広溜現地調査

 

8:15 九大玄関前集合

8:30 九大出発

11:15 現地到着

 

今回は高松努さんのお宅に伺い質問をした。

 

<地名、小字やあだな(しこな)について>

ツポダ、キシダカ(岸高)、クランウシロ(蔵の後ろ)、コフケ、ウエンヒラキダ(上の開き田)、オギンモト(小城の本)、ツバキモト、コタロウ、キイノ、キョウワリンギョウ(共和林業)などがあった。これらの名前は単純な理由から付けられたものだった。例えばクランウシロは蔵の後ろにあった田んぼだったからそういう名前になったそうだ。他の田も同じような名前のつけかただった。

 

<谷や川、滝、山の名前について>

シシンダニ(猪の谷)テンジンヤマ(天神山)、べダイテンサン、クサキリヤマ(草切山)を教えてもらった。滝はこの地域にないので滝の名前はわからないとおっしゃっていた。同じく池もないということだった。川や橋の名前は現在の名前ということだった。

 

<古賀(小集落)、屋号について>

古賀については地域の人数が少なかったので存在しなかったそうだ。屋号についてはあとからその地域の西側に住んだ人の家をニシ(西)などと呼んでいたそうだ。

 

<大木や岩、古い道や峠の名前について>

「そんことについてはあんまい詳しゅうなか」とおっしゃっていた。

 

<地名の場所の思い出について>

思い出はないということだった。

 

<田んぼへの水はどのようにしているのかについて>

これは貝野川からということだった。

 

<50年前はどうだったか、水の量や水争いは?>

50年前も同じく貝野川から水を取っていたそうだ。水の量は上流のほうだから量は多いと

いうことだった。水争いはなかったが水利権の問題で広沢は苣木地区の飛地になっているということだった。

 

<旱魃の時の思い出は?雨乞いの経験は?>

平成6年の旱魃以外では記憶にないということだったが、「タンナカつくれんことはなかった」というように平成6年のときも上流から水を引いていたのであまり被害はなかったということだった。なので雨乞いの経験はないということだった。下流の方では水が枯れてしまい大変なことになっていたとおっしゃっていた。あと風切りなどもしていないということだった。

 

<用水路にはどんな生き物がいるのか?昔は?>

今はホタル、ドジョウ、ヤマメなどがいてこのヤマメは村が放流しているそうだ。昔はドンコ、アブラメ、ホウジャ(貝)などがいたが、農薬の影響でおらんくなった、とおっしゃっていた。

 

<田の中の生物は?>

タニシやドジョウ、がいたが今はタニシはおらん、とおっしゃっていた。

 

<麦を作れる田と作れない田はありますか?>

「昔は作りよったけんつくれんことはなかばってん、今は田植えん早かけん作られん」ということだった。また「昔は、はだか麦ばっか作りよった」ともおっしゃっていた。

 

<村の一等田は?>

広沢ではコタロウ、溜山ではイエンマエ(家の前)というところが一等田だったそうだ。

 

<化学肥料導入以前の米の収穫量は?>

3俵ぐらい

 

<直播の田はありましたか?>

直播は昔したことがあったようだったがほとんどが田植えだということだった。

 

<昔はどんな肥料を使いましたか?>

草切山から刈ってきた青い草を腐らせて肥料として使っていたそうだ。これはシタギ(下木)という肥料だそうだ。今は化学肥料を使っているということだった。

 

 

<稲の病気、害虫の駆除は?>

いもち病というものがあり、葉に斑点がついて枯れてしまう病気でこれは消毒をすればかからないとおっしゃっていた。虫除けには菜種油を田んぼに撒くと効果があったということだった。

 

<共同作業はありましたか?>

共同作業は人を雇ったり、かせいを双方で行うテマガヤシ(手間返し)というものが行われていた。手伝いの早乙女というものはいなかったそうだ。

 

<さなぶり(田植えあとの打ち上げ)はありましたか?>

さなぶりは今でもしているということだった。公民館ができる前は家でしていたが公民館ができてからは公民館で行うとのことだった。また田植え前の祝いでおいたちというものもやっていたということだった。おいたちは現在はやっていないとおっしゃっていた。

 

<田植え歌は?>

そういうものはないということだった。

 

<飼っていた家畜は?>

だいたい一軒に一頭牛を飼っていたそうだ。馬は飼っていなかったとおっしゃっていた。牛の餌は草切山や田んぼのあぜから草を取って与えていたそうだ。

 

<牛を動かす時の掛け声は?>

「どうどう」で止まれ、「はいはい」で進め、左右の動きの掛け声もあったけど覚えていないとおっしゃっていた。

 

<ごって牛をおとなしくするには?>

「ごって牛はあぶなかけん手綱ばつけとった」ということだった。また、むちなども使っていたということだった。他の牛にはなにもつけずに操作していたとおっしゃっていた。また、牛はたまに川に入れて体を洗っていたそうだ。

 

<薪はどうやって入手しましたか?>

家の裏の山やむかしは国有林でも取っていたそうだ。

 

<入り会い山はありますか?>

「共有の山はなかばってん富士町からかったとはある」とおっしゃっていた。あと苣木地区にはあるということだった。

<木の切り出しなどは?>

昔は牛に引かせてしていたが(どびき牛)、今は木の値段が安いのでしていないということだった。

 

<炭は焼きましたか?>

炭は自分たちで焼いていたそうだ。しかし収入などはわからないとおっしゃっていた。あと、雇われで炭を焼く人はいなかったそうだ。

 

<かまどを作ってはいけない日はありましたか?>

そのようなことは聞いたことがないということだった。

 

<山を焼くことは?>

杉を切ったあとに焼いて、そのあとに大豆や小豆、里芋などを植えていたそうだ。キイノにはそばを作ることもあったそうだ。しかしそば作りは少なかったとおっしゃっていた。

 

<キイノは民有地、共有地、国有地のどれでしたか?>

民有地だった。

 

<草山を焼くことは?>

「開拓の人は焼きよった」とのことだった。このときに火事が起こらないように祭ったのが火事の神様のべダイテンでべダイテンサンに祭られているということだった。

 

<かご(楮・こうぞ)は取りましたか?>

紙に関してはなんもしよらんとのことだった。

 

<山の幸はどのようなものがありましたか?>

山栗、ささ栗、カンネ、あけび、やまいも(自然薯)など。カンネはだご汁にして食べていたそうだ。

 

<干し柿や勝ちぐりの作り方>

「しよらんやったけんわからん」とのことだった。干し柿の数え方については房ではなかろうかとおっしゃっていた。

 

<食べられる野草は?>

ヨモギ、フキ、セリ、アザミ(女アザミ)、野イチゴなど

 

<食べられない野草は?>

男アザミ、へびいちご、あと名前はわからないが黄色い花が咲くもので食べられないものがあったという。

 

<米の保存は?>

昔はカンカンでそれより前にはわらで編んだかますに入れてぬかの中に保存していたそうだ。米につく害虫でコクゾウムシは少なかったが、つづり虫が多かったそうだ。

 

<ネズミ対策は?>

ネズミは今でも多いということで、ワナのネズミ捕りや猫を飼うことが対処法だということだった。しかし、今の猫はなかなかネズミを取ってこんし、毛が散らばるから飼ってないとおっしゃっていた。

 

<米作りの楽しみ、苦しみは?>

楽しみはやっぱり秋の収穫とのことだった。苦しみは山の中の田は手がいるということと、猪が食べてしまうのでトタンなどで壁を作ったりすることや、あと米が安くなったことなどが苦しみだということだった。

 

<昔の暖房は?>

囲炉裏、火鉢など炭を用いたものを使用していた。掘りごたつも使っていたが現在のような電気こたつやストーブに変わっていったということだった。

 

<車社会になる前の道は?>

山道もあったが今の道と同じ場所にあった。

 

<村にはどんな物資が入ってきたのか?どんな人が来たのか?>

行商人は魚売りが主でその魚も塩漬けのものだった(塩もん)。ザトウさんは昔来ていた。来た時には米やお金などをやっていた。

 

<やんぶし、薬売りは?>

やんぶしは12月15日の祭りの日くらいに古湯の神さんに来ていた。薬売りは置き薬を売りに来ていてトヤマハンゴンタン(富山反魂丹)といっていたそうだ。

 

<病気になった時は?>

病院は杉山と市川にあってそこに行っていたということだった。古湯にもあったが遠いのでそこには行ってなかったという事だった。

<箕を直したり売りにくる人はいましたか?>

箕は自分たちで作っていてほとんどが自家製だったから売りに行くことはあったが買うことはなかったということだった。

 

<米は麦と混ぜたりしましたか?>

米と麦は1:1の割合で混ぜたり、麦が三割くらいの時もあったということだった。

 

<自給できるおかずとできないおかずは?>

昔は自給自足、行商から塩くじらとかは買っていたということだった。

 

<若者たちの集まる宿などはありましたか?>

男だけが集まって公民館で酒を飲んでいたことはあった公民館ができる前は個人の家が会合場所だった。あと年上の人から柿やスイカを盗ってこいといわれることもあった。

 

<食糧難の時には犬を捕まえて食べたりしましたか?>

「そのころはあったやろうね、猫でん食べてんわからんやった。あと犬の肉ば牛の肉てだまされて鍋にして食べたこともあった」とおっしゃっていた。また犬の肉は体が温まるのでおねしょの薬になると聞いたことがあるとおっしゃっていた。

 

<「よばい」はさかんでしたか?よその村とのけんかなどは?>

「よばい」じいさんたちの時代にはありよった、けんかはありよらんかった、ということだった。

 

<共同風呂は?>

3軒の共同風呂があった冬は雪が降ると1ヶ月くらい入れない時があったが屋根をつけることによって冬でも入れるようになったとおっしゃっていた。

 

<恋愛は?>

普通だったということだった。

 

<盆踊りや祭りは?>

12月15日に山の神さんのまつりが白石大神宮で今でもあっているということだった。戦時中はお宮さんを苣木に預けていたこともあったそうだ。

 

<農地改革前の小作制度は?>

「よそん田んなか作ったり、一年作って一反に何分とか地主にやる」とおっしゃっていた。

 

<格差のようなものは?>

土地を持っている人が金持ちやったということだった。

 

<神社の祭りの参加・運営は平等でしたか?>

平等だったということだった。

 

<戦争の影響は?>

今歳が80代の人はほとんど福岡に入隊して兵隊でいった。戦争未亡人はいるが靖国の母はいないといっていた。

 

<村はこれまでどのように変わってきてこれからどう変わるか?>

「村に電気がきてから長くなかそれより前はランプやったこれからはどげんなるかわからんねー悪うなるのが多かやなかかねー」

 

<その他>

「携帯が圏外やけん不便、県会議員にも言いよるけど、どうにもならん。」とのことだった。

 

<生まれ年>

高松努さん 昭和28年生まれ

努さんのお母さん 大正12年生まれ