたとすれば自家生産ですか?ヤキコでしたか?
「焼きよったよ。個人用で、家で使うために作ったことがある。窯を作るのが一番大変で、ひわれて(ひび割れて)ポトーッと落ちんごと、乾かしながら固めてしめていくのが難しい」
・山を焼くこと(キイノ・切り野、切山=焼畑)はありましたか?何を作りましたか?
キイノはあった。昭和30年〜40年の時分にやっていた。杉を切ったあとに杉の葉を焼いて肥料代わりにして作る。芋やソバや小豆を作ったりした。虫はいないし、きれいな作物ができた。
・キイノは民有地ですか、共有地ですか、国有林ですか?
「徳川幕府が倒れた後、地域に安く払い下げられ、さらに地域から個人へと所有権が小さく移動していった」
・ソバは反当何俵くらいですか?野稲は反当何俵くらいですか?
「よーけは取れんよ。詳しくは分からん。反当いくらとか計画的なことはしたことなか。」
・草山を焼くことはありましたか?
一年に一回春に、全部防火線を切って野焼きをする。そうすることで害虫は死に、古い草はなくなり、肥料もできるのできれいな草が育つ。
○口常生活について
・かご(楮・こうぞ・かじともいう、ちがうというひともいる)は取りましたか?
楮は栽培という栽培をしていたわけではなく、田や畑のあぜにあったものを切って蒸して皮をはいで、紙の原料として出荷していた。たいした収入ではなく、あるものを有効に利用していただけであったという、昭和30年代で終わった。
・山栗は取りましたか?
「小さかおいしか栗やけど、造林するようになってからは全くだめ。でもあれを食べたらほかの栗は食べられん。」
・カンネ(葛根)は?山の木の実にはどのようなものがありますか?
「カンネは、今はもうイノシシの堀ってしもうた。もうカンネン。」イノシシの大好物であるという。掘ってきて、繊維をたたいて団子にしていた。山の木の実には、アケビやムベがあった。
・食べられる野草、また食べられない野草は何ですか?
食べられるのはフツ(ヨモギのこと)やセリ。ほかのものは食べられるとは言っても食べることはなかった。特に食べられないというのは聞かない。
・お菓子はどうしていましたか?干し柿や勝ち栗について(干し柿の数え方は「連」であろうと思われるが、一連にいくつ柿があるのかなど)を教えてください。
「勝ち栗はこのあたりではあんまりせん。干し柿は、前は出荷もしよったけど、今はそういうことをする人はおらん。うちも正月用だけ。」「昔は、一連は百やった。今はそげんことするんはおらん。今じゃ15や10、そんなんで、めいめい好き好き。(干し柿は)大量生産大量消費の時代やなか。昔と今じゃ消費の仕方が違う。」
谷口さんのお宅で作られた干し柿をいただいた。とてもおいしかった、
・米は麦と混ぜたりしましたか?何対何くらいの割合ですか?
混ぜるのは、昔は当たり前。一番米が多いところでも、米対麦が7:3くらいであったようである。
ちなみに現代、健康食品として麦飯を食べる人は多いが、その場合の比率は9:1くらいであろう。年配の方が麦飯はまずいとよくおっしゃっていて、私たちはそんなことないのになどと思っていたが、精米の方法や、混ぜる比率の違いを考えるとそうおっしゃるのも頷けるのではないだろうか。昔の麦は今のように「あんなしっかりはがした白いんとじゃなかった」そうである。「正直言って、かさが増えるのが目的。昔の麦は経済的観念から、今の麦は健康的観念から食べられよる。」
・おかずについて教えてください。
昭和20年、兵隊から帰ってきた当時は一汁一菜の食生活だった。「しまつにしまつ」であったそうだ。
「肉や魚は月に何回たぶっか(食べるか)、一回たぶっか二回たぶっか。あとは野菜ばっかり。肉や魚はほとんど正月ばっかり。しまつにしまつの食生活からだんだんにごちそうが食べられるようになった。当時の人が長生きすっとは、それやから長生きすっと。だから今の年寄りさんは強い、長生きする。昔は40〜50代でほとんどいなくなる。子どもやらに迷惑かけるなら長生きしちゃいかんが、年金のあるけね。」ちょっと前まではひ孫までの4世代同居であったそうで、孫にいつも漢字テスト100題を出したりしていて、「(4世代同居は)子どもの教育にとてもよか、今の核家族はようなか」だそうである。「しかし最近は物忘れが多い。脳細胞が滅った、老化現象だ。感心するほどよう忘れる。ボケとは別。ボケというのは飯食うとって、わしゃまだ飯食うとらんて言うんとみたいんと。」
・昔の暖房は何でしたか?
いろりに薪を焚いていた。明治9年に谷口さんのひいおじいさんが建てられたというお家で、私たちがお話を伺ったお部屋の天井は真っ黒。今はもういろりはなく、代わりにコタツが暖房器具として活躍していたが、具体的に当時の様子をうかがうことのできるものを見ることができて、大変興味深かった。
・村にはどのような物資が入り、外からはどのような人が来ましたか?行商人、魚売りはどこから?やんぶし(山伏)、薬売りは?
「(行商人、魚売り、薬売りは)今でも来る。魚は呼子から。ほかのはいろいろ。薬売りは、箱で(持って)来る、農協とか、2、3の商社から年に1、2回。山伏などはこの辺にはいない。」
・昔は病気になったときはどこで診てもらいましたか?
お医者さんが往診に来てくれた。
・川原やお寺の境内に野宿しながら箕を直したり、箕を売ったりしに来る人を見たことはありますか?その人たちはどこから来たと考えられていましたか?
「いた。どこからということもない。渡り歩いていたのだと思う。」
○当時の様子について
・結婚前の若者たちの集まる宿(わっかもん宿・若者宿・青年宿)・青年クラブはありましたか?そこでは何をしていましたか?
わっかもん宿と青年クラブが戦後しばらくの間あった。わっかもん宿、青年クラブには、「家で晩ご飯を食べて風呂入って、青年クラブ行って寝て、朝帰る。16、7歳〜嫁さんもらうまで。もらったら自分のうちで寝るから。」
・上記のような宿に集まるのは男だけですか?
男だけだった、女性には別に処女会という団体があった。
・上記のような宿では規律は厳しかったですか?上級生からの制裁とかはありましたか?
人間関係についての言わず語らずの教育がなされていた。たとえば、食べ物をつぐにも年長者からついでいき、時に若いものは汁だけということもあった。口では言わなくても、行いで人間社会の基礎作り。年齢によるピシッとしたしきたりのようなものがあった。
・力石(大きな石を持ち上げることで力比べ)はありましたか?
あった。今でも使っていた石はお宮に行けば見ることができるらしい。真ん丸い石で、大きいもので100斤や150斤くらいか(約60kg〜80kg)。肩に担ぐ。すごい人は、「70キロくらいは上げられるかなー。」
・干し柿を盗んだり、スイカを取ったりは?
「それはもう、昔の青年は常習!!見つかりゃ、やかましい言われるさ。でも警察沙汰になることはなか。青年の特権!」かわりに、地域に何か行事でもあれば無報酬で仕事をしていたそう。
・戦後の食糧難、若者や消防団が犬を捕まえてすき焼きや鍋にしたことはありますか?
あった。隠れてでなければ、公然とはできない恥ずかしいことでもあった。
・犬はおねしょの薬だと聞いたことがありますか(体がぬくもる)?
聞いたことがあるという。「赤犬じゃなからんばいかんて。これが一番おいしいて、赤犬ばかり探しよった。」
・犬はどうしたら捕まりますか?
「食べ物を差し出せばホイホイホイッとくる。そこでホイッと紐を引っ掛ければ、罠とかせんでもすぐに捕まる。」
・よばいは盛んでしたか?
あった。が、子どもまで作った人はあまり見たことがないそう。ただ会いに行くという感じであったらしい。「私たちのときは行くとは行きよったばってんね、いつ兵隊に行くか分からんから、うかつなことはされん。」
・もやい風呂(共同風呂)はありましたか?
あった。昔はもやい風呂ばっかりだった。麻名古のあたりは5軒も10軒もあった。交代でやっていた。この辺には少なかったが、良くも悪くも知識を得るには一番よい場であったらしい。社会教育にはなった。「衛生的にはようなかばってん、教育にはよかった。」
・盆踊りや祭りは楽しみでしたか?祭りはいつですか?
盆踊りはなかった。祭りは、17夜(8月17日)の祭りがあった。よそから芝居などを呼んできて、お宮で余興があったり、地域の若者が踊ったりする。今でも続いてはいるが、行く人が少なくなった.
・昔、神社の祭りの参加・運営は平等でしたか?
平等。郷社(地域の神社等で位が一番上)の淀姫神社の祭りなどは、青年や消防団が中心となって運営する。
・農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?格差のようなものはありましたか?
地主に渡す小作料(地料)は一等田(一番良い田)で収穫量の半分であり、良い田ほど地料の割合が高いのだが、たくさん取れるのでやはり良い田の方がいいと言われていた。
・戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人や靖国の母は?
戦死者が多く出た。働く者が減って、女性がその分まで働かねばならなくなった。戦争未亡人はいたが、今ではもう一人しか残っていない。ほとんど亡くなった。靖国の母も今はいない。
谷口さんは、戦争時は潜水艦乗りだった。だが、戦地に赴く前に戦争が終わった。そのことを「死に損なった。」、「命拾いした。」とも。潜水艦は沈むと一人も助からないため、沈んだ場所なども特定できない。ただ一つ、イノ18潜と呼ばれた潜水艦だけは一人生存者がいて、沈んだ場所などが分かるのだそうだ。その人は潜水艦が沈むときに泡と一緒に浮かんできたという。
・村は変わってきまし.たか?
とても変わってきた。「この50何年というのはね、その前の何百年分というものの分進歩してきた。農業とか、20数年前の、牛をホイホイやりよったのから、機械に。この進歩が私の中では収穫。たった50何年かで、何百年分もの経験ができた。何百年分も生きた。有意義な一生を過ごすことができたな。敗戦の賜物、というか。勝っていたらどうなっとったか知らんけど、負けた結果の今である。勝っていたら、世界で一番になりたがる日本人だから、世界中に手を伸ばして大変だっただろう。ただ一つ残念だったのが、日本人が憲法をその時代にあったように改正していききらんかったこと。マッカーサーは、日本人が器用にできるだろうと思っていただろうが、日本人はそれをしきらんかった。軍隊や戦争は放棄すべきだが、自分の国を守るシステムはピシッとしておくべきだ。できてないけん、今あっちこっちでゆがみがでてきとる。」
○その他
・「これ書いときなさい。どんな動物も大きくなるかどうかは足見りゃ分かる。人間もしかり。」
・三瀬村への林道(地図参照:原本は佐賀県立図書館所蔵)は、植栽に関連して比較的最近増設したもの。
・谷口さんのお宅もかなり古いおうちだったが、上無津呂には文化財にもなっている吉村家住宅があり、築200年である。実際に晃に行ってみた。その写真がこれである。
(写真アリ・省略)
・この時期の副業として、しめ縄を作っていらっしゃった。福岡に出荷するそう。かなり大きなものであった。
(写真アリ・省略)