福岡県筑紫野市大字立明寺 歩いて歴史を考える現地調査レポート

 調査日  

6月21日土曜日 

歩いて歴史を考えた人

   秋保愁平

  岩田智喜

   大菅宏児

  岡崎ヒロノブ

お話をして頂いた方々

岡部武夫(87

高原圭吾(71

宮崎優司(62

当日のスケジュール

    800  学校集合

    910  筑紫野IC到着

    1015  立明寺公民館到着(お話)

   1700  筑紫野IC出発

   1800  学校到着  

 

筑紫野市のあらまし>

昭和6年満州事変があったころ三宅村(現在の福岡空港のあるところ)日佐村(現在の井尻)岩戸村、安徳村、南畑村(現在も那珂川町として残る)、春日村などから成り立っていた。白木原以北は福岡の都市になった。二日市が中心で、山口村、宝満(ホウマン)山の麓の御笠村、蘆城(アシキ)山を越えた谷のところの山家(ヤマエ)村(大名の参勤交代のときに使った道がある)、現在の西鉄の駅の一帯の平地にあった筑紫村、この1町4村の合併で昭和30年前後筑紫野町が成立した。そして人口増加に伴って筑紫野町は筑紫野市に昇格。立明寺は筑紫野市の南西の山口村にあった。山口村は平等寺、山口、萩原、古賀、立明寺、俗明院、針摺、石崎の8部落で形成されていた。山口村筑紫野市で大きな部落で、立明寺には尋常小学校があった。昭和13年山口尋常高等小学校に吸収されている。現在の山口小学校として萩原区に存在する。

 

昔は家族制度というものがあって、田舎では戸主制があり一家の主は正統な血筋の嫡男が継ぐと決まっていた。百姓の長男は学校にも行けなかった。山口村でも大学に行ったのは庄屋の息子や、村長の息子や、校長の息子、郵便局長の息子ぐらいであった。他の人々はまったく学校に行かなかったわけではなかったが行ってないのも同然であった。それは農家の生活が貧困で広い田畑があったためそれを守っていくには体の丈夫なものがいなくてはいけなかったためなかなか学校に行けなかったのだろう。夜も明けないうちから日が暮れるまで働いた。立明寺は働き者が多く怠けるやつ、頭がよくても仕事のできんやつは近所の人たちから批判されたり敬遠されたりした。今から比べると生きていくためにさまざまな制約を受けていた。しかしそれは悪いことばかりではなく。それに耐えて生きる、がんばり強く生き抜く力を得ることができた。これは仏教の教えに通ずるものであると教えられた。

 

<小字>

1.中尾山 ナカオヤマ

2.上堤ヶ浦 カミツツミガウラ

3.堤ヶ浦 ツツミガウラ

 2.は昔から大行事の池と呼んでいた。この谷間は水が多いわけではない。この上に筑紫郡でも有名な大きな相撲場があった。青年団などが相撲大会を年1回していた。両脇の山が高く段々畑になっていてちょうど良い観覧席となっていた。

4.鎧田 ヨロイダ

この田んぼで武士が戦いに行くために鎧を着て集まったことからついたと昔の人から聞いたことがある。この地には昔直径2メートルくらいの土が盛られた塚があった。田んぼの中にあり邪魔であったがたまたま触ったり削ったりすると病人が出たりしたので、祟りがあるといって近づかなかった。この塚から武器や鎧がたくさん出てきた。平等寺に昔守りが薄く石垣のない基山城があってそこを守るために今は使っていないのだが鎧田から萩原のほうへ公道が延びていた。それで敵から逃げるときに邪魔なので鎧を田に捨てて逃げたと考えられる。

6.中城戸 ナカキド

城戸口というのは入り口(勝手口)のことを意味するので立明寺部落の入り口という意味でついたのではないかと考えられる。

7.上方 ウエガタ

8.塚原野口 ツカハラノグチ

9.上ノ山 ウエノヤマ

10.浦谷 ウランタン

11.椎浦 シイウラ

12.江下ノ上 エーゲノウエ

13.江下 エーゲ

14.ハサゴ

15.嶋巡り シマメグリ

16.小河原 コガラ

 この周辺の水田がいい水田であった。全体的に川下の水田の方がいい傾向がある。

17.入宇 イリュー

18.溝端 ミゾバタ

19.河原 コーラ

立明寺の中で一番いい畑であった。水田より少し高いくらいで大水のときに水浸しになりやすかった。綺麗な砂泥の土地で水田にはなりにくく角のとれた石が堆積していることから、川が曲がっていたことがわかる。もともと平地なので川に土砂がたまり平地と変わらなくなって大水のときなどに川が曲がることが多かった。それで人工的に護岸をつくり川が固定されていった。護岸工事前は大水のとき必ず河原畑の上を水が通り砂利だらけになっていた。山口川から流れるほうが長く水もち良いので一挙に流れ落ちずじっくりしみこんでそれが沸いてくるため水量が豊富である。ホウマン山の方は石山であり樹木が少ないので水もちが悪く雨が降ると同時に大水が来る。

20.脇田 ワキダ

21.神代森 シンダイモリ

22.下城戸 シタキド

23.川端 カワバタ

24.向城戸 ムカイキド

25.林ノ内 ハヤシノウチ

26.沓懸 クツカケ

27.高木 タカギ

28.藤ノ木 フジノキ

29.亀石 カメイシ

30.庄町 ショウマチ

31.尻深 シリブカ

32.下鈴倉 シモスズクラ

33.鈴倉 スズクラ

ここでは発掘作業が行われ、昔、武器庫があったところではないかと考えられている。

34.勢手 セイデ

35.大坪 オオツボ

36.荒田 アラタ

37.牟田田 ムタダ

38.向松 ムカイマツ

39.豆田 マメダ

40.日焼 ヒヤケ

田んぼが高いところにあって水がなかなか取れないことから由来。

41.ソン田 ソンダ

42.久保田 クボタ

43.敷町 シキマチ

44.平井手 ヒライデ

45.大牟田 オオムタ

46.牟田畑 ムタバタケ

47.黒崎 クロサキ

 

<水に関して>

・亀ヶ淵(カメガフチ)、コツテガ淵、ツキマワシ

川が曲がり大水のときに深く掘られ水深2メートルくらいになっている。夏は子供たち

が裸で泳いで遊んでいた。

・どんどん

突き出した岩に水があたり深く削られたところ。面積は狭く、深さは5~6メートル。大水の後水量が増して濁りが収まると子供たちが水浴び(ミヅアビ)に行っていた。

・井堰について

 川の振り方が地図では違っているが、鎧田に高原井堰(通称 鎧田の井堰)、立明寺橋の下に楠井手井堰(俗明院が管轄していた井手)、その下流に平井手井堰がある。昔はもっと下流の俗明院部落にも立明寺の井堰があったが、壊れてしまいそのままにしていた。

井堰を区切り水位を上げ田んぼに水を送っていたが、大水になると井堰は扱えなくなった。雨の多い日は、途中に水を調節するところをつくっておき水をどんどん落としていき流れをゆるくし田んぼに水が入らないようにしていた。

・池について 

川の水だけでは足りないというときに池の水を足しにしていたが、川の水が元々豊富なのでめったに池の栓は抜かなかった。田植えの時期には池の水を半分くらい使っていた。ひでりが二十日以上も続き、稲が危ないというときに栓をぬいた。

堤ヶ浦(昔は大行事の池と呼んでいた)や椎ヶ浦(地図にはそう書いてあるが、記憶にない。池の跡で、昔は松浦池とよんでいた)に池があり、江下(エーゲ)やハサコは池係(ガカリ)であった。

このように川の水が豊富であったため、雨乞いをした経験や旱魃で困ったこともそれほど無かったそうだ。水を分けるルールのようなものがあり、それにしたがって分けていたが、水争いで険悪になり警察が出てきて場を治めたことがあったそうだ。

 

<農業に関して>

・田畑について

 昔は1反で米が6俵ぐらいとれていた。よい田だと8俵、悪い田だと5俵くらいとれた。現在では技術的には9俵とれるというが、台風が来ると機械でかれずに手で刈らなくてはならないので平均8俵くらいである。種籾は1.4合×20箱=2.8升を水田の一角にまき、水を張って苗を20センチくらいまで(40日くらい)育て移植していた。苗は一度に植えなくてならないので2町も3町も作った人は20人くらいの百姓を雇って2~3日で植えていた。

立明寺は6月中旬以降に田植えを行っていたから、平等寺や浮羽郡の山の方は5月から田植えをして終わっているので、そこから雇っていた。雇われるのは主に処女会(結婚していない女性)の人々で、中には結婚している人や老人もいた。立明寺で田植えが終わると二日市から大野、春日、三宅村まで田植えを手伝いに行っていた。そのとき働いたお金で天神に行って買い物をしたりしたことがあるそうだ。手伝いに行くことを「かせい」と言ったが、向こうからの手伝いのお返しをする「てまがえ」が一般的であった。「てまがえ」に行くとき、労働力でお返しがある場合とお金でお返しがある場合があった。とくに労働力の場合、牛馬のないところに行くときは牛一頭、人1人あたり4人前、5人前などと決められていた。

田植えが終わると、さなぼりという打ち上げ会を行っていた。ごちそうを用意して酒を飲み、体をほぐしていた。家族だけでやるところもあれば、何家族かで集まってやるところもあった。昔は33戸でみんな兄弟みたいなもんだった。あっちの息子は悪そうになったとか、あっちの娘は器量がいい、気立てがやさしいとか言いあっていて、みんなが知り合っている社会であった。村のおこもりでお宮を中心に神様に、「田植えが終わりました、さなぼりになりました。」と言って、祭りをかねた集会も行われていた。またおこもりという昼食会も行われていた。各家が料理を作って持ち寄り、酒も出ていろいろな話をしていた。

米はもみのまま米びつ、とびつに入れて保存していた。戦時中は統制が厳しくなり、一度すべて玄米にし集められ、各家に何俵と決められて振り分けられていた。もみのままなら長期間の保存がきくが、玄米にすると一年ほどしかもたなかった。昔はもみにするのは大変で、稲から穂だけを切りはなしたり千歯でとったりで籾を取りその籾を晴天の日に席の上に干し乾燥させてトビツに納めていた。現在では機械で刈り取るだけでよくなった。刈った稲穂をずっと田んぼにぶら下げて必要な量だけとっていって玄米にしていたこともあったが、今では見なくなった。

 麦は田んぼで作り、米との二毛作を行っていた。稲を刈った後に田を鋤きあげて冬のうちに蒔き付け春の5月くらいに収穫していた。1反当たりに3~4俵とれていたが、昭和50年くらいを境に作らなくなった。現在では大型機械を持った外部の人に田を貸して麦を作っているところもある。それは全体の1割程度である。

 そばは米の作れない痩せ地で作るため土地の豊かな立明寺では作っていなかった。そばは平等寺のようなところで作るものだと笑いながら言われた。

 ネズミ対策としてはネズミ捕り器を置いたり、猫を飼ったりしていた。ネズミ捕り器は金網かごのなかにネズミの好きそうなものをぶら下げておき、一度入ると出られなくなるという仕組みであった。

・牛馬について

昭和初期の統計として立明寺地区では牛23頭、馬14頭、鶏58羽、卵2200個、水車2基という記録が残っている。

 雄牛をゴッテ牛、牝牛をウノ牛と呼んでいた。気の荒いゴッテ牛も愛情をこめて接すると言うことを聞くようになるのだという。手綱は一本で、右に歩かせるときには「せいせい」という掛け声で右に手綱を引き、左に歩かせるときには「さっさっさっ」という掛け声で左わき腹を叩くことで操作していた。

 馬は毎日川の橋の袂にある馬洗い場で洗っていた。牛は馬ほど頻繁に洗わなかったが農作業で汚れたときは汗と泥を落としていた。確かに馬洗いはあるが牛洗いはあまりなかったらしい。馬は気品が高く賢いのでちょくちょく洗わないといけないと言われていた。蹄鉄は二日市にある八尋という蹄鉄工場に行って作ってもらっていた。家畜が病気になったときには田舎の部落を受け持つ獣医がいた。

 草きりでは、山口に共同で持っている入合山がある。そこには草を刈るための野山がある。草をかるための入合権問題もいろいろあった。現在、天拝湖ができているところよりまだ高いところに草きり山があった。農家が牛馬の餌である草は、刈り取った稲藁や田んぼのあぜ道の草などを朝早くから採りに行くのが日課であったが、草きり山まで馬を引いて行き背中に草をつんで来ることもあった。

(岡部さんのおもひで)

 堤ヶ浦の山ん中で田を鋤きよったとき、牛がゆうこと聞かんでぱーっと走り出して鋤をひいたまま山の坂を駆け下りた。下の田んぼまで飛び降りて、鋤もわれてきちがいの様になって大怪我したんやけどぴしっと馬屋の中にはいっとった。自分の家だけは忘れんのやなー。(笑)子供とかおったら大ごとになるところだった。

・山林について 

現在、武蔵丘団地があるところに立明寺の山と呼んでいた小さな山があった。ここでも多少は草きりや薪とりをしたが主に山遊びの場所であった。ウサギ狩りなど青春の思い出がいっぱいの山なのだそうだ。

薪を買うことはほとんどなく、冬になり11月の終わりごろ収穫がおわると、12月ごろから山行きといって薪をとりに行っていた。気の合う仲間内7~8人で草木を山ごと買って自分の取る範囲をくじなんかで決めていた。薪にするスギやヒノキのような木は広葉樹などと違い一度切ると根元が腐ってしまい二度と再生してくることはなく14~5年は取れない。それゆえ植林などもしていた。

 入り会い山では根ざらいといって木立の下に生えた雑木や竹を取りはらう作業をしていた。木を切り出すのに川を流したことはなかったという。急な坂道で車を使うことはできなかったので、代わりに梯子のような枠を作り、材木を載せ坂道をそり要領で牛に引き出させていた。路面には2本両端の枠の跡がついていた。

 炭を焼くことはなかったが、家庭では正月用として例外的にすることはあった。農家の庭はもみを天日干したりするので広いからその一角に直径1メートル50センチ、深さ1メートルの穴を掘る。そして、薪を割って竹で輪を組んだ中にそれを入れて籾殻で包んで穴の中でじわじわと燃やし、籾殻を継ぎ足していき一種の燻製のようにする。そうして一週間位すると煙が青白くなる。この色具合によって炭ができていることを判断していた。一束作ると自家用として正月を過ごすのに事足りた。農家は貧困なのでいかに出費を減らすかでこのようなこともしていた。

 山を焼いて焼畑などはしなかった。立明寺は田畑に恵まれていたのでその必要性がなかったからである。山の木をある程度切っておいて段々畑を作ることはやっていた。

 

<生活に関して>

立明寺付近の山の幸には山芋、キノコ、ワラビ アケビ、フキなど豊富にあった。野草のほうもセリ、ヨモギ、フキ、ツタ、ワラビ、ゼンマイと一通りそろっていたようだ。一方、川の幸にはフナ、ナマズ、ドジョウ、ウナギ、カニ、ヤンブチ、カマツカ、ハヤ、ドンポ、ギューギューなどがとれた。ギューギューはナマズにとげがある生物で刺されるとかなり痛かったらしい。吸い付きドンポというのは川を石に吸い付くことで登っていくという初耳の生物だった。田んぼにはタニシもいた。川に生息する貝でヒナゴというのがいてジストマという病原菌の媒体だったようだ。

 干し柿は実のつけねの枝の両端を折ってT字型にして皮を剥いた後、わさをかけて2つをついにし、宙に張った紐にかけて干していた。

 立明寺付近の人は病気になったときには山口にいる田舎医者と呼ばれていた人に診てもらっていた。このころは病名を尋ねることはせずただ治療法だけを教えてもらっていた。昔なので病が重いと祈祷師などにお払いしてもらうケースもあったようだ。代金は現在のようにすぐにお金を払えないので鶏を代価に当てたり、年に2回など収穫に合わせて米などで払うこともしばしばあった。

 米は貴重なので7対2~3の割合で麦と混ぜて食べていた。半々で混ぜることもあったがあわや雑穀と混ぜることはなかった。豆ご飯のようなものはあったようだ。

魚や肉は自給していなかったので食べられなかった。卵を売って生活していたので鶏はだいたい家に5~6羽から10羽くらい飼っていた。肉といえばその程度のものだった。

昔は暖房としていろり、火鉢、コタツ等が使われていた。火鉢の中でも長火鉢、箱火鉢といったものがあった。箱火鉢というのは火鉢に引出しがついていて、その中にタバコなどの小道具を入れたりしていた。長火鉢には火をたく所と、それを利用してお湯を沸かす所がついていた。薪がもったいないため、外で焚き火はしなかったが、ごみを焼くことはあった。

車社会になる前の時代では、3尺道、あぜ道、古道、山道などが道として使われていた。3尺道というのは農道として使われていて、農業用車が通るので人間と牛1頭が通れるぐらいの道幅であった。山道は人間が3~4人横になって歩けるような道幅であったが、それとは別に昔からある狭い道があった。牛は前や後ろから操作するのでその道は牛1頭通ればいいぐらいの広さだった。今ではこのようなさまざまな道が拡張され、車が通るような道もたくさんある。

(岡部さんのおもひで)  

 昭和12年1月に軍隊にはいって、11年間軍にいた。昭和22年に32歳で戦争から帰ってきた。昭和20年には戦争は終わったが、英軍の捕虜として道路を作ったり橋を架けたり空港の整備をさせられていた。帰ってきたときには故郷はまるで変わっていて、浦島太郎のような気分だったそうだ。父親は学校の先生になれと言っていたが、9歳で父親が死に長男だったので家督を継ぐため学校へも行けなかった。1町5反の田と7反の畑を相続した。それくらい広いと専属で世話をする人間がいないと維持できなかった。昔の家は長男が継ぐことになっていたのに百姓の子は百姓になるために学校に行くことも許されなかった。尋常高等小学校を卒業したら必ず家を継がなくてはいけなかった。もし、戦争に行かなかったら純粋な百姓として生きていただろう。長い間戦争から帰れなかったのでその間家のものたちは苦労しただろう。戦争から帰ってきた後、百姓で食べていくのは無理だと思ったそうだ。そこで、日本軍衛生部出身で衛生事務に関して法規に従った事務をしていたので、県庁や町役場で勤めることができたのだが、母親が反対したのでそれも断念した。昭和24年衛生管理者の免状をもらったので、労働基準局から八幡製鉄所で働いてくれとオファーがあったが、またしても家族の反対により断念せざるをえなかった。戦争から帰ってきてすぐに先輩に何もわからないんだけど何か不動産があったら教えてくれと言い、有力者の井上さんがいいのがあるといったので昭和22年8月に山口の山を3町買いに行った。35年ものの杉やらヒノキが8千本位立っていた。それを三人で買った経験をしたそうだ。不動産業者を雑餉隈でやろうとしたがまた家族の反対にあい断念して惨めだった。

 

<青年団について、その他>

結婚前の若者たちは公民館や青年会場とよばれるところで会をつくり集団生活をしていた。16~7才から青年団に入ることができ入会すると親睦会などもあった。上は23~4才までいた。青年団の規律は厳しく先輩後輩の縦社会であった。共同生活の中で礼儀作法は厳しく、上の人に生意気な口をきこうものならたたき上げられてしまったそうだ。昔は今と違いテレビもないので夕飯を食べると、することがなくなってしまった。そこで、若者は青年会場に集まってきたのである。そして、スイカ畑に忍び込んでスイカを取ってきて食べたり、みかんや柿を盗んできて食べたりもしていたそうだ。もちろん根こそぎというわけではなく1つ2つの話である。

「よばい」はやはりどこにでもあったようだ。他の集落の若者とケンカになり小学校のグラウンドで大きな戦もあったらしい。しかし、行ってはみるもののそう簡単に実現するものではなかったようだ。若さに任せて遠いところまで行くこともあったとか。成功した話では、「よばい」中に家の人に見つかり着物を奪われて逃げて帰ってきたとか。その着物を下っ端に取りに行かせたりしたらしい。「よばい」のルールとしてまず、昼間にある程度の合図をして相手の意思を確認するそうだ。

恋愛は今のようにおおっぴらにはできず淡白なものであったという。

お宮の前には大きな丸い「力石」と呼ばれるものがあった。160斤(≒96キログラム)あり、おまけに丸くて担ぎ上げにくかったのでほとんど担げる人はいなかったそうだ。それを担げる人は力が強いと回りに認められる一種の尺度であったようだ。

夏になるとお宮を中心にして盆踊りや、7月と8月にはヨド祭りなどがあった。神社での行事や祭りの運営にもきびしいまでに長老階級から若手まで格差が反映していた。

犬を捕まえて食べることはなかったようだ。犬は一人前の食料がかかるのであまりいなかったらしい。

上方に大きな木の枠でできたもやい風呂があった。上方組で順番に薪で風呂を沸かしていた。もやい風呂には年寄りから赤ん坊まで男も女も一緒に入っていた。上方の10家族くらいが一緒に風呂に入るという人情味豊かなものであったそうだ。これはどこにでも田畑のひと隅にあるものだった。

農地改革前には小作制度のもと最盛期には立明寺の庄屋さんが小作人に田んぼ貸して農業をしていた。小作人は社会的に下層の階級とされ上層の階級である地主に年貢として5~6俵収めなくてはならなかった。この社会的格差は残酷なほどあって小作人が地主の家に行っても畳の上には上がれず、下で蓆の上に座ってお礼を言ったりした。

 戦争は村に戦争未亡人や靖国の母を生み出した。この戦争は国家の統制で行われたもので自分の夫や息子がそれに殉じたことは栄誉であるとされていた時代だったので、国に正統な抗議と要求を突きつけることはできなかったそうだ。国のために命を投げ出すのが誇りであるということに縛られて、本当の人間としての叫びは抑制されていたのではないかとおっしゃっていた。

 最後に、村は常に変わり続けているがもう少し秩序あるものの上に立って、お互い助け合いながら十分生きていける社会ができればいいと思っているとお言葉を頂いた。

 

<あとがき>

 宮崎さんからお返事の電話をいただいた時、立明寺の重鎮を二人呼んでくださった事を知り有難いと思うと同時に正直どうしようかと思った。お一人からお話を聞くというだけでも緊張していたからである。立明寺の3強を相手に失態を見せてはただでは済まないなどと話していた。

 当日、10時に立明寺公民館前で待ち合わせをしていたのだが学校のバスは9時過ぎに筑紫野市に到着した。お腹もすいていたし時間もあるのでファミリーマートに寄った。そこで店員に立明寺の場所を尋ねたのだが、だいぶ歩かなければならないとの事。少し焦りながら言われた方向に歩いた。しかしいくら歩いても仏閣が見えてこない。歩いていた老人やヤマザキストア(ヤマザキデイリーストアではない)の店員に「立明寺はどこですか?」と聞いても答えがあやふやであった。なかなか見つからず愚痴をこぼしていたのだが、悪いのは変な質問をした我々のほうであったと後から気づくことになる。立明寺は決して立明寺という寺を中心とした集落ではなかったのである。我々は立明寺と聞いて勝手に仏閣の絵を頭に描いていた。地図中に寺院の記号が無いことには気づいていたものの気にもとめていなかった。

 こうして出端から失態をかまし「お前らほんとに九大生か?」といわれる始末であった。おそらく他の九大生は有能ですのであまり将来に悲観的にならないで下さい。我々は方位磁石を持って行っていた事で常に正確な北の方向だけは把握していたということだけお伝えしておきます。

 そんな我々でしたがなんとかそれ以降大きな事件も起こさず(多分)、お話を聞く事ができました。大変参考になりました、どうも有難うございました。

 

 

 

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