姫島に関する調査〜役場には残らないしこな集めを中心に
馬場 多聞
調査日 平成14年7月23日〜7月24日
調査地域
調査方法 現地古老からの聞き取り
調査内容 しこな集めを中心として、姫島の歴史等を調査する。
調査者 九州大学文学部人文学科2年 馬場 多聞
姫島とは?
糸島半島の北西4.0kmにある円すい型の島。面積は0.75平方km、周囲3.8km。標高187m(鎮山)で南斜面に集落がある。江戸時代は捕鯨が盛んで遠くは壱岐まで出稼ぎをしていた。その後、定置網漁へ移行し、近年では釣、刺網、採貝藻が主となっている。人口は約240人。
姫島の見所
野村望東尼の御堂、姫島八景(姫島の秋月、岐志浦帰帆、神集島夕照、芥屋濱落鴈、南林寺晩鐘、可也山晴嵐、浮獄景雪、大門夜雨)、坊主の首、産の穴、姫島神社、鎮山、綿積神社、ゴーラなど。
姫島の自慢
特産物 姫島ビンウニ
土産 姫島ビンウニ、ワカメ、ヒジキ
郷土料理 アオサ汁
やど 港の近くに民宿3軒。いずれも6000円〜。
姫島の人々のくらし
平成3年度、上下水道が整備された。
漁業後継者はほかの漁業集落に比べて多い。
島の北東部に大型の定置網(大敷網)がある。年間通じて旬の魚が取れる。
かつて、2万7000尾の寒ブリが獲れたこともある。
(以上、SHIMADASより)
7月23日 快晴
12時半、このレポートの締め切りは7月いっぱいだったことをふと思い出した。姫島に関する情報はすでにある程度得ている。足らないのは姫島の小字一覧表だけだ。資料をもっている志摩町役場まで私の家から自転車でおよそ1時間半。天気もいいことだし、サイクリングがてら取りにいくことにした。思い立ったときにやっておかないと忘れかねない。
見慣れた道を、自転車で駆けて行く。福岡市を抜けて前原、さらには糸島にはいる。建物の数は明らかに減っていき、水田を多く見るようになる。道はずっと平坦だ。
糸島に行くのは何度目になるだろうか。あるときは芥屋まで累計3日間も調査に行き、またあるときは体力をつけるために野北の海岸に自転車を走らせた。それに、ついこの前芥屋の海水浴場に暇をつぶしに行ってきたばかりだ。
14時を少しまわったくらいに、志摩町役場についた。炎天下のなか、日除けもなにもつけないで来たせいか、思ったよりも疲労していた。先に役場のそばにある志摩町歴史資料館にはいり、姫島のパンフと簡単な小字の地図をいただいた。ここで十分な資料を得られればと思っていたが、やはり役場に行かないといけないようだ。
役場の税務課で同じような小字の地図と一覧表をコピーしていただいた。これで必要な資料はそろった。また明日にでも出直そう。今日はもう遅すぎる。でも、まてよ。またこんなきつい思いをするのか?今日行っちゃえばすむことではないのか?
気づいたときには岐志にある姫島渡船場を目指していた。ここからは日に4回、姫島に向かう船が出ている。着いたのは15時半。まだ16時の便と18時10分の便とがある。どちらに乗っても今日中には帰ってくることはできない。着替えもシュラフも持って来ていない。しかしここまで来たのだから・・・渡るしかない。
16時の便に乗ることにした。大人は片道460円。船内で乗務員から直接購入する。私は自転車も共に行くことにしたので、さらに100円かかった。所要時間16分。乗客は私も含めて10人程度。みな姫島に住んでいる人のようだ。旅客定員90名だから、ひどくがらがらに感じる。
あっという間に姫島についた。思ったよりもうんと近い。船から降りるときに乗務員に切符を渡した。自転車を押して波止場へあがる。腰が痛い。
新しく作られたらしいベンチに腰をかけて、資料を広げる。自分の本日の行動に少し反省をしながら、これからのことを考えた。この島にはお店は一軒しかない。そこで何か食べ物を買って、店員からこの島の古老を紹介してもらおう。でもその前に姫島探索だ。
まずは島の西の方へ向かった。自転車だからすごく楽だ。舗装された西海岸道路を進んで行くと、きれいな学校があった。姫島小・中学校だ。さらに進むと道路は行き止まり、岩場にでる。でかい岩、姫島の名所のひとつである龍瀬がみえる。夕陽と波しぶきをあびていて綺麗だ。
次に島の東側へ向かう。東海岸道路には多くのからす、鷹(だと自分は思う)がいた。西側と同じように道路は途中までで、その後には岩場が続いていた。島の人々の居住範囲は、島の南側である港付近だけで、それ以外には人は全く住んでいない。だから道を最後まで(島を網羅するように)舗装する必要はないのだ。
岩場に降りて先に進んでみることにした。歩いていると汗が大量に吹き出してくる。すぐにシャツが濡れたようになった。夕陽が見え始めたころ、産の穴についた。姫島神社の女神の出生場所と伝えられているところで、2つの岩穴がある。双方とも奥行きはほとんどなく、中には波によってやってきた粗大ゴミ(?)が眠っていた。
さらに歩く。前方に高い岩が見える。頂上にはお坊さんの頭を思わせる奇妙な岩がある。坊主の首である。途中すべり落ちそうになりながらも、頂上まで登りきった。先へ行こうといたが、坊主の首から先に降るのは、高くて怖かったので断念した。
再び港に戻ってきた。家々のあいだをくねる道を通って、野村望東尼(ノムラモトニ)遺跡へ向かった。野村望東尼は、文化3年(1806年)、福岡藩士の三女として福岡城下(現在の福岡市中央区)に生まれた。歌人として活躍していたが、幕末期、勤王運動を陰で支え、志市たちを匿ったり荷担したとして、福岡藩の「乙丑(イッチュウ)の獄」で慶応元年(1865年)11月より、高杉晋作の命で翌年9月救出されるまでの10ヶ月間遠島となった。そこには平成5年に建立された野村望東尼胸像や、御堂と歌碑もあった。
そして姫島唯一の店、シーガルショップに入る。小さなスーパーのようなものだ。品揃えはあまりよくなかった。飲み物とカップ麺を購入して、店員に姫島の歴史に詳しい古老について尋ねた。すると漁協の組合長が詳しいんじゃないかということ。電話でアポをとってもらい、店のすぐ横にある漁協に向かった。
「すみません。」出てきたたくましいおじさんにわけを話すと、組合長室に通された。「九州大学で歴史を学んでいる馬場といいますが・・・」簡単に事情を説明した。名詞を渡されて、腰をかけるように言われた。漁協の組合長、森勘一さんは戸惑いながらも、時には漁協の若い人を呼んで私の質問に答えてくれた。森勘一さんからの聞き取り結果は、別紙に記載する。
森さんから得た情報だけでは不十分だったのでさらにほかに詳しい人を紹介してもらうことにした。いろいろとたらいまわしにされたあげく、あるおばあちゃんのところに行くように言われた。とおりかかったおばちゃんに道案内を頼んで、おばあちゃんのところに向かった。電話で連絡を取ってもらっていたので、おばあちゃんは友人と話しながら外で待機していた。彼女の名前は吉村マサヨさん、その友人は西川松枝さん。外で聞き取り調査をやることになった。結果は別紙に記載する。
日が暮れてきたのでマサヨさん方からの聞き取りを終了した。翌日は西海岸でウニ取りがあるそうだ。台風が近づいてきているのでどうなるかわからないが。台風が近づいているなど全く知らなかった私は驚いた。欠航になったら帰れないではないか。どうしよう・・・。
閉まりかかっていたシーガルショップへ行き、カップ麺にお湯を注いだ。近くのベンチでラーメンを食す。月がほとんどまん丸で綺麗だ。明かりに虫が集まっている。ぼとっと何かが落ちる音がした。近寄ってみるとクワガタの雌だった。何年ぶりだろうか、クワガタを見るのは。しかし彼女はほとんど動かない。もうすぐ死ぬのだろうか。ペットボトルのキャップにつかませて、私のそばにおいておくことにした。まだ寝るにははやい時間だったが(このとき9時)、横になることにした。疲れているのですぐに寝られるだろう。
寝られない。蚊が多すぎる。体中を無数に刺されている。かゆい。蚊が少なそうなところを選んだつもりだったが失敗したようだ。おまけに前のシーガルショップには、夜中だというのに老若男女が自販機にジュースを買いにやってくる。そのたびに妙な視線でみられるのがわかる。場所を変えることにした。
やはり寝られない。もう時計は2時をまわっている。かゆすぎるのだ、とにかく。滑り台のうえでも寝てみたが、やはり蚊がいて寝られない。失敗した。虫除けスプレーくらいもってくればよかった。というか泊りでくるべきではなかった。
7月24日 曇り 台風接近中
気付いたら夜があけていた。ぜんぜん寝た気がしない。漁船の数が昨晩より明らかに減っている。皆漁にでたようだ。最初に寝ようとしたベンチのところに行くと、子供たちがわんさかいる。どうやらラジオ体操があるようだ。せっかくだから私も一緒にやることにした。ラジオから音楽が流れてくる。久しぶりだから、いまいち体がついていかない。周りの子供たちをみながら頑張る。ところが腰を回す運動のときに、腰に鈍い痛みが走った。思わずうずくまる。お母さん方にひどく心配された。まだ10代なのに・・・。
ラジオ体操が終わった後、何人かの子供たちがたけぼうきをもって清掃をはじめた。皆楽しそうに掃除をやっている。
ふと気付いたのだが、姫島の人びとの言葉は、福岡弁と大差ない。以前玄海島に行ったときは、その言葉の速度に驚いたのだが、姫島に関してはそういうことはなかった。
また、車がこの島には2台しかない。それもナンバープレートがついていない、古びた軽トラとワゴン車。主として店への搬入に使っているようだ。また、バイクもない。どうりで静かなわけだ。
すこししてシーガルショップがあいた。またもやカップ麺を購入。シーガルショップに付随しているアイランドテラス(おじさんたちの溜まり場のようだ)でカップ麺を食べる。お湯がぬるくて麺がかたかった。
食べ終わって資料を眺めていると。昨日2,3言話したおばちゃんが店にやってきた。どなたか地名に詳しい人を知らないか尋ねてみる。するとその人のところまで連れて行ってあげるとのこと。喜んでついていく。
船の近くでなにか作業をしているおじさんを指差して、「あの人のところに行ってごらん」と言われた。おじさんにわけを話すと、「ここではなんだから」とアイランドテラスで話を聞くことになった。おじさんの名前は須田幾雄さん、さまざまな質問に、集まってきた友人と話しながら詳しく答えてくださった。須田さんからの聞き取り内容は別紙に記載する。
10時過ぎ、須田さんからの聞き取りが終了した。しかし船は10時にでてしまったばかり。次の船は15時だからそれまで待たなければいけない。空は曇っているが、台風による欠航はなくなったようだ。よかった。
することもないので堤防で昼寝。風があってすずしい。子供たちが砂浜で遊んでいる。波が高くなっているので少し不安に思ったが、なれているようだ。
足がもそもそする。起き上がってみてみるとフナ虫がくっついていた。時計をみると14時。もう少しだ。
ボケーと空を眺めていると、すぐに1時間がすぎた。船に乗り込み、後部の寝られるスペースで横になる。船が動き出した。姫島がどんどん小さくなっていく。ありがとう、姫島。のんびりできるところだった。ただし、この日の夜、発熱しました。
聞き取り結果
森勘一さん 昭和14年7月23日生まれ 63歳
畑に関して・・・40年くらい前までは山の上の方まで畑を作っていた。今はほとんど
作っておらず、以前畑だったところは山に戻ってしまっている。どうして作らなくなった
かというと、農作物は収益が少なく、また、高度経済成長期の際に、若者が島から出てい
き、畑をつぐものがいなくなったことが大きい。そのころは半農半漁だったが、今はほと
んど専業漁。たいていのものは本土から仕入れてきている。
吉村マサヨさん 大正12年7月9日生まれ 79歳
西川松枝さん 大正14年12月15日生まれ 75歳
部落(ブロック)に関して・・・島は一応小字分けがされているが、島の人々はほとんど
使わない。かわりにいつのころからか人々が住んでいるところを部落(ブロック)分けし
て、その名をよく使うようになった。以下、その一覧。範囲は地図を参照。
西方(ニシガタ)
向方(ムカイガタ)
浜方(ハマガタ)
先方(サキガタ)
炭に関して・・・戦時中は2、3軒が焼いていた。
戦争に関して・・・戦時中は自分たちがつくったイモなどを食べていた。砂糖などは本土からの配給で得ていた。島の若い男は兵役でとられていったが、マサヨさんのだんなさんは足に怪我をしていたので島にのこることができた。14人くらいが戦死した。若い女の人たちは挺身隊として本土の工場に働きに出ていた。年をとった男の人は漁を、年をとった女の人は畑仕事をしていた。島の上空を米軍の飛行機が飛んできて、海上の船に威嚇射撃をすることもあった。姫島自体には波止場以外には爆弾が落ちたことはなかった。博多空襲のときは空が真っ赤に燃えているように見えた。もはや恐怖など感じず、どうにでもなれという気持ちになった。兵隊が鎮山に終戦まで10人ほど自炊しながら隠れていた。
須田幾雄さん 昭和6年5月20日生まれ
旱魃について・・・旱魃はあまりない。姫島には水はわりとあり、井戸も35箇所ほどほられていた。昭和50年代に水が1ヶ月ほど涸れたことが2、3回あったが、そんなにひどいものではなかった。
雨乞いについて・・・雨乞いにかぎらず神頼みをすることはほとんどなかった。
現在の水事情・・・現在は島の西側2箇所でボーリングしている。18メートルの高さのところで60メートル掘っている。塩分は全然含まれない。
水田について・・・須田さんが生まれるよりずっと前にすこしあった程度。詳しいことはわからない。今はまったくない。
共同作業について・・・あった。かせいとよんでいた。しかし親戚同士でやるくらいで、普通はやらない。
家畜・・・氏神様(姫島神社の女神)がきらうので飼っていない。だが、実は近所の人がいやがるからである。大正時代には牛がいたようだが、その用途は不明。何にも使っていなかったのかもしれない。
草切山・・・なかった。
薪について・・・山のあちこちから手に入れていた。しかし30年以上つくっていない。プロパンがはいってきたため。
入り会い山について・・・神ノ木の北側にあった(地図参照)。国の山だが、ムラヤマとよんで、椿をとったり、戦時中にはかまど用の枯れ木を拾ったりしていた。椿をとることをカタイシチギリとよんでいた。カタイシは椿の実、チギリは木からもぎとることをいう。椿の実は、くだき、もして、木ではさんで、搾り出していたそうだ。虫がたくさんいて「いやらしかった」らしい。椿の実の解禁、クチアケもあった。しかし、それも昭和30年ごろまでのことで、いまはやっていない。
山焼きについて・・・個人で畑を焼くことはあったが、山を焼くことはなかった。
昔の暖房具・・・薪でかまどをおこしていた。
食について・・・甘藷や麦で生計をたてていた。米は本土から買ってきていた。米にはまる麦をもみをとってからゆでて(そのままだとかたいから)まぜていた。米と麦の割合は3対7。すこしずつ米の割合が増えていった。また、まてがしの実を拾って、炊いて食べていた。あわご飯は麦ご飯よりもおいしかった。
昔の道・・・舗装される前は土を並べた感じ。とがった石などもでていたが、水はけが悪くなるのでどけたりはしていなかった。
島にやってきた人・・・衣料の行商人が、終戦後一番よくやってきていた。ついで多かったのが果物の行商人。島の知り合いの家に泊っていた。
蓑について・・・須田さんの父親の代は、自分たちで蓑を作って着ていた。
自給できるもの・・・野菜の自給率は20%ほど。ほうれんそう、キャベツ、ねぎ、なす、馬鈴薯、トマト、スイカ、きゅうり、はくさい、たまねぎなど。たまねぎはけっこう多くとれ、すこし購入するだけでたりる。
みかんについて・・・昭和30年代、みかんを育てればもうけると思って植えてみたのだが、製品になるものがとれず失敗。結局漁が一番もうかるということで、今ではやる人はいない。
おかしについて・・・さとうをなめていた程度。干し柿、勝ちぐりなどはなかった。
青年クラブについて・・・くらとよばれていたが、島内に4ヶ所ほどあった。男だけのものしかなかった。眠るだけの場所で、規律も厳しくなく、上級生からの制裁などもまったくなかった。10月10日から3月10日の夜の9時あたりに夜警にでていた。くらでは酒もたばこも禁止だった。スイカを盗んで食べたことが2回くらいある。犬を食べることはなかった。
よばいや共同風呂は?・・・どちらもなかった。
風呂、トイレについて・・・終戦後は個人の家に風呂ができていった。しかし、風呂、トイレは、臭いという理由で別棟に作られていた。
恋愛について・・・島の外に行くようになるまでは島内恋愛が普通だった。子供たちが高校に行くようになってからは、島外の子とつきあうようになっていった。
祭り、行事について・・・以下のような祭りがある。パンフレットには誤ったことも書いてある。以下が正しい。ほとんどが昔からあるもの。
元旦際(1月1日)
十日恵比須祭(1月10日)
ハツンマ(2月午の日) 個人の家のお稲荷さんをまつる。島内に30軒ほどある。
フノリ摘み(3月中旬) 婦人部の運営資金となる。
志摩望東会(5月16日) 志摩町主催。
曽根崎綿積神社祭(5月10日)
小・中学校大運動会(今年から5月の第4日曜日)
ウニ漁解禁(6月・7月)
ギヲン(7月15日)山笠
盆踊り(8月14、15日)
姫島体育祭(10月) 大人はバレー、子供はドッジボールをやる。4ブロック対抗。
金毘羅様(10月10日)
神事(ジンジ)(11月15日)
姫島文化祭
格差はあったか?・・・なかった。
祭りの参加・運営は平等だったか?・・・平等だった。
戦争による影響・・・若い男がいなくても年寄りによる漁でやっていけた。戦争未亡人は再婚することはほとんどなかった。戦争に行った男に妻帯者は少なかった。
姫島の変化、これから・・・生活が都会のそれをとりいれてきた。水洗トイレの設置はまわりの島々でもはやいほうだった。これからも都会の真似をしていくかたちで変わっていくだろう。
小字一覧
計4人の方から聞き取りをしたのだが、小字に関しては相違が見られなかったのでまとめて記す。役場で手に入れた資料と読みが違うものがいくつかあった。小字の範囲は地図を参照。
東浜 ヒガシハマ
コロバカシ コロバカシ
大立 オオダテ
白石 シライシ、シロイシ
大久保 オオクボ
板石 イタイシ
神ノ木 カミノキ
平畑 ヒラバタケ
中西 ナカニシ
野ノ中 ノノナカ、ノンナカ
平 タイラ、ダイラ
烏帽子 エボシ(姫島の北にある瀬)
しこな一覧
主として須田さんからの情報である。島の人々は口で読んでいただけなので基本的に漢字はない。
ゴーラ 曽根崎の沖合いにあり、遠くまで浅瀬になっている。東西の潮がぶつかる場所で、5月の大潮には、岩礁が海面に顔を出す。
カブトイシ 兜のような形をした石。
サザエ瀬(サザエゼ) 潮が引いたときにでてくる瀬。サザエが多くいる。
い貝瀬(イガイゼ) 潮が引いたときにでてくる瀬。い貝がたくさんいる。
ナガバタケ 何百年か前、段々畑の石垣が長く続いていた。
産の穴(ウソノアナ、ウブノアナ) 姫島神社の女神が産まれたとされる場所。2つの岩穴があり、白い丸石が敷きつめられたようになっている。お産の神様として、毎年島外から多くの人が参りにくる。パンフレットにある産の穴の位置は誤り(須田さんとその友人との議論の結果)。
移り瀬(ウツリゼ) パンフレットの位置は誤り。
赤瀬(アカセ) パンフレットの位置は誤り
亀瀬(ガメゼ)
坊主の首(ボウズノクビ) 玄海灘の荒波と風がつくりだした奇岩。お坊さんの頭を連想させる。
オキゼメ
穴口(アナグチ)
セメ
カマブタ 潮が引いたときに出てくる瀬。
龍瀬(タツゼ) 本来は立瀬と書いていた。
クエト− 水害起こったときによく崩れる場所。崩れるときの音からこういった名称がついた。
ササヤマヅカ 笹山が付近にあるため。
ハカシタ 以前墓がならんでいた。
シミズ
タテガキ これはマサヨさんしか知らなかった。須田さんと彼女との年齢差は10歳ほど。それゆえか?
ササヤマ 笹が生えているため
コミカミイシ 以前の段々畑の石がたくさんあった。
ワラン 石垣が少し残っている。
鎮山(チンヤマ) かつて海賊の襲来に備えて遠見番所が置かれていた。
辻(ツジ)
横山(ヨコヤマ)
ムラヤマ 国有林いったいをさす。
ウートー
オオミゾゴウ 畑を作っているころは水が通っていて洗濯などをしていたが、今は涸れている。
曽根崎(ソネザキ)
(ミチキリ) 以前はあったが今は埋め立てられて存在しない。潮が満ちると通えなくなっていた。
お墓に関して
以前は島の西側の浜辺沿いにお墓があった。地図でいうハカシタあたりであ
る。大雨や台風のときには、お墓のなかの棺おけが流れ出すということもあっ
たそうだ。
しかし、西側道路を整備する際に墓碑はすべてとりこわされて、かわりに納
骨堂がつくられた。よって現在姫島に墓碑は存在しない。島で亡くなった人は
火葬されて、その骨は納骨堂に納められる