市川
調査者 L1-4
恵藤淳矢
L1-4
松本文
話者 篠原俊雄さん(大正14年生まれ)
◎市川とその歴史
<市川という地名について>
市川という地名はもともと長野県にあり、そこから地名を取ったらしい。(今でも長野県にはその地名があるが…)
しかし、いつ、どのようにしてその知名になったかは不明である。
また、それを象徴するのがお宮である。長野県の諏訪神社を本尊としている。
<歴史について>
このあたりは昔落人があって、その子孫が繁栄したらしい。はじめからこのような山奥の住みにくいところで人が住んでいたとは考えにくい。
江戸時代は佐賀藩ではなく小城藩で、小城の殿様は今の県道杉山小城線を通って山越えをして北山(代官所があった)のほうに抜けて行っていた。
戦時中はそこを軍隊が利用していた。細く、険しい道であったため通るには大変
であった。天山のほうの峠はナナマガリと呼ばれていて、それほどくねくねした道であったのだ。
明治時代のころはこのあたりも佐賀県ではなく長崎県で、長崎県小城郡市川であった。
<戦争について>
被害はなかった。そのため疎開の受け入れなどをしていた。篠原さんは出兵していたので帰ってきてから聞いた話だが、この地域から福岡の空襲(火柱が立っている様など)がよく見えたそうだ。
◎生活について
@篠原さんについて
篠原さんの家は4代前は氷倉(冬の寒い時期に氷を大量に作るための倉)をもっていた。そこで氷を作り、夏になると小城のほうから馬を雇い、運んで売りに行っていた。
子供のころは当然ながら親の手伝いをしていた。農作業がほとんどで、家計を助けるためこのあたりは炭焼きなどをよくしていたそうだ。
篠原さんの家は今でもまきを使って風呂を沸かしている。(ガスも使っているが)「山にいくらでもあるのであるものは使ったほうがいい!もったいない!」篠原さん談(笑) しかし炊飯は炊飯器で。
昔はこのあたりにはみなでお金を出しあって買った共同風呂が2ヵ所あり、当番制(今日は○○さんちで明日は△△さんち、といった具合に)で良き情報交換の場であった。しかし今はそれがないため地域内の接触、交流が少なくさびしいらしい。(ex:新しく入ってきた若い嫁さんなどが分からないetc…)
A全体について
昭和27〜28年ぐらいまでは、買い物(買出し)は小城町のほうに行っていた。‘ヨル’(これは、朝の2時とか3時ぐらいに家を出て行っていたということらしい)ぐらいかかる。
以前は棚田ばかり。今でも棚田はあるが、労力がかかるため多くは開墾され整備され、機械で耕作などの作業ができるようになった。狭い田んぼなどもあるが、それらも今では手作業でやることはめったにない。
農業のための水源についてだが、このあたりは湧き水が豊富なため川などから水を引いてくる必要がなかった。しかし昔はヨシワラという2里ほど離れたところから水路をひっぱてきて田んぼに水を引いていたらしい。
夏は田んぼなどの農作業をしなければならないため、子供たちも総出で自然林から冬に薪を1年分まとめて取っていた。冬の薪は木の質がよく虫がつかないため1年中保存できた。その薪は囲炉裏や炊事に使われた。
その作業の合間に冬はわら細工やわらじなどを作っていた。
初めて市川に車が入ってきたのは昭和30年代後半。材木屋が製品を運ぶため。それ以前は馬車ばかりだった。それから道路がだんだん改良されていったが、車が普通に通るようになったのはごく最近のことで、昭和40年代後半になってからである。篠原さんが小さいころは、先生から「アメリカは1軒に1台は車がある」と習っていたそうだ。篠原さんにとって一番生活環境が変わったと感じるのは車が入ってきたことだそうだ。古湯まで行くにも、以前はおにぎりを持って1日がかりだったのが、今ではほんの数10分で行けてしまう。福岡まで行くなどとんでもないことであったのだ。
最近いのししが増えて困る。畑などが荒らされるし。昔はいのししなどめったに見ることなどなく、とてもめずらしいものだった。
また、逆に川の魚はまったくいなくなった。昔は子供たちで川遊びなどをよくしていたのだが、川が汚染されてしまった。ただでさえ急流なので雨が少し降ると土砂が流れてにごってしまう。
近くを流れる天河川(あまごうがわ)はきれいな川として有名。
今では若い人はどんどん流出していき、高齢層ばかりになってきている。
今でも寄り合いなどはあり、市川全体で諏訪神社で行われる。
※諏訪神社以外にも多くのお宮、具体的には観音堂がある。また大黒様も多いが、これは他のとこにはあまりなく、お金の神様なので不況のときに信仰される神様である。
◎学校について
今の市川公民館がある場所に昔は学校があった。今は統合して古湯の学校へ子供たちは通っているが、学校跡地にある碑によると明治34年4月分教場設立、昭和37年4月独立と書かれていた。篠原さんの話によるとそのころは南山村に属していたが、村もお金がなく、学校を建てる際集落で材木を出し合ったという。先生の給料などはさすがに村が負担したが。分校という名目上小学校4年生までは分校で、5年生からは体力も備わってくるという理由から古湯にある本校(距離は約4kmほどだが、道も悪く山道であったためとても登下校はたいへんだった)で学んだ。そして次第に生徒数が増えていき、記されているように昭和37年4月に市川小学校として独立した。しかしその後の生徒数は減る一方で、昭和48年ごろについに統合されてしまった。その当時建てられた教員住宅は今でも残っている。
◎官公造林について
今では人工造林が広がっているが、篠原さんが小さいころは原野であった。しかし造林奨励があってすべて造林になったのだが、住民によるかなりの反発があったことも事実だ。なぜかというと田の肥料、堆肥などができなくなるからだ。
浮立の里展示館わきにあった官行造林の記念碑に記されていた文章を以下に示す。
大字市川の官行造林は鎌倉境より始まり天山西岳吉原を‘経’て溜山国有林に至る実に三一二ヘクタールの広大な面積で富士村官行造林の三分の一強に当たる官行造林は大正十二年春より昭和十年春に至る実に十三年の長年月を要しこの間我等の祖先は部落一致団結して毎年約三十ヘクタールに及ぶ新植と逐年累計する植裁地の管理育成に心魂を傾注さられて今日の美林を造成させたのであるがこの造林に着手するに至るまでには衆議仲々‘まと’らず一時険悪な情勢に陥つたこともあつたが当時の村議会議員篠原源太郎氏を始め区長協議人等部落役員各位の非常な斡旋努力により円満解決し遂に比大事業が完成された日である当時の部落指導者の先見の明と部落民の努力誠に敬服の至りである植栽開発後年を閲すること三十有七年昭和三十五年第八林班中のスゲン谷より主伐を開始せられ毎展のため極めて有力な財源となつている又部落もこの造林より得たる収入の十五パーセントを分収金として取得しそれによつて各種の公共事業や教育文化等の諸施策を行い以て住民の福祉を増進されつゝあるが是れは偏に先人の偉業より享ける恩恵に外ならない我々は朝夕部落を囲繞する美林を眺めては住時の‘労’苦を‘偲’ぶと共にその遺徳に対して深甚の感謝の念が湧くのであつて初代を機会に部落氏相謀り此記念碑を建立したのも先人のこの大偉業を後世に‘伝’ふると同時にその徳を讃える一助としたいためである
昭和三十九年三月 区長 飯笹 定美
仝 野中 貞雄
※文中の‘’部分は旧字体につき、現在の字体、もしくは平仮名に修正しました。
◎天衝舞浮立(てんつくまいふりゅう)について
<浮立全般について>
浮立は秋の豊作を祝って行うもので、県の重要文化財である。行列の華やかな一部である風流が独立して芸能化したもので、発生時期は異なるものの、江戸時代の中期以降に今の形に整えられたと考えられている。
<市川に伝わる天衝舞浮立>
市川で行われる年中行事の中で最も有名で規模の大きなものは、浮立というお祭りだ。これは秋の豊作を祝って行われるものもう200年ほど続いている。以前は旧暦の九月十五日に奉納していたが、現在は仕事が農業だけという人はほとんどいないので、人をそろえるために十月中旬の日曜日に行われている。
市川の浮立は天衝舞浮立というもので、旗、高張提灯、バレン、傘鉾、謡組、笛、大太鼓、扇子舞などで構成されている。にぎやかな鳴り物とともに勇壮な棒術、ユーモラスな奴踊やニワカの後、天衝舞の「神の前」「マクリ」などが奉納され「道行き」で退場する。
※私たちは篠原さんの勧めもあり、帰る前に浮立展示館(以前は館長がいたが、いまは役場が管理)に足をはこんだ。そこには市川以外の各地の浮立についての展示がありビデオや音声解説など実に分かりやすく浮立を知ることができた。また、実際に浮立で使われる楽器にも触れ、扱うこともでき、充実した内容であった。
◎市川の地名(あざな名ついて)
カンネンザカ…昭和三十年代に峠をならして改良。もともと幅1.5メートルぐらいだった。バスが通れるほどに。今のように2車線になったのは最近。平成4年ごろ。
名前のいわれは不明。鐘の坂?
カゴタテバ…殿様の篭が休憩した場所で見晴らしがよい。かごをそこでたてたからカゴタテバ。
フルヤシキ…昔は家があった。川はあるが五十メートル下がったところなので水を手に入れるのは困難。そのため今では住んでいる人はいない。
※今でもこの地域ではこれらの地名が使われているそうです。
※植木、グミは山なので、あまり立ち入ったり利用したりすることがなかったため地名がほとんどついていない。
五反田…五反田ではなく三反田
苣木村(ちやのき)…もとは市川で下市川といっていた。明治時代のころ。あまりにも市川と離れているためわかれた。お宮は今でも諏訪神社ではないだろうか…?
溜山(たまりやま)…市川の土地番号の始まり。
※あざな名は以前の調査の結果で十分のようだ。篠原さんもたいへん感心されていた。ただ1ヵ所、五反田という地名はなく三反田だということぐらいだ。
◎その他
<厳木との関係>
昔、厳木に抜ける道は小さなけもの道しかなかった。市川と厳木では藩も違い、厳木のほうが上位(格式が上)であった。そのためむこうは公に芝居が行われていたが、こちらは禁止されていたため隠れて芝居などの娯楽、具体的には狂言などを行わなければならなかった。
<その他>
佐賀は昔は佐嘉と書いていた。
今、福岡→三瀬村→厳木を抜けて唐津までのびる広域国道(2車線)が工事中。あと10年ぐらいで完成予定。山の高速のようなもので、どんどん便利になっていく。佐賀と福岡の交流が目的で、国の林野庁・佐賀県・福岡県が連携して建設中。
近くに天山スキー場(オーナーは舟木一夫)がある。土日は若い人で非常に混雑しており、多いときでは5000台ほどの車が来る。このスキー場は話が出てから3年ほどたってからようやく建設を開始した。
<調査に行っての感想>
まず私たちが一番感じたことは、私たちには到底想像のできない暮らしがあったということだ。山の生活は多くの困難を伴っていた。交通の便などの問題点だけでなく、生きていくことそれ自体に困難や苦労があったと思われる。今の私たちでは決して生きてはいけなかっただろう。しかし、篠原さんの話にはその表情や話しぶりからは昔の生活を否定するようなことは少しも出てこなかった。ただ懐古主義に浸っているなどというものではなく、今と昔の生活をありのままに受け入れ、それを感じ取るままに話していただけた。私たちは今の生活のほうが失ったものが多いのではないのかとさえ感じたほどだ。特に浮立の展示館にいき、ビデオなどを見た際、伝統芸能の貴重さ重大さにふれることができ、同時に今の私たちの生活を考えるきっかけにもなったと思う。昔についての調査は今を見つめ直すことにもつながるいいチャンスであると実感した。本当に貴重な体験ができた。