第二次芥屋における調査レポート

 

調査日 平成13年6月29日〜平成13年6月30日

調査地域 福岡県糸島郡志摩町芥屋のうち1地域

調査者 馬場多聞

       黄声遠

移動手段 自転車

行動記録

6月29日(馬場の単独行動日)

    16:00 馬場 馬場宅発

    18:30 馬場 小字芥屋着

    19:30 馬場 吉村孝夫さん宅着

    20:40 馬場 吉村孝夫さん宅発

    21:25 馬場 芥屋の海水浴場着

海の家で就寝

本日の調査終了

6月30日

    4:00 黄 黄宅発

    8:00 黄 芥屋ゴルフ場着

  8:25 馬場 海の家発

    8:45 馬場と黄 芥屋のゴルフ場で合流

       以後二人で行動する

    9:10 平地康登さん宅着

    10:20 平地康登さん宅発

    11:15 吉村周祐さん宅着

    13:45 吉村周祐さん宅発

    14:00 馬場 体調不良を訴える

               また、天候が悪くなってきたので調査打ち切りを決定

    14:05 小字芥屋発

    16:00 六本松キャンパス着 解散   

 

 

 

 

 

 

 

 

プロローグ

 

 確かに芥屋はいいところである。一度行ってみればわかるが、人々はあたたかく、大変住みやすそうなところである。いつか再び訪れようとは思っていた。今度は(マナーがよい)観光客として、楽な交通手段を用いて。

 

 まさかこんなにもはやくかの地に踏み入ることがあろうとは。

 

 しかも再び調査者として。

 

 自転車にまたがって。

 

 前回の第一次調査で僕たちは不十分な内容の調査をしてしまった。しこ名(あざな)を十分に集めることが出来なかったのだ。そのために再調査を余儀なくされた。

 

何という失態。

 

情けない限りである。

 

 今回は、これで芥屋を調査の目的で訪れるのは最後にしようと二人とも前回以上に気合をいれて臨んだ。時間に余裕があった馬場は一泊二日での調査を決行し、黄とは翌朝に合流した

 

 さて今度はどうなるのだろうか・・・

 

 僕達に幸せはやってくるのだろうか・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

A.     6月29日(馬場の単独行動日)

 

 

話をうかがった方 吉村孝夫さん 昭和15年11月16日生まれ 61歳

 

 この日馬場は授業が3限までで終わりであった。14時30分、授業終了とともに

自宅に帰った。少し早い夕食を取り、必要な装備をリュックに詰め込んだ。そして16時、寝袋を籠に入れて馬場は自転車にまたがり、再び以前一度だけ通った道をはしりだした。

 途中少し道に迷い、予定時間を30分オーバーしてしまった。だが芥屋に近づくにつれてはっきりと道を思い出し、その後は迷うことはなかった。

 芥屋に着いたのは18:30くらいだった。1ヵ月ぶりに訪れたのだが、やはりどこも変わっていないようだった。前回の調査で聞いた‘変わらないまち’というフレーズが頭のなかをよぎった。

 前回いったお店の近くにある魚屋さんを訪ねた。「九州大学のものですけども芥屋のあざなを調べにきました。どなたか年配で農業に従事している方をご存知ないでしょうか。」二回目となれば慣れたものだ。緊張も何もなかった。「わたしがしっとるよ」と魚屋のおばちゃんが言うので「やった」と思いさっそく地図を広げた。しかし残念なことにおばちゃんが知っていたのはすでに地図に記されたあざなだった。二人して困っているとすこししてお客さんがやってきた。おばちゃんがてきぱきと事情を説明してくれた。するとそのお客さんのご主人が詳しいらしく、ご自宅へ連れて行ってもらえることとなった。

 その家は魚屋さんから近いところにあった。事情を説明し、応接室に通してもらう。ご主人は芥屋の土地台帳みたいなのをもっており、それは大変興味深いものだった。しかしかんじんのあざなを収集することはできなかった。すると「農区長が詳しいんじゃ?」ということを聞き、さっそく連絡をとってもらった。今からきてもいいとのことだったのでお礼を述べてその家をあとにした。 

 

1.吉村孝夫さん(農区長)からの聞き取り

 

 農区長さんのうちへは迷わずにたどり着いた。(ちなみに農区長とは田への水引などを決定するひとで、田に精通していなければいけないらしい。)スムーズに居間へ通されると野球の中継をやっていた。こんな遅い時間に訪ねてしまい、大変申し訳ない気がしていた。しかし農区長さんはそんなことは気にするそぶりも見せず、一枚の古い大きな地図を広げてみせてくださった。六畳間におさまりきれないほどの大きさで、このようなものが後数枚あるとの事。奥のほうには他にもいくつかの古い資料が重ねてあった。広げられた地図はところどころ破けてはいるが、紛れも無くこの芥屋を描いたものだった。芥屋の歴史に詳しいらしくいろいろな話をきけた。以下農区長さんからの聞き取り内容を記す。

 

注:しこ名などはまとめて後記

 

・ 縄文時代には現在田になっている地域は海だった。中島という小字名も 、そこがかつて海に囲まれていたことを示す。

     海であった証拠に田をほると無数の貝殻が出土する。

     縄文人たちの生活の跡として多くの貝塚が出土している。ほかにも現在のツコウラ(塚原)には以前は多くの石でつくられた墓があり、多くの人骨があった。また天神山付近には洞窟があり、古代人はここで暮らしていたのではないかという話もある。

 

夜もふけてきたのでそろそろお暇することにした。ほかに詳しい方をご存知かどうかたずねたがわからないとの事。外にでるとすっかり夜になっていた。

 

 

わけもなく芥屋をさまよっていると酒を飲んでいる集団を発見。近づいていきたずねてみた。「芥屋のあざなに詳しいご老人をしりませんか?」みんなもう酔っているらしくとても楽しそうであった。そのうちの一人の方が親切に紹介状まで書いて、吉村周祐さんという方を教えてくださった。明日の朝はこの方を訪ねることからはじめよう。さらに寝るのに適した場所をきくと「海水浴場にねればよか」との答え。さっそく馬場は海水浴場に向かった。

 

海水浴場へはすぐに着いた。暗くてよくわからなかったが海の家が何軒かたっていた。芥屋の海水浴場は日本の海水浴場八十八選に福岡で唯一選ばれている。自転車を適当なところへ止めて、馬場は海岸線を歩いてみた。月と海のある風景はとても美しかった。向こうから若い男女が歩いてむるのが分かった。何故か二人とも露骨に馬場を避けながら馬場の脇を通り過ぎていった。

それから何軒かの海の家を覗いて回った。若い人達(とはいっても馬場より10歳は年が上の)が数人集まって話をしている家もあった。いろいろ考えたがおじさんが一人で寝ていた海の家に泊まらせてもらおうと決心した。「ごめんください」蚊帳の中に寝ていたおじさんがにょっと起き上がってきた。「今晩ここに泊めていただきたいのですが・・・」おじさんは気前よく承諾してくれて、馬場は無事野宿をせずに済んだ。靴をぬいで畳の上にあがる。今日調査したことをまとめなおしてから、寝袋をひろげて床についた。おじさんは親切に蚊取り線香を設置してくれた。明日は黄と8時半に芥屋ゴルフ場で合流する予定であった。

 

 

B.6月30日(馬場と黄、チーム行動日)

 

話をうかがった方 平地康登さん 昭和31年3月1日生まれ 46歳

         吉村周祐さん 昭和11年1月7日生まれ 66歳

 

 

 この日黄が起床したのは朝の3時50分のことだった。これは道中道に迷うかもしれないことを考慮しての行動だった。しかし黄はバイトやらなにやらで家に帰り着いたのは深夜2時。ほとんど寝てないも同然の状態にあった。軽く朝食をすませて4時には家を出た。案の定思いっきし道に迷い、人に道を聞きながら無事合流場所の芥屋ゴルフ場に着いたのは4時間後の8時のことだった。(ちなみに芥屋までは自転車で2時間ほどである。)このような事態に陥ってしまったのは主に(というより明らかに)馬場の地図の渡し忘れが原因であった。芥屋ゴルフ場の駐車場で黄は少し仮眠をとることにした。

 

 一方前日より芥屋に滞在している馬場の目がさめたのは8時25分のことだった。昨夜は風の音と蚊のおかげで睡眠を十分に取ることが出来ず、やや寝過ごしてしまった。急いで支度をし、泊めていただいたおじさんと、朝にやってきたらしいおばさんとにお礼をいうと、馬場は黄のもとへ急いだ。

 

 馬場と黄が出会ったのは予定時間を15分オーバーした8時45分のことだった。おたがい疲れているのだがそれでも何とか頑張って調査の打ち合わせをし、昨夜馬場が得た情報をもとに吉村周祐さん宅を訪ねた。しかし草刈の作業に出ており、お昼にならないとわからないとのこと。仕方なく僕達は周祐さん宅を後にした。

 聞く当てがなくなった僕達は馬場が一番最初に訪ねた魚屋さんを再び訪問し、あざなに詳しい人をご存知ないかたずねた。すると魚屋さんの家の前に住んでいらっしゃる方が詳しいらしいことがわかった。しかし訪ねてみると「詳しくない」とのこと。その後連鎖式に2,3軒まわるも全滅。あきらめかけたそのとき道行くおじさんを発見。尋ねてみると平地康登さんという方の家を教えてくださった。僕達はすぐさま平地さん宅へ向かった。

 

1.平地康登さんからの聞き取り

 

 平地さん宅はすぐ近くにあった。「ごめんください。九州大学のものですけど。」奥さんらしき方がでてきて、事情を説明すると平地康登さん本人に取り次いでもらえた。思ったより若い方だった。部屋の中に招き入れられて、僕達は聞き取りを開始した。途中可愛い子猫が僕達のそばでお昼寝をはじめた。ほのぼのとした時間を味わえた気がした。

 平地さんからの聞き取りはしこ名の収集だけに終始した。よってその聞き取り内容は後記する。

平地さんは役場に勤めており、後で自分が調べたことを送ってくれると言われた。よって僕達は互いに電話番号、住所を交換して平地さん宅を後にした。

 

 

その後僕達は再び芥屋の大門にたった。この海を越えたところにまた別の文化があると思うと何ともいえない思いが込みあがってきた。今度は黄がカメラをもってきていたので何枚か写真をとることが出来た。

 

2.吉村周祐さんからの聞き取り

 

一息ついたところで再び僕達は吉村周祐さん宅を訪れた。こんどは周祐さんに会うことが出来た。昨夜頂いておいた紹介状を見せると、周祐さんは承諾してくれて、僕達の質問にどんどん答えてくださった。多くのあざなを地図に落としてもらったのだがそのペンを持つ手は長年農業に従事してきた者のそれだった。

その聞き取りはしこ名の収集だけに徹したので、まとめて後記する。

 

 

 

 

外へ出ると今にも泣き出しそうな空があった。さらには馬場が体調不良を訴えたため、調査はここで打ち切り、僕達は家路につくことになった。

 

そのまえに芥屋の海水浴場に寄った。いくらかの観光客が休日を謳歌していた。そのそばに貝塚なるものがあった。写真をとろうと思い近づいていくと、なんと昨夜馬場が訪問した農区長さんとまたもや会った。農区長さんに貝塚を案内してもらったがなんともわかりにくい。多数の貝殻が土壌に散乱しているだけのものだった。農区長さんもはなされていたことだが、もっとわかりやすく工夫すべきだと思った。

 

帰る途中再び浅海先生と出会った。あいさつを交わす。もう会うことはないだろうと思っていただけに何ともいえない気持ちとなった。

 

芥屋をでる。全てが終わった感じがした。

あんなにもきつい思いをしたのに、また訪れたいきもちでいっぱいだった。

 

 

エピローグ

 

六本松まで僕達はほとんど口をきかなかった

 

疲れていたのだろうか

 

寂しい気持ちに満たされていたからだろうか

 

調査はきっとこれで終了となるだろう

 

本当にきつかったけれど

 

‘よかった’と心底思った