「歩き、み、ふれる歴史学」現地調査レポート

調査日1223

調査者: 松尾恵理

調査地域:佐賀県佐賀郡富士町畑瀬(嘉瀬川ダム建設により水没予定の地域)

 

     西畑瀬地区 話者:池川福美さん(昭和11年生まれ)、池川益代さん(昭和14年生まれ)

 畑瀬地区の家々は、嘉瀬川ダム建設に伴い元の場所から移転していた。バスを降りた国道沿いから20分程歩いて坂を登っていくと、数軒の新築の民家とお寺のある集落に着いた。早速区長の池川さんのお宅を訪ねると、池川さんは資料や地図を用意して下さっていて、まずダム建設に関連する現在の西畑瀬地区の様子から説明してくれた。       

·         西畑瀬地区の現状

 西畑瀬には平成8年まで31戸が暮らしていたが,平成8年の中頃から移転が始まり89km下流の所に10戸、今回訪ねた地区には5戸が集団移転し、ほか佐賀市、福岡市などに移転が済み、富士町内には16戸が残っている。この地区には畑瀬神社と八幡神社の二つの神社があり、移転の手続きが2年かかってようやく畑瀬神社は9km下流の集団移転先、八幡神社は今回訪ねた地区に移転が決まり、12月末から解体が始まるそうだ。新しい社殿の着工は春頃から7月になるとのことだ。また九州電力川上川第三発電所はどうなるかはまだ不明だが、大正期につくられた石づみの建物で、町が移転・保存の要望を出しているという。当初嘉瀬川ダムは平成14年完成予定だったが9年遅れで平成23年完成に変更になっている。

·         畑瀬の歴史

   昭和31年に小関村、南山村、北山村の3村が合併して富士村になり、東畑瀬と西畑瀬が行政的に同一の大字畑瀬になった。富士町になったのはさらに10年後。                    

·         しこ名について(小字または通称)…「小字になっているもの以外はみんな口で呼ぶだけなので漢字は判らないものが多いのですが」とのお話だった。

§         川・用水井堰(嘉瀬川の筋)の名前(上流から)…その付近の田一帯のことも指す。嘉瀬川はこの辺りの人は『川上川』と呼ぶことが多いそうだ。―「田んぼのことを話すときは『ナカタのだれだれの田』のように言います」「農業倉庫も『イデンクチの下のほう』というふうに呼ぶ」

@     イデンクチ(井手口)…昔はヒャクショウエンテイといった。農民が自分達で引いた農業用水という意味。

A     コウラダ

B     ナカタ(中田)(小字)

C     コウクボ

D     ミヤンフチ(宮ノ渕)…神社のある辺り。

E     ナタドイ

F     タノノ(田野々)(小字)…今は水路が有蓋になって見えなくなっている。

G     サルワタシ…川が狭まっていてその辺りで猿が行ったり来たりすることから。―実際に猿がそこで跳ぶのは見たことがありますか?「それは見たことはないが、猿がちょいちょい部落の中にも来たり、屋根に登ったりしていました」

§         田畑の名前

@     ササンモト(笹ノ本)

A     ヒヤミゾ

B     カキノウチ(垣ノ内)

C     ナカタ(中田)(小字)

D     ジュウノノ(重野々) (小字)…川向こうにもこの名前があるそうだ。

E     ウーナダイ(大名谷)(ダイミョウダニ・小字)…小字として登録されている読みは「ダイミョウダニ」だが「ウーナダイ」としか呼ばないそうだ。―「私ら『ダイミョウダニ』て言葉は使ったことない」

F     チヤノキ(萱木)…山がほとんど。―「戦後、田が何枚かとあとは畑だったのが減反になり、植林した」 収穫は?麦(オオムギ)は?「田当り43俵。日照りのときは全滅でした(天水田)。オオムギはめったに作らなかった。マルムギ、フサギムギといった」 麦はどうしましたか?「フサギムギ(押し麦)はご飯に混ぜたり、味噌やうどんを作りました」

G     テージンサン(天神さん)

H     コークボ

I     マエダ(前田) (小字)…―収穫は?牛は?「7俵〜10俵近くで、町内でも34の優良田です。牛を二頭以上飼っているところはなかった」 麦を作ると地力が落ちますか?影響はどのくらい?「そうらしいです。1俵くらいは減ります。麦は20年代に終わりました。昔、日曜なんかみんなで並んで麦踏みをしました。学校を1時限はやめて行ったりもしました」

J     ドウノシタ(堂ノ下)(小字)

K     タノノ(田野々)(小字)

L     ウドンヤマ(宇土山)(小字)…ここの谷は「宇土川」。―「戦後しばらくはこの辺まで田が上がってきていた」

M     センダガハ(千田ヶ原) (小字)

N     ノノサコ(野々佐古)

O     ウーサコ(大佐古)(小字)

P     ウエンヤマ(上ノ山)

Q     サッパヤマ

R     ユイノサコ(由井ノ佐古)

S     パンサコ

21    カイコンチ(開墾地)…戦中戦後に原野だったので開墾が自由だった。山は3分の1強、ダム用地に残る以外は共有林。―「区切って段々畑のようにしていました。日照も良いです。さつま芋、里芋、かぼちゃなどをつくった。梅や茶を植えたりもして自給自足していた」 連作障害は?「さつま芋、里芋、かぼちゃなどには聞かないですねえ」

§         山地の名前

@     サカイタイ(境谷)…北山村との境。

A     ウーナダイ(大名谷)

B     ムネバタケ(峰畑)…―畑は?「作った形跡もないし見たこともない。戦後すぐから植林を始めたが、ほとんど原野でした。草は牛のえさにしたり田に入れたりした」 植林の仕方は?いつするか決まっていましたか?「挿し木(挿し穂)を作って4月〜5月日本植えです。山開き(ヤマンクチ)は『いつの何時から』と決まっていました。それを待ち構えて、やぶる人もいなかった。『言わず語らず』という感じで。下切りもいつから、と決まっていた」

C     カヤキーバ(カヤ切場)…「40分くらい牛を連れて歩いて行く。途中で休憩する」

D     シタキーバ(シタギ切場)…「弁当を持っていった。持ち帰れない分は稲藁のようにこ積みにしておいた。屋根は10年くらいは葺き替えない。家々で順ぐりなので、同じ年にだぶっても二軒です。葺き替えは皆でしました」 下きりの手伝いは?遠くに行くのは?「手間借り(テマギャー)はあった。遠い所の方が草が伸びるし良い、近場は土地が悪い。一日目に草を刈って次の日は下ろすだけ、というやり方をした」

E     チヤノキ(萱木)

F     ユイノサコ(由井ノ佐古)…「ユリ」→「ユイ」の変化?―ユリがあったのでは?「山ユリはあった」 ユリ根は食べましたか?苦味は?「食べた。戦中戦後に食べさせられました。おじいさんが取ってきて、囲炉裏の灰の中に入れて食べました。苦味はなかった。自分でとりに行ったことはないです」 

G     ハチマンサン(八幡さん)

H     ウエンヤマ(上ノ山)

I     サッパヤマ

J     シボラ

K     ウーサコ(大佐古)

L     カイノサコ

M     トヤ…谷が続いている。自然林が多い。

N     ハチノクボ

O     オチャサン(お大師さん)…お遍路さん(佐賀市周辺の百姓たちが高野岳から来ていた)

P     タケ(岳)…一番高いところ。歩いて4050分かかる。共有林と天然林があり、炭焼きをした。

Q     ウドンヤマ(宇土山)

R     ノノサコ(野々佐古)

S     フジオ(藤尾)…共有林。全部ダムに。

21    センダガハ(千田ヶ原)…天然林の伐採跡地に植林。

§         古賀(居住地)の名前…「昔は7080戸はあった。平人夫さんなどが民家の座敷を借りて住んでいたりしました」

  センダガハ、クンダイ、マエダ、ノンボイ、ウランタイ(裏ノ谷)、テランマエ(寺ノ前)

·         暮らしについて

§          田植え:加勢に行ったことがある。田は67反であまり1町までいかない。3日くらいで終わる。6月中〜7月に入るくらいに植える。遅れるのは(日照りなど)水が足りないとき。 

§          昭和38年の災害(6人が亡くなった)までは東古賀(佐賀北部)(麦を作っていたため7月末まで田植えをしていた)まで加勢に行っていたが、それ以降は機械が入ったので行かなくなったそうだ。 

§          田植えの時期は川沿いのほうが早い。「みんな競争心理があるので田植えが遅くても収量は変わらないんです。若干収穫が遅れますがもうその年の天気任せです」そのときは苗代作りも遅くする。 

§          手間がえもあった。南部のほうに行く加勢は賃金が高く、1213時間働いた。「下駄を買ってきてもらったりもしました」

§          田植え歌は富士町ではあまり聞かない。「そんな心豊かじゃない、一生懸命働くだけ」とのことだった。

§          おやつにキシニライ団子というのがあった。「ぐっと岸を睨んで、畔に腰を下ろして」食べる。自分の家で、ゆでできな粉をつけて作る。

§          はつたおこしは3月くらい、寒い頃から。苗代は梅雨に関係なく作る。「水は富」という言葉が印象に残った。

§          植える前のさなぶりは1昼夜くらい、おいたちは終わってから3日くらい続く。昼から始まり、泊まる人も家に帰る人もいる。テースマエ(亭主米)という当番が決まっていて、お宮のお祭りとは関係なく順番がまわってくる。青年は青年、中老は中老と別れていた。

§          若者:青年宿(→公民館)

§          1年に1(農閑期の秋頃)布団の洗濯や打ち直しをした。ノミやダニは「おったやろうねえ」「まん中は湯気が立っていた」 

§          「私はあまり泊まらなかったが兄はずっと泊まっていた」「酒飲み所ですよ、そこで酒強くなった」「ピーク時は10何人といて、若い者は酒を買いに行かされる」

§          つるし柿をとって来たりもした。「つるしてある一番下が手の届く所で、とった後はわからないようにつめてしまう」そうだ。また、池の鯉を夜中に行って捕まえてきて、酒のさかなにしたりした。「台所に新聞紙をひいてうろこがわからないようにして、内臓は川へ放り込んだ」

§          結婚相手を親が決めたりはしなかった。地区内で結婚することはあまりなく、北山方面など他の地区からとついで来たりが多かった。東畑瀬との縁組もまた「不思議なことにぜんぜん」ないそうだ。「川境というのは何か色々」あるらしく、子どもが橋の上で川越しに石を投げあったりすることもあったという。「向こうがお金持ち、こっちが貧乏」とかいう話もあって、「『はたぜんもんが!(ゼンモン:乞食)』て」言われることも。

§          5町くらい山持ってないと1人前じゃない」といわれていて、結婚には一山売って準備金にした。木材引取税は売った方が納税した。どびきは牛(こって牛)でして、川流しはしなかった。専門の人が地区に一人はいた。キンバ道は特に作らず、牛が入る道までは人手で運んだ。上り坂だけは竹で滑らせたりもした。今はもう、山には入らないそうだ。

§          56km先の夏祭りに歩いて行って、帰りがけに夜這いをする若者もいた。

 池川さんはとても熱心にお話して下さった。途中で奥さんの益代さんも参加して下さり、ますます話が盛り上がった。特に若者の話の時には笑いが絶えなかった。お昼に皮くじらご飯(とてもおいしい!)をいただき、畑瀬のアルバムを見せて下さった。池川さんの名刺には嘉瀬川ダムの完成予定図が載っており、建設を自分の仕事として強い使命感を持っておられる様子を感じた。お話し振りからも、池川さんのダム建設にかける思いが伝わってくるようだった。食後に東畑瀬の様子も話してくださり、池川さんが出かけられるとのことで、私達が東にも行って見ると言うと車で東畑瀬まで送って下さった。

 

     東畑瀬地区 話者:山口寿美枝さん(大正10年生まれ)

 時間が空いたため、東畑瀬地区の様子も取材することができた。服部先生が写真を撮るのについて神代勝利公の墓などを見てまわった後、移転していなかった山口さんのお宅に伺った。山口さんは私達が急に訪ねたにもかかわらず、快く質問に応じてくれた。お話を伺った山口寿美枝さんは関西出身で戦後旦那さんについて東畑瀬にいらしたそうだが、色々とよくご存知で、多くの話を聞くことができた。また、築百数十年の家には土間の跡や機織の糸をかける部分など興味深いつくりが残っていた。

·         暮らしについて

§          田植えは女性の仕事。人を雇ったらご飯の用意をする。昼、3時、晩、お酒の14食に加えて日当を渡した。山の仕事など百姓以外から雇っていた頃の日当は米だったが、百姓を雇うようになるとお金になった。昔は6月いっぱいまで田植えをしていた。田植えは泊まりがけで行った。

§          山の切り出し、炭焼きは男性の仕事。主な収入は米で、土木収入も少しあった。

§          さなぼりは年齢別にあり、泊まりこみだったりもした。鶏をつぶしたりもした。子どもも連れて3日ほど続き、田植えが10日ほど。「田植えが遅れると古賀うちの人が手伝いに来るのが荷(気持ちが)」機械化してからはそういうことはなくなった。

§          干ばつ、不作もあった。山の水は枯れることがあるので川の水を引いたほうが良いそうだ。いでぼりは夏前、春先にした。

§          昔西畑瀬には大地主がいたが、人にだまされて財産を失い、東畑瀬の人がその土地を買ったことが仲の悪さの原因らしい。学校が違うことも原因の一つ。昔は渡し舟があったが水量が多く行き来できなくなり学校が分かれた。

§          結婚は親が決め、恋愛結婚はあまりない。部落内でがいくつかと、小関周辺からもあるらしい。

§          家は部落総出で山から木を切り出して建てる。松材のはりや囲炉裏が残っていた。この辺はたいてい松材を使うそうだ。へっついは長くはもたず、壊れるので毎年修繕した。

§          火は囲炉裏や庭に残しておき、翌朝種火にする。マッチ(戦後は手に入らない)は使わなくてよかった。代わりに杉の木の薄い皮を咲いて使った。

§          農作業も学校へ行くのもはだしではなく、あしなかで歩いた。

§          ザトウが佐賀市から来ていたが、終戦後は来なくなった。米をあげるので米がとれて寒くなってから来る。琵琶は持たず、目も見えている。みを作ったり直したりする人は外から来ていた。川原に泊まったわけではなく、行商人の泊まる宿があった。桶屋はいた。山伏は来なかった。

§          病気になった時は小学校で衛生兵(軍医ではない)が診ていたが、問題になってやめた。戦後小関にアツメと共同で病院をつくる。

§          青年宿:中卒後結婚するまでは、仕事の後に食事をして泊まる。戦後もあった。

§          井戸は部落で45軒。風呂は共同。生活廃水のため、上流から竹でとい(テイ)を使って水を引いた。

 「よそから来た者のほうが却って土地の良さがわかり、愛着がわくもの」と言う山口さんの言葉が印象に残った。今回の調査でダムに沈む村に住む人々のさまざまな思いに触れることができたように思う。