大隈
しこ名一覧
田畑 コマツバラ コウソコ デキバタケ クロタ ムタダ(牟田田)
クマゾエ ヤナギ スキザキ チシャノキ ドウノウシロ
ミソブクロ
ほか(土地、道、坂、溜池、湧水、山、水路など)
ジョウガサカ トクイザカ トリゴエ ジゾウノオ オオボヤ ユビエンゴシ クズレ テンジンヤマ ニタギヤマ カワベリ ミズドウセ ヒハタシ ミナミノムカイ(南ノ向)ポウヤヅツミ
イナサクヅツミ イモッカウラ
しこ名の付いた理由(教えられた分だけ)
テンジンヤマ もともと中原神社があった所だからということ。天命四年に移ったらしい。中原神社は古い歴史があり大化の改新(645年)の頃にはそんざいしていたということだ。
トクイザカ 野北から魚を運んでくるお得意さんが通っていた坂だからという。
クズレ 土地が砂地でできているため崩れやすかったということ。
ドウノウシロ お地蔵さんの後ろ側に位置していたからか。
ニタギヤマ 煮炊き用の薪を取っていたからという。
ナカノヤシキ 庄屋の屋敷が近くにあったからか。
1月13日日曜日晴れ、絶好の調査日和。前日、雨の予報が出ていて心配していたが、それも杞憂に終わった。自転車で行くこと1時間30分、きれいな景色を見ながら楽しく林義助さん宅に到着した。林さんの奥さんが快く迎えてくれて、緊張していた私たちもその応対に少し心が落ち着いた。かわいい犬の歓迎もうれしかった。初めて会う義助さんも快活で気持ちよく私たちを迎えてくれた。家にお邪魔をして聞き取り調査に入ろうとすると義助さんが、近々志摩町で線引きと言うものが行われるために、ここで一度大隈のことをよく知ろうという動きが出ている。君たちの他にも役場の人たちとが大隈の歴史を知りたいということだから、ちょうど九大の人も調べに来て機会がいいので、みんなで一緒に話をしようということになった。古老の方たちにも来てもらっている。みんな公民館に集まっているから公民館に行こう、と言われた。これを聞いたとき最初はどんなことになるのかわからず戸惑っていたが、実際に公民館に行ってみてこれはとんでもなく話がでっかくなってしまったと思った。授業の一環として調査をしに来たのだが、それ以上のことを期待されているような雰囲気だった。というのは志町の付近に新しい九大キャンパスができるにあったて私たちが調査に来たと思われているようだった。これは気を引き締めてかからねばと思った。
公民館には古老の方たちも合わせて総勢10人程集まっていた。古老の方は3人いらっしゃってお名前は小川義人、中隈久太、中隈正喜さんである。他に役場の人やモデル地区を推進する人がいた。まずお互い自己紹介を行って私たちの調査の目的と趣旨を話してからしこ名を聞き取る作業に入った。ここで録音用に持って行ったテープレコ−ダーが壊れて使い物にならなくなるというアクシデントが起こってしまった。聞き逃さないようにしっかり聞かねばならないと思った。しこ名は地図を広げて知っている名を言って指し示してもらった。しかしなにぶん人数が多くてみんな手当たり次第に言っていったり、話が横道にそれてしまったりして、聞き取りがなかなかはかどらなかった。船頭多くして船山に登るといった状態である。また事前に渡されていた小字の載った地図は古すぎていたのと道が細かく記されていなかったため、わかりずらく調査に適当ではなかった。かといって住宅地図では新しすぎて役に立たない。せめて松隈を中心に据えたもっと細かい地図が用意できていれば良かったのにと思う。そうすれば今回聞き取れた30個のしこ名の2倍は集められたかもしれない。古老の方たちももっと細かいのがほしいなー、まだまだたくさんしこ名はあるのにと仰っていた。ああ惜しかった。加えて、私たちがイニシアチブを握れずに上手くまとめることができなかったということも反省すべき点である。まだまだ未熟なのだということを思い知らされた。しかし拙いながらも多くの話を聞くことができた。松隈とその近くには湧水と溜池がかなりあって、田畑を潤している。湧水ひとつで溜池を作ったというのもあった。また山太郎溜池と初川を?ぐためにミズドウセと呼ばれるトンネルを作って水を運んだ。このトンネルは管みたいなもので全く大きなものではないらしく、古老の方たちもその技術に感嘆しているようだった。地図で見る限り500メートルはある。また田と田を通して水を運ぶという仕方を取り入れているところもある。飲み水としては井戸水を使用していた。井戸はその道の専門の人がだいたい掘っていたが、自分たちでも掘っていたらしい。3日で一本掘れて、その水を果樹園の消毒に使っていたという。松隈は真水が出ていたからいいものの糸島のほうでは海水が出て使い物にならネかったということだ。水利の慣行としてはどの溜池がどこまでを潤すか使用範囲が決められていたという。しっかり管理人を置きみずあらそいなどはなかった。その管理人は選挙で選ばれていた。
そして、しこ名の次に林さんを含め古老の方たちに当時のことについて語ってもらった。 まず古い順に育てた作物の話から進んでいき、古老の方たちにとって一番印象深かった出来事は蜜柑の構造改園であった。これは、松隈と馬場(主に松隈)の山を切り開き蜜柑園を増やす計画であり、昭和40年頃から始められていた。中隈政喜さんは、
「蜜柑の構造改園。あれは18町から38町まで増えた大規模なものだったなあ。あの頃は山半分が蜜柑園になったものだよ。」と熱く語ってくれた。その時に公民館の航空写真(昭和50年撮影)を棚から下ろし指で指し示しながら分かり易く教えてくれた。昭和50年の松隈は蜜柑園で埋め尽くされるほど多く蜜柑の木が整然と並んでいた。蜜柑の木を植えるにあたって大変なのは山の斜面の開墾、そして消毒液を散布することだったらしく、何度もその話を聞いていた。そのせいか海側の平野には水利にちなんだ小字が多いように、山側には土壌に関する小字が多い傾向があるようだ。 蜜柑の構造改園が行われる前は芋畑や麦畑、水田、そして桑畑があちこちに存在していたそうだ。戦前は専ら芋畑が多く、私も小学校の校庭を畑にして芋を育てていたといった話を聞いたことがあるが、食糧不足の時代は芋で生活を成り立たせているという事実は今の時代からとても想像ができないと改めて自分の生活を振り返ってみた。麦畑は米の裏作として作られており、菜種なども一緒に作られていたそうだ。米に関しては乾燥方法の話が盛り上がり、「小づみ」という言葉が飛び交う中で、その言葉が分からなかったので「小づみってなんですか?」と尋ねると、小川義人さんは、
「昔は当たり前じゃったが今の人はわからんで当然かいのう。小づみって言うのはな、稲を円形状に並べていった小さな家のような物のことだな。これは乾燥しやすいんじゃよ。もう一つ乾燥方法があっての、それは掛け干(かけぼし)といって竹で小さな物干し台を作り束ねた稲をかけるものなんじゃが、これは戦前からあってよく使っていたよ。やっぱりこうゆう言葉は実際米作りをせんと分からんけんのう。わっはっは。」と教えてくれた。
水田の話で水利の事も当然出たが田んぼを通して水を流していたのにはよくできていると思った。 次にもう一つ蜜柑の構造改園の前に育てられていた蚕の食べる桑畑の話だが桑畑は当時農地面積の大部分を占め昭和初期から衰退し始め昭和10年までに全てつぶれてしまったそうである。このことは話をしてくださった古老方の5,6歳の頃だったので本当に昔のことであまり覚えていなかったので話ができなかったのである。また桑畑の後には芋、麦の他に煙草の栽培をしていたそうである。 交通の便についても話をし中隈政喜さんは、
「君たちは城南区から自転車できたんじゃろうが、わしらは芋を売りに自転車に80キロ積んで舗装してない道を町(中央区あたりまで)までこいでいったものじゃよ。あんころはタイヤも木で縁が金でできているもんでこぎにくかったなあ。」と懐かしそうに話していた。松隈の人たちにとって遠くに行くときの用事は養蚕を前原に持っていったり塩を前原から買ってきたりなど商売以外頻繁にはあまり遠くには行かなかったようである。 松隈にも祭が盛んに行われていた。当時から日にちはきちんと決まっており4月8日のお釈迦様の誕生日、4月14日の山の田のお地蔵様のお祭、10月の「かさどめごもり」と大きく3つ存在し、それぞれ詳しく教えてくれた。そのためには組合の紹介が必要で松隈には3組合がある。「小路」「引路」「門前」があり祭のときに1組合に当番が割り当てられるのである。割り当てられた組合の人は朝はやく会場(例えば中原神社・寺)に来て掃除をし、昼には他の組合の人が来て一緒に弁当・酒を飲み食いするそうで、この行事は今でも続いていると語ってくれた。この祭の主旨は組合同士、または組合内の親睦深めであり、みんなが楽しみにする行事だそうだ。 小川義人さんは、
「前は子供相撲やちょうちん作りもあってかなりにぎやかにやっていたときもあってな、あの頃はちょうちんが綺麗に光っとったのをよう覚えてるねえ。」と、うれしそうに言った。
自分たちで作った手作りのちょうちんが夜にきらきら輝くその光景は、聞いている私たちにも赤や黄色のちょうちんが頭に浮かび、小川さんのやさしい口調によって耳にしばらく滞っていた。 祭の次は青年会と壮年団の役割や具体的内容、裏話などを聞き当時の青年の暮らしぶりがよく分かった。青年会は小学6年、高等2年を終えてから入ることができる。3・4名のグループの集まりで構成され6畳ぐらいの部屋で夜楽しく過ごしていたようである。 何をしていたのかというと牛の道具・閧主にしていて、中隈久太さんは、
「青年会の大会みたいなのがあって牛にトラックを走らせて競争するもんだったな。ここは松隈と馬場が一緒になって大会に出たけど、牛を調教するのはまあ難しいこっちゃなあ。
ばってんが、政喜は県大まで進んだんだよ。あれは道具作りも大切だが勝負に勝つには牛の質が大事だったんだ。」と思い出しながら語ってくれた。牛というと手に入れる方法が気になるところだが「ばくろう」という牛買いの人がいたようで、かなり口がうまかったそうだ。牛を使用していた時期は昭和35・6年だったそうだ。壮年団は25歳からの参加であるがその時はもう一家の働き手であり、青年会の監督が主である。ここで牛の話が出でいるので触れておきたいがマニュアルには牛洗いが珍しいと書かれていたが松隈では馬洗いより牛洗いの方が多い。農作業が終わった夕方、湧水地に牛を連れて行き牛を洗ってやったと古老方は話していた。 古老方の小さな頃のあそびはこま回しや、わな作りで遊んでいて特にわなには「けらはご」「れんがわな」「かっちょわな」といろいろ名前があった。自分たちの想像とは違いどのわなもかごをかぶせてとるのではなく、鳥がのった瞬間に台が落ちて出られなくなるわなだった。当然取ったあとは焼いて食べるわけで、とりたての鳥はおいしかったと、古老方は誇らしげに話していた。 話も酣になると夜這いのことについても話題にのぼったわけであるが、やはり松隈にも夜這いは存在していた。古老方の話では、
「今の若い衆は外で手を繋いで歩いても悪くないが、昔はそんなことはできんかったから夜這いみたいなものががあったんだな。 まずはな、先輩の下駄持ちから始まってそとで待っとるんだ。そんで終わったらさっと帰るんだよ。わしらもやったりしよったが、先輩のほうが成功率が高かったな。そうそう、青年会の集まりのときも出会いの場だったな。わしらは昭和3・4年生まれなんで思春期に終戦で時代が変わるときだったんで、なかなか上手くいかんかったよ。時期がわるかったんかな。まあ今やったら、かなりいけてると自信があるんだがの。」と言っていた。話を聞いて私は4人の方とも積極的であるが誠実だと感じられた。いつの時代も男女の出会い、交流は多様でいろんな姿が見られるが、この頃の話を聞くと何か暖かみのあるほのぼのした内容に思えてくるのは私だけであろうか。 農業の楽しみ苦しみについて聞いてみると、楽しみはやっぱり作物が実ったときらしい。しかしその楽しみも丹精こめて作った作物が安く売られたときは一気になくなるということである。果樹園をやっていたときがそうらしい。50年頃からみかんの価格がいっきに下がっていくら作っても利益にならず、苦しみが続いたという。総じて百姓は割に合わないというのが皆さんの見解であった。作れど作れど赤字になってしまう。だから農業をやろうという若者が少なく、農家は年々少なくなっているという。また専業農家もめっきり少なくなって、兼業農家がほとんどである。以下はみなさんの農業に対する思いと今後の展望である。 今の世の中はあまりにも経済面を重視しすぎている。例えばこの前のセーフガードの件である。結局中国の圧力に負けて発動しなかった。外国の安い農作物に押されて農家は困窮しているというのに、工業・産業を中心にして経済政策を行っている。このままだと日本から農家は消えてしまう。いくら外国産の農作物が安いからといって、それに頼りっきりになっていいのか。外国の物は農薬を大量に使用した人間に害を及ぼしかねないものである。世間にはそういう認識が乏しいように思う。狂牛病があれだけ大きく問題になったのに、このことに関してはあまり騒がれなかった。このことにはマスコミにも責任がある。マスコミは視聴者が最も好むタイムでホットな話題にしか興味を示さない。マスコミ側が情報を操作しているに等しいのではないか。もっと国産の農作物に目を向けてほしい。一方で農家の方も改革していかなければならない。これまでは農協に収穫物を入れたり協販で売りさばいていたが、これからはもっと直売を増やしていく必要がある。そうしなければ生き残れない。しかし直売ばかりをしていると共倒れになってしまうので、協販をやりつつ直売を行っていかねばならない。そしていい品物、いい品質を消費者に提供していくことが必要である。他と差別化を図るということである。また経済面からだけでなくもっと別の視点から考える必要もあるのではないか。農村にはきれいな水、澄んだ空気、美しい土地がある。そこをもっとみんなが認識して理解するようになれば、日本の農業を大切にしようという思いと農家を目指そうとという後継者たちがもっと多くなると思う。こういうようなことをみなさん熱く語ってくれた。 最後の方で中隈さんがこんなことを仰っていた。農業は資金力・熱意(気力)・技術があればやっていける。それだけあればいい、と。調査をしていく中でみなさんの熱意と技術の確かさはひしひしと伝わってきた。あと足りないとすれば、十分なお金であろう。これだけはどうしようにもない。世の中がもっと自国の農業に目を向けてその危機に真剣に取り組んで行くという姿勢が必要である。本当に今の日本の農業は危機に瀕している。 今回の調査を総括してみると、まだまだ不十分な点があるということになる。その最もな点はしこ名の収集にある。まだまだ多く、そして的確な位置に取れたはずだ。もっといい地図があればいいのだが。どうすれば手に入るのか。いろいろ探してみる必要がある。再び松隈に行って現地を歩いてしこ名を調査することを林さん方とも話がついているので、もう一度赴くことになる。また松隈の今と昔をみなさんから聞きそして今後の農業の展望を伺い、これは人事ではないなという思いがした。本当に農家は苦しんでいる。そのことを誰もが認識をして何かを変えていかなければ、日本の農業は10年後、20年後消滅してしまう。そんな危機感が私たちの胸に湧いてきた。今回の調査を行い、私たちは新たに考えさせられた。これまでとは違った視点を得ることができた。大学の中では得ることのできない勉強、そして経験をさせてもらった。これを今後どのように生かしていくか、私たちに課せられた問題である。