福岡県筑紫野市大字萩原における調査報告

                      森塚由紀子・宮内万里子

                      調査日2003621

今回お話を聞かせていただいたのは

山内英実さん

中山博之さん

高田俊美さん 

                                  の三人です。

 

《萩原の小字》

カメガフチ(亀渕)・キヤマ(木山)・タカタ(高田)・ムタ(牟田)・オウギデン(扇殿)・マエ()

ヨコマクラ(横枕)・コウラ(古浦)・カケマチ(掛町)・サカイ()・ハル()・フタマタ(二股)

カキノウラ(垣内)・キョウデ(京出)・ナメリ・アッタカサカ(有田ノ坂)・ウラノタニ(裏の谷)

ウラグチ(浦口)・カリイ(軽井)・オオツカ(大塚)・ウラノハル(裏の原)

 

《しこ名について》

@田   アナンタン(穴谷)・コイド(古井戸)・カリダン(軽谷)・イネジロ・

          タカタンマエ(高田前)・イボリ・ミズアライ(水洗)・ムタ・

     ナメリ(南米利)・イッチョウマ・ウランヤシキ(裏屋敷)

以上にあげたしこ名のうち由来の分かる・考えられるものは次の2つである。

タカタンマエ(高田前)・・・昔、その土地にという豪族がおり、周辺を支配していた。現在に至ってもその豪族のいた所を高田と呼んでおり、その前に田があるため。

ミズアライ(水洗)  ・・・「水に流されやすかったのではないか?」という話である。

ちなみに萩原では圃場整備は行われていない。またカリイダン(軽谷)の上の山の中に田んぼがあり、ウワガリ(上がり)・シタガリ(下がり)と呼ばれている。「農業に携わる人の数が減ってきたため、田が作れずウワガリは樹木変換している」とのことだ。

A谷     ヤマンタン(山ノ谷)・ウランタン(裏ノ谷)・オクンタン(奥ノ谷)

B川   ウランハルガワ(裏の原川)[ニシゴガワ(西吾川)]・ウランタンガワ(裏の谷川)

     ヤマノタンガワ(山の谷川)[ナメリガワ]・オクンタンガワ(奥の谷川)

C井堰  イッチョウマ(一丁間)井堰[通称ウワイデ(上井出)]・コゴウラ(小河原)[通称

D橋   コヤマチバシ(木屋松橋)・ショウガクバシ(奨学橋)・ハギワラバシ(萩原橋)・  

     コウカンブンゴウバシ(交換分合橋)

 

《屋号について》

基本的には小字に人の名前をつけて「畑中の〜さん」といった呼び方をするそうだ。しかし何軒かは屋号がついており、名と由来を教えてもらった。

スヤ(酢屋)     ・・・昔酢を作っていたため。

カミヤ(紙屋)   ・・・昔紙を作っていたため。

シンヤ(新屋)   ・・・これは由来はわからなかったがお話を聞かせていただいた山内さん

          のお宅の屋号である。

アタラシヤ(新家)・・・分家して新しい家を建てたため。

 

《道や峠の名前ついて》

トウゲノハル(峠の原)・ハルノサカ(原の坂)

ハルノサカは原にある坂である。ガスのなかった時代、山のなかった筑紫村の人たちが

山口で焚き物を買って帰るときにこのハルノサカで休憩しないと牛が坂を登りきれなかったそうだ。

 

《田んぼについて》

萩原では田んぼは100%川の水を利用している。イッチョウマ(一丁間)やコゴウラ(小河原)

から水を引いた。

川の水はジョウバン(錠板・定板)によって区切り、ある一定の割合で振り分けられるようにした。

水争いは戦後まもなく山口小学校のあたりで大きな争いがあり、機動隊が出てくるまでの大きな騒ぎになったそうだ。

「水を分けるうえでしっかりとしたルールはないが、現在まで伝えられているルールをしっかりと伝えていこうと思う。」と山内さんは語っていた。

萩原で特にひどい旱魃はなく、稲が植えられないということはなかった。萩原にはたくさんの木が茂っており、そのおかげで森の地力を保つことができる。また最近では、減反政策で田をつぶす際、水の入りにくい田をつぶしているのでさらに旱魃の影響を受けなくなった。

雨乞いは特別にはなかったそうだ。「自分たちで仕事を休んでお酒を飲むくらい。」と笑っておっしゃっていた。

昔、用水路や川や田にはフナ・ドジョウ・ナマズ・ギュギュウ・ハヤ・ウナギ・ドンポ(ドンコ)がいた。現在でも見ることのできるのはドンポ(ドンコ)と数少ないドジョウだけで、他の生き物はもう見られないそうである。「用水路がコンクリートで作られたことや、農薬の影響のためだろう。」とおっしゃっていた。

麦は乾田で作る。そのため湿田では菜種を作っていたそうだ。しかし麦が田で作られたのは10年程前が最後で、現在麦を作る田はない。田植えの時期が早くなったため、麦を植えられなくなったそうだ。むらの一等田はヨコマクラ・オウギデン・イッチョウマ・マエ・タカタである。化学肥料投入前、米は反当6俵取れ、悪い時は4・5俵だった。麦は6俵だった。高田さんの住む山の谷は、山と山の間で日照時間が少ないので8・9等の田だがそのかわりとてもおいしいそうだ。

昔は肥料に堆肥や単肥を使っていた。今は配合肥料や化成肥料を使っている。

稲の病気には高温・多湿による稲熱病があった。害虫対策としては、うんかの場合、竹筒に入れた灯油を撒き、虫の羽が油膜でくっついて動けなくなった後、虫が水に浮くので水を流して害虫を田から駆除するという方法をとった。その後、34~37年ほど前まで共同作業で人間まで害を及ぼす程の強い農薬を使っている時期もあった。その農薬の影響で肝臓や肺を悪くしたり、入院したりする人もいたそうだ。現在では、田植え時にウインアドマイヤーという殺虫・殺菌作用のある薬を用いている。ウインアドマイヤーは米の稲穂にはほとんど残留しない、予防薬のようなものである。そのため最近はほとんど無農薬であるらしい。

共同作業はかせいと言った。他の地域の人が自分たちの田植えが終わると賃金稼ぎに田植えにきた。遠い所からは那珂川からも来ていたそうだ。さなぶりは萩原中の田植えが終わると行っていた。しかし最近は昔ほど集まりが良くない。「昔は娯楽が少なかったので、さなぶりはごちそうを飲み食いできる楽しみであったが、今は少数の人が手弁当を持って集まるくらい。」とおっしゃっていた。

 

《牛について》

萩原の農耕用動物はほとんど牛だった。牛のえさは自給で、夏は田のあぜ草に米ぬか・ふすま・小麦のかすを加えたもので、冬はわらや坊住山などの野山の夏に切って干しておいた干し草であった。

牛の手綱は一本で、右に歩かせるときは手綱を引きながら、「せい、せい」と言い、左に歩かせるときは手綱をゆるめてたたきながら、「さっし、さっし」と言った。

萩原では種牛のことをごって牛と呼んだが、ほとんど暴れることはなかった。えさをあげたり、体をふいたりして愛情を持って接していれば逆らうことはなかったそうだ。暴れることがあったらたたいておとなしくさせた。このような農耕用の牛は昭和35年ぐらいまで飼われていた。

 

《山について》

草切場は坊住山からウランハル(裏の原)のあたりまでだった。刈った草は牛のえさにしたり、牛の寝床にしたり、それがいっぱいになると牛に踏ませて堆肥にしたりした。

薪は裏の山から入手した。萩原ではみんな持ち山があったのでそこから切っていた。

村の共有林は坊住山のふもとで、ここでの作業は野焼き・床ごしらえ・間伐・除伐・下草刈り植林などの作業だった。終戦後はで共有林を持つことを禁止されたため、代表者の名前で所有することになった。今は若い人が山に行く仕事をしないため、補助金を使って間伐を森林組合に委託しているそうだ。

木の切り出しはどびき(牛や馬に引かせる)だった。

草切場は新しい草が生えるように火入れをしていたが、焼畑は今までしたことがない。

 

《食べ物について》

山の幸はナバ・シイタケ・アカナバ(ヒガンナバ)だった。今はもう生えていないそうである。

木の実は山桃・あけび・うべがあった。「食べるために取りに行くということは特になかった。」とおっしゃっていた。

川にはウナギ・カニ(ヤマトリガニ・ツガニ・サワガニ・タニガニ)がいた。秋に雨が降るとカニが道路を歩いていることもあったそうだ。

毒流しはゲランや電気を流したが、悪いことなので、滅多にする人はいなかった。山内さんたちも一度ぐらいしかしたことはないそうだ。

お菓子はさつまいも・いも飴・せんべい・干し柿を食べた。萩原の干し柿は1つの柿を2つにしてつるす、つるし柿であり、数え方は「ひとさげ、ふたさげ・・・」と数えるそうだ。サルに食べられることもある。

野草では、ズバナ・ツクシ・萱の芽を食べた。

食べられない野草にはヘビイチゴがあった。

 

《米について》

米は年末までにもみすりをして、玄米をブリキの缶に入れていた。

ネズミ対策としては籾殻を入れたり、上に述べたようにブリキの缶に入れたりして保存する対策をとった。

米作りの楽しみは収穫で、苦しみは田植え、田の草刈りだったとおっしゃられた。

 

《生活について》

昔の暖房は火鉢や掘り炬燵だった。

道は車社会になって拡幅しているが、道筋は変わらない。実際に萩原には曲がった道も多かった。

村には魚・豆腐・干物・衣料を売る行商人が来ていた。山内さん宅には、干物屋が帰りにお金がなくなり、米と干物を交換してほしいと頼みに来たらしい。かまどのお経をあげる目の見えないザトウさんは来ていたらしい。「オコウジン様」と呼ばれていた。薬は佐賀の田代からよく来たそうだ。一家に二箱ぐらい薬を置いていった。

医者は二日市からよく来ていた。

米と麦を混ぜるときは73または82の割合だった。

自給できるおかずは野菜・にわとりで、自給できないものは肉・魚であった。現在にわとりを飼っている家は少ない。

男性だけの集まる青年会所があり、そこでは演劇・舞踊・博多にわかをされていたそうだ。

規律は厳しく、上下関係はあった。

スイカや干し柿を盗むことはあり、よく怒られたらしい。

戦後の食糧難の時期、萩原では食糧に困ることはそれほどなかった。

城山から来る青年とけんかすることはあった。石を投げられたりしたらしい。

盆踊りや祭りはここ230年の間に始まったもので、昔そういうものはなかったそうだ。

昔の神社の祭りは17人のオザによってとり行われた。戦後は皆で行うようになったそうだ。

「むらで現在専業農家がいなくなったことが大きな変化だ」とおっしゃっていたのが印象的だった。

 

 

《一日の行動記録》

09:00      六本松集合。

09:15      六本松出発。

10:30   山内さん宅到着。

12:00      山内さん宅で昼食をいただく。

15:00      聞き取り終了。この後1時間程車に乗せてもらって萩原を見てまわる。

16:00      萩原を出発。