歩き・み・ふれる歴史学レポート
S1-8 鈴木 亮太
S1-8 西村 至央
今日、土地開発が進み、それによって失われつつある通称地名を古老から聞き取り、記録されずに忘れられつつある昔の村の姿、記憶を記録し後世に残すため、今回
お話を伺った方 久保 一二さん (昭和4年3月20日生まれ)
山中 濶さん (大正10年11月10日生まれ)
村の名前、地名、しこ名一覧
貝野周辺の小字
ノバタケ(野畑)ドウフウ(道風)カイノ(貝野)ロギダニ(櫓木谷)ウミンタ(御民田)ゴホンマツ(五本松)ミサキバル(三崎原)ホンムラ(本村)ウバンタニ(姥ヶ谷)カツウチ(勝打)ヒロサワ(広沢)コウラダニ(高良谷)オオカワウチ(大川内)
田畑、岩、神社、あだ名
ササミダイラ(笹箕平)マゴソウ(まごそう)シイノキサコ(樵の木迫)ニマイダ(二枚田)アマガエシ(天返し)チャノキノ(茶木野)ヘコハチ(兵児八)ヨシハラ(吉原)サコンザ(左近座)ナガジイ(長爺)セバザコ(狭迫)フタマタ(双又)ロギダニ(櫓木谷)オオノツジ(大尾の辻)セイロクダニ(清六谷)ウサギノクチ(兔口)ドウフウ(道風)ヒリャアシノムカイ(日林向)カマノ(鎌野)フウヅキ(ふうづき)ダンドウ(段道)カワハラダ(川原田)オノツジ(尾の辻)マゴノサカ(馬子坂)ハッサコ(蜂迫)テングヤマ(天狗山)デンガクイワ(田楽岩)イシワリダ(石割田)キシダカ(岸高)タイラ(平)セガキノ(施餓鬼乃)カイノマエ(貝野前)ホウアナ(胴穴)ヒガシンダニ(東ん谷)ヤシキダニ(屋敷谷)ホタチメ(火断目)ナナツガマ(七つ釜)フナイシ(船石)マルオカゲ(丸尾隠)マルオ(丸尾)カワノカミ(川の神)イナキリ(稲切)シリブリザカ(尼ぶり坂)コウジリ(高尼)ハチノスイワ(蜂の巣岩)イワナシ(岩梨)シモカワラ(下川原)コブキ(小吹)カニハラ(蟹原)ウツボダニ(うつぼ谷)ウミンタ(御民田)イランドヤマ(不入人山)ゼンモンバカ(ぜんもん墓)ユデノヤマ(湯出山)ヒライシ(平石)ベンケイイシ(弁慶石)キタムカイ(北向)ミナミ(南)オオサコ(大迫)リュウセンジ(竜泉寺)スワジンジャ(諏訪神社)ソウケブチ(そうけ渕)ヤマザキ(山崎)エノキガエシ(えのき返し)ツメ(詰)ケイドウ(経道)カヤキリダイラ(萱切平)ナガサコ(長迫)シラキサコ(白木迫)タカトリヤマ(高取山)タノサコ(田の迫)タマコ(玉子)サンドビックリ(三度びっくり)タケ(岳)ユズノキ(柚木)ウエノヨコミチ(上横道)タヌキアナ(狸穴)アイクビヤマ(七首山)クゲダニ(崩谷)ドックウイワ(どっくう岩)ザトウガエシ(座頭返し)シタダケ(下岳)シタノヨコミチ(下横道)ドンポウダ(どんぽう田)フジオノオバナ(藤尾端)ホンザコ(本迫)カマノヤマ(鎌野山)クルマダ(車田)アシノサコ(葦の迫)ヒノクチ(火ノ口)ハンズイカメ(飯水かめ)カミンジャラ(神平)ジェジェンノタニ(銭々の谷)ウマノコオネ(馬の小尾根)ツウコウダ(通交田)トビトビ(飛々)ヌクヌク(温々)ニシノサコ(西迫)タマリ(溜)タマリヤマ(溜山)シライシヤマ(白石山)シライシ(白石)サンゲンフチ(三間渕)クラタニ(倉谷)
井手、地域の氏神
ドウフウノセキ(道風の堰)ウミンタノセキ(御民田の堰)ブンエモンノセキ(ぶんえもんの堰)マルオイデ(丸尾井手)
ツバキサン(椿さん)<椿の木>
イズミサン(泉さん)<ほこら>
コウチンカミサン(高地神さん)<石のほこら>
ウシガミサン(丑神さん)<椋の大木>
アヤベサン(綾部さん)<石のほこら>
シチロウジン(七郎神)<お堂>
サンカイバンレイ(三界万霊)<地蔵尊、大神宮>
貝野の名前の由来
1467年の頃、甲斐の国の人々が住み着いたことから、この名前がついたらしい。そのため、昔は甲斐野という記述していた。
貝野部落の人々の暮らし。
>貝野部落は主に農業をして、古湯では主に商業(宿屋、商店)をしていた。
>昔は貝野に田んぼがあったが、構造改善(2,3の部落が構造改善に立候補したが、貝野だけが選ばれ構造改善を行った)によって、広沢地区に田んぼを移動した。それによって耕運機などの機械が使えるようになった。
>薪などはそれぞれ自分の部落の山で調達する。切る場所は年毎にきまっていた。
>昭和のはじめごろから、商業をする古湯と、農業をする貝野の違いが明確になってきた。
>明治ごろは34件あった戸数が、現在は21件である。山中さんの考えでは、今後減っていくだろう。
>1863年ごろ、大字古湯には113戸あった。
>台風予防のために、綾部さんを祭っていた。綾部さんは福岡のなかばるの綾部神社が源流であるとおもわれている。
>用水路の中には、アブラメ、ドンポウ、サンショウウオ、タニシ、ホウジャ(蛍の幼虫)などが昔はいた。いまはいない。
>昔の暖房は、いろり、湯たんぽを使っていた。
>だいたい牛の通れる道幅。車道ができる前に、3,4回造成した。
>魚売りが、有明と唐津からやってきた。魚は村で作った米と物々交換した。行商人は主に、食物と衣類を売りに来た。ざとうさんもやんぶしも、もちろん来た。
>昔病気になったときは、古湯に医者がいたのでそこでみてもらった。自分でそこまで行けないときは、若い者が籠で、迎えに行った。
>あまりみなかったけど、しばしば見ることもあった。その人たちは多分、山民であろうとおもわれる。箕を作って暮らしていた。しかし、今日の差別問題の対象となっている人々とは違う。
>普通の農家では、米対麦が7:3で混ぜるが、貝野ではほとんど麦ができないため、8:2ぐらいで食べていた。
>もちろん野菜は自給できるが、魚は自給できない。肉は古湯で売っていた。肉は年に2回くらいしか食べなかった。うさぎやタヌキの肉も食べた。
>青年宿はあった。若い男が集まるところ。青年学校は、義務教育が終わったあと、3年間軍隊教育を受けた。上下関係は厳しかった。
>力石はあった。冒険心から盗みもした。野菜、にわとりなど。
>犬は食べたことはない。そんなに野蛮じゃなか。(山中さん談)
犬は食べたことある。犬はうまかよ。僕は何回も食べたよ。(久保さん談)
おねしょの薬だとは聞いたことはないが、食べたら温もる。
犬はとったりはしなかった。
>よばいはあったあろう。部落間の協定もあったらしい。二人は戦争に行っていたが、戦争中は青年同士のけんかもあったらしい。
>貝野には、30年ほど前まで3つくらいもやい風呂があった。水車小屋(米のもみすり)も貝野には3つあった。内風呂はない。風呂をわかすのは交代ばんこ。
>昔といえども、人間だったら、恋愛もしよろうが。恋愛なかったら、あんたたちも生まれとらんよ。(山中さん談)
>盆には踊りはなかったが、盆綱というものがあった。青年宿で、綱をつくって綱引きをしたあと、あくる日には堰に使った。
>農地改革前の小作制度は、地主は税金と使用料として2〜3割を徴収していた。ほかの地域ではもうすこし高かった。貝野周辺では米の収穫量が多かったから。小作と地主の格平等に映っていたという。
>神社の祭りは、宮柱が4人いて、それは世襲で、七郎神社などの世話をしていた。今は村の役員(協議人)が神主を呼んで祭りを仕切っている。
>貝野部落からは、47人が出征し、5人が戦死した。出征後は女、子供、老人だけが残
>田んぼの中には、かえる、タニシ、どじょう、みみず、やごがいた。川の中には、アブラバヤ、イエノハ(やまめ)、鯉、フナ、うなぎがいた。これらは農薬やえんてい(砂防ダム)が原因でいなくなった。
>田んぼでは95%米を作っていて、麦は自家用だけにつくっていた。一等田では、一反あたり4,5俵とれ、悪い田では、2、3俵であった。肥料は、焼き草と夏草をすきこんだもの、盆すぎに草を野積みしたもの、硫酸アンモニウム、牛糞などが使われていた。農薬が使われだしたのは、戦後くらいから。当時はいもち病が多かった。
>ゆいとかせいは昭和50年ごろまであった。機械化されて、めっきり減った。
>手伝いの早乙女にいった。(貝野にはこなかった。)
>さなぶりは昔は1〜3日もあった。20年くらい前まで。現在は日帰り旅行にかわっている。
>田植え歌はなかった。飼っていたのは牛のみで、馬は飼っていなかった。牛のえさは部落の山から運んできていた。牛を歩かせるときの掛け声は、右はまえまえといいながら綱をひき、左はとうとうといいながら尻をたたき、止まるときは、りゃありゃあといいながら綱をひく。手綱は1本で操作していた。ごって牛をおとなしくさせるために、去勢をした。
>牛は年に1,2回貝野川で洗い、池ではだつくろいといって温湿布マッサージみたいなものをしてあげた。ごくろうさんちゅう意味でやったわなぁ。
>入り会い山では、山焼きをするためにある程度草をのぞいて、防火線を設けた。そして野焼きをした。
>薪は部落の山から入手していた。
>木の切り出しは、どびきでおこなっていた。川流しはおこなわなかった。
>国有林を払い下げて、炭焼きをした。それは自家生産だった。ヤキコではなかった。
>貝野部落では、野焼きを行い肥料を作っていた。焼畑はなかった。
>そばは昭和初期まで、自家用のために作っていた。またノイネはなかった。
>かごはほとんどの農家でやっていた。
>山の木の実である、野栗(ささぐり)は25年ほど前までとれていた。ほかにはわらび、ぜんまい、柿など。
>食べられる野草は、野わさび、せり。
>干し柿は柿をむいて干すだけ。数え方はひとくさり(一連)。
>食べられない野草は、やっぱりトリカブト。
>ねずみ対策として、米はかます、もみの中に米俵をいれて保存した。
>米作りの楽しみ、苦しみは生きるために仕方のないことであり、ひきこもごもじゃ(山中さん談)