【東松浦郡厳木町天川】 現地調査レポート 一田陽子 富田成彦 1ED03046本吉大介
一日の行動6月29日日曜日、8時半に六本松キャンパスに集合し、バスで佐賀県の厳木町天川へと向かう。これから始まる取材に少し緊張しており、口数も心なしか減る。 11時頃に天川分校に到着。同じ天川のグループと「がんばりましょう」と励ましあいそれぞれの場所へと向かった。地図を見ながら草場準吉さん(昭和4年3月生まれ)宅へ。途中私たちのために公民館をとっていただき、そこへ向かう草場さんに出会う。食べ物の話や旧道の話、牛の話などをしながら公民館へと歩いた。(結局は別のグループとも同じ場所で取材をすることになった。) 公民館に着いた私たちは、まず今回協力して頂くため調査の目的を説明する。 それぞれのグループに別れ、まずは地図の調査から始まった。机いっぱいに地図を広げ、赤鉛筆を手に、説明してくださった地名を書き込む。 まず、はじめに小字の区分を、次に通称名とその場所、その後、井関や田の場所と名前を書き込んでいった。 地図を見ながら話が次々と出てくる。神社や寺院、お祭り、通称の由来、神様の話、田んぼ、井関の決まりごとetc……。その話をもらさないようにと真剣な目で話しを聞く。 その後はグループ関係なしに質問をして話を聞く形となった。戦争の話から結婚の話などさまざまなことを聞く。スキー場ができてからおきた出来事、酒の話。中でも外から町の中に入ってくる人(行商や税務署)の話では盛り上がった。 天川のこれからを質問すると、やはり若者の数が減り、活気がなくなってきたと聞く。これは天川だけでなく厳木全体の問題だそうだ。
4時20分ごろ、最後に記念撮影をして、調査に協力してくださったことに感謝しつつお礼を言い、草場さん方と別れる。
バスが来るまで時間があったため、近くの神社へ。
4時50分ごろバス到着。バスに乗り込み厳木を離れ六本松へと帰った。
田んぼについて 天川は山がちで棚田が多かった。5月(今の6月)は田を作る最も忙しい月である。 草を刈り田に入れ、すき、水を引き込んで田植えをする。牛が入れないところは全て人の手で田を作っていく。
○田を作る 「昔は5月ていうたら今の6月のこと。昔から20日の草切り七日の田植えちゅう。20日間は草ば切って、棚田も切らんばいけんでしょ?で、田植えが十日、今では、カタカタカタカタちゅうてね、この日もうゆる人はなかとよ。ふん。一日か一日半機械がおおきかけんさ。」
○草刈 「そばていうたらあんたたちなんとか(ざるそばみたいなの)しか考えんだろうけど、そばだご。だご。このだごをかじりながら、食事の間もおしんで草を刈る。」 この草は天山付近の原野、田の周りから刈った。肥料はもっぱら青草で、「昔から稲千把は草千把」といい、育つ稲と同じくらいの量の青草を田に放り込んですく。田引きを牛につけ、田おこし、代かきをした。わらは牛のえさにし、田の中にはれなかった。わらを田に入れるのは嫌だったそうだ。これは科学的にも正しい。わらばかりを田に入れると、窒素が増えすぎて効果が望めないというようなことを聞いたことがある。 「なーんにしても手作業、牛に負わして自分も負うてなあ。」
○田植えの手伝い 自分のとこが終わったら近い親戚を。よっぽど遅れた人を最後に手伝った。藤町から人を雇うこともあった。天川からも行く。 「向こうにやる賃金ぐらいこっちも稼がんば割に合わない。」
○田植えが終わると 「(今は)老人会はね、さなぼりよりあいです。そしてお宮でね植付祈願。さなぼりは昔は個人個人でやってやったばってんね。今はそらなか。もう田植えすんだらすぐ夕方は焼肉して寿司たのんでさ。ビール飲んで。みんなビール。」 山の中の田 山の中の田んぼは、柳の撓(やなぎんとう)・炭山のたん中・麦宮の田ん中・桂木の田ん中・境沼田(三反)。全て田植えをした。直まきはなかった。柳の撓はもと柳が生えていたところだそうだ。(天川には四種の柳が生えていて、その内一種はもう公民館のグラウンドに残っている一本のみだそうだ。)棚田で、できるかぎりに田を作った。 こんな話が残っている。 ある人が自分の田んぼの枚数をかぞえようとした。何度数えても一枚足りない。 「ずっと数えよった。何枚あったかって数えようとしたばい。田んぼが。そしたら一枚たらんけん。じーっと数えよったらみのの下に一枚あった。」
井堪 天川には上流から十の井堪がある。上流から、小峠の堪・尾先の堪・井田前の堪・柳の元の堪・古湖の堪・大東の堪・追いの熊井出の堪・畑田の堪(水が取れないので畑しか作れなかった)・高尾の堪・田下の堪 堪には1つの大きな決まりがあった。コンクリートで固めないことである。したに水が流れなくなるからだ。「どんな大きな井堪でん、コンクリでしたらいけんかったもんな。」 「うん、そうそう。」 この規則が天川での水争いを防いでいたようだ。
わかもん宿 宿は個人で青年さんのいる家で一年ごとにまわしていった。青年宿は修行の場である、と草場さんは語る。 「青年宿ていうたらね。修行の場よ。必ずね誰もおらんところに入って、障子ばあけてはいるでしょ。そして向こうの、個人の家ですけん、ふすまがあって隣では住んでやるけん。そしてちょっと隙間ば開けるか開けんでも『やかましゅうございましてお世話んなります』ちゅうて挨拶する。」 挨拶しないと 「挨拶もせんこの横着もんっちゅうて、げんこつはなかったけど、なかなか厳しい。」 青年宿は礼儀を教受する場でもあったようだ。中学をでると宿に入る。はじめは小青年、2,3年たつと中青年になる。25歳もしくは妻帯すると卒業だ。 「昔は娯楽がないでしょ。隣の村で浪速節が来た狂言が来たっていうときにはみんないくわけ。そして見知りあいっていうてそこの娘さんに一目ぼれしたりなんかした場合には青年宿に『よろしくお願いします』って。」 青年宿は仲介をする。引き受けた方は仁義やからと、夜這いの手引きをする。 青年団のもめごとは、話し合いと謝罪と酒で解決するそうだ。 「天川の、ほら、青年同士で何かあったら酒。酒はどぶろくで。自家製。親父に頼んで自分で調達せんばいかん。だめなら自分で買う。」 こっそり近所のおばちゃんに酒をもらいに行くと 「またやりよったか!!」 と怒られたそうだ。 結婚にも青年団は関わっている。恋愛結婚の手伝いはもちろんだが、結婚のとき事前に嫁のところに酒が届かなかったら、婿が迎えに来るときに頭から水をかけて祝福してやったそうだ。ちなみに結婚の祝いは一週間も続くそうだ。
交通 「ここはね、どこに行くにも一里。昔から歌がある。一里二里までゃ自転車で通え。五里を過ぎれば自動車で通え。」 天川に初めて車が来たのは戦後のことで、木炭を集めるものだったそうだ。 「あれは木炭積みに来たとが一番早かった。それまでは馬車でね。びっくりした。見たときゃ。うん。『天川にトラックがきとるばい!!』運転手は持つ手が震えよったと。」 昔は何をするにも一日がかりだったそうだ。 「下(厳木町)の役員会に出席するのも一日がかりたい。」 私たちがバスで移動するにも曲がりくねった道を延々と登った。この道のりを車のない時代は、それこそ一日がかりでのぼったのだろう。
神社と神様天川には若宮神社があり、そこには天川中の神様が神寄せによって集められている。神寄せは明治41〜42年の間に行われたそうだ。今はその若宮神社を中心に年に一度の祭りも行われている。祭りの日は9月23日の秋分の日だそうだ(むかしは前の日に行われていたそうだが、その祭りには子供の参加が必要なため、現在は休日に開催されている。)。しかし「お祭りがほとんどできん。子供がおらんもんでね。」とおっしゃっており、活気がなくなりつつあることを悲しんでおられた。
若宮の祭りかつて天川は現在とは違う区分をされており、それは「門」(かど)と呼ばれていた。門ごとに神様がいて、それぞれで祭りを行っていた。祭りのご馳走などは一回の祭りに3戸の家がもてなしして、それを持ち回りでやっていたという。しかし、神寄せがされた現在では年に一度のこの若宮の祭りを行っている。(この持ち回りに関連してだが、瓦を家にはるときなども金銭面で協力をしているという。そうすることで、別の人が工事をするときにもお金を払わないといけないが、一度の払うお金も少なくなるため助け合いになっているという。) また、太鼓や鼓、鉦などを打ち鳴らして歩く浮立も行われている。浮立をする人は前日から身を清めるのだそうだ。ところが 「もうやっぱりね、伝統芸能のことがやっていかれんよ。浮立とか盆踊りとか。人間がいないとやっぱり活気が生まれんし。第一活気がなか、20代30代がおらんけんね。」 と悩みもあるそうだ。
田畑で生計を立てている町なら、かつては雨乞いも行われていたと思い、雨乞いのことを質問すると面白い答えが返ってきた。 「天山に弁才天(べざいてん)がおらすたい。あの人にさわったら雨が降るとか、あの人を水につけたりしよらしたばってん効き目はなかとよ。あと梅雨がなかったりしたら、そこんお宮にこもって伏しておがみよいよらしたと。」 やはり昔は雨乞いにちなんだ言い伝えがあるようだ。現在となっては渇水になってもポンプで水を汲み上げてくるため問題はないそうだ。水のことに関しては「田」の項目でより詳しく述べていきたい。
昔から引き継がれてきた伝統的な祭りなどは徐々に下火になってきているようだ。天川の方々も盛んに活気という言葉を口にされていた。
通称の由来○太刀洗川 平野にある場所。川にある岩の赤い筋が、太刀を洗った時の血の筋に似ているためこの通称がついたようだ。かつて本当に武士が太刀を洗っていたかは定かではないが……。
○おかん淵 原平と外出の境目程に位置。昔その淵で身を投げた母親がいたらしい。それでおかん淵と呼ばれるようになった。
○大沼田(おおむた) 炭山の中心程に位置。大沼田は田んぼのあるところだが、もともとは沼地でそれを開拓してできた田であるためこう呼ばれるようになった。
○境沼田(さかいむた) 平野に位置。湿地で貴重な草花が生え、国定の保護地となっている。国定の保護地だがそれらの花をとりに行く人もいるらしい。「昔はだれもあがらんかった。でもわかったら採りに行くんがおる。」と話しておられた。由来はずばり富士町と厳木町の境にあるから境沼田である。
○めくら淵 平野と榎の元の境目。名前のとおり、木々がうっそうとしていて暗かったためこう呼ばれるようになった。
○山犬岳(やまいんがくら) 榎の元と炭山の間に位置。名前のとおり山犬がいたのだろうと思われるが、草場さんはよくわからないとおっしゃっていた。別の方は「あそこにはおおかみがおったとよ。」と話された。ちょっとした議論を交わしたあと結局は「まあなんかおらっしゃったんだろうねえ」ということになった。
○憩場(いけえば) 田久保に位置。由来はまさに名前のとおりだろう。
○通り石 赤水の端に位置。大きな石があたかもトンネルのオブジェのようにあるという。ここには権現様が祭られているらしい。
前にも記述したが、「のう祖の人々」という冊子に詳しくは載っている。この冊子の編集者は現在福岡市在住だそうだ。
病と薬天川では薬は置き薬だそうだ。「昔から薬はね、富山から。越中富山の万金丹」だそうだ。富山から薬の補充にやってくるという話だ。病気になったときはどうするんですか?と質問すると 「そこに診療所があるったい。田舎の診療所。元衛生兵だったとかいう。」 「あやしげですね」 「ふふ。あやしげな。そやけんなぜ来よったか。その時代に米が11俵。(それだけ出して来てもらったそうだ)そやけんいくら終戦の食料難の時に白飯くっとった。自分たちは麦飯、大根飯……。」 という答えが返ってきた。 病かどうかはわからないがオネショの話もした。オネショ対策には犬の肉が効果覿面なようだ。おまじないをすることもあったそうだが、やはりおねしょには犬の肉。また昔は犬の肉を結核の人が食べていたそうだ。
天川の水天川のことを草場さんは「オオカワ」と呼んでいる。地区の真中を東西に分けるように流れるオオカワは、田を潤し、天川の生活を支えてきた。さながら天川の大動脈である。川沿いに道が絡まるように走っている。 天川にはオオカワの他にも小さな川や谷川が流れており、全体的に水は豊かである。そのおかげかもしれないが、水で起こった争いはないという。 その川もダムや護岸工事によってだいぶ変わったそうだ。かつてはあぶらめ、はや、ドンコ、ドジョウ、サワガニ、山吹はやなどが川にいたそうだが、それらの工事によっていなくなったそうだ。(蛍もいたがやはりいなくなってしまった)生き物が少なくなった川にヤマメを放流した。その結果ヤマメには歯があり、獰猛なため稚魚や卵を食べてしまうため、逆に生態系の単純化をまねいているのかもしれない。 余談だが、この川で毒流しも行われたそうだ。音羽が滝(長畑)より下流にはウナギがいたので、そこを狙ってとのこと。
食生活
食生活は今とはぜんぜん違う。草場さんのお話では1日4食、1日に1升近くを食べていたそうだ。おかずはだいたい塩鯨や塩魚、煮しめなどである。ここで疑問に思ったことはどこからそれらの魚がきたのかということだ。川にも魚はいるだろうが鯨などいるはずがない。 「塩鯨、魚はどこから?」 「みなとから。大体みなとって言うたらあるでしょう?玄海地方に。昔はどっからきてもみなと。漁港からきたらみなと。」 「油や塩なんかは?」 「昔は大型マス買い。ばってん計り売りたあ、ああいう人たちは上手たいね。こうして……(升の上に細く盛る手つき)やっぱり生活の知恵で。醤油と味噌は全部自家製。塩だけ買って。女の人は大変。農作業はせんならん、いろいろ。味噌もせんならん、漬物も……。漬物はおもに大根漬けだったと。」 「白菜なんかは腐っちゃいますもんね。」 「白菜てね、自分たちのちいさか時分にはなかとよ。(白菜が日本に入ってきたのは日清日露の出征兵によってである。今や冬といえば白菜だが、日本での歴史は意外と浅い)そいにね、たまねぎも近頃(栽培の仕方、霜よけの仕方がわからなかった)。」 「さとうは?」 「砂糖がね、盆とか正月に一斤ずつ買うた」 「自分たちの小さい時分しか砂糖はなかったとよ。戦争が始まったらあんた、砂糖は13年か14年になったらほとんどなかった。」 「おやつは?」 「柿、梨、そいもむかしのは在来種やけんね。アケビなんかはみんなガキ大将が。( とって来いと命じるようだ)桑の実なんかは小さい時は食べたよ。このへんが真っ赤になって。ちがやのこも食べた。干し柿も作りよったよ。渋柿。」 「食べられる野草なんかは?」 「セリ、ヨモギ、ウド……ほとんど野草は食べられるったい。」 「自然薯なんかは?」 「自然薯はね、山にあるのはイノシシが先に掘って。ユリネも掘るもんね。」 「肉食については?」 「うーん。肉なんかはね、ほとんど終戦後のことじゃないですか。そいて終戦後にはね、うちあたりではやったったい。牛を闇でとさつ。みんなで金出してから。村中にふれまわってみんなでおいしく食べた。」 「犬は?」 「何でも食べたよ。あれは、猫だけは食べれん。狐、狸。猫はかたい。犬はおいしいよ。ムジナが一番おいしかった。焼肉にしたらいのししがおいしか。たぬきときつねはトラバサミで。肉食動物はたいてい肉がやわらかくておいしいよ。体が温まる。」 ここで先ほどの話になった。
「カンネ、コウゾはとれるんですか?」 「カンネはね、昔の人がとりよったと。カンネだごにした。でんぷんだけとって。」 このように会話が続き、食べ物の話は税務署の話に発展した。 税務署はどうもずいぶんと嫌われている。酒やタバコなどの専売品に対して非常に厳しかったからだ。 「(酒やタバコは)昔は作りよったたい。ばってんが税務署がこらしてねえ。」 税務署があがってくると、下田ダムの水番さんが駆け足で天川まで上がってきて、 「唐津からのお客様です!! 」 とふれまわる。後は心得たものである。 あるとき、広瀬(天川に隣接する大字)の男が第二発電所の税務署を待ち伏せして袋たたきにしたそうだ。村の男は警察に引っ張られた。つかまらなかったのは二人だけで、その二人も病弱だったかで参加しなかったらしい。
「そやかて靴はいて上がりよったとよ。家ん中に。昔は官庁いうたらいばっとった。」 役人は金属製の手ごろな長さの棒をもってそこらへんをつきさして物品を捜索したそうだ。 「税務署が来るときはいつも寒かよ。」 「袋叩きにされてダムを泳いで逃げた役人はどんなに寒かったことでしょうね。」 「せやからどんなに寒かったろうって。ふふふふ。」 戦後税務署はジープでやってきた。30人ほどの団体でだ。山の中の捜査は手をつないで列を組んでしらみつぶしに捜すのだそうだ。 酒やタバコはこのような攻撃にあったため栽培をあきらめたそうだ。
感想私は今回の調査を通じて自分の未熟さを知った。調査をするには質問をして、答えを聞いてとにかくメモしていけばいいものかと思っていた。ところが実際はまったく違った。自分に知識がないと話がきっちりと理解ができなくなるのだ。地図を描くときは尾根や谷、地図記号、調査地の地名と周辺の地名も頭に入れていないと、話してくださっている内容がすぐにつかめないという事態に陥る。また、予備知識を備えていないと話に広がりがなくなってしまい、会話が単調なものになってしまう。思いがけない話とはそういったところから生まれるものだろう。 反省はこれくらいにして……。私たちのグループはもともと天川ではなかった。そのせいか下調べなどの事前準備もままならない状態で現地に向かうことになってしまった(言い訳ですが)。そんな私たちに丁寧に天川のことを語って下さった草場さん方に心から感謝しております。 私が特に興味を持ったのは通称だった。特に山犬岳などは行ってみたい気もする。通称にはその場所の歴史が表れているので、新しい通称を教えていただくたびにわくわくしていた。 若者が減っていき、お祭りや伝統芸能が廃れていくことを悲しんでおられ、天川のこれからのことを質問すると、「活気」という言葉を繰り返しておられた。天山にはスキー場ができ、天川を通る車も増えたという。しかしそれは必ずしもいいことではなく、チェーンのつけ方も知らないドライバーがスリップ事故を起こして困っていらっしゃるようだった。 今回の調査はいい意味で当初の予想を裏切るものだった。「歩いて歴史を考える」という服部教授の意図もつかめたのではと自分なりに思っているところだ。言い過ぎかもしれないが、資料には載らないエピソードにこそ面白さが隠れていると感じる。
最後に、私たちの拙い調査に快く協力してくださった草場様、歴史調査の深さとその面白さを教えてくださった服部教授に心から感謝の意を表したいと思います。
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