大字筑紫調査レポート
調査員 佐藤 秀之
村上 晃司
9:00 九州大学六本松キャンパス正門前集合
10:00
11:00 調査に備えて最終確認
12:00 昼食
13:00 木村さん宅訪問
14:30 訪問終えJRで帰宅
話者:木村義徳さん 昭和12年3月7日生まれ 66歳
佐藤:以前の家や道の様子はどうでしたか?
木村:家は麦わらがほとんどで、道路は今のように舗装したものではなかった。今みたいに車はほとんどなかったから自転車なども珍しく、牛車やリアカーなどが、多かった。
佐藤:やっぱり、今とはだいぶ違いますね。以前と今で地名で変わったものとかありますか?
木村:とくにないね。
(そうおっしゃいましたが、昔あって今は使われていない地名を幾つかあげられましたので、以下にまとめます)
<小 字>
トウノヤマ(塔 山)
ミヤジダケ(宮地嶽)
イワノカミグラ(岩の神蔵)
クスリミズ(薬 水)
カリズカ(仮 塚)
アブラヤ(油 屋)
メガネバシ(眼鏡橋)
ヌベリザカ(ヌベリ坂)
ゴタンダ(五反田)
(この辺りでは地図を使いながら具体的な場所も教えてくださいました。)
佐藤:しこ名とかいうものはありましたか?
木村:しこ名っていうのは、記憶にないな。ただ、さっき言った仮塚というのが、しこ名のようなものとして、使っていた。ここの住所も昔は、三笠郡筑紫村大字筑紫字城山の小字が仮塚だった。しこ名=仮塚だった。倉良川が境界で、仮塚と城山に分かれていた。(地図で倉良川や仮塚、城山の場所を確認しました。)
佐藤:以前は電気やガス、水道などはなかったと思いますが水や電気、ガスはどうしていましたか?
木村:水は井戸だった。各家に手掘りの井戸があって、深さは6~8mだった。今は、20~30mの深さがあるボーリングがある。今でも水道はあるけれど、井戸を利用する家のほうが多いかな。
電気はなかったけど、油の入ったトウミョウを使っていた。ガスのかわりとしては、薪や、たきを使った。
佐藤:さきほどの牛車についてですが、こちらでも飼ってましたか?
木村:牛を飼っていた。ほとんどの家が、牛を飼っていた。えさとしては、草や、麦を小麦にする時に出るカス(ふすま)をあたえていた。
佐藤:田に水はどうやって引いていましたか?近くの川を利用したんですか?
木村:小さい山にたまった水が流れてきて、それを利用していた。あとは、倉良川などの川の水も利用していた。また天水と呼ばれる雨が降らないとたまらない水も利用していた。こりは雨が降らないと、使えなくなる。田の面積は、平均して、8~9反くらいかな。
佐藤:台風の特別な対策はありましたか?
木村:特別なものはないけれど、家の柿の木がその役割をはたしていた。家を取り囲むようにたっていたから、よかった。
佐藤:川、用水路などにはどのような生き物がいましたか?
木村:いろいろいたね。めだかや、あや、ふな、どじょう、あめんぼうなど。とにかく名前の知らない生き物が他にもたくさんいた。最近は減っている。川が、汚くなったからね。昔は川で遊んだりしたけれど。直接飲めるほどだった。ただ、最近ナマズを見た。少しは、もどってきているのかな。
佐藤:肥料はいったいどのようなものを使っていたんですか?
木村:飼っていた牛のフンを含むたい肥、化学肥料はなかった。稲の病気は、いもちがあった。いもちというのは、窒素が増えたら、起こってしまい、稲が枯れる。むしろ稲の病気よりも害虫被害のほうが、ひどかった。害虫を殺すために水銀を使ったが、その被害は、川の魚も殺してしまい、あげく、人間にまで被害は及んでしまった。それにより水銀の使用は、やめた。これは、あの水俣病よりも前の話。やめた後は窒素リン酸カリウムを使っていて、今は稲の調子はいい。ただ、以前と比べると、今の稲は背丈が小さく粒も小さい。昔のほうが、稲は大きくて、粒も大きく、おいしかった。
佐藤:田植え歌のようなものは、ありましたか?
木村:田植え歌はなかったな。みな一緒に作業する機会があまりなかったから。また、薪は、山で自分で調達していた。道具としては、かま、のこぎりを使っていた。
佐藤:焼畑などはありましたか?
木村:焼畑はなかった。田以外は畑かな。作物の種類は、今とほとんど変わらないね。1年1作だった。
佐藤:お祭りなどはどのようなものがありましたか?
木村:祇園祭り、観音祭り、よど祭りが、あった。今みたいにおどったりはしなかった。
佐藤:じゃあ、お酒などを飲む程度ですか?
木村:そうだね~、
佐藤:おやつなどは、ありましたか?また、それはどのようなものでしたか?
木村:おやつは、はったいごと言って小麦で作ったもの。芋を食べるようになったのは、戦後になってから。芋が多かった。
佐藤:ご飯はどのようなものを食べていたんですか?
木村:昼は、ほとんどが麦飯で、おかずは、野菜。魚は、海が周りになかったので、ほとんど食べなかった。
佐藤:山で木の実や食べれる草などはなかったんですか?
木村:食べれる草は記憶にないな~。山で、梅、柿、くわの実をとって食べたことならある。
佐藤:今みたいに冷蔵庫がなかったじゃないですか。食べ物を保存するには、どうしたんですか?
木村:保存には漬物なんかにした。漬物以外はとれたてで、保存には困らなかった。味噌や醤油も自分で作っていた。買うようになったのは、戦後になってから。
佐藤:では、ねずみなんか出たんじゃないですか?ネズミ対策には、どうしたんですか?
木村:罠で捕まえていた。ペットは、犬や、猫が、少し。ペットを飼う家はほとんどなかった。
佐藤:周りは山ですけど、イノシシなどはいなかったんですか。
木村:イノシシがおりてくるようなことは、なかった。
佐藤:薬などはどうしたんですか?
木村:いり薬が多かった。いり薬屋が各自家を訪れていた。
佐藤:昔と今で大きく変わったところは?
木村:大きく変わりすぎたからな。今は、すべてが贅沢すぎるよ。当時は、鳥を食べるのは、1年に1回だった。今は、期限切れの弁当を捨てて。コンビニとかね。昭和30年くらいの池田内閣あたりから、景気が急によくなった。
ただ、農業人口が減っている。専業農家が、特に減っている。減反政策のせいで農業だけではやっていけない。かなりの農家がなくなった。農家をやっているところでも、サラリーマンをやりながらというところばかりだ。
この後、木村さんとは何気ない話しをしていました。家の様子は、自分の祖父母の家を思い出す雰囲気であった。さくらんぼを出していただいたので、僕たちはいただきながら石油の話となった。
「石油がなくなったら、また以前のような生活に戻るだろうね。今は何でも石油からできてるから。今の生活は、贅沢だ。以前は手作業や牛を使っていたが、コンバインなどの機械ができて楽になった。機会は高いから、刈るのだけ頼んだりしている農家もある。」などと、おっしゃっていた。
感想
僕たちは、短い間しか接することができなかったが、いろいろと肌で感じることができとてもよい経験になったと思う。実際に始めてお会いしたけれど、木村さんは大変快く僕たちを迎えてくれたことにとても感謝しています。
はじめは、知らない人のお宅へいきなり訪問するということにとても抵抗があった。その反面、福岡の街中に住む僕たちには普段味わえないような未知の体験に好奇心もあった。木村さんの家は、地図で確認していたのだが実際に行ってみると見つけるのはとても困難だった。周りの景色は、田んぼが広がっていたのが印象的であった。家に入ってみると、自分の祖父の家を思い出させるような家でした。木村さんには、いろいろ話をうかがうことができとてもいい一日とすることができた。