立石啓晃
お話をして下さった方 中村敬一郎さん 昭和5年10月29日生まれ
中村宗市さん 昭和12年8月28日生まれ
中村重喜さん 昭和21年4月12日生まれ
津和崎あざ名一覧
サイマツ(才町)、クギ(釘)、オトコザヤ、サガリ、オトメザカ、スイショウデン(水晶田)、オウドウグチ,ツジ、アカギシ
田畑
小字後口のうちに ツジノハタケ
川
小字宮の元のうちに センタクガワ(洗濯川)
小字宮の元のうちに ウマイレガワ(馬入れ川)
集落
カミ(カミグミ)上(上組)、シモ(シモグミ)下(下組)
溜池
小字五島のうちに ヤマタロウ(山太郎)
道
ハカミチ(墓道)
田植えに関する用語
ニワアゲ(イネコギ)=脱穀、カマアゲ=刈り終わリ、サナブリ=植え終わり、セマチ=一つの田、ウネクズシ=田植え、スキアワセ
タノクサ(田の草)=田の草取り
脱穀用の器具
センバ、アシブミ(足踏み)
参考
津和崎の近くのあざ名
チョウモンバル(チョウエモンバル)
小字平口のうちに オミヤノカゲ
Q「村の水はどこからどのようにひいていたか?」
主に松隈の岸田溜池からひいているということ。山太郎溜池からひいている田は少ない。その場所は地図に示している。
ちなみに岸田溜池では水は津和崎、新田、松隈の3つの村が共同でつかっており、各村の田の面積に応じて、
松隈:津和崎:新田=1:3:6の割合で費用を負担していた。また溜池自体が松隈にあるので、優先順位は松隈、津和崎、新田だった。
Q「ひどい災害などはあったか?」
昭和28年に平田辺りの川の堤防が決壊し何軒かの家が浸水した。
Q「昔は家畜をかっていてか?」
どの家にも牛か馬がいた。馬を飼っていたのは四軒ほどで、あとは牛を飼っていた。三軒ほど乳牛をかっていた。雄牛は全て去勢していた。博労はいなかった。
宮の元を横切るかわにうまいれ川と呼ばれる馬入れ川(牛入れ川)があった。
Q「昔の道はどうだったか?」
昔の県道津和崎潤線が主な通りだった。通学や他の村から来る人はこの道を通っていた。この道は当時幅3.5から4メートルの道で昭和10年に
県道として整備された。また農道は昔の水路沿いにあった。これは図中に示している。また墓地に行く決まった道(墓道)があった。
Q「農業以外の収入はあったか?」
農家をしている人達はほとんどなかった。山や林を持っている人も自分の家用の薪だけを取り、それを売ったりはしなかった。
1年に三百坪分の薪を刈れば、足りた。林を持っていない人達はよそから買っていた。
Q「村の範囲毎に呼び方があったか?」
津和崎のちょうど真ん中を横切る道を境に北側を上(上組)、南側を下(下組)とした。範囲は地図中に示してある。
理由については後に述べる。
Q「湿田と乾田はあったか?」
昔は津和崎の田は湿田だったが、100年程前に排水工事を行い、2毛作(裏作)ができるようになった。津和崎の田は1メートルも掘ると、
貝殻が出てくる。つまり昔は海だった。そこを240から250年程前に干拓を行って今の津和崎の土地となった。
Q「田によって米に差はあるか?」
才町辺りの田は土が砂土壌土なのであまり米の質がよくない。宮の元の北側、釘、内畑の田は粘質土で味の良い米がとれる。しかし粘質土の田は、
米の質は良いが、田植えは大変で時間もかかる。
Q「化学肥料ができる前は何を肥料にしていたか?」
人糞や家畜の糞や家畜の食べ残した藁や草を肥料にしていた。
Q「化学肥料が入る前と後での収穫量の差はどうか?」
収穫量は一時的に上昇したが、土を肥えさせていた昔のような肥料を使わなくなったことによって、現在では田畑の土がやせてしまっている。
Q「耕作に伴う習慣は?」
田植えだけは早く終われば、村中で遅れている家を手伝った。
Q「田植えを手伝ってもらったお礼は?」
特にお礼はしなかったが、作業を手伝ってもらっている間は、その家が食事を出した。(津和崎ではこれをマカナイという)
しかし村中の人の食事を作るのはあまりにも大変なので、先に述べた下組と上組に昭和24、25年頃にわかれて、それぞれの組で
共同作業をするようになった。
Q「農薬が無いときは何をつかていたか?」
アワビの殻で油をまいていた。また夜は蛾の対策として、器に油を入れてそこに火を入れてそこに蛾を集めて殺していた(これは昭和30年頃まで)。
また田に人が入って田の水を蹴って稲にかぶせて稲についた虫をおとしたりした。
Q「どんな害虫がいたか?」
めい虫
ウジ虫のような虫で稲の茎の中に入り込み稲を枯らす。昭和30年頃入ってきたホリドールという薬品で殺せるになった
らんか
テントウムシより小さい蛾のような虫。戦後入ってきたBHCという薬品で殺せるようになった。
Q「草切り場や焼き畑はあったか?」
草切り場は地図中にしめしている。焼き畑は行われていなかった。
Q「取った米の保存はどうしていたか?」
もんばこ(もみばこ)といういれもので保存した。これは害虫除けに高床式になっていた。次の年にまく分も
傷つかないように足で踏んで脱穀しもんばこで保存した。置き場所は外だったり物置の中においてあったりして
各家で違っていた。
Q「米はいつ誰にどのくらいで売ったか?」
昔は食糧管理法で個人で米を売ることはできなかった。供出(キョウシツ)といって、事前に政府から出す米の量がきめられていた。だからその量にたりなかった場合
他の農家から米や麦を買わなければならないということがあった。
Q「くず米はあったか?」
質が悪くて売れないような米がとれることもあった。そういった米は鶏などの家畜の餌にした。
Q「青田売りはあったか?」
津和崎ではなかった。
Q「家族で食べる米はなんと呼んだか?」
家族が食べる分を含め政府に提出する分の残りを保有米という。全体の15、16%だった。
Q「食事は主に何を食べていたか?」
主に麦飯だった。余裕のある家庭で米:麦=7:3、普通の家庭は半々だった。
Q「戦後など食糧難のときはどうしていたか?」
芋などを食べていた。芋は床下を掘ってそこにもみ殻と芋を交互に置いて保存した。
Q「村祭りはどんなものがあったか?」
千土汐(せんどしお)田植えの終わりに満作祈願と夏の疫病の予防を祈願して行われる。
風止 九月に稲の穂が出る前に穂が倒れたりしないように風が吹かない事を祈って行われる。
宮座 神社の百五十坪の田で上組と下組が一年毎に米作りを行い、それが終わると米作りをした組がもう一方の組を招いておこなう。
この三つは若松神社でおこなわれる。
九月ごもり(おこもり) 九月に甘酒が振る舞われる。これは浄光寺で行われる。
Q「村に電気やガスがきたのはいつか?」
大正後半から大正末期に電気がきた。しかし費用がかかるので、電気をひけたのは裕福な2、3軒の家庭だけだった。
村全体でひけるようになってきたのは昭和初期だった。
Q「子供の遊びは?」
こままわし、竹林から取ってきた竹でチャンバラ、パッチ(めんこ)、かみしばいなど。
Q「昔の若者の娯楽は?」
祭りや前原に一件だけあった映画館に年に5、6回いっていた。終戦後は、村で映画を買い、岡で上映していた。他に旅巡りの芝居小屋がくることもあった。
Q「若者が夜集まる場所はあったか?」
青年小屋といって家の二階や物置などどの家にもあった。花札や将棋をしていたが、盆過ぎは比較的柔らかいもち米のわらを石でたたいてやわらかくして、
牛のたずな(左縒りで三縒り)、むすで(いねをくくるもの)、ていき(牛のくら)をよなべしてつくった。三週間程続いた。
Q「若者が悪いことをしたりしたか?」
びわやスイカ、ミカンをとったりするものもいた。
Q「男女で仕事の違いはあったか?」
ほとんどなかったが、牛や馬を使う作業(ラツカイと言われていた)は男の仕事だった。
Q「恋愛はどうだったか?」
同じ村の中ではあまりなかった。
Q「結婚時の習慣は?」
昔はほとんど見合い結婚だった。紹介者がいて、男性を女性の家に連れていきお茶を出してもらった(よめごみ)。決めるのは男性のほうだった。
結婚が決まると紹介者(仲人)が女性の家に行き、嫁入りの承諾をとった。その際さかずきを贈った。結納の際は男性側が酒一升と鯛一匹を贈った。
嫁が家に引っ越すとき嫁の家から荷物をもらいに行った(にがえ)。
Q「隣の村の人が遊びに来たりしたか?」
顔なじみは遊びに来たりした。青年小屋で将棋や花札をした。しかし知らない者が入ってくると喧嘩になった。
Q「自警団はあったか?」
消防団がその役目を果たしていた。消防団に入ることは青年の義務だった。29、30、31日が年末警戒だった。
Q「
やはり主に米、他に洋ラン、いちごなど。
Q「津和崎のこれからについてどう思うか?」
九大が近くに移転してくることによって町はかわっていく。今の段階では津和崎は調整地区のなっており土地の変更はないが、いずれ人がながれてくる。
そうなれば交通の便が良くなったり、新たな店ができたりと、町は発展するだろうが、いづれ農業はできなくなる。自然も残したい。
現場ルポ
1月13日降水確率70%という天気予報に不安を感じながら天神駅につくと、いい天気だ。幸先がいい。今日は良い話しがきけそうだと言う予感
を感じつつ自転車で津和崎へ向かった。方向音痴の俺は地図と方位磁石を頼りにそれでも分からないところは道を訊ねつつ二時間半後どうにか
目的地である津和崎に到着した。今1時45分。約束の2時には少し早いが、お話を聞かせていただくことになっている中村重俊さんのお宅に
うかがうことにした。呼び鈴を押し玄関をあけ、「重俊さんはいらっしゃいますか」とたずねると、奥さんらしき人が、「今仕事にいっとるよ」
と答えた。自分はえっという表情のまましばらくかたまってしまった。落ち着きを取り戻し「いつ頃お帰りになりますか」とたずねると
帰る時間は決まっておらずわからないらしい。どうしようもないのでとりあえず「また後でお伺いします」といって重俊さん宅をでた。
いきなりのピンチだ。どうしようかと悩んでいると男性が一人歩いていたので、この辺で津和崎に詳しい古老の方紹介してもらおうと思い
声をかけると「九州大学のかたですか」ときかれたのでそうですと答えると「きょうは重俊さんが仕事でおらんからそこの敬一郎さんが話しを
してくれますから。」といわれた。重俊さんは自分の仕事が入ったので、他の人に自分に話しをしてくれるようにたのんでくれたのだ。よかった。
ほっとしながら目の前の男性中村重喜さんとともに中村敬一郎さんのお宅へ向かった。
洋間に案内されるとすでに敬一郎さんがまっていてくれた。「津和崎のことはしっとかないかん」というお言葉が実に頼もしい。すぐにいっしょに
話しをしてくれた中村宗市さんが来てくれた。三人も一緒に話しが聞けるとは実にありたい。早速敬一郎さんが分厚い
津和崎が海だったころの地図を広げて津和崎の歴史を話してくれた。また津和崎に多い中村性の由来を話してくれた。
「昔いと城の藩主やった原田の家老の側室がおってですね、本妻のやきもちがひどくてから吉田にうつされてからね、240、250年前に干拓事業がおこなわれてから
津和崎に移ってきたとです。」それが津和崎に多い中村さん達の祖先だということだ。ちなみに津和崎には簡牛という性も多いのだがこちらの祖先のほうが津和崎に
来たのは早いということだ。
それにしても津和崎に関する歴史の話しが続いている。それも重要な話しだが、第一の目的はあざ名収集だ。それをみなさんに言うと、
「わしは津和崎の歴史についてききたいっちいわれとったばってん」と少し困惑している。どうやら事前に電話したときの自分の説明がわるかったらしく
今回の調査の趣旨が正しく伝わっていなかったようだ。村の間だけで伝わるようなあざ名を教えて欲しいと頼むと「そういうのはなかよ」と
いわれてしまった。しかし時間がたつにつれてみなさんが思い出してくれて結構知ることができた。その一つのちょうもんばるの由来も非常におもしろいものだった。
「あくまでただの伝説でしょうけどね」と前置きしてから敬一郎さんは話してくれた。「昔秀吉が朝鮮征伐でこっちに来たとき、地元のもんが荷運びに
かり出されてから途中で金目のものがうせてしまってからその責任者がここで処刑されてその人の名前がちょうえもんやったけんちいわれとるね」
その辺の山は敬一郎さんが所有しておりそこから古い鏡が出土したことを教えてもらいその鏡を見せてもらったが所有者の敬一郎さんはそれを
いれものにいれてとても大事にしており手袋をして扱っておりこちらも緊張してしまった。また
奈良の正倉院に保管してあるという。これはコピーを頂いたので一緒に提出する。
堤防が決壊したという話しをしてもらったときはとても驚いた。「あん時は写真とったもんなあ」と宗市さんは昔を思い出すように遠い目をして言う。
農作業についての楽しみや苦しみについて訊ねると、三人とも苦笑いを浮かべながら「楽しみやら」と言う。「命がけやったもんねえ」というのは
けして冗談で言っているのではないと言うことが伝わってくる。田植えの辛さをこめたことわざも教えていただいた。
腰の痛さよ せまちの長さ
せまちというのは一つの田の長さで田が大きいほど田植えが長くかかり腰が痛いという意味で実に実感のこもったことわざだと思う。
また昔の食生活について訊ねると、敬一郎さんが学生の時は、弁当はご飯に梅干しが乗っているだけの日の丸弁当だったという。遠足の時などに里芋や
ばれいしょの煮付け、裕福な家でも卵が一個ついているだけだったという。また昔は芋で紙芝居がみれたというはなしや、昭和24年に前原にできたダンス教室の
授業料が一年で米1とだったいうはなしはいかに食料が大切だっかということをおしえてくれる。戦中や戦後には前原駅のまえに買い出しにきた
作ったという。また昔の博多駅の前では闇市が開かれおおやまという韓国の人がしきっていたという。
恋愛について訊ねるとみなさん少し笑って「17、18までキスちゅう言葉もしらんかったもんねえ、映画館で手を握るのが精一杯。ましてセックス
なんちゅうのはねえ」とまた笑っていた。
自警団について話してもらっているときスイカ泥棒の話が出た。戦後すぐに田のスイカをとって当時ではじめたオート三輪でくるスイカ泥棒がいたそうだ。
泥棒はスイカを乱暴にひきちぎるので根が浮いてだめになってしまうので、みんなで相談し、夜ランプを持って二人ほどで番をしたらしい。
最後に津和崎の未来について訊ねるとおもいがけず九大の話になった。そうだった。九大の移転先はすぐこの近くではないか。自分は「不便になるので
いてんには反対です。」というと「しかしこちらのもんからすれば交通が便利になったりするとよ」とおっしゃた。しかし人が多くなりいづれ農業は
できなくなる、自然も残したいということだ。学生からすればただ学校の場所が変わるだけだがそこに住む人にとっては生活基盤が崩れてしまうかもしれない
問題なのだからもっと深く考えなければいけない。
気がつけば3時間も経っていた。しかし本当にあっというまだった。三人にお礼をいって敬一郎さんのお宅をあとにした。これから2時間自転車を
こがなければならいがそれに十分報いる価値があると感じることのできる一日だった。
長い時間協力してくださった中村敬一郎さん、中村重喜さん、中村宗市さん、本当にありがとうございました。
追記 津和崎では昔は土葬が行われており宗市さんの祖父母の代までおこなわれていた