「佐賀県 厳木町 天川(中村・山口)」

 

 

《お話を伺った人》

☆山田利幸さん(大正11年3月15日生まれ)

草場準吉さん(昭和4年3月29日生まれ)

草場勝美さん(昭和15年4月28日生まれ)

 

『天川の地名及びその関連行事について』

《中村》

若宮神社…元々あった若宮大明神の他、辨財天・山神社(元は藤原の山中にあった。)・通石権現(元は通石権現山の山頂にあった)・祇園社(別名八坂社。元は天聖寺(←榎之元に今もあるお寺。)の山中にお堂があった)・矢房神社(もとは原平の山中にあった)・九郎社(元は原平の山中にあった。)がある。こうして神様の祠を一ヶ所に集めることを「神よせ」というそうです。

川神様(トンコロリン流行のため、病気が消えることを願って作られた。供え物をする。)

白子観音(いわれは不明)

参禅溝(棒使いの稽古期間中夕方ここで身を清めた。)

妙見大菩薩(草場達治さん宅にある。)

《山口》

矢落平(阿蘇惟直にまつわる伝説がある。臣下がたくさん死んだところ?)

掛観音(ワニブチに掛観音との名が見える。)

七郎森(七郎様と呼ばれ、山中にある。掛観音の近くだそうです。)

石堂様(たんぼの畔にあったらしい。でも現在はないそうです。)

《その他》

天聖寺(榎之元にあるお寺。元は真言宗だったのをお寺移転とともに曹洞宗に改めたそうです。)

白玉大明神(天聖時境内にある。浜玉町鏡神社からの分霊を言う。)

金毘羅様(天聖時境内に祭ってある。助命祈願に女の髪を切ってあげると命も助かるという言い伝えがある。)

祐徳院様(天聖寺上道路端にある。)

榎の観音(榎之元にある。木造の観音様。)

高札場(現・草場勝美さん宅の前の道路広場。庄屋さんが御触れを町の皆に呼んで聞かせた。)

榧の木(草場勝義さん宅の庭にある。町天然記念物。)

庚申様(高札場の近くにある。奉建立青面庚申金剛善神。)

六面地蔵(高札場の近くにある。庚申様と並んで建っている。)

大日如来(高札場の近くにある。牛馬の神様といわれている。)

糀屋(現・草場準吉さん宅。庄屋の側。)

水車(現・草場重義さん宅。あまり使っていない。)

矢房様(榎之元にあった。今はない。矢落平に移った。)

杖取り仏(ここよりさきは道が平になっているため、厳しい山道を登ってくるために使っていた杖が必要なくなるためこのような名前が付いた。)

天川小学校跡(田久保にある。)

休場(いけば・いけえば。田久保にある。)

矢落観音(田久保にある。観音像は2体あって、古い方は矢武佐様と呼ばれているそうです。“矢武佐様”という名前は流鏑からきているそうです。)

天神様(田久保にある。田久保の氏神様。)

本立寺(元は田久保にあった。日蓮宗のお寺。)

七面大明神(本立寺境内にある。)

辨財天(別府へ通じる村はずれの道端にある。悪疫退散を祈願。)

番屋ノ元(人の出入りが多いので、見張っていたところ。関所のような所だったそうです。)

田久保家先祖之碑(石塔。田久保のご先祖様。毎年祭っている。)

御滝(昔は病気平癒を祈願して作られたものらしい。今はない。)

水口寺屋敷(天聖寺の前身・臨済宗の道場後。)

天川区墓地(墓地、という名前はあるけれど、お墓はないし、あったような形跡も、あったという話を聞いたこともないそうです。名前だけ、ということでしょうか?)

陣の平(阿蘇惟直の戦の地。福岡のどこかで戦をしていた阿蘇氏が天川まで落ちてきたという。激戦区だったらしい。昔は祠があった。また、穴があって入れるようになっているらしいです。)

五人塚(同じく阿蘇氏の戦の場。家臣が多く戦死した地らしい。)

夜泣き坂(同じく阿蘇氏の戦の場。夜中に人の泣き声がするということで、この名前がついた。)

太刀洗い川(同じく阿蘇氏の戦の場。通称バイラ山にある小さな谷。)

氷山(扇山の雪を集めてきて、野菜などの保存に使った。)

乙羽ヶ滝(音が鳥の羽ばたきに聞こえることから?女の人が身を投げたらしいです。)

 

 

 

 

 

『たんぼについて』

幕末の頃の新田開発のとき、コウ(皆で作業することらしいです)で田を開きました。山の土地的に厳しい場所の土地所有者が5,6人のグループで、山に田を開く“フシンゴウ”も行われたそうです。モッコや鍬を用いての作業なので、1,2人ではできなかった。戦後の昭和40年頃から機械が導入されました。

 

米は、昔は水稲が中心でした。水路は天川川の本流から引いていて、うんと上の方から引いてこなければならず、水が逃げないように見張っていなければならないので大変だったそうです。

また、天川は水はそこそこ豊富だったので、水はちゃんと分け合っており、水争いといった類のものはなかったそうです。(隣町ではあったらしいですが。)雨乞いは昔はしていました。

水稲が主力だったので。雨乞いの場所は天山(徒歩で一時間かかるところ)で、タイコ・ハネ・フエを用いてお囃子をしたそうです。神社にお参りに行ったり、お供え物をしたりと、水不足は本当に切実な問題だったようです。

田植えは、台風の時期を避けて早めに(6月下旬頃までに)行っていたそうです。現在は5月の20日頃までに終わらせているとのことでした。

たんぼの良し悪しは天川内ではほとんど差がなかったそうです。昔は「ヤマボシ」というお米を作っていて、反当200キロ位だったそうです。良田・悪田間の差は60キロ程度だったとのことです。肥料は、牛糞・たい肥・窒素肥料(少しだけ。)を使っていたとのことでした。因みに、現在は「コシヒカリ」を作っていて、これは反当400キロくらい取れているそうです。

害虫はウンカが多く、2・3日で広がってしまいます。うんかの駆除は田んぼの水の上に薄く灯油を張っていたそうです。水面にとまったウンカは、灯油によって動けなくなり、死ぬのだそうです。

田植え・稲刈りは共同作業だったようです。「ゆい」は山の方では「いい」と言っていたそうです。早乙女さんは来てなかったし、行ってもいなかったとのことです。

さなぶりは、むかしはグループごとでやっていたけれど現在は老人会でしか行われていないそうです。

田植え歌は一応あったらしいのですが、歌ったことはなく、ほとんどは人と話しながら行っていたそうです。

田植えの時期は、女の子供は子守りをさせられていたそうです。その子守りも共同作業で、近所の家の子守りにも行っていたそうで、その家の親が帰ってきたら、子守りに来ていた女の子が赤ん坊と一緒に泣いていた、というようなこともあったのだそうです。

もみすり歌もあったそうなのですが、歌ったことはないそうです。

もみすりは、2メートルくらいあるうすにとってのような棒を取り付けて、それを皆でまわす・といった具合で行っていたそうです。

ご飯は、麦と混ぜていました。ハダカ麦の場合、先に麦だけ炊いて、お米が炊ける頃に混ぜていたそうです。(はじめから混ぜて炊くと麦が(芯が残って)ブツブツになるため。)一方、オシ麦の場合は、はじめからお米と混ぜて炊いていたそうです。

お米だけでは満足な収入が得られないため、出稼ぎに行っていたとのことです。

 

*天川は、山野で田を開く土地もあり、谷があったので水も手に入れられたので、水田を開くことができたそうです。でも、そういった土地や水が手に入らない“ヒロセ”では、あまり水田が開けず、大正までは120戸で50町歩の土地しか(水田が)ありませんでした。そのため、(ご飯の)米と麦との割合を3:7ぐらいにしないと生きていけませんでした(「“ヒロセ”の米はキンナカ(黄色い)米!」とおっしゃっていました。麦の割合が多いため黄色く見えるそうです)。(“ヒロセ”の人は)炭坑の方へ野菜を売りに行って生活していました。みかんを栽培し始めてからは、(羽振りが)すごくよかった。今は、外国物などで(“ヒロセ”のみかんの)値が下がり、(生活が)大変。

 

『畑について』

野菜については、自給自足できている家は天川の3分の1くらいなのだそうです。

主に栽培されていた作物はソバ・ムギだそうです。畑の周りには、カゴ(良質の和紙の原料)を植えていたそうですが、現在は作っていないとのことでした。

焼畑は今も昔も行っていないそうです。

終戦後(昭和24・25年くらい)、それまで野原だったところに、商業目的でスギ・ヒノキの植付けをはじめ、林業が一時盛んになったそうです。山を維持し、水を守るために計画的に伐採されているそうです。植林には、国・県・町からの助成があり、植林でできた林は“水源カンヨウ保安林”とされていて、税金が免除されているとのことです。ただ、今現在は輸入木材が主流のため、林業は芳しくないそうです。

木を切ったところは、ヤマイモやサトイモを植えているそうです。

それ以前は炭焼きを行っており、木炭はよく売れたそうです。

炭焼きは、水の近くの平地で、5〜6人くらいで行うといった共同作業でした。かなり長い間行われていたそうです。

 

↑箕。穀物の選別用具だそうです。箕に穀物(葉っぱ混じり)をいれ、さっと持ち上げて、下ろす。そうすると、軽い葉っぱ類は下からの風(風圧?)によって浮き上がり、飛んでいくのだそうです。

 

『家畜について』

飼っていたのは牛だとのことでした。

牛のえさは、田植えの時期は、田んぼの横の草っぱら(田んぼの横の道のところとかも?)の草を食べさせ、田植えの時期が終わった後は、区の土地(野原;200ha)に牛を連れて行って、草を食べさせ、その後草を刈って牛の鞍に(飼った草を)つけて帰る、といったことをしていたそうです。区の土地へは1日おきくらいに行っていたそうです。

 

牛の駄綱(シュロの木の皮をはいで作ったもの。水を吸っても重くならず、腐りにくい。共同で製作。)は上図のようにもって、右へ行かせたいときは綱を引きながら「キショ」といい、左へ行かせたいときは綱で背中(脇?)を叩いて「トー」といったそうです。

牛を手なずけるにはうまいものを与えるのが一番だそうです。米ぬかや、麦、野菜がいいそう。そしてしかる時にはちょっとしかるといい、油断してはいけない、とおっしゃっていました。因みに、やせた牛は気が荒いそうです。

 

『入り会い山について』

共有の山は何ヶ所かあったそうですが、そこで何をするわけでもなく、ただ“共有山”とだけ言われているそうです。(区の山とは別のもののようです。)

 

『川の魚について』

昔は、天川川にはたくさんの魚がいたそうです。あぶらめ・はや・どんこ・あかばや・やまぶきばや・あゆ(放流)、など。うなぎもたまにいたそうです。しかし、ヤマメを放流したため、上記の魚たちはすべてヤマメに食べられてしまい今は生息していないそうです(「ヤマメの天下よ。」とおっしゃっていました)。でもそのヤマメも最近はほとんど姿が見えないそうです。

また、昔は沢カニが天川まで上がってきていたそうですが、ダムができたせいで上がってこられなくなってしまったらしいです。

毒流しは終戦後何回かあったそうですが、ほとんどしていないそうです。今はやってはいけないことになっているそうです。

殺虫剤などの関係で、蛍がかなり減ってしまったそうです。

 

『お菓子について』

お菓子を買って子供に与える余裕はなかった、ということでした。

ひもじい時はサツマイモをサイノメ切りにして、小麦粉と混ぜて蒸したものや、ソバダゴ(そば団子)、きなこ団子を作って食べたり、自然のものでは、ヤマグミや木苺、野栗(さか栗)などを食べていたそうです。また、じぞうがしというものも食べていたそうです。

野栗は、女の人が取りに行っていたそうです。多い時には一度に一人の人が20升くらいの野栗を取ってきたらしいです。(野栗のほうが普通の栗よりおいしいとのことでした。)今は、あまりないそうです。

カンネは、食べる家だけ作っていたそうです。(おやつよう)

 

『干し柿について』

干し柿は、個人個人で作っていたそうです。(共同ではないとのことでした。)家族用でした。たまに売る人もいたそうです。

 

『野草について』

ゼンマイ・ツワ・フキなどがたべられ、水の近くに食べられない(食べたら死ぬ)野草が多いそうです。

山の幸は、きのこがあったそうです。

 

『お米の保存方法について』

お米を敷物にしいて乾燥させた後、米俵に入れ、周りにもみをくっつけて「もみ蔵」と呼ばれるたて1メートル×横1メートル×高さ2メートル弱に入れていたそうです。米俵のまわりにもみをくっつけるのはねずみ対策だそうです。

 

『お米作りの楽しみ、苦しみについて』

お米がいっぱい取れたらうれしいし、楽しいとおっしゃっていました。

道がせまく(牛と人がやっと通れるくらい)、田んぼまでが遠いのが苦しいとおっしゃっていました。

 

 

 

『暖房について』

天川は家のつくりが夏向きのため、冬はとても寒いそうです。(また、着るものもなかったそうなので、冬は辛かったでしょう。)一家全員同じところに集まって、囲炉裏を囲んで暖を取っていたそうです。

雨のときは、蓑を着ていたそうですが、長時間着ていると雨で濡れてしまって着ていないのと大差ない状態になったそうです。

 

『車について』

天川に車が入ってきたのは終戦後の、昭和35年から40年くらいのことだそうです。トラックは昭和34,35年頃に入ってきて、テーラーが入ってきたのは昭和42,43年ことのことだという話でした。

 

『お祭りについて』

「祇園社のお祭り」7月2425日にあり、昔はお囃しだけをしていたが、最近(10年くらい前)から山車を始めたとのことでした。部落内を練り歩くのだそうです。人手不足のため、子供も参加させているそうですが、今は子供も減ってきているため行事の継続が困難になってきているのが悩みだそうです。

「天衝舞(浮立=神様に踊りを捧げる)」毎年秋の彼岸の明けの日(9月23日)に、神社の境内でタイコ・フエ・カネ・モラシ(ツヅミ)を使って音楽に合わせて踊っていたそうです。昔は青年団でしていたそうです。(34歳くらいまでの人たち)今は青年が少なく、人手が足りないので子供も参加しているそうです。

「亥のこ祭り」秋の、お米の収穫後にしていたそうです。楽器や山車を使うような大規模なものではなく、お酒を飲んだりと、ごく内輪のもののようです。(イノシシはすごく昔にはいたけれど、いなくなって、また最近になって外から入ってきたそうです。)

 

『世帯数について』

天川の現在の世帯数は72個くらいで、世帯数自体は昔からほとんど変わっていないそうです。(近隣の村は世帯数が激減しているそうですが。)

ただ、世帯数が減ってないからと言って、人が減っていないわけではなく、やはり人不足(子供不足)は深刻な問題なようです。(「あと10年したらだいぶ農家が減るだろう」とおっしゃっていました。)

 

 

 

『電気について』

天川には、昭和5年に電灯がきたそうです。

照明器具の流れは、やきものに油を入れて火をつける→ランプ(ただし、ランプがあるのはお金持ちの家だけで、普通の家はカンテラだったそうです。)→電灯

ランプのほやみがき(ランプの内側を磨くこと)をした、と草場勝美さんがおっしゃっていました。

 

『屋根について』

昭和24年、それまで茅葺きだった屋根が瓦屋根になりました。一軒一軒屋根をはり変えなければならないので、若者10人くらいで瓦を運んで屋根にのせる、といった共同作業だったそうです。10人でも、一軒分の屋根を張り替えるのは決して楽な作業ではなく、1人100枚くらいの瓦を運ばなければならなかったそうです。屋根が茅から瓦に変わったことで、名前も「茅工」から「瓦工」に変わったそうです。

 

『青年宿について』

青年宿には、15〜25歳ぐらいまでの男性だけが集まっていたそうです。しかし、そこではとりたて何もしていなっかったそうです。集まった人の中にはすでに結婚している人もいたとのことです。

まだ結婚していない人のなかには、友達の家に1年間ぐらい部屋を借りてそこへ布団を持っていって、朝になると仕事へ行き、夜食事をしてからそこへ帰るという生活をしている人もいたそうです。

その中での一貫した規律はなく、数人の仲間の中で規律を作り、それを破った者は板張りの床に正座をさせられ、説教され、足がしびれて痛くなってくずそうとすると、「くずすな!」と言われたそうです。その規律はなかなか厳しかったそうです。

制裁と呼べるほど厳しいことはなく、罰としてすでに書いたように正座をさせられる程度のことしかなかったそうです。

 

『動物について』

また、戦後の食糧難の時には若者がどこからか犬を捕まえてきて、それをすき焼きやナベにして食べていたそうです。「犬はおいしい。高級品だ。」とおっしゃられました。

*犬はおねしょの薬だという話も聞いたことがあるそうです。

犬の他にもウサギ、ムジナタヌキ、きつね(やわらかい)なども食べられていたそうです。タヌキやウサギは罠を仕掛けて捕まえていたそうです。

昔は山に猿もいたそうですが、植林などをして猿のえさになるものが少なくなり、最近では、いなくなったそうです。

 

『寄宿舎について』

中学のとき、天川には中学校がなかったので、寄宿舎に月曜日から金曜日までいて、土曜日に帰ってきていたそうです。寄宿舎では、(物資が不足していたので)野菜を作って食べていたそうです。親がお米を(1週間で)2升くれたので、そのお米と魚を交換してもらっていたそうです。

『若者について』

隣村の若者とは仲が良く、けんかなどはしたことがないそうです。天川の若者も隣の村へ行くこともあったそうです。他の村から人が来るのは村の祭りのときが多く、娘と知り合いになるために来ていた人も少なくなかったそうです。実際に、祭りで知り合い、結婚した人もいたとのことです。天川の中でも、祭りのときに知り合うことがほとんどだったそうです。

 

『力石について』

力石はあったそうです。しかし、それは力を競うといったようなものではなく、大きな石を持ち上げたりは込んだりといった、どちらかというと遊びに近いものだったようです。(遊び、というと語弊があるかもしれませんが。)

 

『共同風呂について』

共同風呂は、榎之元に60人ぐらい入ることができるところが一ヶ所あったそうです。しかし、毎日行くということではなかったそうです。

 

『格差について』

格差はなかったそうです。その理由の一つには、天川は天領だったので、「他のところとは違う。」というプライドがあったとのことです。中には、百姓でも刀を差している人がいて、めったなことはできないというのもあったそうです。

祭りの運営・参加も村全体でおこなっていたとのことです。

 

『病気について』

病気になった時は、村に一人だけいたお医者様に診てもらっていたそうです。

 

『戦争について』

山田さんは昭和17年の正月から約5年間兵隊にとられ、静岡の連隊に入られました。内地には広島に4日、それから南京で教育を受けられました。そのころには名金ももう落ち着いており、大学があった場所に軍隊が入ったそうです。

その後、山田さんは衛生兵として、長江のあたりの漢口の近くのキュウコウへ行き、病院関係の仕事につかれました。そこでは、毎日たくさんの病人が来て、患者の寝る場所もなく、廊下に寝せていたそうです。6病棟に500〜600人が収容され、内科の患者が多く、主にチフスや赤痢が原因で毎日10〜20人の患者が亡くなっていたそうです。

初めは火葬していたが、すべての死体を葬る余裕がなくなると、指だけを火葬し、その指の骨に名前を書いて送り、それ以外の部分は穴を掘り土葬していたとのことです。

終戦は中国で迎えられたが、病院関係の仕事だったため、すぐには帰ることができず、1年後に帰国することができたそうです。しかし、初めに着いた佐世保では赤痢が流行っていたために、船から下りることができず、鹿児島へ行きそこで船から下りたそうです。日本の土地が見えたときは、本当にうれしかったそうです。

山田さんの他にも天川からたくさんの人が徴兵されたが、同期では山田さんお一人だけが徴兵されたそうです。また、終戦後に帰ってこなかった方もたくさんいらっしゃったそうです。

 

『スキー場について』

最近スキー場ができてから冬場にスキー客がたくさん天川を通る人が増えたそうです。その中には、雪が降っているのはスキー場だけと思っている人やチェーンを持っていない人、持っていたとしてもチェーンの使い方を知らない人たちもいて、そのような人たちが地元の人たちでさえ用心して通る道を通って溝へ落ちたり、立ち往生したりして、近所の人から苦情が出たそうです。そのため、今では、長崎方面から来る人が通るだけで、スキー客はあまり通さないそうです。

天川にはたくさんの雪が降り、昭和43年には1メートル以上積もる大雪があり、そのときには田や溝、道路など高さの違うところも、天川川以外は一面ゆきで真っ白だったそうです。

昔、ある人が正月に買い物に行き、帰ってくる途中に、家の近くで亡くなっているのが見つかったという話もあるそうです。