第一次芥屋地域における調査レポート

 

調査日 平成13年5月27日

調査地域 福岡県糸島郡志摩町芥屋のうち2地域

調査者 馬場多聞

        黄声遠

移動手段 自転車

行動記録

  6:00 六本松キャンパスに集合

  6:20 六本松キャンパス発

  8:25 小字芥屋着

  9:20 小金丸正陽さん宅着

  11:00 小金丸正陽さん宅発

  11:20 柴田浅海さん宅着

  12:00 柴田浅海さん宅発

  12:30 小字芥屋発

  14:00 福之浦着

  14:20 奥博さん宅着

  16:10 奥博さん宅発

  16:12 奥アイさん宅着

  16:40 奥アイさん宅発

  16:45 福之浦発

  19:00 六本松キャンパス着 解散

  

プロローグ

 

 まさかこのようなことをする授業だとは二人とも思いもしなかった。

 

 「やりたくないなあ」という思いと「やりたい」という思いが心のなかに同居している状態で僕たちは出発することになった。

 

 果たしてどういう結果になるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

A.小字芥屋にて

 

 

話をうかがった方 小金丸正陽さん(太祖神社神主) 昭和25年2月17日生まれ

         柴田浅海先生 大正9年2月11日生まれ

 

 芥屋までの道のりは険しかった。朝も早くから自転車にまたがりひたすら西へ。いってもいってもたどり着かない。しかし途中迷子になりながらも芥屋という看板をみつけ、かろうじてたどり着いた。授業の選択を間違った気がしていた。

芥屋に着いてまず僕たちは区長探しをはじめた。海辺にあるカキ屋さんに尋ねるととても親切に区長さんの家を教えてくれた。話によると昔は福富屋という旅館をやっていたらしい。少し迷いもしたが無事に区長宅に到着。なるほど看板が出ていて確かに旅館をやっていたようだと二人で納得した。家の前で二人で打ち合わせをして、「ごめんください」といいながら玄関をあけた。すこししてから区長さんがでてきた。「僕たちは九州大学で学んでいるものですが、今日はこの地域のしこ名等を調べにきました。よろしければお話を伺いたいのですが。」としどろもどろに言うと、区長さんは「おいはなんもしらんよ。」と困ったような様子で答えた。しこ名や田についてたずねてみたが本当にくわしくはご存知ないようだった。いきなり調査がつまってしまったとあせっていると「太祖神社の神主ならようしっとるやろ。この辺の歴史をしらべとるけん。そこにいってみんね。」というお言葉をいただいた。場所を地図で教えてもらい、御礼を言って区長さん宅をでた。「歴史をしらべている」ということなので多くの情報を持っているだろうと期待しながら自転車を飛ばした。

太祖神社はすぐにみつかったがなかにはだれもひとがいない。神社のまえに自転車を止めて、少し歩いた。付近の住宅の庭で洗濯物を干している女性をみつけた。その女性に神主さん宅を尋ねてみた。するとなんとその家が神主さん宅で、女性は神主さんの奥さんだった。事情を説明するとすんなりと座敷に案内された。「おとうさん、お客さん。」という声がして、緊張して待っているとすこしして神主さんがあらわれた。思っていたより若い方だったが、どことなく厳かな感じがした。以下聞き取り内容を記す。

 

1.小金丸正陽さん(太祖神社神主)からの聞き取り

 

僕たちが今回の調査内容の趣旨を説明すると小金丸さんは家の奥へと消えていった。少ししてから太祖神社周辺の古地図を持ってこられた。残念なことにその地図についての詳細はご存知ではなく、僕たちは求めるものを得ることはできなかった。

用意した地図をテーブルのうえに広げ、しこ名の聞き取りを開始した。「この辺のしこ名についてお聞きしたいのですが。」「しこ名?」「あ、あざなです。」「ああ、あざなね。」半ば予期していたとおりしこ名では通じなかった。地図をざっとみて「だいたいこの地図にかいてあるとおりよ。」といわれた。新たなしこ名をみつけなければいけない僕たちはかなりの衝撃を受けた。なんとか食い下がるとかろうじていくつかのしこ名を知ることができた。しこ名はまとめて後記する。

 

 途中奥さんがお茶をだしてくれた。お客として扱ってもらっているのが嬉しかった。

以下しこ名以外でお聞きした内容を記す。

 

小字芥屋の人の生き方

     つくり酒をしている人もいる。

     畑ではかぶ、じゃがいも、きゃべつなどをつくっており、農協におさめている。農協がなかったころは個人売りをしていた。いまでも個人で売ってる方もいらっしゃるそうだ。

     最近農業従事者の高齢化が進んでいる。機械で行うため、家畜は必要ない。

     カキ栽培を若い人がよくするようになった。

     食料は昔から自足自給。生活に必要なものは自分らでまかなった。

     地図を見てもらえばわかるが、畑、田の面積が少なく、農業だけで生活していくのは困難であったため、代々村民たちは半農半漁であった。

     入会地など村の共有地は昔からなく、それぞれ個人のものである。

     脇溜池や天神山溜池から新開川をとおしてたんぼに水を引く。

小字芥屋は元気だ

     人の流出が多いが、よそから来る人も結構いる(確かにすごしやすそう)ので過疎化はない。

     お店は個人商店が一軒あるだけで、前原まで買出しに行ったりする(車で20分くらい)。しかし野菜などは自給しており(小金丸さん宅はおすそわけをしてもらっていた。)、お店が少なくてもそこまで不便ではない。

     冬に雪が積もるということはなく、積もっても20年に一回、2,3センチほど(海側にあるため)。よって雪による被害はない。

     今まで水不足で困ったことはない。。1994年の旱魃でも、溜池の水が少し減ったが、水が枯れることはなく特に被害はなかった。

小字芥屋もへこむ

     潮風が相当強く(特に冬の大陸からの季節風)、車もさびてしまい普通の半分ほどの年数しか乗れない。稲がやけたりもする。30年ほど前までは防風林があったが、松くい虫に食われてしまい、なくなった。その後植えてもおなじようにくわれてしまった(いまは防風林はない)。

     台風の被害がけっこうおおきい。

迷惑なこと

     芥屋大門は観光地。夏には福岡市内から相当量の観光客がやってくるが、空き缶のポイ捨て、後かたずけをしないなどマナーが大変悪い。そこで年二回美化運動をおこない、空き缶集めをしている(小字芥屋の住人は最低一回参加しなければならない)。しかし飲食物など持参するので、観光客がきてもまったくいい事はない。(僕たちが行ったときも観光客がそこそこいた。)

     昔は北の道が県道であった。昭和20年代には木炭バスがはしっていた。県道が整備されてから暴走族がよく来るようになり迷惑している。(県道を見てきたが確かに走りやすそうなところであった。)

ライフライン

     下水は完備されている。

     水道はとひいておらず今後もひく予定はない。以前は水道をひくはなしもあったが、生活には不自由していない。

     昔から皆井戸水を使用している。砂地なので深くは掘れないが、20メートル以上掘れば真水がでてくる。焼却場をつくったので水の流れが変わったといわれているが、実質的な被害はまだでていない。

     電気がきたのは昭和25年。その後1991年の台風19号の襲来のときに停電になったが、そのほかは一度も停電になったことはない(小金丸さんの記憶)。

     ガスはプロパンガスでとおったのは昭和40年頃のこと。ガスがとおる以前はかまどを使用。山から薪をとってきていた。

歴史的なこと

     かっては太祖神社のまわりに大日寺(曹洞宗)、禅福寺(禅宗)というお寺があった(古地図による)が、いつのころかなくなってしまい、現在小字芥屋にあるお寺は建治寺(禅宗)のみである。小字芥屋の住民たちは多くが仏教である。

     太祖神社ができたのが1200年前(古地図より)だから、そのくらいから人が住み着いたと考えられる。享和元年の記述があるらしい。(お宮の古地図に書かれた文字を見るも「字が小さくて見えん。」ということで僕たちが読もうとしたが字が難しくて読めなかった。)

     冬になると特に風が強く(大陸からの季節風)、民家が密集しているため、何度も大火に見舞われた。男はでかせぎにいっており女しかしなかったので被害はより大きいものとなった。最近の大火では、明治5年にその記録が残っている。しかし死者に関する記録はいっさいないとのこと。

祭り

     昭和40年前後までダギトウと呼ばれる祭りがあり、牛と馬を福之浦の綿津見神社まで連れて行き、家畜の健康を祈願した。(この祭りを小金丸さんがやったことはなく、父親に聞かされただけである。)

     シンショウ祭(昔は二ナメ祭)と呼ばれるジンジがいまなおのこっており秋に行われる。地祭りといって豊作祈願、無病息災を願う祭りが春にあり(今年度は5月3日にすでに行われていた。残念である。)、それぞれのしこ名で区切られた地域の境界線のすみにおふだをたてて、災いを追い出し、また入れないようにする祭りもある。

     祭りや集会(後述)に子供たちが参加しなくなってきており、後世に残すためにもどうにかしなければならない。

学校

     以前は小字芥屋にも小学校があったが、30年ほどまえになくなり、そのあとちには公民館ができている。小字芥屋には小学生が30人くらいおり、前原までバス通学をしている。

     高校は福岡市内にあり、自転車通学の生徒はかなりつらい。

お風呂

     以前はほとんどが五右衛門風呂で、昭和50年頃までは小金丸さん宅も備えていた。いまでも使っているところがあるかもしれない。経済面では五右衛門風呂のほうがいい。

     薬は置き薬。

旅人

     旅人が来ることはめったになかった。しかし芥屋の人々はよそからやってきた者でも温かく迎える。

昔の若い者は・・・

     昔の若い人たちは酒を飲んだり、祭りでおもいっきり楽しんだりしていた。各町内ごとで前原に遊びにいったりもしていた。

 

 

 質問も一通り終わろうとしていた。今まで話に夢中で気付かなかったが、小金丸さんは時計を気にしているようだった。時計の針は11時を指していた。最後に小金丸さんの氏名、生年月日を尋ねて、僕たちはお礼の言葉を述べた。小金丸さんは受け答えも早々にまた家の奥へと消えていった。玄関で奥さんに住所と電話番号をメモしてもらった。「おじゃましました。」そして僕たちは太祖神社神主の家を後にした。小金丸さんには用事があったらしく、相手の都合もろくに考えないでながく居座ってしまったことを反省した。しばらく歩くと氏が話していた祭りのおふだを見かけた。なんと書いてあるのかわからなかったが、もって帰りたくなった。すこし歴史を感じることができた気がした。しかし「神主さんってどうやって生活しているのかな?」という疑問が二人の中に生じて、歴史に対する感動は少しずつ薄れていった。

 

 

 

 次に芥屋の大門へいった。景色がとてもよく、カメラを持ってくればよかったなあと2人して後悔した。しかし海岸には無数のごみが散乱しており、観光客のマナーの悪さを改めて実感した。

 

 年配の方に話を聞こうと思い、小字芥屋にある唯一のお店をたずねた。家族できりもりしているらしかった。店のご主人に尋ねると、「浅海先生ならしっとるんじゃ。」という奥さんのこたえが返ってきた。先生の家はすぐちかくであったので、迷うことなくたどりついた。

 

2.柴田浅海さんからの聞き取り

 

 家の表札を見ると浅海さんというのは下の名前だった。本名は柴田浅海さんとおっしゃるらしい。「ごめんください。」何度呼んでも応答がない。裏のほうにまわると畑で作物に水をやっている麻美先生のすがたがあった。「すみません・・。」わけを説明すると先生は縁側に歩いていき腰をかけた。本来ならば柴田さんとお呼びしなければいけないのだろうが、僕たちは無意識のうちに浅海先生と呼んでいた。本人も特に気にしている様子はなかった。浅海先生は数学の教諭だった。「小金丸にきいとっとやったら、もうなんもはなすことはなかよ」と最初に述べられた。しかし何かを得ようと思い質問していくと、ここでは戦前ま同族結婚が行われていたらしかった。また戦前からほとんど変わらず、風が強いが住みよい町だと話された。その後、自身の戦時中のこと、戦争に対する思い、現在の教育に対する意見などここに記せないほど数多くのお話を聞かせていただいた。このままもう少し話を聞いておきたかったのだが、僕たちはもう1地域調べなければいけない。泣く泣く先生の家をあとにした。

 

 

     福ノ浦にて

 

 

話を伺った方  奥博さん 昭和14年9月27日生まれ

              奥アイさん 明治40年1月23日生まれ

 

 僕たちは自転車にまたがり南へ走った。簡単にたどり着けるだろうと思っていたのだが、なんと迷子になってしまった。自転車屋さんに道を聞くと途中の分岐を間違えてしまったらしい。しかたがないので今きた道を再びもどる。途中ラーメン屋で昼食をとるが、あまりおいしくはなかった。今度は絶対に迷わないように駐在所でさらに道を確認。いわれたとおりにいくと何とか無事に福ノ浦にたどり着いた。

 福ノ浦はのほほんとした感じがするところだった。先ほどたずねた芥屋よりも規模が小さく、大きな道路も走っていないので静かであった。路行く人に福ノ浦について詳しい方を知っているか尋ねると、区長をやっている奥博さんという方が詳しいということがわかった。家の場所を聞き、そこにむかった。

 「ここかな?」と思われるところを訪ねたが、もう一軒隣の家だった。間違った家のおばちゃんと一緒に奥博さん宅を訪ねた。おばちゃんの案内で玄関のなかへ。まだ新しい家で、木のにおいがした。そして奥博さんがそこにはいた。以下奥博さんからの聞き取り内容を記す。

 

1.奥博さんからの聞き取り

 

 場数(?)を結構踏んだので質問していくのにもだいぶなれていた。玄関先で地図を広げてしこ名をきいていく。ここでもしこ名という名称は用いられず、あざ(名)とよばれていた。しかしながら詳細な境界線はわからないとのこと。聞き取りしたしこ名は後記する。

 

 休みの日だったこともありお孫さんが遊びにきていた。とてもかわいらしく、いいなあと思ってしまった。

 

その他にも福ノ浦のことについていろいろと話を聞くことができた。以下その内容を記す。

 

 

福ノ浦の人の生き方

     みな土地をもっており、平均すると一戸に4haはある。

     かっては福ノ浦のみかんは日本一と賞されていた。

     いまでも多くの人がみかん作りをしているがかってのような勢いはない。

  福ノ浦には畑や田んぼがほとんどなく、半農半漁で生計をたててきた。

ライフライン

     水道は今なおとおっていない。

     電気がきたのは昭和30年のこと。

     ガスがきたのは昭和23年くらいのことで、プロパンガスを使用している。

歴史的なこと

     福ノ浦にすむ人々は源平の合戦で高須城から落ちぶれてきた人たちの子孫だといわれている。(芥屋の人々と同じくらいに住み着いたようだ。)

     明治のころまで長男には幸右衛門(こうえもん)と名前をつけていた。

福ノ浦は元気だ

     1994年の干ばつではあまり大きな被害は出なかった。

     福ノ浦は糸島町の中でもっとも高齢化率が高く、65歳以上の人が40%もいる。

     福ノ浦には奥、丸太、上野の三つの姓しかない。

     同族結婚はいままでなかった。

     小子化の傾向がある。

     多くの人がでていったりするが、年をとったらその多くが帰ってくるので過疎化ということはない。

     人々の多くが曹洞宗である。

福ノ浦もへこむ

     昭和28年の大水害で多くの田んぼを失った。

     一番恐い災害は山津波(崖崩れ)で、今も危険とされている個所が6個所もある。

祭り、神社

     5月には伝染病が入ってこないように地祭りが、9月には秋祭りが、12月15日にはみんなが公民館に一日中こもる(おこもり)行事がある。

     綿津見神社といって海の神を祭る神社があり、芥屋の太祖神社の神主の小金丸さんがここの神主もやっている。

戦時中

     戦時中もみな自給自足だったのでとくに不便なこともなく裕福であった。

学校など

     学校や町が遠く離れているので不便ではある。

昔の若い者は・・・

     昔の若い人の娯楽としては公民館に集まって酒をのむことくらい。

 

 

 奥博さんからの聞き取りもある程度終了したかのように思えた。僕たちにも用事があるのでそろそろ帰らなければいけない。しかしまだなにかきいておきたい。そこで僕たちは奥博さんにご年配の方を紹介していただくことにした。「102歳になる人がいるのだが現在入院中。隣の(最初に間違った家)おばあちゃんがくわしい」ということでお礼を述べて、奥アイさんのもとへ向かった。

 

2.奥アイさんからの聞き取り

 

 奥アイさん宅にいくと先ほどのおばちゃんが案内してくださった。アイさんは92歳という高齢なけあって耳が少し不自由だったが、おばちゃんが間にはいるかたちで何とかコミュニケーションはとれた。驚くべきことにアイさんのまわりには多くの精巧な紙細工があった。全部アイさんが折ったとのこと。僕たちは彼女の手の器用さに感嘆した。僕たちには与えられた時間が残り少なかったのでさっそく聞き取りを開始した。以下聞き取り内容を記す。

 

戦前の福ノ浦

     戦前は福ノ浦ではまゆつくりが盛んであったが、昭和19年くらいにやめてしまった。

     電気がとおる以前は石油ランプを使用していた。

     地方周りをする芝居屋がくるのがとても楽しみだった。

     雨が降ったときなどみなで集まって鶏ご飯やかしわをたべながら話をするのが楽しかった。

 

 話を聞き終えて外に出ると陽は海を黄金色にてらしていた。もう帰らなければいけない。正直なはなし、僕達はまだこの地に残りたかった。ここには人をそんな気にさせる空気が流れていた。

最後にアイさんと堅く握手をして家を出た。おばちゃんがみかんが入った袋を自転車のかごに入れてくれた。近道を教えてもらい、僕たちは自転車をこぎだした。

 

エピローグ

 

数時間後僕たちは六本松で別れた。

 

心地よい疲労と達成感を感じた。

 

ここに僕たちの調査は終わったかに見えた。

 

よもや‘次’があるなど誰が想像できただろうか。

 

また、僕たちは次の日からお尻にできものができて(長時間の自転車移動の結果)、苦しむことになる。