佐賀県上熊川
安藤宏・古賀慎也
お話を伺った方々藤田利幸さん(昭和11年生まれ)藤田初さん(大正8年生まれ)
《当目の行動》12月23日・空模様はあまり芳しくなく一日中曇っていた。10時半に上熊川に到着し、昼前に藤田さんのお宅にお伺いすることになっていたためしばらく付近の散策をかねて、散歩をすることにした。北風が骨身にしみたので焼き芋屋さんを発見した我々二名は早速食べることにした。芋の暖かさに救われた。そうして芋の袋と時間をつぶしてから藤田さんのお宅に向かおうと地図を見ながら歩いでいったが、細い山道に迷い込み、困った。そんな我々を救ってくれたのは郵便配達員の方々だった。藤田さん宅を尋ねると、どこの馬の骨とももつかぬ我々に親切にバイクで先導してくださった。そうしてやっとのこと藤田さんのお宅に到着したが、まだ早かったらしく藤田さんはいらっしゃらなかった。待つこと数十分、お帰りになった藤田さんにお話を伺う。伺った内容は以下に記す。
【どうやって手綱は操作しましたか?】牛の手綱の操作は鼻輪を通した一本の綱で行い、左に曲がるときは「トオ」、右に曲がるときは「ケシ」と、掛け声をかけていた。ちなみに鼻輪は杉の木でできている。
【ごって牛をおとなしくするためにはどうしましたか?】ごって牛をおとなしくするための方法としては、「叩く」。鼻っ柱を木の棒で叩いたそうです。しかし、すぺてのごって牛を叩いたわけではなくほとんどの場合は飼い主がえさを与えるため自然となついていた。また、ごって牛は力が強いので重い材木を運ばせた。
【馬は毎日洗いましたか?】馬はいなかったらしい。よって馬に関する質問は飛ばす。が、牛洗いはしなかったのかという質問の答えが意外にも「いや、牛は洗ったよ!」だったのに驚いた。わらで作ったたわしで毎日洗っだそうである。
【草切山はありましたか?】あったそうである。
【薪はどうやって入手しましたか?一一一一一一一一一(地図記入)】薪は集落の周りから集めてきていた。これといって決まった場所から取っていたわけではない。
【入り会い山(むらの共有の山、村山)はありましたか。どこに?一一一一一(地図記入)】入り会い山についてはよく分からなかった。草切山は村の共有の山であったのは確か。
【そこでどんな作業をしましたか?】入り会い山(草山)での作業としては、10メートル幅で草を刈り、そして延焼を防ぐために上から下に向かって火をつけていた。刈った草は牛の餌になった。また盆の花(キキョウなど)や、ささぐりという小さな栗も栽培していた。ささぐりは「くいや」と呼ばれ、経済的な面での縁起物であった。このくいやの木で作った「くいや橋」もあったのだそう。縁起がいいらしい。
【木の切り出しは?木馬・路引き・川流しはありましたか??】木を切り出すときは木馬も路引きも行っていた。木馬は細い丸太を道に並べ、その上に太い材木を転がしていくもので、500キロぐらいのものまで運ぶことができた。木が転がりにくい平地では材木と丸太の間に油をさした。また、重い材木はその先の端を船の先端のように削って転がした。上り坂が多いときは牛に引かせていた(路引き)。川流しは明治後半ぐらいまではあったそうだ。
【炭は、自家生産でしたか?】炭は自分の家で焼き、収入はよかった。
【かまどを作ってはいけない日はありましたか?】かまどを作ってはいけない日は旧暦の土用の日で、泥をとってはいけない日であった。山を焼くこと(キイノ・切り野、切山=焼畑)はありましたか?】山を焼くことはあった。
【何年間荒らしましたか?】山を焼いた後にソバを育てた。山はソバを収穫した後は植林したので荒らすことなどなかったそう。
【ソバは反当何俵くらいとれましたか?】わからん。
【キイノの地名は?】キイノの地名はわからないそうだ。「キイノはキイノやろ!」とおっしゃられました。
【キイノは民有地ですか?共有地?それとも国有林ですか?】キイノは昔は村の共有の山だったが、現在は地方自治体によって管理されているらしい。
【草山を焼くことは?】草山は毎年焼き、その灰をいくつも山にして積んでおいて3〜4月頃田に入れて肥料にしていた。
【楮(かご)は取りましたか?】かごは取っていた。蒸して皮を剥ぎ、その皮を売っていたらしい。
【山栗は?他の山の木の実にはどんなものがありましたか?】山栗の他には山百合の根(ユリネ)ぐらいのもんだったそう。
【ほかの山の幸は?】「ゼンマイやらワラビやらいろいろよお!」【干し柿の作り方は?】《干し柿の作り方》1、皮を剥いた柿を吊るしておく。2、その上から布のカバーをかぶせる。3、柿の表面に白く糖分の結晶が浮いたらわらではたく。4、正月前に市場に持っていく。
【食べられる野草は?】『野草?!食えるわけなかろうが!!」だそうです。
【米はどういう風に保存しましたか?兵糧米は?】兵糧米=握り飯のこと。ネズミ対策…柱から柱に渡した、高い板の上に米カンカン(=トタンで囲んで作った巨大おひつ)を置き、ネズミが侵入できないようにした。
【米作りの楽しみ、苦しみは?】収穫前はとても楽しみで、不作のときはとても苦しかったそうだ。
【昔の暖房は?終戦前の暖房は、囲炉裏であった。それ以後は、こたつが使われた。火箱(箱の中に火のついた炭を入れたもの)も用いられた。
【車社会になる前の道はどの道でしたか?】車社会になる前の道路は、牛の通る道であった。3尺道=1メートルくらいの狭い道)と呼ばれた。
【むらには外からどんな人がきましたか?行商人は?魚売りはどこから?】秤や、品物を担いだ人が村に来ていた。秤には、塩物の魚などを入れていた。当時、服は自家用機織で作っていた。
【目の見えないお坊さん(ザトウさん)は現れましたか?】「ザトウさん」は時々現れた。彼は村人達に、茶碗一杯(もしくは皿一杯)のお米を貰いに来ていた。
【やんぶし・薬売りは?】山伏し(やんふし)は、時々現れた。英彦山の方から、ほら貝をふきながら現れた。徒歩でやって来たと思われる。薬売りは鳥栖の方からやって来た。「富山の薬はよく効く」と叫んでいたそうだ。
【医者はいましたか?】ほかの部落に、医者がいた。皆、(ヤブ医者)と呼んでいた。
【川原やお宮の境内に野宿しながら箕をなおしたり、箕を売りにくる人を見たことはありますか?】お宮の境内で蓑直しをする人々はいたが、彼らが何処から来たのかはわからな