歴史の認識レポート (火曜4限)
1ec01123g 福原亜希子 1ec01125n 藤島寛子
調査地域:佐賀県鳥栖市古賀町 話者:山本利次さん(昭和3年9月1日生まれ)      

 バスを降りた私たちは、失礼ながらも付近の開けた様子に驚きを隠せなかった。大通りにはローソン、ケンタッキーフライドチキン、寿司大臣と見慣れた大型チェーン店が並んでいた。後の話になるが、古賀団地をはじめ今ではこの付近の多くの田が売られ、住宅地と化していると山本さんが寂しげに語ってくれた。住宅地図を見ながら近くだと思われる所までは来たものの、家の判別ができなかったので、庭仕事をしていたお婆さんに尋ねてみた。すると、「あー、利次さんとこじゃろー」と、名字で尋ねたのに名前で返ってきたことに付き合いの深さを感じた。
 教えられた家に行き、まず家の大きさと敷地の広さに驚いたが、玄関だと思って訪ねた入り口よりもさらに大きな玄関があったことにもう一度驚いた。山本さんはどんな方なのだろうかと緊張していた私たちだったが、迎えてくださった山本さんの笑顔が安心させてくれた。実家の家よりもはるかに広い玄関先を過ぎ、明るい縁側のある和室に案内された。
 まず、山本さんの奥さんの話になった。奥さんは足を骨折して、年末から近くに新しくできたケアセンターに入院されていた。そこの院長と山本さんは子供の頃からの知り合いだということであった。そして、住宅地図で私たちが山本さん宅まで来た道筋を確認した。前途の大通りは国道34号線であった。「・・・この辺が池ノ内たいね。・・・ここがもうずっといえの建っとんもんね。(地図上の田はもうない。)ここがうちの田んぼ。(池ノ内北部)この一角。うちが一番大きかったもんね。(あまりの広さに“すごい広いですねえ”と二人で相槌を打つ。)広かよ。(稲塚にある市立若葉小学校のグラウンドくらいの広さ)109反あるけんね。・・・」しばらくそのような話をした後私たちが今回やって来た意図を話すと、「史実に基づいてはっきりようものは言いきらんけどね。嘘は言われんけんねー・・・」と言って奥の部屋へ入っていかれた。

★地券★  
 奥の部屋から山本さんが持って来てくださったのは明治時代の地券を冊子にまとめたものであった。明治に発行されたものであった。一部長崎県が発行したものもあった。「・・・長崎県なんですか?何で長崎県なんですか?」と尋ねると、「長崎県が、ここがあの、その対馬守がね、『よしとも』というとがおってね、豊臣秀吉がほら、朝鮮征伐ばしたろうもん。そん時にね・・・」ここで話は豊臣秀吉の時代までさかのぼった。
 豊臣秀吉の朝鮮征伐の際、当時の対馬守が論功行賞により、キイ郡ヤブ郡の」を半分(約一万石)を拝領した。対馬の宗家は朝鮮とのつながりが強かったため、朝鮮と実際に様々な交渉を行ったり、派兵において大きな手柄を立てたりした。鹿児島のイズミ地方の土地も同時に拝領したが、対馬は山がちで米があまりとれないため米がよくとれるこの地方をもらい、鹿児島の土地は違う人に譲渡した。つまり、この地方はその時に対馬藩の領土となったため、地券に長崎県と記されていたのだ。(伊万里県というのも一時存在したらしい。)

★ 『山本』という姓の由来★                                      
「うちは農民じゃったけんちゃんとした系図はなかとばってんね。ほら、昔は士農工商言うて農民とか商人とか分けとったろうもん。『山本』っちゅう姓がね、なして『山本』じゃろかっていうことば私が言うたったいね。私が親父から、そいで、じいさん、そのまたじいさん、ってその・・・ずっと伝承するわけたいね。はっきりこう、昔はね、文章ではせんもんやけん。」その伝承によると、久留米の高良大社のふもとの山本村というところに山本さんのご先祖は住んでいた。田の広さは限定されていたので、長男以外は厄介者とされた。そこで、山本村の次男、三男・・・は当時(200余年前)まだ荒れていた古賀町に開拓に行った。つまり、山本村から来た人たちが古賀町を開拓し、田を作り、定住したので山本の姓が古賀町に多く残った、ということであった。
 
★ 古賀町の現在の地名の由来★
大屋敷;昔、地主の大きな屋敷があった。(大屋敷は台地であり、水がなく、田が作れないため。)大屋敷内には観音堂があった。これは、長者がいた時代に、鬼門(縁起の悪い方角とされる北東)に稲荷様や観音様を置いた。南西を裏鬼門と読んだ。
宮ノ後(ウシロ);老松宮の裏(北)だから。石段は南北の方角を向いている。
元古賀;昔の古賀があった場所。湿地でありよい土地なので、藩政時代に田に変えた。水のない台地の上に新しい古賀を移した。その後、老松宮などが造られたと思われる。(今は再び住宅地となっている。)
天神;昔、天神様があった。 
池ノ内;溜池を造ったことで、米が作れるようになった地区。  
雉子(キジ)町;鳥のキジがたくさんいた。

★子供たちの縄張り争い★
昭和27年の町村合併により古賀と田代は合併して鳥栖市となったが、昔は地区の境目ははっきりしていた。そのため、小学校の違った子供たちは部落ごとに強い仲間意識を持っていて、よく喧嘩していた。古賀の溜池に隣の部落の子供がこっそり泳ぎに来ていた。堤防に見張りがいて、古賀の子供が溜池に近づくのがわかると、「古賀ん子供の来よっじゃー。」と言って逃げて行った。山本さんは声を上げて笑いながら、とても楽しそうに話された。


★遊び場だった溜池★
「(溜池の)深かところで泳ぎよったよ。こう(手で高さを表しながら)高かところからから飛び込みよったもんねー。私どもはもう、四年生のころは水の中にくぐってから、やっと泳げるようになったもんの足ばひっぱりよったもんね。(楽しそうに大笑いされた。)溺れよっとば助けたこともあったとよ。前につかまれたら絶対いかんもんね。水ばガバガバ飲んで。前につかまれたら自分も沈むもんね。だけん、後ろから尻ばこう押し上げんば。そいけん色々経験したよ。」後で記すが、他にも色々なお話が出てきて、本当に私たちの世代では知りえない様々な経験をされていると思った。自然の中で、子供の頃から生活に必要な知恵を遊びながら身に付けられることが、とても羨ましかった。そして、そうすることのできない現代の遊びの環境が、我々、現代の子供の問題点を作り出しているのではないだろか。

★台帳★
昔の台帳を見せてもらった。299番地〜700番地まで。当時も今も同じ番地である。山本さんのお祖父さんさんの時代の台帳だった。全て墨の手書きで、はじめの何枚かは線を引いて訂正した箇所がいくつかあり、まだ書き慣れていない様子が表われていた。
<台帳に記してある事柄> 
住所(字)、土地の等級(※)(1〜7級)、土地の所有者、当時の地価、地租(総額も別途)田と畑の面積、総面積、

※ 土地の等級・・・米のとれ高に準じる。古賀町では池ノ内が一番評価が高い。

★昔の地図★
 昔の地図も見せてもらった。手作りであり、明治34年作成ととても古く、破れたり表面が剥がれていたりと損傷が激しかったが、それでも、その地図がとても丁寧に作られていることは伝わってきた。地図の番地は台帳の番地に対応している。地図には水路が明確に記されていたが、道や土地の区画が手元の地図と全く違っていて、書き写すことができなかったのが残念であった。今では見る人もほとんどいないがとても価値のあるものであるので、近く山本さんは、業者に修復を頼まれるつもりだということだった。

★しこ名★
 次に、本題のしこ名に話が移った。「昔使われていた俗称を教えてください。」と言うと、「俗称はもう・・・池ノ内とか大屋敷とかはもう・・・変わらんじゃな。その中にまた、違う名前のあっとたい。」と、すぐに意図を察してくださった。

 そしてしこ名は以下のようになる。
小字宮ノ後(ウシロ)のうちに・・・クリバヤシ(栗林)、ガクデン(楽田)
小字大屋敷のうちに・・・カミヤシキ(上屋敷)、ニシムラ(西村)、ウラダ(浦田)、
シモヤシキ(下屋敷)
小字花ノ木のうちに・・・マエダ(前田)
小字元古賀のうちに・・・ヤナギ(柳)
小字天神のうちに・・・シミズガモト(清水ヶ元)、 コウケダ(乾田)ミチゾエ(道沿)、
           サンミャムタ(三枚牟田)、ヂノマナコ(地目)
小字稲塚のうちに・・・クデ(苦手)、メグリノカワ(巡の川)
 
 また、古賀町ではないが、
小字芳谷のうちに・・・ヒラバヤシ(平林)

★水の確保★
 秋の彼岸から春の彼岸までは古賀は第2溜め池の水利権を持っていた。田に水が必要になる春の彼岸以降は水利権がないため、冬の間に第1溜め池に水を溜めた。干ばつの時は大屋敷から下屋敷の方へ水を流した。それでも水が足りない時は、3日に一度、夜日が落ちてから日が昇るまで牛原から水を落としてもらっていた(夜水)。夜水の時は、自分の田に水の足らない者が水を盗むので、村の人みんなが寝ずに番をした。私たちにはなかなか想像できなかったが、水不足は米のできを大きく左右するため、命に関わることであった。 

★大干ばつ★
 山本さんが経験された一番の干ばつは昭和14年の大干ばつだ。全く雨が降らず、とりあえず稲を植えてみたものの、植えるために水をかけると溜め池が空になってしまった。例年なら、植えた後に季節柄雨が降るのだが、やはり全く降らず、川も溜め池も水量が減ってしまった。3日に1度の夜水でも、溜め池から遠い雉子町などには水がなかなか届かなかった。そのような時は、他の地域には水を流さず、一番乾いた田に水を流すようにしていた。本当に村の人全員で助け合って水を確保していたが、やはり水に関するもめごとはしばし起こった。

★もう一つの干ばつ★
 昭和50年から51年にかけて、再び干ばつが起こった。その時、溜め池には3分の1も水がなかった。他の人は、「そんうち雨ん降っさ。」と簡単に考えていた。しかし山本さんは、冬に3分の1も溜まっていないことに「こりゃあ、おかしか。干ばつするばい。」と危機を感じていた。そこで、自分の田でボーリングを50メートルほどした。すると、大量の水が地下から出てきた。そのお陰で、雨が降らないにも関わらず、山本さんの田には常に水が満ちていた。「梅雨になれば雨の降っけんよか。」と安楽に考えていた他の人たちはやはり水不足で困ることとなった。その人たちが徹夜で水を確保している時も、山本さんは余裕であった。結局、山本さんが水を分けてあげることになった。今の時代、このように先見の明を持ち、自分で早い決断をしていかなければ何事も上手くはやれないのだ。

★溜め池★
 7メートルの深さを素潜りで作業していた。溺れるかも、という恐怖感で潜れる者はほとんどいなかった。山本さんは幹部だったので率先して潜っていた。若いときは色々な経験をしなければならない。若い頃の訓練が大事、ということであった。山本さんは海軍兵学校の教育も受けていた。

★戦争の話★
 山本さんは戦時中、東洋一の飛行機製造所である、大村の見習い行員養成所にいた。
当時のアルバムを見せてもらった。硬そうなベッド、大人数で共有の部屋、黙々と行われる作業、何もかもが私たちには絶えられそうにないものだった。また、B-29の写真もあった。本当に当時を生き抜いてこられた人なんだと実感した。

★書道★
 山本さんは書道をされている。お父さんの50回忌に、親孝行になればと思って書かれた写経の掛け軸を見せてもらった。紙一面に整然と並んだ漢字がとても美しかった。写経というものは、聞いたことはあったが、実際に見たのは二人とも初めてであった。
 
 色々と話を聞いているうちにバスの時間が近づいたので、私たちはお暇することにした。
しこ名も難なく聞けたし、何より私たちが想像し得ない昔の日常の話を多く聞けたことが大きな収穫であった。今回のことを単に講義の一部とするのではなく、先輩の話を聞けた貴重な機会としてこれからの日々に役立てて行きたい。

★行動記録★
11:30 バスを降りる
11:55 山本さん宅に到着
15:45 山本さん宅を出発
16:50 バスに乗る