長 克重
塚本 武史
野村 洋嗣
僕たち3人は1年生の後期の教養科目の授業で福岡県の
でしか使われていない通称名(しこ名)を調べてくることだった。僕らは事前に手紙お送り武藤賢介さんになんとかお願いすることが出来た。しかも武藤さんは知り合いのかたを何人か呼んでくださるとのことだった。約束の日前日(12/21)3人で僕の家に集合して、最終的な事前のチェックをして準備を調えた。12/22当日、僕の運転で都市高速、高速をつかって何とか順調に野北に着くことが出来た。事前に道をほとんど調べてなかったので、このことは奇跡だったと思う。約束までに少し時間があったので野北を少し散策してみたところ、海も近く田畑、山に囲まれた自然がいっぱいあるのどかで、いい町だなと感じた。海のほうには寒いのにサーファーがたくさんいて驚いた。
約束の時間がきて武藤さんの家に行くと、奥さんとお孫さんが庭にいらっしゃって、武藤さんはすでに木村公民館のほうに行かれていたので、お孫さんに公民館まで案内してもらった。公民館に着くと、いらっしゃったのは武藤さん1人で、「他の人はみな都合が悪いげなたい。」と言われた。正直なところ僕らも2、3人のかたにお話を伺いたかったので、少し不安になった。しかし、武藤さんが、一度断られていた松尾さんというかたにもう一度電話してくださって、松尾さんの家でならOKということになった。そこで公民館から松尾さんの家に移動しようとしていたら、これまた一度断られていた平野さんというかたが来てくれた。
松尾さんの家に着いて6人でさっそく話を始めた。しこ名調査が最重要事項だったので、まずはしこ名について話してもらった。平野さんは考古学の勉強が趣味らしく、とても頼もしいし、松尾さんは役場の土木課の課長を勤めていたそうだ。しこ名調査には頼もしいメンバーとなった。小字矢田には「タロウベエヅカ」というところがあって、昔太郎兵という人がいて、矢田溜池があるところをすべて所有していたらしいが、殿様の一言ですべて溜池にされたらしいということだ。同じく矢田の「マゴメ」と呼ばれていたところは、池の中にヒルがたくさんいて、一瞬のうちに足とかにびっちり付くそうだ。かなり恐れられていたらしい。久米(来目とも書くらしい)には、「クメノサンクラ」というところがあって、昔の街灯とかが無い時代は、昼でも真っ暗で通ることを避けるぐらい恐い場所だったそうだ。同じく久米には「オオダッチョウ(大館庁)」、「コダッチョウ(小館庁)」と呼ばれていた所があり、それぞれ上級の士官と中級の士官の家があったそうだ。さらに地図には載っていなかったが「ヘヘリザカ」と呼ばれる40メートルくらいの急な坂があってその坂を登るときの勢いでおならが出るという意味がはいっているそうだ。向畑の中には「ナカツボネ(中局)」と呼ばれていたところがあって殿様の墓の1つがあったそうだ。ここでは考古学好きの平野さんが古墳の話をしてくれた。やはり古墳とかは大好きらしい。折口にある「ホシハラ(星原)」というしこ名は、悪さをしていた大蛇を退治した日の晩嵐になり、大蛇の死骸がこの地域まで流されてきて干からびたことからきているらしい。浜田には「ナカスガ」と呼ばれていたところがあって、部落の屋敷があったそうだ。社古田には「ゴウズドウ」と呼ばれた地域があり、湧き水なんかがたくさんでていたらしいが、今は埋め立てられてしまっていて、何もなくなってしまったらしい。ちなみに昔は‘たたり’というものに敏感で、武藤さんが所有している土地の中にもそういった場所があって、木の枝があたって失明した人がいるとか、いろいろな逸話があるみたいだ。今は発掘といっていろいろ墓を掘ったりしているが、昔の人にしてみれば、それすら気が引けることらしい。他にも「浦」にある安養寺にある桜を切ると切り口から血が出ていたとか、大きな松を切った人が船に乗っていて沈んでしまったなどなど。たたりの話になると、3人とも次から次に話してくれた。昔から言い伝えられてきたものがその土地その土地でかなりあるのだろうと思った。
昔の履くものと言えばぞうりだったみたいだが、ぞうりといっても「わらじ」や「あしなか」などがあったらしい。平野さんの時代は、3分の1が裸足で、3分の1が「あしなか」だったらしい。「あしなか」というのは、足の半分ぐらいしか覆うことのできていないぞうりらしい。もちろんその頃は、おさがりが当たり前だったということだ。
野北に電気が通り始めたのは大正8年かららしいが、当時は夕方の5、6時ぐらいにならないとつかなかったそうだ。だから、田んぼで仕事をしていて、電気がつきはじめると5時になったかと言っていたらしい。
近頃は冬になっても、昔と比べてかなり暖かいそうだ。昔の野北は冬になると辺り一面雪景色だったそうだ。そこで、松尾さんがふと「昔は、ふと〜かまがのこもできたんじゃがね〜」とおっしゃった。僕たちが「は?」というと、「まがのことはつららのことだよ」とおしえてくださった。たしかに僕が住んでいる
「祭り」・・・久米神社と、はにやす神社では同じ日(1/20)に、大箸祝というものを行う。その年に結婚した夫婦に箸をあげて、新郎新婦一膳ずつごはんを食べるもの。酒飲み放題。(久米神社は白ご飯。はにやす神社は味ご飯)
お庚申様祭・・・それぞれ地域別に庚申様をつくって祭るもの。白ご飯、おにぎりをたべる。
「水利」・・・野北には後田溜池、矢田溜池、浦溜池、渕浦溜池、田々羅溜池、水谷溜池
があり、昔はバラバラだったけど、今は1つの配管でつないでしまっていて
合同になっている。武藤さんのお話では合同にしてしまったほうが発言力が
増すなどメリットが多いそうです。また、それだけでは水が足りないので、
桜井川を堰き止めて水を供給していた。松本井堰は浦溜池の水の少なさを補
うのに非常に役に立っている。
「水害」・・・昭和27〜28年、桜井川が大洪水になって、あたり一帯がかなりの被害を
受けたそうです。死人もでたそうです。当時、青年団長だった武藤さんは、
糸島中の青年団を集めて、早朝から復旧作業に汗を流したと話をしてくれま
した。
昭和34年には前回以上の大洪水があったらしいが、前回の洪水で壊れてい
るところが多すぎて被害は大したことは無かったそうです。
これらの洪水などの対策として、野北では昭和40年から基盤整備事業が始まった。
1994年水不足の被害・・・野北では、すべての基盤整備が終わっており、雨を水に変える技術も導入されていたし、米の作付けも減っていたので、水不足の被害はなかった。戦後の用水路が整備されていないときのほうが、水不足問題は深刻だった。今はむしろ、安定して水を確保できているため、ビニルハウスで野菜、イチゴ、花、などを作る人が多くなっている。
〜武藤さんの剣道話〜
武藤さんは小学校のときから剣道をされていたらしいが、朝稽古が本当に辛かったそうで
す。霜がおりていようが、雪が積もっていようが外で練習していた、しかも裸足というこ
とを聞いて僕らはかなり驚いた。僕も高校のとき、剣道の経験があって冬の体育館の床は
泣きそうなぐらい冷たかったが、武藤さんの場合とは比べものにならない。
〜戦争と天皇〜
やはり戦争を経験されている方は、話が戦争の方にどうしてもいってしまう。今回も終盤
特攻隊の話などをしてくださった。また戦時中は直に見ることができなかった天皇も最近
では、人間になられたとおっしゃっていた。平野さんは話をしたこともあるらしい。
今回の調査は、自分のおじいちゃんぐらいの方から話を聞いてくるものだったが、かなり
勉強になった。ぼくらの何倍も長く生きてらっしゃるんだから、僕らの知らないこともた
くさん知ってらっしゃる。今回のことだけじゃなくて、家でおじいちゃん、おばあちゃん
と話すことも含めて年輩の方と話す経験というのは、これからの人生を送る中で財産にな
ると思う。手紙を送って僕らの調査のために時間を割いていただくようお願いした武藤さ
んは、ひと目見てわかるぐらい、いいひとで初対面のときから僕らは安心して話すことが
できた。年末の忙しい時期にいきなりお願いしたにもかかわらず、僕らの勝手な申し出に
応じていただいたことに大変感謝しています。
話の中で心に残ったことは、貧しさやきつい労働などの若いときの辛い経験が今の自分を
支えているということをおっしゃったことだ。剣道話も然りまだまだ頑張っていかなだめ
だと思った。
しこ名は次のようになる。
小字 松井のうちに・・・ナカツボネ(中局)
小字 久米のうちに・・・へヘリザカ クメノサンクラ コダッチョウ(小館庁)
ヤケマチ
小字 社戸のうちに・・・オオダッチョウ(大館庁)
小字 後田のうちに・・・ジロウタニ
小字 江極のうちに・・・トウレイシ
小字 社古田のうちに・・・ゴウズドウ ヒノクチ ヒルマチ
小字 矢田のうちに・・・タロウベエズカ(太郎兵塚) アシカタ(足型)
ツガタ マゴメ
小字 折口のうちに・・・ホシハラ(星原)
小字 浜田のうちに・・・ナカスガ
小字 辻のうちに・・・フルカワ(古川)
小字 奥のうちに・・・オダッチョウ(小館庁)
話を伺った方
武藤賢助さん(昭和5年生まれ) 松尾儀一さん(大正12年生まれ)
平野鉄助さん(大正4年生まれ)