筑紫野市古賀

 

 

622日、私たちは筑紫野市古賀の山口さんにお話をうかがいに行きました。その日は、くもりで気温はそれほど高くはなかったのですが、湿度が高くて蒸し暑い天気でした。六本松からバスに乗り込み、30分くらいで筑紫野インターを降りて、バスから下ろされたので、「こんなに早く着くとは」と驚いてしまいました。バスを降りたあと、鳥栖筑紫野有料道路を歩き、途中で引率の先生が道を尋ねてくださり何とか約束の古賀公民館にたどり着くことができました。道中で、道路沿いの地図を見て公民館の位置を確認する私たちを見かけた男性が、しばらく進んだところで、「あんたたち公民館に行くとね。このまま行ったら、遠回りになるけん、ここから曲がったほうがいいよ。」と、親切に教えてくださり、見知らぬ土地にきて緊張していた私たちもほっとすることができました。約束された時間は13:00で、古賀公民館に私たちが着いたのは10:00でした。そのため、3時間ほど私たちは公民館の前で待つこととなりました。12:30ごろに、女性が公民館を開けてくださり、とうとう私たちは会議室でお話をうかがうこととなりました。なんと、山口さんのほうで紹介してくださったおじいさんは最初は5名で、最終的には7名ということで、私たち2人のほかに3人ほかの班の学生がいたとは言え、「どのようなお話が聞けるのだろうか。」と、期待と不安が胸をよぎりました。私たちは緊張していましたが、山口さんをはじめ、話をしていただく方々が、みなさんとても気さくな方ばかりでしだいにその緊張もほぐれていきました。引率の先生の誘導のおかげもあって、どうにかスムーズに話をうかがうことができました。

<わたしたち2人がお話をうかがった方>

 

ワタナベ キヨタカさん (昭和4年生まれ)

 

サエキ シュウイチさん (昭和23年生まれ)

 

<今回調査に協力していただいた方>

 

ヤマグチ クニミツさん (昭和17年生まれ)

 

ヤマグチ ヒロアキさん (昭和12年生まれ)

 

サカタ テルオさん (昭和2年生まれ)

 

 

まず地図上で現在でも残っている地名をうかがいました。「今田んぼつくりますよね。それをあの昔の名前で言いよるわけですよ。地名としては残っとらんばってんですね。」とおっしゃるように、昔の地名が今でも俗名として深く根付いていることがわかりました。

 

ヒライデ

豆田

ヒヤケ

鈴倉

   ・・・昔この辺りに倉があった

カメイシ(位置が現在と異なる)

   ・・・ガラン様がまつってある 

 

ヤカタ町

   ・・・現在今田(コンタ)という地名に変化

フジノキ

イシイデ

ヒラキ

ヨコマクラ(位置が現在と異なる)

一丁マ

車ヤ

   ・・・昔この辺りに水車があった(注1)

ヒラ山村

コヤ所

八反田

ウサガ原(兎ヶ原)

   ・・・現在の天拝湖にあたる

カキカクボ

   ・・・現在カクカクボウという地名に変化

不動山

ヂル谷

・・・現在尻谷という地名に変化(通称ジリタンと呼ばれている)

  湿田で狭い。

寺ノ尾

   ・・・現在寺尾という地名に変化

     昔隠し田があったそうだ

エナガウラ谷

ジョウガハル

ドジョウガメ

・・・その名の通りドジョウを取っていたという話をうかがった。「ドジョウの寄るところのかめがあった。水のたまりがあったもん。そんで、そこに行ってくさ、かめば使うて(ドジョウを)取りよったと。」

カラン

ヲシキ田

ガンノウ寺

ヘボノ木

   ・・・山の下の辺り

トラマル

   ・・・トラマル長者という金持ちが住んでいて、館は現在の養護学校の裏にあったという。

ブゾウ寺

・・・フジの名所(注2)。「そこに菅原道真さんの自分で彫らっしゃった銅像のあるとですよ。自作天満宮っていって。テンパイ山に道真さんが上って。」

ダイギョウジ山

・・・相撲取りが来て相撲をとっていた。

クハンオン山

・・・武蔵丘団地あたり。

イデノコガ

・・・オオイデ遺跡がある。

 

大町

ヒラバル

キョウノミネ

タッチョウダン

コイデ城

ボウジョウ

キヤマ城

 

 

話の中で古賀は古街(コガイ)からきているのではないかということを聞きました。この辺りは昔からの住宅と昭和40年代以降に移り住んできた人の住む住宅が入り組んでいるそうです。昔からこの辺りにすむ人たちは農業を行っており、この日も忙しい中いらして頂きました。昔は一丁ほどの土地で田植えを行っていたそうですが、減反によってその面積もずいぶん減ったそうです。「今は八反位。減反しよろうが。米のあまり過ぎて。昔は一丁位ば作ってさ。」とおっしゃっていました。新しい住宅や道路を建設する際にたくさんの古墳が出てきたりと、古くから生活が行われていたことが分かりました。

ワタナベさんの言葉にもそのことを思わせるものがありました。

「昔は馬具がでてきよったぞ。大雨のときには、土がやわらかくなるけんくさ、泥ばぬけたら馬具やったりしたとぞ。」

「ヤカタまちからは、赤い土とその中から皿か何かの破片やらがでてきよった。やかたまちには、館(人が住んでいた)かなんかがあったっちゃなかろうか。」

 

 

 

次に、昔の村の様子についてもう少し詳しく聞いてみました。

 

 

 

<田植えについて>

 

 

・さなぶりは今では無くなってしまったが、昔は行われていたらしい。

「田植えが終わった後、みんなで温泉に行ったりしよった。」

 

・田植え歌は田植えの最中についつい口ずさんでしまうもので、絶対的な田植え歌は決まってはいないようでした。

 

・田植えは必ずしも自分たちだけでやっていたわけではないようで、「田植えは昔は小郡まで田植えさんば雇いよったぞ。」ということからもわかります。

また、このあたりから箱崎のほうまで、作業を手伝いにいくこともあったらしく、実際広範囲にわたって農家の方の移動があったのだということがわかりました。ちなみに、九大のある箱崎のあたりはむかしは塩田があったそうです。

 

 

 

 

 

<牛や馬の飼育>

 

 

・家で飼育していた動物は、牛と馬が半々の割合だそうです。

 

・牛を歩かせたり、鋤を引かせたりするときの掛け声は、右へは「サシサシ」で左へは「セイセイ」でした。ワタナベさんが「サシサシ、シェイシェイたい!」と元気よくおっしゃったのが印象的でした。

 

・牛や馬の手綱は1本が多かったようです。

 

・ごって牛はこの辺りでは「こって牛」というそうで、こって牛をおとなしくさせるためには、やはり去勢させていたようです。

 

・馬を洗いに行ったのは池で、だいたい江永浦であらっていたようです。

 

・蹄鉄は行われていて、二日市に蹄鉄をするところがあって、そこまで行っていました。

 

 

<草刈りや、薪の調達について>

 

 

・草切山は黒力子山で、黒力子山はカキカククボの西にある山です。

 

・薪は尻谷や、穴の原で手にいれていました。手にいれた薪は牛に運ばせて、湯町に売りに行っていました。湯町は二日市の方で、あの辺りは温泉が多いため、薪の需要が高かったからと推測されます。

 

・この辺りの入り会い村(むら共有の山)はカキカククボでした。草きり場で草をとる権利である、「入り会い権」もここでは存在していたようです。カキカククボ以外の草きり場では、こっそりほかの人の土地に朝早くに行って草を牛に食べさせていました。村有林はクロガネ山だたそうです。「みんなが草刈りば行かないけんくなったけん入札で利用しよう人がみんなで買うたとばい」とおっしゃっていました。

 

・草は切って牛に踏ませ、糞と一緒に田んぼにまいていたそうです。

 

 

<木材などについて>

 

 

・木を切り出して、そりや牛に引かせる「どびき」はありましたが、川流しは無かったようです。

 

・炭は焼いていましたが、自家用でした。炭を商品として作っていたのは韓国の人だったとのことです。また、山を焼くことは無かったそうです。

 

・野稲は反当3俵ほどつくっていたそうです。野稲は水田で作らない稲のことで、陸稲ともいわれています。

 

・和紙を作る原料ともなる「かご」は取っていました。

 

・山の木の実には、椎、山桃、桑、ニッケなどがありました。椎の実は炒って食べ、桑の実は赤い実が黒くなったら食べごろで、生のままたべていたそうです。ニッケは辛い食べ物だそうで、2人とも山の実についてはあまり知らなかったので、とても勉強になりました。ほかに、ワラビ、ツワ、ゼンマイ、マツタケなども山の幸として取れていたそうです。余談ですが、ほかの人の土地にこっそりマツタケを取りに行ったという話もありました。

 

・川で取れる魚には、フナ、ハヤ、ドンポ、ナマズなどがあり、毒流しも行われていたそうです。

毒流しについて聞いてみると、ゲランという木の皮を川の水面にたたきつけることで、木の皮から毒素がでて、辺りに浮いてくる死んだ魚を取っていたそうです。この漁のやりかたについても知ったのは初めてで、驚きました。

 

 

<米作りについて>

 

 

・米の保存はトビツに入れて保存するのが主流だったようです。兵糧米については、「昔兵隊さんが持ち歩く保存食だったから兵糧米っちゅうんやろうな。」と予想を立ててくださりました。

 

・米作りの楽しみについてお聞きしたところ、「やってみらんと分からん。」と、感慨深げにおっしゃったので、いろいろと苦労と楽しさがあり、一言では言い尽くせないものなのだろうと思いました。

 

・米を保存する際のネズミ対策は、ネコとネズミ退治の毒を撒くことだったそうです。これも余談になりますが、殺虫剤の規制が緩かった当時、クロロピクリンを用いて消毒を行ったこともあったそうです。

 

・昔の暖房は「ほりごたつやったが、あら危なかけんな。」とおっしゃるように、一酸化炭素中毒で死ぬ人もあったそうです。ほかには、湯タンポや、カイロがあったそうです。当時のカイロは現在私たちが使用しているものとは大きく異なり、「火ば、線香の親玉のごたあのにつけて、ヤケドせんごと、布ばまいて持ち歩きよった。」とおっしゃっていました。ちょっとコワイです。

 

 

<むらの外とむらの関係>

 

 

・村には魚を売りにくる行商の人もいて、その人たちは姪浜や、箱崎、志賀島あたりから来ていたそうです。これらの人は、オキュウトなども売っていました。

 

・ザトウさんについては、「琵琶持ってきよったよ。天台宗やろうな。二日市やらこの辺にザトウさんの琵琶ひく家があったな。」琵琶をひいていたというのを聞いて、琵琶法師のことを思い出しました。

 

・やんぶしについては、髪はぼさぼさで、身なりのみすぼらしい人だった印象があるようでした。薬売りについてお聞きしたところ、佐賀県の鳥栖の田代あたりから来たり、富山からも宿を借りてあちこちの家々を回っており、だいたい数日から一週間ほど滞在していたようでした。ちなみに、このあたりには今でも置き薬があるとのことです。

 

・川原やお宮の境内で野宿をしていた人たちについては、「こじきのごたあ人やったばってん、良か人もおらっしゃあとよ。」その人たちがどこからきたかについては、「そげなこと聞いたことは無かったなあ。」とおっしゃっていました。

 

 

<昔のくらし>

 

 

・戦争による食料難のときに米と麦を混ぜていたそうで、だいたい米:麦が7:3くらいの比だったそうです。「白米ば食わっしゃあとは金持ちの人やったばい。」「こうりゃんめしやら、大根めしやら食べよったばい。」とおっしゃったワタナベさんの言葉が、今では想像できない大変な暮らしを思わせ、印象的でした。

 

・自給できないおかずはやはり肉や魚で、「昔はくじらは安かったもんな。いわしやら、くじらやらが多かったな。」という言葉からも、手にはいる魚の種類も限られていたということが、よく分かります。

 

・戦後の食糧難で、犬を捕まえて食べるようなことはあったようで、「赤い犬ばワサやらで捕まえよった。」聞くところによると、ワサというのは棒の先にわっかのついたもので、犬を捕まえる道具として使われていたようです。

 

 

<昔の若者たちのようす>

 

 

・少年のころは柿を盗って食べるのは遊びの定番だったようで、皆さん経験されたようでした。「いつかカバンば下に置いて柿ば取りよったら、隣の部屋のあいつの親父がカバンば全部学校に持っていっとったんよ!」という面白いエピソードも聞かせていただきまして、みんなで笑ってしまいました。

 

・結婚前の若者たちの集まる宿は全国にあったようで、このあたりでは「青年会場」とよばれていました。そこでは男性だけでなく、女性も一緒に集まり、卓球などをして遊んでいたそうです。上下関係は厳しく、先輩のいうことを聞かなければ制裁がきっちりと待っていたようです。「あれば盗ってこいと言われて、ゆうことば聞かんかったら叩かれよったですよ。」

「酒ば飲みきらんかったら押さえつけてでも飲まされよったぞ。」サエキさんによると、ワタナベさんもなかなかの先輩だったらしく、ワタナベさんが苦笑いをされていました。

 

・昔の若者が力くらべをしていた力石について尋ねると、「力石は無かったばってん、大きなタキギば持ち上げきいかってのはしよった。」とおっしゃり、やはり若い男たちの力くらべはいつの時代もあったのだなあと思った。

 

・もやい風呂とよばれる共同風呂は昭和初期くらいまで存在していて、城が原あたりに10件ほどあったということです。

 

・盆踊りはこの辺りではなかったようですが、青年団が浪花節語りを連れてくる祭りはあったようです。また、西公園まで弁当を持って男女で花見をしに行ったりもしていたそうです。

 

・よばいについては、ワタナベさんのお父さまの世代くらいまではあったようで、また、あらかじめ約束みたいなものもあった上でのコトのようでした。今では考えられない恋愛のかたちにとても驚いてしまいました。隣の部屋は男子学生ばかりでしたので、この話題はかなり盛り上がったようですが、私たちの部屋は女子2人だったので、ワタナベさんも照れくさそうに話していらっしゃいました。

 

 

<戦争中の若者たち>

 

・戦時中は当然のことながら勉強も思うようにはできなかったようです。「停電ばっかりやったろうが、(夜勉強するときは)“じゅみ”って、ひもみたいな布に油(なたね油)ばひたして火ばつけて、それば灯りにして勉強しよった。」今、私たちはスイッチをいれるだけで、電気のもとで勉強ができますが、そのことがどんなに有り難いことかと思いました。

 

 

<戦争の影響>

 

・戦後はやはり戦争未亡人とよばれるひとが多数いたそうです。

 

 

<むらのこれから>

 

・このあたりも、開発が進み、これまでのむらのあり方は変わりつつあるようです。

 新興住宅の増大につれて、さまざまな宗教や考え方や言葉(方言)が入り混じり、昔ながらの一体感のあるむらのあり方を維持するのには今までは無かった苦労もあるようです。

「今は会話が無かろうが。田んぼ行ったちゃ車やけん。昔は自転車やけん、今日はどげんな、とか道で会ったら腰ば下ろしてちょっと話でもしよっかーってなったもんな。」むらの変化はこの言葉にありありと表れている気がします。便利だけどどこか寂しい、そんな現代社会の一面の縮図を垣間見たような気もしました。また、「昔は(農作業など)きつかったばってん、今よりは暮らしやすかったごとあるなあ。」という、ワタナベさんが何度かおっしゃっていた言葉にも同じ思いがしました。便利であることと、幸せであることは同じような気がしていましたが、こういったお話を聞くにつれて、その二つの言葉には実際は大きなズレがあるように思いました。

 

 

 

 

 

 

<今回の調査を振り返って>

 

今回の調査で、私たちは非常に多くのことを学べました。昔の地名だけでなく、昔の若者と今の私たちの大きく異なる点や、共通点、戦時中の苦労やむらの変化など、幅広い範囲を包括的に調べることができたように思います。それも、山口さんをはじめ、今回の急なお願いに快くお答えくださった方々のおかげであり、本当に感謝しています。何より、見知らぬ土地について初めてお会いする方に話をうかがうということに緊張していたのですが、気さくな人柄で和やかにお話ができたことが一番良かったと思います。

 

 

 

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