九州大学服部教授『歴史の認識』レポート

福岡県筑紫野市俗明院地区の地名と生活

 

 堀内武彦

高橋雅巳

・取材方法

平成15年(2003年)621  福岡県筑紫野市俗明院公民館にてインタビュー、地区内の実地検証(本文中の写真は堀内武彦撮影)

・お話を伺った方

荒瀬好道さん          (昭和4930日生まれ)

石井昭一さん          (昭和511日生まれ)

真鍋弥三郎さん      (昭和61127日生まれ)

真鍋博希さん          (昭和11621日生まれ)

真鍋昭一さん          (昭和1611日生まれ)

 

筑紫野市の概要

  福岡県の中央部、やや西よりに位置する。西を背振山系、東が三郡山系の一部を形成している。市の中心は平坦地ながら、分水嶺を抱え、御笠川・那珂川水系は北流し博多湾へ、宝満川水系は南流し有明海へそれぞれ注いでいる。位置的には、福岡市久留米市のほぼ中間に位置し、JR鹿児島本線や西鉄天神大牟田線、国道3号、九州自動車道が通るなど、利便性の高い地理的条件により、福岡市のベッドタウンとして発展している。人口は94,993人(平成156月末日現在)。

 

俗明院という地名の言われ  ~日本最古の赤十字病院~

  太宰府旧蹟全図南図(書き起こし)には俗明院という地名は記載されていない。ちなみに俗明院の隣接する大字の立明寺・永岡については記載がある。これはどういうことであろうか。ふるさとの歴史調べ(山口公民館)に次のような記述*がある。

 

続命院社

 本村(俗明院:筆者注)ニアリ。今観音堂アリ。其ノ址ト云。昔九國二嶋ヨリ太宰府ニ来タリシ民。久シク逗留シ。病ヲ受テ死シ。或ハ餓死スル者多シ。太宰大弐小野岑守。是ヲ哀ミ続命院ヲ建。田地ヲ附ケテ、病ヲ養ヒ。飢ヲ助ク。続日本書紀巻四二日。仁明天皇。承和二年(八三五)

 

  続命院とは、九州各地から大宰府にやってくる人々のために設置された宿舎である。当時大宰府に所用で来る人の中には、病死したり餓死したりするものが多かった。それを哀れに思った小野岑守が、檜皮葺(ひはだふ)きの建物を7棟立て彼らを収容した。大宰府直属の医師や観世音寺の僧が彼らの世話にあたった。運営のために114町の田を充てて、財源としたという。このように、続命院は「日本最古の赤十字病院」(古老)であった。もっとも現地に当時をしのぶような遺跡や記念碑は存在しない。

  ところで、先にもあげたふるさとの歴史調べには、以下の記述*もある。

 

  俗明院

 西北福岡県庁道程五里二町

 彊域。東。永岡村。五里。西。立明寺村。三町。北。鉢擦村。二町二接シ。人家本村。十六戸。下河原。一戸、二所ニアリ。村の名義は、昔此所二続命院アリテ。九國二嶋ノ。

民ノ飢餓病死ヲ救ヘルヨリ起コレリ。今ハ訛テ、俗明院トカク。村位。下。地形。平低。運送ノ便。中。原田夜官道二町。二日市駅三十町。土質。八分小砂。二分眞土。七分乾地。三分湿地。地味。中。田人中稲。麦。菜種。栗。琉球芋。大根等ヲ作ル。薪秣乏シ。(下線筆者)

 

 

上の資料は、おそらく明治維新後福岡県の成立以後に、県当局が県内の各地域の現状を把握するために作成したものと思われる。注目したいのは下線部分である。今では訛って、(続命院)を続命院と記すようになったとあるが、実際には「地名登録の際、県庁の役人が『続命院』と書くべきところを誤って『俗明院』と書いてしまい、それが県の書類に載ってしまい、実際の地名のほうも『俗明院』と表記されるようになった」(古老)らしい。つまり、「俗明院」という地名は明治以降にできた比較的新しい“官製”地名なのであった。だが本来の「続命院」に戻したいと考えている方もいるということを付け加えておこう。

 

* 上にあげた資料は筑紫野市山口公民館編纂・所有の『ふるさとの歴史調べ』(編纂年不明)という本の中にあったものである。この資料の出自も不明であるが、文面から察するに、明治維新後福岡県が成立し、県当局が県内の各地域の現状を把握するために作成した資料の一部だと推測される。

 

現在残る俗明院内の地名

  カワラ 河原

  シモガワラ 下河原

  カミガワラ 上河原

  ムコウガワラ 向河原(太宰府旧蹟全図南図(以下全図)では「向ヘ河原」と表記)

  オオテギ 大手木

  オオツボ 大坪

  ヒノワキ 樋ノ脇(全図では「日ノワキ」)

  シマメグリ 島巡り

  キマチ 木町

  オオキマチ 大木町

  ノクチ 野口

  ナカオ 中尾

  ハチノエ 八ノ上

  ノマ 野間

  クリハラ 栗原

  ナカオ 中尾

  ヒライデ 平井手

  クスノキイデ 楠井手

 

  ここにあげた地名は、現在の俗明院区からはずれる地名もあるが、あえて掲載した。

 

 

俗明院史

 旧姓、五戸から成る。岡部、眞鍋、サカイ、荒瀬、萩尾(明治頃、天草より転入)

筑紫野市史(俗明院については平成8年に聞き取りを行い平成11年発行)によれば、明治期、俗明院の戸数は17戸であった。

古老の話によると昭和20年頃、22、3戸であったらしい。

 ここ30年で人口は増加し、現在は戸数約1,800戸、人口約2,800人、第一大学の学生寮を含めると約3,300人。特にここ数年は人口増加が激しい。

 古老によれば、「俗明院」とは役所の人の登録ミスであり、それがそのまま現在まで使われているのだという。新俗明院橋(昭和46年竣工)には、最近まで続命院と表記してあったという。続命院という地名は福岡県行橋市に小字として存在するという。筑紫野の続命院は世界最古の赤十字病院として以前の教科書には掲載されていたらしい。

 俗明院には幅2mくらいの古代道路が残っており、それは東中学校への通学路として使われていた。地元では「学校道」と呼ばれていた。今もあぜ道のままである。(→写真④⑤)

 

山口川の近年の歴史

山口川は筑紫野市西部の山間部から立明寺を通り、俗明院北端部を横切り、永岡東部で宝満川に合流する。

昭和28年 筑後川大洪水により床上まで浸水

昭和43年 腰の高さまで浸水

昭和47年 浸水

昭和53年 渇水 俗明院での被害はあまりなし

平成6年  渇水 上水制限

 

山上ダムができたため、水量が激減。

それまでは水量が多く、大雨が降ると床下まで水が来るのが常だった。

かつては、川で顔を洗ったり、洗濯をしたりしていた。

川は東中学校(昭和14年廃校)の泳ぎ場だった。戦後も近くの小学校がプール代わりに使

っていた。

ダムができるまでは水をめぐって永岡地域の人々と水喧嘩をしていた。取っ組み合いのけんかを行い、けが人も出ていた。

 

俗明院の土地柄について

 俗明院の土地は2mほど掘ると川砂(山口川のものと思われる)から成る砂地である。水はけが良く、地下には地下水が流れている。砂地の上に赤土、黒土を盛り農地として使っている。水はけが良いことは、田地として好条件であるらしい。俗明院では山口川より水を取っていた。水分(みずわけ)にて永岡と俗明院に分水していた。このため、永岡との間には水喧嘩が絶えなかったという。苦肉の策として、日によって水を流す地域を決めていたことも。(→写真⑥⑦⑧⑨)

 俗明院の辺りは阿蘇の大噴火により地形が変わったのではないかと言われている。

 俗明院では古老の子供の頃は麦飯(米:麦=46)が主食で、味噌、醤油は自宅で作り、茶は田のあぜ道の脇で栽培、自給していた。また蚕も飼っていた。俗明院には畑はあまり無く、耕作地は田が主であった。

 

朝倉街道、国道3号について

 朝倉街道は日田・筑後からの街道である。江戸時代、参勤交代の街道として使われた。

 昭和8年、国道3号(現在は旧道)が開通。

  戦前 馬車道。

  昭和30年代 砂利道

  昭和37年 粗雑だが現在の舗装に近いものになる。

  昭和43年 アスファルト舗装になる。

   昭和47年にバイパスが開通。かつての3号は旧道となって今に至る。

(→写真①②③)

 

古老の話として、かつて、久留米方面と朝倉街道(俗明院の北にある石崎地区で朝倉街道と合流した)を結ぶ街道(筑紫街道か?)が、俗明院地区を南北に走っていたらしいとのこと。ただ、その街道が(俗明院地区内で)どのようなルートを取っていたかは判らないとのこと(国道3号旧道のルートではないらしい)。

 

戦争体験について  ~太平洋戦争~

 15km離れた太刀洗町の、今はビール工場になっている旧日本陸軍の太刀洗飛行場ではたびたび空襲があり、その様子は花火のようだったという。福岡市の空襲も見えたらしい。

 B29の編隊が俗明院の上空を通ったため、空襲警報が鳴って、俗明院付近を走行中の西鉄電車が非常停車し、たまたま乗り合わせていた陸軍将校の指示で乗客全員が電車から飛び降り、田圃に身を隠したということがあったが、俗明院では空襲による被害は無かった。

  俗明院上空は、B29の編隊が頻繁に通過していたらしい。

青年団について

 戦前は男性のみの団体であった。女性にはこれに代わるものとして処女会というものがあった。戦後は男女共に青年団に属すことになった。青年団は昭和40年代まではあったが、自然消滅した。

 青年団の活動としては、体育祭や忘年会、山の下草刈りなどをしていた。

家の長男が結婚した際、次男坊、三男坊は青年会議所(今の公民館)に寝泊りをしていた。

青年団の消滅の理由として、若い世代の減少があげられる(当時の話。現在は宅地化の進行によって若い世代も増えてきているものの、青年団は再興されていない)。

 

村の伝統行事

  祭りはお宮中心に行われていた。

 慰労会 お宮の行事 川祭り

目的:お神様を祭る、村民どうしの親睦・コミュニケーションの場、娯楽

祭りの種類

・おこもり(春、秋、正月)

    俗明お篭もりともいう。

   学校ではおこもりのことを祭典と呼んでいた。

二日市八幡宮の神主が来る。

   お払い、お神酒を頂き、酒肴7品目が出る。

   住民は自由に参加することができた。

    住民の慰安、親睦を図る。

   春には小学校の孝徳会(今でいう学芸会)が行われていた。

   正月には、鯛二匹をお神様に奉る。一匹は神主さんへ差し上げ、もう一匹は焼いて、参加者の肴にした。

   砂盛り、夏病み

・お淀(7月24日に行われていた)

   区民の人が饅頭を作ってお宮へもって行き小学生が食べた。

   ちょうちん下げ、夜店が並ぶ

   現在では、24日に近い土曜日に夏祭りをする

   宮座、氏子、荒神

・お火待ち(12月と1月の年に2回行われていたが、昭和18年より12月のみに行

      われることになった)

    収穫祭

朝、昼、晩、子供たちが各家に回ってご飯を食べる。

    朝はもちを焼いて食べた。

・おつうや(お通夜)

    穴を掘ってそれに地区の男の子たちが入って朝までしゃべりながら過ごす。

もちを焼いて食べていた。

祭り以外の伝統行事

・寄合(男の子の集まり)

    男の子たちが各家へ回り、泊まる。

 

 

 

俗明院公民館について

 建築費7,000万円を投じて建設された。今年(平成15年)より供用開始。青少年の集会所として使われ、神社の境内の敷地に建てられている。青少年育成、高齢者福祉を目的としている。館内は開放的で、バリアフリーとなっている。


写真①

国道3号旧道の俗明院交差点より鳥栖方を望む。国道3号バイパスの開通により、専ら地元の生活道路になったとのことだが、沿線には流通施設もあり、トラックの往来も絶えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真②

国道3号旧道俗明院橋。山口川に架かる。


写真③

かつての朝倉街道(県道112号)を横切る西鉄天神大牟田線。朝倉街道の

名は、西鉄の駅名と住宅団地(朝倉街道団地)の名に残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真④

田んぼを横切る「学校道」。撮影時、通行人はみられなかった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


写真⑤

学校道から俗明院方面を望む。マンションが立ち並ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


写真⑥

山口川にある平井手の堰。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真⑦

山口川にある楠井手の堰。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真⑧

楠井手にある取水門。ここで山口川の水を俗明院、永岡の田圃に引いていた。


                                                                                       

 

 

   ←写真⑨

   楠井手で山口川から引いた水は、この

   水分(みずわけ)で、俗明院と永岡に分

   水していた。しばしば、水争いの元とも

   なった。

 

 

 

 

   ↓写真⑩

   水分の横にあるJR鹿児島本線の踏切に

   あった看板。踏切名が「俗名院」となって

   いる点に注目。なお、線路の反対側にも

   同じ看板があったが、それには「俗明院」

   と記されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真⑪

立明寺にある厳島神社から俗明院を望む。写真手前を横切る道路が立明寺と俗明院の境界である。

写真中央の4棟は第一経済大学の学生寮である。マンションも立ち並ぶ、

まさに「現代集落」(古老)である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真⑫

俗明院公民館の裏にある櫛田神社。かつては、ここでいろいろな伝統行事が行われて

いたのだろう。「お宮」は大事にされていた。