「歩いて歴史を考える」             

            実地調査レポート

 

 

 

          中村 万輝

          白石 直嗣

 

 

                調査日:6月21日

                提出日:7月18

 

 

 

<平等寺の名の由来について>

 今回の調査で私たちは、手当たり次第に歩き回るのではなく、一つの目標のようなもの立て、それについて調べていくうちに、関連したことへと話を展開してゆくという手段を選択した。そこでまず、目標というかテーマであるが、事前に地図等で下調べをした際この平等寺という地域に、実際に平等寺という寺院は現存していないという点に気づいた。さらに、教授から頂いた、この地域の昔の地図を調べていると、昔はこの地域に確かに平等寺という名前の寺院が存在していたらしいことがわかった。そこで私たちは、この地名の由来となっているのであろう平等寺という寺院について調べていく中で、この地域の昔の様子を知ることができるのではと考え,最初の調査テーマを、「平等寺という寺院の存在」に絞ることにした。

 平等寺の公民館前に降り立った私たちの最初の目標は、昔の地図に記載されている平等寺の場所を突き止め、その記念碑などの名残を見つけ出し、そこから何らかの展開を見出すこととなった。まずは、現在の地図と昔の地図を比べ、その位置関係をはっきりさせようとした。すると、昔の地図においては、平等寺の隣に、光傳寺という寺院があり、現在の地図にも、公民館から歩いて行ける範囲に、光伝寺という寺院が存在することに気づいた。二枚の地図の中の道路等の位置関係から、この二つの寺院が同一のものでは、と考えた私たちは、早速その光伝寺へと向かった。

 光伝寺に着いて最初に見つけた石碑には、やはり光傳寺の名が彫られていた。私たちがその石碑の写真を撮ったりしていると、寺院の敷地内の民家からおばさんが出てきて、「どうかしました」と声をかけてきた。大学の講義の一環でこの地域の昔の様子を調査する目的でやって来たという旨を伝えると、おばさんは私たちを快く家の中へと招いてくださった。応接室に通された私たちを、おばさんと夫の住職さんがお茶と和菓子で迎えてくださった。まず、光伝寺の歴史について尋ねたところ、次のようなことを教えてくださった。「もともと、光伝寺は今の柳川のあたりにあったのだが、今から約三百年ほど前、京都を中心に全国で、西本願寺と東本願寺の争いが起こったのだが、その際、当時のその地方の領主が、領土内の全ての西側の寺院に対し、東側への改宗を迫った。そのため東側に改宗した寺院もあったが、光伝寺のように、その国を捨てて別の地へった寺院も少なくなかったという。そうやって今から約二百五十年前、光伝寺はこの地に移ってきたのだが、その時、平等寺は既に無かったらしい。」

 それからさらに、いろんな話を進めていったところ、興味深い話を聞くことができた。「光伝寺の近く(昔の地図によれば、ちょうど平等寺の隣の土地あたり)一帯に、テラウラというあざ名がついている。そのあざ名は、光伝寺がこの土地に来る前からついていた」らしい。このことから、テラウラのテラ(寺)というは、光伝寺ではなく平等寺を指しており、昔は確かにこの地に平等寺が存在していたと思われる。

 

 

<あざ名、跡地などについて>

テラウラ…前のテーマの中でも少し触れたが、今の光伝寺の近く一帯についていたあざ名。さらに、午後に公民館で聞いた話では、テラウラ一帯は、昔、寺の田であったらしい。ただ、やはり公民館に集まってくださった老人会の方々も、それが平等寺なのか光伝寺なのかはわからない、とのことだった。

 

地蔵堂…隠れキリシタンと関係していた。しかし、はっきりした事は分からないらしい。

 

山王…公民館の隣りにある、お堂のような建物。テイキョウ二年(今から三百数十年前)、家内安全等を氏神さまに祈願したのが始まりのようだ。西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文の絵や、秀吉の朝鮮出兵の際の合戦の絵など、大きな絵が飾られているが、意味は不明らしい。また、昔はもっとたくさんの絵があったとの事。

 

浦上氏…山田長政が福岡城に入る際に同行してきた家来。平等寺付近一帯が乱れてきた際、浦上氏が派遣されてきて、その地を治めたという。そして、西南戦争の際には西郷側に味方したため、逆賊とみなされ滅ぼされた。その浦上氏の墓を、おばあさんが案内してくれて見ることが出来たが、竹藪の中に、他の墓と一緒にひっそりと佇んでいた。

 

犬ノ頭(いんのと)…昔、ある日犬が、ずっと吠えることを止めなかったため、その飼い主に斬られたが、それは実は、飼い主の頭上の木にいた蛇から飼い主を守るためであり、切り落とされた犬の首は蛇に食らいつき、最期まで飼い主を守った。そのことを知った飼い主が、その犬を祀ったとされる岩のこと。

 

九千部山…平等寺地区にある山の名前。昔、一人のお坊さんがこの山に入ってお経を一万回読もうとしたが、九千回で終わってしまったため、この名がついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<田圃および農業>

 水は谷々から引いていた。だいたい水の心配は無かったが、それでも水が不足する年もあった。昔は水が足りなくなった時は、雨が降るまで待つこともあり、場合によっては七月まで田植えがずれ込む年もあったそうだ。

さて、田植えについてであるが、昔は手植えでやっていた。(田植えの唄などについては、平等寺地区ではないそうである。)田植えの時期は五月下旬~六月上旬にやっていたが、もちろん水の状況によっては時期が遅くなることもある。手植えの頃は、他の村などから人を雇い、金を払い田植えを手伝ってもらっていた。なお、その共同作業を平等寺地区では「もやい」と呼んでいたまた、機械化する前は、牛で畑を耕しており、その牛は一家に一頭いたとのことである。この牛は畑を耕すなどの力仕事の他に、糞が畑の肥料になり、この点においても牛の存在は有益であった。牛の糞や草を肥料としていた昔の田圃では、今より米がとれていた。具体的な数字は挙げられなかったが、今現在の田圃が、無農薬の田園で、一反あたり八俵前後、化学肥料入りで十俵前後であることを考えると、昔の田圃は一反あたり九~十俵穫れていたのではないだろうか。ところで、昔の田圃では稲の収穫後、麦や菜種を作っていた。しかし今は一毛作だそうである。その理由は三つある。まず、細川内閣の時、政府の方針によって、休耕田を作らなければならなくなった。次に、米に比べて麦や菜種は採算がとれない。そして最後に、百姓も米を食べるようになった。(昔は麦を食べていたそうである。)

収穫後について。平等寺地区では祈年祭等は無かったそうである。おこもり(神仏に祈願するために、神社や寺にこもること)は年に三回あった。おこもりは、花見や収穫のシーズンに、二日市から詞さんを呼び、男は烏帽子、袴などを身につけて行われていた。

昔は荷物を運ぶ手段がとても少なく、人力や牛、馬だった。また、脱穀に使われた道具は千歯などであり、当時の子どもたちは、仕事や行事に参加していた。特に仕事は時には一二時近くに及ぶこともあったそうだ。

平等寺地区では、ネズミに困ることは、今に至るまでほとんど無かった。むしろ今は、猪のほうが危険であるらしい。(昔は猪はいなかったそうだ。)猪は馬鈴薯や里芋などをを掘り返して食べてしまうからである。確かに我々も、畑に設置された、猪を捕まえるための罠を見かけた。猪は何故、人家近くまでやって来るようになったのか。その理由としては、雑木林の開発等によりエサが不足したためと考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

<昔の生活について>

調査に協力してくれた方々の子どもの頃のおやつは、キャラメル、五厘玉などで、それらは尋常学校(現公民館)前のお店で買っていた。栗饅頭などのようなものは高くて買えなかったと、笑いながらおっしゃっていた。

医者は平等寺地区では一軒あったが、何でも診てくれた。その医者の奥さんは産婆さんであった。医者は大切な存在であり、野菜などが穫れた時は、神社、学校の先生、そして医者に差し上げていたそうだ。薬は、区長さんが村の者の依頼を受けて、福岡まで買いに行っていた。昔の薬は、粉薬と水薬で、錠剤は無かった。粉薬が無い時は、薬と称してメリケン粉を渡していた。(つまり、プラシーボ効果に期待したわけである。)実際にメリケン粉によって回復した人の話題になると、場は笑いに包まれた。「病は気から」とは、まさしくこのことだ。また、盲腸の患者をリヤカーで、福岡市南区にある、今のガンセンターまで引いていったこともあったそうだ。ちなみに、同病院は昔は結核の療養所で、福岡市中央区天神の済生会病院は、陸軍の野戦病院だったそうである。

 

 

 

 

 

<戦争について>

太平洋戦争中は、平等寺地区でも爆撃を受け大変であった。アメリカ軍のB29爆撃機やロッキードの爆撃機がやって来たそうだ。米軍の上陸を予想し、竹槍訓練やバケツリレーの練習があった。また、山口まで防空壕を掘りに行ったこともあった。石橋さんは戦争中、満州にいたが、米軍やロシア軍が攻めてきた時は、女性も男装して行動しないと危険であった。しかし、体型などの差から、男装するにも限界があった。

また、当時の状況はとても苦しく、母性愛などと言っている状況ではなかった。子どもより先に飯を食べる、ぬかるみにはまった子どもを助けられない、見捨てるなど、考えられない状況が戦時中にはあったのだ。母性愛というのは、物質が豊富にある時のものである、という石橋さんの言葉が心に強く残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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