【東松浦郡厳木町天川】 東松浦郡厳木町天川 現地調査レポート 実施日 平成15年6月(日) 理学部数学科 1SC02236 野間 久史 比文研究生 5CS03021 益森 勝裕
話者: 山田 利幸 氏(T10,3生) 草場 準吉 氏(S4,3生) 草場 和則 氏(S15,4生)
〜はじめに〜 佐賀県東松浦郡厳木町は佐賀県のちょうど中央部に位置する内陸部の小さな町だ。福岡市から長崎自動車道を走り一時間半。天川はそこから曲がりくねった山道を登ったところの標高五百メートル以上の高地にある。後で聞いた話だが、下の方(厳木の役湯がある辺りをそのように説明された。)とは4度は温度差があるらしい。夏は扇風機など必要ないらしいが、冬は大雪が積もることもあるという。「地球温暖化、大歓迎よ」と私の正面で話をしてくださった草場和則さんは陽気に笑った。 ちょうど梅雨どきでもあり前日は雨が降ったのだが、この日は天気にもめぐまれ私たちは胸をなでおろした。バスを降りると青空さえ見えて、私はなんだかうれしくなった。美しい自然だった。ちょうど田植えの終わった時期だったのであろう、田んぼにはまだ小さな若々しい稲が見えた。季節柄きれいなあじさいもたくさん咲いていた。福岡の都会では決して見られない風景に私は少し故郷を思い出した。 そこから、前もってお話を伺うお願いをしていた草場和則さんのお宅へと向かう。目印とされていたカヤの古木のところを左に曲がると、四つの石碑があった。事前の調査では 「六地蔵」と聞いていたので「四つしか石碑がないのはおかしいな」と思いながら、草場さん宅に到着した。中に通してもらうと、すでに草場和則さんをはじめ三名の方が最初の部屋で待っていた。この方々が今回の聞き取りで協力してくださる方々だった。 山田 利幸 氏(T10,3生) 草場 準吉 氏(S4,3生) 草場 和則 氏(S15,4生) 三名ともにかつて天川地区の区長を務めていた関係から、地域のことに詳しく、今までも東京の大学をはじめ多くの地域調査に協力された経験をお持ちとのことだった。挨拶を済ませて、調査をはじめようとしたところで、実は私たち以外の二つのグループもお三方にお話を聞くことになっていたことがわかった。われわれのグループがたまたまいち早く草場和則さんのお宅に到着できただけのことだった。 「それなら、みんな一緒にしよう。ここよりも公民館のほうが広いので、今からそこに移動しよう。」と草場和則さんが提案され、一同、公民館へと移動してそこで話を聞くことになった。公民館への道は広い県道沿いではなく、自動車の対面通行は難しそうな細い路地を通っていった。「昔の街道です。」と草場準古さんが教えてくれた。 「六地蔵も旧街道に面しているのですね。でも、石碑は4つしかないのに、なぜ六地蔵なのですか。」とたずねると、四つの石碑は「庚申様・六面地蔵・大日如来・稲荷」の石碑であることを教えてもらった。公民館には10分もかからないうちに到着し、そこであらためて挨拶して、今日の調査目的について話をした。
1. 天川地区全体の小字について 『厳木町の地名』(以下、『地名』と略記)には、天川地区の小字は22ヶ所収められている。 この内訳は モミノキ・附舟(ツケフネ)・萩ノ元(ハギノモト)・萩平(ハギダイラ)・下田(シモダ)・外手(ホカデ)・田久保(タクボ)・田下(タシタ)・長畑(ナガハタ)・野ノ平(ノノヒラ)・竹ノ迫(タケノサコ)・原平(ハラヒラ)・峠(トウゲ)・山口(ヤマグチ)・藤原(フジハラ)・平野(タイラノ)・榎ノ元(エノキノモト)・中村(ナカムラ)・山ノ元(ヤマノモト)・炭山(スミヤマ)・麦宮(ムギミヤ)・赤水(アカミズ)である。 この22ヶ所については、厳木町全図を元に場所の確認をおこなった。聞き取りによれば、平成15年現在、人が居住するのは、田久保・山ロ・榎ノ元・中村・原平の5地域に限定されるとのことである。
2. 田久保地区の地名について 上記4地区のうち、田久保地区について、さらに聞き取りをおこなった。それによると ・田久保(タクボ:「窪地に築かれた田」との説明をうける。) ・休場(イコイバ:皆さんは「イケェバ」と発音していたように聞こえた。まねして発音すると、「イコイバだ」と教えてくれた。) ・大東(オオヒガシ:隣の中村字との境に位置する雑木林) ・矢落観音(ヤオテノカンノン:皆さんの発音では「ヤァーテェノカンノンサマ」と間こえた。室町時代の作成とみられる「いのしし」の線刻碑がある。「多産を祈って奉納されたのでは」と草場和則氏は語る。) ・天満宮[天神様](テンマングウ[テンジンサマ]:『地名』では天満宮と記載されているが、地元ではテンジンサマといっていた。田久保家の氏神で、9月18日の彼岸の入りには『お篭り』がおこなわれていた。) ・化導撓(ケェドンタオ:田久保と外手の境にある。)
3. 田久保地区以外の地名について 上記、田久保地区以外にその近接地についても、聞き取りを行った。それらのうち、『地名』に載っていなかった地名を次に挙げる。 ・折隈(オイノクマ:) ・おかん淵(オカンフチ:) ・イビンクチ(漢字表記わからず。)
4. 天川地区の人々の暮らしについて 天川の人々の暮らしは本業が農業、副業が林業、農閑期は日雇いなどに出かけられて成り立っているそうだ。 天川の山には杉が多い。これは昔からそうなのかと言うと、そうではないという。元々それは雑木林だった。つまり自然林であり、今の杉は人工的に植えられたものであるのだという。これは日本全体で起こった現象だと、私は聞いたことがある。戦後、杉の木材が高価であったため、人々は山にたくさんの杉を植えた。孫子の代で大きな財になるようにと。ただそれが日本中で行われたため杉の数が多くなり、価値はそれほど高くなくなったそうだが。 昔、山にまだたくさんの雑木林があったころ、雑木を使って炭火焼もされていたという。ガスや電気が暮らしの動力となる前はそれが燃料であった。天川では電気がきたのが昭和5年、ガスがきたのが昭和40年代だというから、昭和40年代まではその炭を使って、かまどでご飯が炊かれていたのである。 天川の農業、稲作では、肥料として刈敷がされていたらしい。人糞を肥料とする汲み取りはなく、畑に撒くようなことはしたという。また灰は使わなかった。 天川の米の収穫は「あまり良くなかった」と言われた。上田が反当5俵、下田が反当3俵だったというが、他のある土地の資料を見たところ、「上田7俵、中田6俵、下田5俵」と書かれていた。これに比べると、やはり天川の収穫高は少なかったようだ。話によると、天川の土はあまりよくなかったらしい。 農業は天気に大きく影響を受ける仕事だ。天気予報のなかった昔の人は、どうやって天気を見たのだろうか。それを聞くと、昔の人は天気予報なしでも天気を予想できたという。朝、家をでるときに空を見て、「ああ、これは今日は一雨くるな」などとわかったらしいのだ。昔は今にはない知恵があったものだなあと私は感心した。 また、戦前の昭和15、6年ごろまでは雨乞いなどもされていたという。天川の地図を見ると周辺にたくさんの山があるのがわかるが、その中で最も高い山「天山」は現在ではスキー場もある標高1000メートル以上ある大きな山だ。その頂上には「弁天様」の像があり、それに触れば雨が降る、そういう風説があったという。「だから、その弁天さんを持ってきて川につけたりしたけどねえ」やはり雨は降らなかったそうだ。 山から木材を切り出したとき何で運んだのかと聞くと、牛を使って道引(どうびき)をしたという。牛は一家に一頭は飼われていた。農作業でも馬ではなく牛が使われていたそうだ。牛は綱で左右に引くことで操れた。「左に進め」が「トォ」であり、右が「キショ」であったという。私の鹿児島の田舎では、祖父が「ひだ(左)」「こっ(右)」などといって歩かせていたというから、地方によっていろいろ違うのだなあと思った。 牛の背にはつける鞍があったそうだ。ただそれは人が乗るためのものではない。牛は馬に比べて背骨が弱いため、人は乗れないそうだ。まず、米などを結わえつけたりする「本鞍」。左右に米を1俵(60kg)ずつつける。草の場合は前中後、それぞれ左右に六把つける。単純計算して120kgの米を牛は運んでいたことになる。次に、「テァキ」という鞍があったという。「テァキてぇのは、タヒキさ」と言われた。漢字をあてると「田引き」になるのであろうか。牛と人間が農作業をするときにつける鞍であるというから、そうではないだろうか。本鞍に比べると少し小さいものであるが、田起こしや水田になってからの代掻きのとき使ったそうだ。もうひとつ、「道引(ドオビキ)鞍」というのがあった。これは大型のもので、先の道引のとき使われていたという。一般の家庭に本鞍とテァキはあったそうだが、道引鞍は道引をする人だけがもっていた。道引は大きな、力の強い牛でないとできなかったらしい。だから、だれでも道引はできるわけでなく、山から木材を切って運ぶときはその牛をもつ人に頼んで道引をしてもらっていたそうだ。 牛はだれでも操れなければいけなかった。牛の操り方を習うのは、中学校を卒業してからだったという。農業が牛から機械に変わったのは、昭和34、5年ごろであり、最初にきたのは脱穀機だった。まだ全自動ではなく「手こぎ脱穀機」(発動機で動く)だったが、やはり機械を使うと能率が全然ちがったそうだ。それから、バインダー(稲刈り機)、田植え機はしばらくしてからだったそうだが、機械化は進んでいったそうだ。ちょうど、時期を同じくして、牧草の刈り取りや焼き畑に利用していた山では杉の植林が本格的に進んでいる。『水源涵養保安林』の政策は、杉材の育成とともに治水・治山による職業確保の側面も担っていたとのことである。
ちょうど私たちが話を聞いた公民館の裏手を川が流れていた。地図によると、これは字と同じ「天川」というのであろうか。そういえば天川の名の由来を聞かなかった。川の名が字になったのか、それとも字が川の名になったのか。またはまったく別の由来があるのか。興味深い疑問である。大きな不覚であった。 天川には、昔たくさんの魚がいたという。その種類もさまざまで、「アブラメ、ハヤ、ドンポ、アカバヤ、ヤマブキバヤ、ドジョウ」などの名をあげてくれた。ただドンポという魚を聞いたことがなかったので、方言かもしれないと調べてみると、「ドンコ」という魚が存在した。本州中部以西に生息するスズキ目ハゼ科の小魚のことである。これは博多でも「ドンポ」と呼ばれているらしく、おそらくそれと同一であろう。しかし「ほいが、おらんごなってしもたとよね」と言われた。今はもうヤマメばかりいるらしい。人工的に放流されたそうだが、肉食のヤマメがハヤなどを全部食べてしまったそうだ。「あれはもう獰猛だよ。びっき(蛙)でん食うよ、あれは。俺は見たもん。田ん中さあ、入ってきてさ」と。共食いもするらしく、今ではもう川の中は「ヤマメさまさま」になってしまったそうだ。 他に川の水が汚くなったというのも原因かもしれないという。蛍が昔はたくさん飛び交っていたそうだが、洗剤の混じった排水などで川は汚れたそうだ。しかしここ最近の平成11、12年から3年ほど部落をあげて農村集落排水事業で川をきれいにする作業が行なわれたそうだ。(天川地区入り口の浄水場は)流しやトイレなど各家庭が皆、水洗にしたため、だいぶきれいになったという。
天川には、山にもいろいろな動物が住んでいる。 4、5月ごろになると、きつねが山からおりてきて鶏をとっていくそうだ。ちょうどその時期は、きつねの子育ての時期にあたるらしい。だが、そのようにきつねが人里に食物を求めるようになったのは、やはり山にエサが少なくなったからであろう。野うさぎの数が減ったから、とそう言われた。また、そのきつねの間にはほんの2、3年前、毛がまるっきり抜けてしまう病気がはやったそうだ。人間の残飯をあさったからだという。 他にもたぬき、猪、猿、今ではもう1、2匹しかいないといわれたがキジもいるらしい。猪は稲穂がでたころ、山からおりてきて田んぼを荒らすという。キジはケケンと鳴くらしい。
次にお菓子の話をしていただいた。かなり昔から「あめがた」というものがあったらしい。子供の生まれた女性、産後に乳の出の悪い人がいると「あめがたを買うてこい」などと言ったそうだ。あめがたとは、餅米をたたいて作る白いアメのことで、私たちも見たことがあるものである。それから干し柿は現在は作られていないそうだが、正月用に毎年作られていた。一連を20個、「一縄」と数えていたそうだ。他に特にお菓子などではないが、腹がすいたときなどに食べるものに、「いもだご」「そばだご」などがあったという。いもだごは甘藷をサイの目のように切って小麦粉と混ぜて作ったという。また、山にある食べ物としてはヤマグミ、黄イチゴ、ジゾウガシ、栗などがあった。ただ山にはトリカブトもあり、それは猛毒で危険だったという。
それから私たちは、「若者宿」について尋ねてみた。そこになんとなく笑いを含みながら。理由はない。だが、なんとなくこの質問にはそんな空気が感じられたのだ。その質問に草場和則さんも笑いながら「あった」と答えてくれた。 まず、若者宿とは何をする場だったのか。山田さんは「修行の場」と言った。「一歳でも年上ん人には反抗絶対しゃあなった」と言う。青年宿(若者宿と同義。天川ではこう呼んでいたようだ)は特別にそのための建物があったわけではなかった。集落の若者の家を一年ごとに交代で青年宿として使っていたらしい。「必ず、だれもおらんとこに入っても、障子ば開けて入っでしょ。個人の家ですけん、襖があってほんの隣には住んではっから。ちょっとすき間ば開けんでも、やかましゅうございました、お世話になります、と」と礼儀正しくあいさつをしていたという。そのあいさつをしない者がいると、「あいさつもせん、こんちくしょうが。アホ」と厳しく叱られていたそうだ。「とにかく精神的修行の場」と言われたそれは、社会での大人としての礼節や作法を学ぶ場であったようだ。 青年宿は中学校を卒業したぐらいから通うようになる場所だった。天川に小学校はあった。旧制天川小学校、今では天川分校として公民館のすぐ近くに建っている。昔は70人ほど生徒がいたそうだが、今は20人ほどしかいないらしい。天川もやはり過疎が進んでいるようだ。だが、中学校はない。下の方にあるものに通っていたそうだ。先述したが、天川は下からはかなり離れた標高500メートル以上の高地にある。今はともかく、あの長い坂道をどうやって通っていたのだろうか。なるほど、当時は寄宿舎があったらしい。月曜日に行って、土曜日に帰る。「漬け物とか持っとってもさ、カビがして食べられんごとなっでさ、もうそいやしょうゆ飯。」などと笑われた。食べるものは、米を2升5合ほど持っていっていたそうだ。一日に4合、およそ茶碗8杯ほどしかご飯は食べられなかったという。 話は反れたが、青年宿では中学校を卒業して入ってすぐのころを「小青年(こせいねん)」といい、2、3年が過ぎると「中青年」と呼ばれるようになった。そして妻帯したら、もう青年ではなくなるらしく、すなわち青年宿は引退となる。それがだいたい25歳くらいだったという。25を過ぎれば、結婚はしてもしなくても引退、というのが通例だったらしい。では、昔の人の結婚とはどういうものだったのか。「普通、元は兵隊検査終わったらすぐ。21歳か22歳」と言われたから、やはり今に比べるとだいぶ早い。ちなみに兵隊検査はどこで実施されるかを尋ねたところ「唐津であった。汽車に乗って泊りがけで行きよった。」と教えてくれた。 それから、昔の結婚はほとんどお見合いだったのかと聞くと、「いや、お見合いていうか、親の権利だった。恋愛結婚なんてほとんどなかったね」と草場準古さんは言われた。同じ村の中でだけ結婚していたのか、というとそうではないらしい。やはり他の村ともそのような交流はあった。「そいがおもしろかった」と準吉さんは微笑んだ。よそから嫁をもらうときは「かねつけ酒」という酒を送るのが通例だったらしい。ところがある時、その「かねつけ酒」が届かなかった時があった。その時やはり村では、それなりの仕打ちが用意されていた。当時、婿は朝、お嫁さんを迎えにあがるというのが通例であった。結婚の日は、婿はそれなりに「いい服」を着てくるのである。そこで、沿道の家々では朝、道に向けて水撒きが行なわれた。婿はその「いい服」をだれかから借りたものかも知れないし、とにかく大切なものである。それを濡らされるのは恐ろしいことである。 ところで、そのような隣の村との恋愛はどういうふうに行なわれていたのか。昔、隣の村になにわ節や狂言などが来た時は、たくさんの若者がおりて行った。そして「見知りあい」といって、そこの娘さんにひとめぼれなどをした場合は、その村の青年宿に酒などを持って行ってなんとかしてくれるよう、頼みに行ったりしたそうだ。それは「仁義」だから断ることなく、「よし、俺が今度遊びに連れて行ってやるけん」などと、協力したそうだ。「そいで、うまくいかせるのが仁義でな、よばいにも連れて行ったりした」などと、草場さんは笑った。 ただ、その青年宿同士のいざこざもなかったわけではないらしい。先に言ったよばいを手続きを踏まずにやった場合などにけんかが起こった。ただそのけんかも、殴り合いなどのものではなく、青年宿同士のいがみ合いのようなものであったらしい。ちょうど、天川ではそのようなことは起きなかったらしいが、七山とどこかで争いが起きたらしい。ただそのけんかも、酒を手土産に話し合いをすることにより丸く収まったそうだ。ここで天川の老人たちが、「酒三升」という言葉を頻繁に使われることに気がついた。昔の人たちのトラブルはだいたい「酒三升」を手に謝りに行くことで解決したらしく、「謝るときは酒三升」というのが通例だったらしい。 それから、昔の村では長男は15、次男以降は17で一人前として認めてもらえたという。長男はそれだけ父親から後継ぎとしての期待を受けていたのだろう。「それじゃあ長男はよっぽどしっかりしてなくちゃあいけなかったんですね」という私たちの感想に、「しかし、長男は昔から言てはるがな。『惣領の甚六』て」どっと笑いが起こった。「役場でも『甚六会』てありよった」という。楽しい話であった。
昔は、酒やたばこは自家製だったという。たばこは「むこうたばこ」といって、その日のものをキセルに入れて吸っていたらしい。しかし、税務署ができてから酒やたばこに関して調査が行なわれるようになった。税務署の職員は「くたい(おそらく土足のこと)で上がりよった」と言うから、よほど高慢だったというか、礼儀を尽くさなかったらしい。そして「税務署棒」といわれる金属製の棒をもって、家のあちこちを突いたりしたという。つまり、隠し財産を探していたのである。 そんなことをしていたので、広瀬では村の男たちが待ち伏せをしていて、税務署員を袋叩きにする事件もあったという。そのとき捕まらなかった村の男がたった二人だったというから、村のほとんど全員がそれに加担していたといえる。それだけ昔の官公庁はふてぶてしかったらしく、人々にあまり好かれていなかったそうだ。 天川に来る税務署は唐津にある。唐津から職員が汽車などで来るため、その時は下のダムの水番さんが走って上がって来て知らせることになっていたそうだ。そのことはスピーカーを使って村中に放送される。ただ「税務署が来たぞー」などではなく「唐津からお客様でーす」という放送がされていたらしい。それが何を表すのか、村人は皆心得ていて、各々準備を済ませたという。 戦後、自動車が使われるようになってからは、税務員はジープを使って30人ほどの大人数でやって来たらしい。天川のような山の中では、1人2人だったら突然拉致されてもわからないため、税務員も恐かったのだろう、ということであった。 さて、天川の生活のいくつかの場面で、「唐津」の名が出てきたので、「町に買い物に行ったり、大きな病院にかかったりする時もやはり唐津に行きますか?」と尋ねたところ、「いや、そのときは多久に行く。」と草場和則氏が答えたのは予想外だった。
それから、私たちは戦争のころの話をしていただいた。私たちがその話題に触れたとき、お話をしてくださった方々の目は涙で濡れたような、そんな気がしたのを私は覚えている。痛々しい記憶に触れてしまったのだと思う。しかし、それでも話を聞かせてくださった方々に私たちは本当に心から感謝したい。 草場準古さんは昭和20年8月の上旬に兵隊検査があったそうだ。それから数日後の8月15日、天皇のラジオ放送によって敗戦が告げられたため、兵隊には行かなかったと言われた。 お話をうかがった人の中で、山田利幸さんだけが兵隊に行かれた経験をもっていた。入営したのは昭和17年1月。衛生兵としてまず静岡に行き、そこから南京〜九江〜漢口と都市の病院施設や野戦病院を転進された。戦局の厳しい状況下のお話が多く、病院では治療・搬送で休みのない日々を送られたことを語ってくださった。当時の日本軍は長江中流域を都市部とそれを結ぶ鉄道線を占領してはいたが、各地で散発するゲリラ戦、米軍機による空襲・機銃掃射に苦しみ、南京などの大都市においても街の中は一歩裏小路に入ると何が待っているかわからないと言う状況だったらしい。 病院では負傷者の治療よりもチフスなどの病気で命を落とす人が多く、一日数十人単位で遺体の処理を行うことも多かったそうだ。最初は丁寧に荼毘に付していたが、処理が追いつかなくなると、遺体の小指だけを切り取って骨にし、後は穴を掘ってまとめて埋葬せざるを得ない状況に追い込まれていたという。山田さんは「あなたたちは、五味川純平の 『人間の条件』を知っていなさるか?」と私たちに尋ねた。「あの小説の中の、戦場の場面のことはほんとのことだ。戦争だけは二度とあってはならない。」と力強く私たちに話してくださった。終戦は中国で迎え、復員したのは昭和21年のことだった。復員船は佐世保を目指したが、佐世保港で赤痢が蔓延している為に入港を拒否され、急遽鹿児島港に上陸することになり、そこから郷里に戻られたそうである。 戦時中は天川に疎開に来た人もたくさんいたそうだ。どこからの人かは、もうはっきりと覚えておられないらしいが、沖縄からも来た人がいたらしい。「宮城さんてのは沖縄の名前だからね」そう言われた。
戦後、食料がなかったころは何でも食べたそうだ。犬の肉はうまかった、という。犬は体が温もって、おねしょに効くらしい。そして、その次にうまかったのがキツネだったそうだ。キツネの肉は意外と柔らかくておいしかったらしい。それから、ムジナ、クヌキもおいしかったらしいが、テンは肉が固くてまずかったという。これらは、スキヤキのようにして食べておられたそうだが、イノシシは焼肉にするとおいしかったそうだ。 これらの動物を捕まえる罠が、右の「とらばさみ」だった。 (写真アリ省略 原本は佐賀県立図書館所蔵) ばね仕掛けの金属製のわな(猟具)で、獲物の通路かその近くに装置し、獲物が踏むか仕掛けた餌をくわえたとき、支点のバネが外れて獲物の足か首を挟む装置であり、これらの動物を捕まえるときに使われていたという。 また、小鳥なども罠で捕らえて食べていたそうだ。小鳥などはうまかった、という。その罠が「かちょうあな(ふみたおし)」というもので、具体的には小鳥などがその罠を踏むことで、なにかが首のところに落ちる、そういう罠だったらしい。 また、戦後「ヤミで牛を買った」ことがあったそうだ。他のところから内緒で買ってきて、部落の人々皆に触れが回ったそうだ。その日はその牛を皆で食べたのであろう。
話題の中心が、戦後の天川、特に昭和30年代以降になってくると、生活面で便利になってきた話が多く出てきた。先に挙げた農業の機械化、生活環境の変化(茅葺き屋根から瓦屋根への変化、道路の整備、車の登場やガス・下水道の普及など)・産業の変化(林業の発達)など。しかし、その一方で天川の将来については、あまり明るい話はなかったように思う。「やはり、人の減ってきたのが一番いかん。祭りやるのにも、盛り上がらん。」「昭和40年から比べると、戸数は二つしか減っていない。ただ、小学校の生徒の数も私らのときは70人からおったが、今は20人。」「高校卒業しても地元に就職口がないから、町へ出ることになる。」「定年退職してからが農業できるようになる。」「ホンに農業だけで暮らしていけたら、どんなにいいか。」などなど。 しかし、皆さんは地域のことについて、本当にいろんなことを覚えている。せまい耕地を広げるために、幕末以来、村から山一つ二つ越えたところにまで田畑の開墾に励み、「普請講」「瓦講」「カヤ講」など、生活のさまざまな場面で助け合いながらがんばってきたことや、たとえ、日照りでも「下の者のために、水路をコンクリートで固めることだけはせんかった。」と気遣いながらみんなで耐えてきたことなど、先人の努力に敬意を表しているからこそ語り継ごうという意志がとても強いことを感じた。私たちにさまざまなことを教えてくださった皆さんは、天川に対して非常に強い愛着を持ち、声高ではないが、ここで暮らすことに誇りを持っているのだと感じた。
我々が調査に来た日は、ちょうど厳木町では各地区対抗のバレーボール大会が開催されていた。「若い人たちはバレーボールにいっとる。」「残った人たちは、選手の人たちを『おつかれさん』いうて、ねぎらってやるんよ。」「こういうのが、田舎のいいとこよね。」話をうかがっていた公民館の中の調理室では地域の奥様たちが集まって料理を作り、奥の大部屋のテーブルに鉢盛りを次々と並べていた。「うちはまだましよ。なかなか選手の集まらん地区もあるていうから。」草場和則さんがおっしゃったこの言葉に、天川に対する誇りの一端をみた思いがした。バレーボール大会が終わったのか、何台かの車が公民館前に停まりはじめたのは午後4時前。気がつくと、昼食休憩もとらずに話し続けた5時間だった。
〜あとがき〜 今回天川の三人の方々には、ご多忙の中お邪魔した上、休憩もなく長い時間私たちに付き合っていただき、誠に申し訳なかったと思います。ですが、本当に貴重で大切な話を聞かせていただいて、私たちは感謝の意に堪えません。今回、この授業の担当の服部英雄先生が書かれていた「教師は教壇の上、大学の中にだけいるのではない」という言葉を、本当に身をもって実感しました。現在私たちは、食べ物にも着る物にもまったく不自由せずに生きています。しかしその根底には、今回話していただいた戦中戦後の貧しい暮らしがあったわけであり、先人たちの涙ぐましい努力によって今の豊かな生活があるのだ、そして私たちはそれを噛みしめて生きていかねばいけないのだ、とそう思います。本当に今回はすばらしい時間をありがとうございました。今後の私たちの人生にとってきっと大変有意義なものになると思います。それでは言葉足らずですが、ここにお礼の言葉とさせていただきます。ありがとうございました。(野間久史)
歴史教育に携わる者としてだけでなく、単に昔の話が聞けるというだけで、数週間前から今回の地域調査は楽しみだった。事前のご指導を聴き、丁寧なマニュアルを眺めているだけで、何でも調べられるような気になっていたが、いざこのようにレポートを作成してみると、先生のご指導にもかかわらず、聞き取り調査は失敗の連続だったことを痛感する。その結果、パートナーになってもらった野間君に迷惑がかからないかとそのことがとても心配である。 このレポートは私と野間君の合作であり、地名聞き取りの原稿化と地図を私が担当し、人々の暮らしを野間君が担当するという分担で作成がはじまったが、多くの箇所でそれぞれが記録を失敗して、互いに助け合うという作業を経て一応の完成をみた。但し、二人共に、記録せず聞き漏らした質問も多く、強く反省する次第である。 今回、三人の方々には本当に丁寧にさまざまなことを教えていただいたが、私の事前準備がもっと丁寧であったならば、皆さんがもっと多くの事を語ってくれたのではないかと、日がたつにつれて、そのことだけが悔やまれる。 草場和則様、草場準吉様、山田利幸様には、心よりお礼申し上げたい。また、今回の調査について、研究生の参加を認めてくださった服部先生にも深く感謝する次第である。(益森勝裕)
(写真アリ省略) 草場和則氏宅に伝わる庄屋時代の覚書。元治元年の九月分。 草場和則氏の5代前、草場尚重氏の筆による。和則氏によると、当時、尚重氏は38歳前後だったそうである。内容は役人からの伝達事項がほとんどで、この年、京都で起こった禁門の変や、第一次幕長戦争に関する情報も書かれていたようだ。
(写真アリ省略) 若宮天明神境内内に集められた天川地区内各地の神様。明治41〜42年にかけて現在地に集められたとのこと。集められたのは弁財天・山の神・通石権現・祇園さま・八房社・九郎社・榎の観音・掛観音。
(写真アリ省略) 若宮大明神前の県道から、竹の迫方面を撮影。一面杉山が続くが、この風景になるのは戦後、昭和20年代に始まった水源環境保全林政策が影響するとのこと。
(他、話者3名・若宮大明神の写真アリ省略) |