現地調査レポート(藤瀬地区)

 

     地名について

 

 藤瀬の中村はそう大きくない谷が点在し、とても静かで空気のおいしい所だった。それぞれの谷や谷に近い地形はその地域の名前をつけて○○谷と呼ばれていた。峠も同じである。川と言えるのは南東部を流れる嘉瀬川ぐらいで他にはない。滝もない。橋にもそれぞれの地名をつけて○○橋と呼んだ。ため池のことはつつみ(堤)、用水池などと呼んだ。堤というのは「堤防のように水をせき止めているからでしょう」と嘉村さんはおっしゃっていた。藤瀬では全体を大きく三つに分けて、東古賀、中古賀、西古賀と呼ぶ。地籍図上では本村(ホンムラ)、脇田(キワダ)、岳(タケ)とも呼ぶ。この集落は農家が多いため家に屋号はついていなかった。記念物として保存されるような大木や岩が神社などにある。古くからある道には特に名前はついていなかったが、嘉村さんは「昔からある道なら、里道かな」とおっしゃっていた。そして、道についていろいろと説明して下さった。道の種類には、国道、都道府県道、町村道、部落道、里道などがある。この里道とは国有のものであるが、管理は県に委託されている。自動車は通れず、徒歩のみで通ることができる。また、この周辺では植林が盛んで、切り出した材木を運び出す時に利用する林道もある。

 

  エゴ    :佐賀弁では人工的に海まで掘り割った川。

  ウータケ  :棚田があるところ。

  ホンムラ  :地積図上における呼び方。

  メグロ   :目黒谷を中心にその集落を指す。

  ヒャードコ :ハイドコ?

  ウメサト  :ウメサコ?西古賀の方を指す。

  タンコロダイ:だんごろす=だんころびする 寝転がる→坂がある場所か!?

  タンサコ  :パンサコ?あちこちにある。桑坂(クワサカ)のなまりがパンサコ。

  スケザコ  :nothing

  オオクボ  :nothing

  シモダ   :nothing

  コダノウエ :nothing 

 

 

下無津呂の地名の由来

 

長谷 :谷が長い集落であるから。

丸田 :丸い田んぼがあるから。

横道 :幹線道路から横道に入るから。

宮前 :八幡神社の前だから。

尾防田:nothing

桑坂 :nothing

道園 :もと村だったが下無津呂に合併。由来はnothing

北川 :nothing

 

 

     木 森 林

 

 薪は雑木山から切り出したり、間伐材を再利用したりして入手していた。主に自分の山の木を薪にしていた。自分の山を持たない人は入り会い林野(入り会い山)から薪を入手する事が出来た。入り会い林野とはその村の住人となる事によって権利が発生し、その村を去れば権利が消滅する山のことである(下無津呂では)。これは法律上で既定されている。だから、共有林とは異なる。共有林にはそれぞれの持分があるが、入り会い林野には持分が無いのだ。入り会い林野では特別な作業などは無かった。今は雑木山があまり無くなってしまった。カブ山というものが他の集落にはあった。カブ山とは、例えば二カブ持っていたら二日仕事をし、三カブ持っていたら三日仕事をするといったように、持ちカブに比例して仕事などが割り当てられる山のことである。多くカブを持つ人はそれだけ多くの見かえりを手にする事が出来るが、その分出す時に出さなくてはならない。こうした入り会い林野やカブ山の研究に西南学院大学の中尾教授が訪ねてくることもあった(二十年近く前)。木の切り出しはどびきであった。材木が流れるような川は無いため川流しは無かった。今はケーブルで運ぶ。

炭焼きはあった。その炭を売ってはいたが、それほど収入は良くなかった。炭に限らず農林業で収入は良かったと言えるものは無かった。昔から一番貧しいのは農林業だった。ただし山林地主は別だったらしい。昔は地主と小作人がいて、その差は大きかった。今は農地解放でその差も無くなったようだが、嘉村さんもそのとき土地を取られたそうだ。

焼畑は木を切り倒した土地で、一度だけやることがあった。さといも、小麦、小豆など作ったそうだ。その後は杉を植えた。つまり、杉を植える前の年に一度だけ焼畑が行なわれたのである。キイノは個人の所有林だった。キイノと言う言葉自体はよく使うが、どういった字で書くかはよく分からないとのことだった。しかし、おそらくは 切り野→きりの→キイノ と変化したものではないだろうかとおっしゃった。また、草山を焼く事は無かった。

 

     稲作について

 

 田に特別な呼び方があったかどうかを尋ねてみたが特になく、普通に田と呼んでいた。田の種類としては棚田や平地の乾田のほかに深田もあった。山や谷の地形が多いため、田の多くは棚田であり、圃場整備の際は二,三枚の棚田を一枚にしたそうである。また深田は、湿田の中でも隅の一定の場所から常に水が湧き出るようになっているもので、現在はない。

田への水は川や湧水から引いていた。しかし、川はあまりなく谷の地形が多いため、湧水に頼っている。川から水を引く場合は特に頭首工という井堰から引いている。これは近年コンクリートでつくられたものであるが、五十年以上昔も同じ場所から水を引いていた。用水や井堰には固有の名前はなく、○○用水といったように呼んでいる。○○には取り入れ口の土地の名前などが入る。水利権があるため勝手に違うところから水を引くことはできないそうである。湧水に頼っているため水があまり豊富ではなく、藤瀬では特に水争いはよくあった。農民の争いというものは鎌を振りかざすような激しいものであった。それは他の村の争いというよりは、棚田の上の田と下の田とでどちらが先に水を引くかという争いであり、原則として上の方から順に水を引くという決まりがある。特に、中間部で急に畑を田に変えたところが問題となることが多かった。そういう場合、その田には最後に水を引く。

田に水を引く水源には水は少ないが、田に一度引いた水は簡単には乾かないそうだ。普段はあまり水は豊富ではないが、雨が適度に降るため旱魃の経験はあまりないという。また、雨が一度降ると、田にはすぐに水が溜まるため、平成六年の旱魃の時も日がよく照ったためにかえって豊作だった(10a当たり十俵以上)。したがって、雨乞いの経験はない。これについて嘉村さんはこうおっしゃった。「田んぼは人口のダムですよ。一度雨が降ると田んぼにはすぐ水がかかるから。」この地域では田に水が溜まる事を「水がかかる」と言うようである。台風予防の神事なども特になかった。

用水路の中には、以前はハヤという魚がよくいたが、今は嘉瀬川ダム建設の関係であまりいない。藤瀬の方ではハヤをアブラメと呼ぶ。また、現在では嘉瀬川の水を綺麗にするために、町の事業として各家で下水を完備している。そのおかげで洗剤などの川への垂れ流しが無くなり、小魚も増えた。田にはタニシやコエビ、特に深田にはドジョウもいたそうだが、今は農薬を使うためにいない。

昔は草や硫酸アンモニア、過リン酸石灰を肥料として用い、上田では大抵一反当たり六、七俵の収穫があった。質の悪い田では四、五俵だった。現在使用される肥料は窒素、リン酸、カリウムを混ぜた配合肥料であり、下無津呂で一等田である嘉村さんの田では毎年平均九俵の米が取れる。

昔は麦を作っていたが、収穫が割に合わないので今は作らなくなってしまった。ハダカムギは米と三:七の割合で混ぜて食べ、コムギは小麦粉にしていた。コムギの場合、一斗蒔き、一升蒔きの田があり、直播きをしていた。一斗蒔きの田は十セ、一升蒔きの田は一セであり、一セは1aである。昔はそばを作っていたが、どのくらい収穫があったかは分からない。

稲の病気として一番恐いのはいもち病である。害虫は鯨油をまき、稲を揺すって虫を落として駆除していた。今は殺虫剤を散布するのが主流であるが、嘉村さんは殺虫剤を使わず、いもち病の防除薬を二倍まくことで害虫の繁殖を抑えているそうである。

共同作業は個人の田ではあまり行なわれないが、祭田と呼ばれる神社が所有する田の作業は年毎に小字単位で順にまわってくる。その作業のことは「ゆい」「かせい」とは言わずに、「祭田の田植え」「祭田の稲刈り」という。早乙女の制度は無かった。「さなぶり」という田植えの後の打ち上げ会はあったが、それ以外でもよく集まって酒を飲んでいたので珍しい事ではなく、特別な思い出というものはない。田植え歌は特に無いが北山の方にはあるかもしれないとおっしゃっていた。

農作業の労働力として牛は飼っていたが、馬を使っていた人はほとんど見かけなかったらしい。えさは主に原野の青草、米ぬか、冬は干草で、草は田の肥料とする分も一緒に草切山から取っていた。草切山は集落ごとに場所が決まっていたが、今は無い。牛に鋤を引かせる時にかけ声はかけていたが、それだけでは牛は言う事を聞かないので、手綱に頼っていた。その手綱は一本で右に動かす時は右に引いた。ごって牛を止める際も手綱とむちを使った。しかし、おとなしくなるのは去勢した牛ぐらいで、普通は動きを止めても恐くて近づけなかった。牛は近くの小川で洗っていたそうだ。

 

 

     文化や習慣

 

 こうぞは取っていた。しかし、紙すきなどの加工は自分たちではやらず、そのまま売っていた。原野には野栗(ササグリ)があり、これがとてもおいしかったそうだ。カンネは今も昔もあるが、取らないらしい。イノシシがカンネを掘って食べるそうだ。そして、カンネは漢方薬になるそうだ。ヒガン花の根を干して食べる事は無かった。ただ薬草として使うことはあった。食べられる野草はたくさんあった(タンポポやアザミなど)。食べられない野草は毒草であった(ドクダミなど)。ただし、ドクダミ茶にして飲む人はいる。ちなみにトリカブトは無かった。

藤瀬では干し柿をよく作った。干し柿はしぶ柿の皮を取り、縄に吊るし、乾燥させて作った。しぶはタンニンだから紫外線を当てると、タンニンが糖に変わるのだ。そして、日当たりの良い所に吊るすので、干し柿のことを吊るし柿と呼んだそうだ。今は昔と比べて干し柿を作る量が減った。その干し柿は二十五個ずつ吊るした。それを四つ集めた物を一連と呼んだ。

昔の暖房はいろりや薪だった。今も風呂を沸かすのに薪を使う人は数人いるそうだ。病気や怪我の時は診てくれる医者がいた。村には昔から一軒か二軒は医者がいたそうだ。川原やお宮の境内に野宿しながら箕を修理したり、箕を売りに来たりする人はいなかった。ゴザを柳川方面から売りに来る人はいたそうだ。昭和の初期の頃は物乞いをしに来る人もいた。

青年クラブはあった。これは男性だけで構成されていた。青年クラブには長幼の序、年功序列があり、若者頭がいた。力石もあったが、これを片手で担ぐような力の強い人はそうはいなかった。戦後の食糧難の時でも、さすがに犬は食べず、くず米や野菜くずで育てていた鶏を食べていたそうだ。共同風呂はあった。また夜這いもあり、よその集落へ入るためにはその集落の青年クラブに酒を持っていって、挨拶をする必要があった。きちんと挨拶すれば公然と入ってよかった。ただし、狙った家に入れるかどうかは別であった。ただし、嘉村さんはやった事が無いからよく分からないとおっしゃって笑われた。恋愛は自由ではあったが、今のように盛んではなかった。「恋愛は罪悪なり」という時代であったから、堂々とは恋愛できなかったという。ラブレターの交換などはあっていた。

祭りは十二月の第一日曜日に行なわれることに決まっていた。祭などでも地主は上座に座るなどして、地主と小作人の格差はかなりあったようだ。昔の小作制度では、小作人は10aあたり二俵の米で小作料を物納していた。戦争によって夫や息子などの働き手を失った家には、近所から農作業などの手伝いに人が来てくれていたそうだ。

 

 

     むらの変化

 

 むらは新憲法の下で随分と変わった。昔に比べて民主主義が広まり、平等になった。しかし、依然として財産家とそうでない人の差は根強いようで、財産家がいばってる傾向があるらしい。農地は解放したが山林は解放されてないと考えられる。また、「あそこの家は旧家だから・・・」と言って尊敬してみたり、敬遠してみたりといったこともあるそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     歴史について嘉村さんが語って下さった話

 

 満州事変は日本人がしかけたものだ。その中心人物は石原莞爾である。しかし、東京裁判で彼は裁かれなかった。なぜならば、昭和十六年十二月に太平洋戦争が始まったが、昭和十六年四月に石原莞爾は第二師団長を辞任していたためである。その理由は当時の内閣総理大臣である東条英機と折り合いが悪かったためである。東条英機の方が年上だったにもかかわらず、石原莞爾は彼のことを上等兵呼ばわりし、「東条には戦略がない、真実がない、執念がない、哲学がない。あるのはかんしゃく玉だけ」と言っていたほどである。石原莞爾は陸軍大将を上等兵と言うほど頭のいい人物だった。歴史を学べば政治が分かってくる。歴史を勉強すれば、大東亜戦争が侵略戦争だったか否かが分かる。極東国際軍事裁判で侵略戦争と裁かれたが、この時の極東国際軍事裁判所例条例は事後法であった。現在作った法律で過去の出来事を裁くことは普通では認められないが、極東国際軍事裁判は戦争裁判であったため、日本は何も言えなかったのだ。

支那事変は中国共産党の劉少奇副主席がやらせたと告白している。そういった歴史を知ると、どうして江沢民に頭を下げなくてはならないのかと思う。中国共産党は戦争をしかけた張本人だからだ。蒋介石は日本軍と中国共産軍の両方と戦っていた。あなた達はそんなことを習っていないであろう。だから、なぜ正しい歴史を教えないのかと思う。現在の日本では正論が通らない。評論家の竹村健一がいつも言うように「日本の常識は世界の非常識」なのだ。集団的自衛権は行使できないという主張がある。しかし、国連憲章の五十一条には、各国が持つ固有の権利として、自衛権の中には個別自衛権と集団的自衛権がある、とある。だから、集団的自衛権は日本が持つ固有の権利である。だが、政府は「権利はあるが行使はできない」という矛盾した理論を打ち立てている。そして、イージス艦を派遣することは集団的自衛権に触れはしないかと言っている。権利があるならば行使できるはずであろう。人権も権利があるから尊重されている。人権があるのに尊重されないならば、人を殴ってもいいということになろう。もちろん、人を殴ったら人権侵害である。このように矛盾したことを政治家が言っているからおかしなことになる。このような矛盾したことになった原因は、昭和二十九年の自衛隊発足の際に参議院で出された「自衛隊は海外に派遣させない」という決議である。しかし、日米同盟を結んでいる以上、日本は自衛隊を海外にも派遣しなくてはならない。日本が日露戦争に勝利することができたのは日英同盟のおかげである。ロシアのバルチック艦隊はイギリス領の港に入港できなかったため日本軍にやられたのだ。現在、日本は日米同盟を結んでいる。アメリカが戦争をするならば日本は協力すべきだ。なぜならば、日本は核兵器を持たないためアメリカに守ってもらうように頼まなければならないからである。北朝鮮からテポドンが日本に打ち込まれたらどうやって防げばよいか。だから、今TM構想というものがある。これは迎撃ミサイルを日米共同で開発して、配備しようとする構想である。ところが、また政治家の中には集団的自衛権に触れると主張する人がいる。「今 有事に備えよ」という本で「今の政治家には実戦の経験がある者はいない。野球にすれば、外野席からガーガー言っているだけだ。」と書いてある。この本はすばらしく良い。今の憲法がどうしてできたかも書いてある。

 歴史を勉強すれば、今の政治が正しいかが分かってくる。日本国憲法の良かった点は天皇制が守られたことである。マッカーサーが日本国憲法を作らせたのは天皇制を守るためであった。天皇制を守れない場合、日本人は暴動を起こす可能性があった。もし、暴動が起きたら、その隙にロシアが北海道に進駐し、北朝鮮やドイツと同じように、日本が分断国家になりかねなかったのだ。昭和二十年に昭和天皇はマッカーサーにお会いになり、「東条以下全員に戦争責任はありません。責任は僕にあります。僕を処刑して下さい。」とおっしゃった。それで、マッカーサーはこんな皇帝が世界のどこにいようか、金銀財宝を持って亡命するやつばかりなのに、と自分の体を投げ出した天皇に感動した。また、昭和天皇はたくさんの書類をマッカーサーに差し出し次のようにおっしゃった。「これに僕の財産が全て書いてあります。これを差し上げますから日本の国民に食事をやって下さい。助けて下さい。」すると、マッカーサーは「これほど人格の高い天皇はどこにもいない。絶対に守らなければならない。」と言って、日本国民を助けることを誓ったのだ。こうして日本は分割されずにすんだ。

 ドイツや朝鮮をみれば、日本が分割されていたらどうなっていたか分かるであろう。社会民主党(現在は民主党だが)の北海道知事をしていた横路孝弘は当時の北部方面総監の志方俊之に「もし、ソ連軍が北海道に攻めてきたら、武器を捨てて下さい。」といった。自衛隊が武器を捨てれば、ソ連軍は無血上陸し、北海道民は傷付かずにすむという理論であった。そこで志方俊之先生はソ連軍が北海道民の人権を侵すようなことがあったらどうすればいいかを尋ねた。昭和二十年八月九日に満州に攻め入った七十万人のソ連軍は、日ソ不可侵条約があるにも関わらず、大勢の人を殺し、大勢の女性を強姦した。女装では強姦されるため、満州から帰って来た女性はみんな坊主頭に男装だった。そういったことが北海道で起きた場合どうすればいいか尋ねたのだ。横路孝弘は黙っていた。北方四島も日ソ不可侵条約が有効だった期間にソ連が攻め込んだものである。しかし、ソ連は北方四島を日本に返さない。悔しいとは思わないのだろうか。北方四島は日本の領土である。そういったことを今の人には先に勉強してもらいたい。

 今の憲法の悪いところはつまらないところがたくさんあることだ。例えば、憲法九条の戦争放棄のために、戦後五十年経っても自衛隊が軍隊になれないことだ。世界で軍隊を持たない国はほとんど存在しない。世界の中で軍隊を持たない国は四国ほどの小さな国くらいである。日本が軍隊を持つことに反対しているのは、日本を共産国家にしたい社会民主党と共産党である。日本を共産国家にする上で邪魔になるのは自衛隊であるからだ。民主主義国家が支持されるべきである。北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国のどこに民主主義があろうか。北朝鮮に民主主義はなく一党独裁政治だ。だから、日本には自由があり平等だが、北朝鮮には自由がなく平等ではないのだ。昔の殿様政治と全く同じである。この反省から日本は民主主義に生まれ変わったのだ。欽定憲法では民主主義ではなかった。民主主義は今の憲法の功である。しかし、この憲法のために国民ができ損なったのも事実である。だから、早く憲法を改正すべきだ。アメリカ大統領のアイゼンハワーは「あんなバカな憲法を日本はまだ持っているのか。」と言った。そういう風にアメリカは日本をみている。アメリカは占領憲法だから早く改正すべきだと考えているのだ。カーター大統領の補佐官だったブレジンスキーは「自国の防衛を他国に任せている国など独立国ではない。」と言った。独立国ならば自分の国は自分の軍隊で守るべきだ、という考え方である。あなたを守るのはあなただ。他人はあなたを守ってくれない。同じように、日本を守るのは日本人しかいないのだ。ならば、日本人は自ら武器を持ち、立ち上がらなくてはならない。「国」の旧字体である「國」という字は領土の中で武器を持つ人民を表している。九州大学の林田かずひろ教授が「主権は外交である。外交は武力である。武力のない外交は負け。」と言った。また、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトの言葉に「棍棒片手に猫なで声で外交をすれば、大体成功する。」というものがある。片手で握手、片手で拳銃ということだ。つまり、脅しと猫なで声が外交の基本ということだ。こうしたことからも日本は軍隊を持つべきなのだ。

 その叔父のセオドア・ルーズベルト大統領はロシアに戦争で勝った日本をみて、黄色人種が白色人種に勝つようなことがあってはならないとし、明治三十九年に「オレンジ計画」というものを立てた。これ以来、アメリカの日本たたきが始まった。大正十年にワシントン会議で日本は日英同盟を破棄させられた。さらに、ワシントン海戦条約で主力艦の保有数をアメリカ五、イギリス五、日本三にされた。ロンドン海軍軍縮条約で、補助艦についても日本は制約を加えられた。そして、昭和六年に満州事変が起こり、昭和七年に満州国ができた。昭和八年には日本は国際連盟を脱退し孤立した。昭和十二年七月七日に廬溝橋事件が起きて、中国共産党が日本軍と蒋介石軍の双方に弾を撃ち込んで戦争をさせた。これがシナ事変の始まりである。昭和十五年八月に日米通商航海条約が破棄され、昭和十六年八月には完全にアメリカからの石油やくず鉄の輸出が止まり、ABCD包囲陣が完成した。こうして日本は立つに立てなくなり、昭和十六年十二月にアメリカに宣戦布告をして攻撃した。しかし、アメリカは日本がそうすることを全て知っていた。だから、大東亜戦争を開始させたのはフランクリン・ルーズベルトである、とアメリカの歴史学者ビアードは主張している。しかし、今日に至るまで日本だけが非難されている。五十年経ったから、アメリカの公文書図書館にはこうした資料がたくさんあり、日本の学者による研究も進んでいる。こうして正しい歴史を認識し、正しい教育をしてもらいたい。

 

 

 

 

話者:嘉村 又左エ門(大正八年生まれ)

   吉富 嘉太郎 (大正十五年生まれ)

 

調査者:教育学部 1ED02036Y 田中 美誓

    教育学部 1ED02005E 諫山 建太郎

 

調査日 2002年12月21日(土)

日程

 8:15  六本松集合

 8:30  出発

10:30〜11:00  吉富さん宅へ 話を伺う

11:00〜13:00  嘉村さん宅へ 話を伺う

13:00〜14:00  昼休み

14:00〜16:20  引き続き話を伺う

16:30  マイクロバスに合流

18:30  解散

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

服部教授へ

 今回の調査では最初に藤瀬に住む吉富さんのところへ伺いました。ところが、吉富さんは若い頃はあまりこの地域に住んでいらっしゃらなかったということで、この地域に詳しい嘉村さんを紹介いただきました。しかし、嘉村さんは下無津呂の方でした。せっかく紹介していただいた手前、「いや、下無津呂の話はいいです。」とは言えませんでした。ですから、嘉村さんのお宅でお二人から話を伺いましたので、下無津呂と藤瀬の情報が入っています。

また、嘉村さんは佐賀県文化団体協議会常任理事及び富士町文化連盟会長をされており、教育長もされていたたいへん博学な方で、調査者が教育学部だったということもあり、歴史、教育などの話をかなりしていただきました。嘉村さんは地名などの調査よりも教育や歴史について学ぶべきだ、と思ったらしく地名についての話よりも歴史について熱く、熱く語って下さいました。私たちのためを思って語って下さっている手前、「いや、もう歴史の話はいいです。地名の話などを聞かせて下さい。」とは言えませんでした。実際、嘉村さんの話はとても興味深く、教育学をもっと専門で学び、知識をつけてから伺いたいと思いました。集合時間ぎりぎりまで話を伺いましたが、70パーセントは歴史と教育の話でした。よって、地名についての情報が少々少ないとは思いますが、ご了承下さい。

今回の調査では、実際に人から話を聞いて情報を集めるという体験を初めて本格的にしました。話を聞く難しさや気の使い方など、とても社会勉強になりました。こうした経験を専門の分野でも活かしていければ、今回の現地調査はとても有益なものになると思います。