江越真樹子
窪田 麻弥
入来 慶
筑紫野市平等寺は、福岡県と佐賀県の県境にあります。山あいの土地で緑が美しく、絶えず水の流れる音がし、棚田が一面に広がり、のどかでホッとする雰囲気のところでした。私たちは、そこに住む方々から様々なお話をうかがいました。
l
光伝寺
家々の間の細くなだらかな坂道を抜けたところにある光伝寺というお寺を訪ねてみました。そこの住職・木村大信さんは現在、説教をしに各地をまわっておられ、福岡県のみならず、佐賀県や鹿児島県などの方言や地理に詳しい方でした。とても気さくな方で、私たちの突然の訪問にもこころよく応じてくださいました。
光伝寺は西本願寺派の寺で、約200年前から平等寺にありました。現在の浮羽に同名の寺がありますが、こっちは東本願寺派です。今でこそ2つに分かれていますが、この2つは本来は1つの寺で浮羽にありました。なぜ2つに分かれたかというと、約200年前の江戸時代、当時の有馬藩の殿様が、「有馬の寺は全て東本願寺派にする」と言い出しました。驚いたのは西本願寺派の僧たちで、そう簡単に変えられるはずもありません。そのうちに、殿様の命令に従う者と従わない者が出てきました。そして、いくら殿様の命令とはいえ従うことはできない、と反対した者たちは有馬にいられなくなり、平等寺に逃れてきて光伝寺を建てたのです。また、光伝寺に残る記録によると、同様の経緯をたどった寺が他にも4つあります。その4つとは、吉木の安紹(アンショウ)寺、山家(ヤマエ)の西福寺、五条の来光寺、原田の伯東寺です。これらは全て西本願寺派ですが、伯東寺については、浮羽に同名で東本願寺派の寺があります。安紹寺に関してはこれも浮羽にある安超寺に由来すると思われます。残る2寺についても本来の寺があると思われます。この5つ以外にも分離した寺があるかもしれません。
以上は木村さんからうかがった話です。ところが、その後地元のお年寄りの方からうかがった話はこれとは少し違っていました。「ある人が柳川で反乱を起こしたが敗れて島流しになり、この平等寺に来た。光伝寺の先祖はその家来で、今の住職は13代目である」というものでした。何しろ200年も前のことであり,伝わるうちに少しずつ内容が変化してしまったこともかんがえられます。その点、文書の方が確実性がありそうですが、全て真実のみが書かれているわけではないことは他の事例を見てもよくわかります。今の段階ではどちらが正しいと言い切ることはできませんが、2つの話の大まかな趣旨より、約200年前,柳川・浮羽周辺の人たちが平等寺に移り住み光伝寺を建てた、ということは確実だといえます。
今から約200年前というと江戸時代後期にあたります。文化9年に作成された地図には、すでに現在の位置に「光傳寺」と書かれています。つまり光伝寺は文化9年(1812年)以前に建てられたということです。現在では新しく立て直されていますが、そのすみっこには旧光伝寺跡を示す石碑が立っています。
江戸幕末から現在まで激動の200年間を平等寺の人々と共に過ごしてきた光伝寺は、今では平等寺を語る上ではなくてはならない存在となっています。
l
札所
光伝寺へ行く途中で、道のすぐそばに古い小さな‘ほこら’のようなものがあるのを見つけました。古地図に載っている‘札所’のことで、地元では「オヤクシサン」と呼ばれています。その古地図には1つしか載っていませんが実際には2ヶ所あり、観音さん(観音様)を祭ってあるところです。私たちは、旅人の安全を祈願するものだろうと考えていましたが、実は違う目的のための場所でした。札所はここ以外にもいくつもあり、約60年くらい前までは「札うち」といって、若者が所々の札所を歩いて回っていたそうです。これは巡礼や祠まわりのようなもので,神や仏への信仰心の薄い私たちから見るととんでもないならわしに思われました。
札所から少し南に行ったところの堀のそばに大きな縦長の石が2つほど立っていて、ジゾウドウ(地蔵堂)と呼ばれていました。ここは隠れキリシタンに関係のある場所でもあり、明治になる前の戦争の跡地でもあるそうです。今ではコケが生ええたり風化したりしてしまい,石に刻まれた文字はわからなくなっていました。ジゾウ堂という割にはお堂もなく石だけでしたが、おそらく隠れキリシタンや戦死者たちの墓標だと思われます。お堂があったとすれば、隠れキリシタンの秘密の集会所、といったところでしょう。江戸幕府から弾圧されながらも尚、自分の意思を貫き通した人々がいたことには驚かされます。
l
山上神社
平等寺公民館の前には、1日5本しかないというバス停があり、隣には山上神社という古いお寺がありました。ここには氏神を祭ってあり、家内安全などを祈るそうです。その歴史も300年以上前にさかのぼり、貞享2年、つまり1685年になるそうです。手洗屋のすぐそばには大きな榊があり、おそらくその当時のものだと考えられています。この神社をみてまわって一番驚いたことは、神社の中に様々な額縁の絵が飾られていたことです。天井にはなにやら模様のようなものが彫ってありました。正面にはミレーの‘落穂拾い’、その反対側(参拝者からは見えない方)には、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允の3人の似顔絵、側面には戦国時代の合戦のような絵がありました。話によるとこれはおそらく絵馬の一種であり、昔はもっとたくさんあったということです。たとえば、「川を馬で競争していて、1人が鐙を直しているすきに、もう1人が先に行ってしまった」という情景を表す絵などです。合戦の絵は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の絵ということですが、色あせてしまっていました。作成日は「明治?年」となっていましたし、西郷らの絵があることからも、100年ほど前に神社にかけられたものでしょう。ではなぜここにミレーの絵があるのか、なぜ西郷・大久保・木戸の絵があるのか、なぜ朝鮮出兵の絵なのかという疑問が残ります。実は今回の調査で一番疑問に思ったのはこのことなのですが、地元の方もそれはわからないそうです。時間の都合上その疑問について調べることはできませんでしたが、機会があれば是非調べてみたいです。
l
浦上氏
手元にある古地図には、光伝寺から南西に少し行ったところに‘浦上氏’の墓があります。浦上氏とは黒田長政(山田長政とおっしゃったが、おそらく黒田のことであろう)の福岡城入りについてきた、4000石とも6000石とも言われる家老の子孫のことです。平等寺周辺が乱れたときに、浦上シロウダユウ(四郎太夫か)が治めに来たといいます。昔はちょっとした城のようなものがあって、おそらくそこに住んでいたのでしょう。墓とはそのシロウダユウの墓ともいわれています。その後は船越の兄弟を平等寺にやり、ここでは船越庄屋となりました。福岡では浦上と名乗っていたのでしょう。ところが江戸幕府滅亡の折(おそらく西南戦争を指す)、浦上氏は西郷側についたため滅亡してしまいました。平等寺に浦上氏が存在していたのは正に江戸時代のみということになります。ただし、滅亡といっても浦上の血が完全に途絶えたわけではなく、下関から浦上の子孫が訪ねてきたこともあったそうです。わざわざ訪ねてくるということは、その下関の浦上家には平等寺を治めていたころの記録などが残っている可能性もあります。もしそうであれば、当時のことについて詳しく知るための大きな手がかりとなりますが、今すぐにというわけにはいきません。では古地図に載っている浦上氏の墓に行ってみたい、と思いましたが、今はもうなくなっているか、どこにあるのかわからなくなっているだろうと諦めかけていたところ、「今でもその墓はある」と言う方がいました。その方の家の墓のすぐそばにあり、時々掃除もしているとのことで、私たちは墓まで案内していただきました。浦上氏の墓はツツミ山と呼ばれる小さな山の中にありました。草を踏み分けて作られた細い山道を進んでいくといくつかの墓があり花が供えてありました。その一番奥に浦上氏の墓があり、ここにも花が供えてありました。そのすぐ隣には新しく作り直したという墓もありました。古いほうの墓に彫ってある文字は、コケが生えたり風化したりしてほとんどわからなくなっていましたが、正面に「香雲?詠?定祖」とあるのが何とか読めました。何のことかさっぱりわかりません。背面は、文字が彫ってあると言うことがどうにかわかる程度で、残念ながら読み取ることはできまでんでした。
l
名前のある石
平等寺周辺の山の中には名前をつけられた石がいくつかあるそうです。例えば「タツノ岩」。この石は川原にあり、昔はそこにタツが住んでいたのでタツノ岩と呼ばれています。水が少ないときにはお参りをしていたそうです。次に「ゴンゲンサマ(権現様)」。これは大石を祭ってあるもので、以前はここにおまいりをしていたそうです。その他にも、一の谷(平等寺公民館の裏手あたり)の奥にある、船みたいな形をした「フナイシ(船石)」、場所はわからない「ビョウブイワ」というものもあるそうです。私たちが一番面白いと思ったのは、九千部山の奥にある「イヌノトウ(犬の頭)」という名の石です。この石にまつわる逸話があります。
昔ある人が狩の途中に一服していたところ、連れてきた犬の首が光りだしました。不思議に思って犬の首を切ってみると、すぐそばに大蛇がいて切った犬の頭にガブリと噛み付いてしまいました。もし犬の首を切らなければ猟師が大蛇に食われていたかもしれず、犬は首を切られたことで主人を守ったのです。それで「犬の頭」という名がつけられたのです。竹取物語じゃあるまいし、光ったから首を切るというのには首をかしげてしまいますが、説話集にでも収められていそうな話です。
これら1つ1つを訪ねてみたかったのですが、時間の都合もあってそれができず残念でした。
●
田んぼ
平等寺の田んぼの水は、あちこちの谷から引いてくるそうです。五月のうちに、各家の判断で水を入れ、田植えがおわります。去年、今年は、水の量は豊富ですが、そうでない年もあったそうです。しかし、水の量が少ない場合でも、水争いがおこることはありませんでした。この場合は、梅雨の雨を待ち、七月に田植えを行っていたようです。雨乞いの経験はありますかと尋ねると、今の九千部(クセンブ)というところで、火をたいていたと答えてくださいました。
現在は、田植えは機械で行われていますが、田植えに機械が利用されるようになりはじめたのは、今から40~45年前からだそうです。その後、6~7年間で普及しました。初めて機械を使用したときは、ほかの農家の人たちみんなが、その様子を見に来たと懐かしそうに話してくださいました。しかし、いったん機械が普及してしまうと、手植えは笑われてしまうようになったそうです。手植え時代は、田植えの際、よその地域から人を雇って手伝ってもらっていたそうです。遠い地域から雇った場合は、村に泊めてやり、その人の飲食代やタクシー代、宿泊費を村が負担していました。隣同士で加勢しあう場合は、「もやい」「てまがえ」などというそうです。いわゆる共同作業が行われていたようです。当時は、一家に一頭は牛がおり、田すきは牛を使って行われていました。そのため、牛のえさとなる山の草をきりにいくのは、とても大切な仕事だったようです。また牛は荷物を運ぶ際にも使われていました。もちろん、人が運ぶこともありました。ガタガタで狭い砂利道を人や牛が行き来していたようです。
ここで、昔と今ではどちらが、収穫量が多いか尋ねてみました。すると、私たちの予想とは反対に、昔のほうが収穫が多かったと答えてくださいました。また、米粒が今と昔では違うそうです。その方が、おっしゃるには、昔は堆肥、金肥(タンピ)を使用していたため、米の量も多かったのではないかということです。
この地域では、米だけを作っているのだろうかと思った私たちは、他に何か作っていなかったか尋ねてみました。すると、現在は一毛作だけれど、昔は、麦や菜種も作っていたことがわかりました。現在は作らなくなった理由を尋ねると、「麦の収穫は下の地域より遅いのに、田植えは下の地域より早いのでせわしないから」とか「百姓が麦飯を食べなくなったから」などと笑いながら答えてくださいました。しかし、もっとも大きな理由は、採算がとれなくなったことと政府による減田、休耕田方針のようです。昔作っていたその麦は、千歯扱きでスコグのだと現地の人たちはおっしゃっていました。麦打ちも行われており、稲は足で踏んでいたそうです。この平等寺には、麦打ち唄や田植え唄のようなものはないそうです。このような作業は夜中の11~12時くらいまで行われていましたが、その割には、お金にならなかったようです。足腰はきつく、麦蒔きは霜の降りる頃まで行われ、かなりつらい作業だったと話してくださいました。
私たちは、平等寺を歩いているときに、何か動物を捕らえるためのわなのような箱を発見したことを思い出しました。そこで、ネズミのような動物から農作物を守るためにどのような対策を行っていたのか尋ねてみました。ここ平等寺では、ネズミ対策は特に行われてなかったそうですが、最近はイノシシがでるため、そのわなを仕掛けているのだそうです。昔はイノシシが出ることはなく、わざわざ九千部に鉄砲を持ってイノシシを撃ちに行っていたそうです。しかし今は、雑木等がなくなって、えさを失ったイノシシたちがここ平等寺まで降りてきたのだろうとおっしゃっていました。イノシシたちは、家のまん前まで来ることもあり、里芋を掘り起こしていくのでわなを仕掛けるのだそうです。
●
祭り
今度は、この地域にある祭りについて聞いてみました。すると、基本的にはあまり祭りはないと言われました。しかし、四月(桜の花見のころ)、五月(田植えのころ)、九月(稲刈りのころ)の年三回、「おこもり」とよばれるものが行われます。その頃は、山王宮に二日市から神主がおはらいをしにやってきます。むかしは白い袴に烏帽子姿の男2人の両端にひとびとが並んで中央を歩いていたそうです。また、村長は、拝殿の板張りに丸いゴザをしいて座っていましたが、いまは宮の中にはいるそうです。その他の行事としては、センドマイリ、植木を植えるツチノマイリなどがあります。また、昔はダイギョウ寺という寺で子供相撲が行われていました。この相撲には、女の子も参加していたそうです。今の子供はキシャですぐ骨を折るが、昔の子供は裸足で山を駆け回るぐらい丈夫で元気だったと、村の人たちは口々におっしゃっていました。この子供相撲が行われたダイギョウ寺は、馬や牛の神様が祭られていたそうですが、今は公園となっており、石が置かれているそうです。また、今は疎かになってしまっていますが、9月15日には、祭りも行われていたそうです。このような祭りの際には、村の女性たちは、三合三勺の飯を炊いていたそうです。その他には、1月15日の塩取りという行事もあったと話してくださいました。箱崎に行って塩を取って帰り、その塩は、出入りする際にまいて清めていたそうです。田植えにしても、祭りにしても、昔は地域の人々とのつながりがとても強かったようです。
l
戦争経験
いろいろなお話をうかがううちに戦時中のこともうかがうことができました。当時は山間の田園地帯である平等寺にもB29が通りかかり、畑仕事中に銃撃されたことがある方もいらっしゃいました。また、茶つみのときなども白い手ぬぐいは目立つため空から分かりやすいので使われなかったそうです。その他にもB29が来たので木陰に隠れたことがある方もいらっしゃいました。それから、よく話で聞くように竹槍訓練やバケツリレーの訓練もあったそうです。驚いたことに、山口まで防空壕を掘りに行ったこともあったそうです。終戦前には鹿児島からアメリカ軍が上陸して来て満州での日本軍の行いへの報復として、役立つ男性は連れて行かれるという噂がながれ、若い女性も連れて行かれるので顔を真っ黒に塗っていたそうです。満州に行かれた方の話ではソ連の軍隊が来るというので女性は頭を剃って男性の格好をして出歩いていたそうですが、やはり体格から女性と分かったそうです。引き上げの際には満州の方が前の晩に酒と肉を持って来てくださったそうです。そして、駅まではリヤカーを引いていき、壁も椅子もない汽車に中央に荷物を置き、外側に大人、内側に子供を乗せて引き上げてこられたそうです。休憩のために停車したときに乗り遅れたら、置いていかれてしまったということです。また、引き上げて来たのはよかったのですが、博多は空襲で焼け野原になっており、コレラが流行していて隔離されたこともあったそうです。そのほかにも、開拓団の方々はひどい飢餓に襲われ、母性愛などはもう存在しておらず、子供よりもまず自分が食べるという状態だったというお話もうかがいました。このようなそれぞれの方々の戦争経験のお話の後、みなさんが声をそろえておっしゃったことは「戦争は生きた心地がしない。」という一言でした。
l
生活
昔の生活についても話を聞かせていただくことができました。当時のお菓子はキャラメルやごりん玉などで小学校(現公民館)の下のお店で買って紙の袋に包んでもらっていたそうです。なかでもガラスケースの中の栗饅頭は高くて買えなかったということでした。また、医師も一人いらっしゃって手術などはなさらなかったようですがなんでも診察していらっしゃったそうです。そして区から給金をもらってらっしゃったのだそうです。そのほかにも住民の方々が野菜を持っていったりしていらしたそうです。学校やお寺にも持っていっていらしたそうです。昭和28年から29年頃まではくすりがなくなると福岡市まで買いに行ったりしていたということでした。この頃は錠剤はなく水薬や粉薬だけだったそうです。しかし、粉薬は小麦粉だったという話もでました。とくに戦時中はそう言われていたそうです。元兵隊の医師もいらっしゃったそうです。やはり当時の医療は十分ではなかったようですが、それでも小麦粉で胃の調子がよくなった方もいらっしゃったとうかがって「病は気から」というのは本当であると思いました。そして医師の奥様は産婆さんでいらっしゃったそうです。当時は免許のない産婆さんが多かったようです。盲腸になり現在の福岡市南区 野多目にある国立病院九州がんセンターにリヤカーで運ばれ、40日間入院なさった方もいらっしゃいました。昔は陸軍の結核療養所だったそうです。
以上のような多くのお話を聞かせていただき、様々な事実を知ることができました。やはり現在とは大きく異なった人々の生活があり、私たちの経験したことのない戦争の話をうかがうことができて、現在の私たちの生活の便利さ、安全さを知ることもできました。調べてみると、様々なもの、場所に歴史があり、また様々なもの、場所とつながっていることが分かりました。つまり身近な祭りや仕事、自然のものにも意味があり、歴史があるのです。それは時が経つにつれて忘れられていくことが多く、私たちがその一部であれ、記録することができてとてもうれしく思いました。