歴史の認識 現地調査レポート
   〜鳥栖市萱方町〜
      調査日1月6日
1EC01112P 馬場 彩                                       
1EC01112P 馬場 ゆう      




1月6日午前11時半過ぎ、私たちは目的地である鳥栖市萱方町に到着した。前日訪問先の右山さんから連絡をいただいたこともあり、期待と緊張で胸がいっぱいであった。食事を済ませた後目印となりそうな交差点まで行き、早速右山さんへ連絡して迎えに来てくださるのを待った。
 しばらくすると一台の車が向かってきた。初対面ではあったが、電話で想像していた通りとても紳士な雰囲気でいらしたため、すぐに右山さんだと分かった。
 この日右山さんのほかにお話してくださる青木さん、山津さんとの約束の時間までしばらくあったため、喫茶店に寄った。自己紹介をした後、萱方町について少しずつ話をしていった。喫茶店は一本の坂道に面していたが、右山さんはそれを指差して「ここと久留米の町とは高低差が20〜30メートルもあるんですよ。昔このあたりに店などがなかったころは久留米の街がここからも見えたもんね。」とおっしゃった。「高低差・・・用水路を作る際活用されたりしただろうな」と興味深く思った。
 青木さん等との約束の時間が迫り、山津さんのお宅へ向かった。途中“お宮”に寄った。そこには大きめの石像、小さめの石像が何体か集まったところなどがあった。このお宮は後にうかがった祭りの話で重要となるのだった。
 いざ山津さんのお宅へ。大きな庭・家、正装した山津さんと奥さんに緊張がますます高まった。程無く青木さんもいらっしゃり、本格的に話をうかがうこととなった。以下その話をまとめてみたい。

<農業について>
○用水路について
 まず用水路について尋ねてみると、萱方町には二つの大きなため池があるのだと教えてくださった。これは山の流水を溜めて農業用水として利用するためで、冬の間に流水を溜めて5月頃の田植え時期に使うのだそうだ。これらのため池が作られたのは一つ目が大正時代、二つ目が昭和13年で、それ以前は隣町のため池の水を引いていたということであった。その頃は水が足りない田は畑にすることも稀にあったという。
 次に用水路はどのように広がっているのかを尋ねてみた。すると山津さんが色鉛筆を手に構えた私たちに「ここで二本に分かれとったです。こっちこっち・・・」と細かく正確に教えてくださった。先に記したように、萱方町はその北方から南方にかけて大きな高低差がある。それを利用した用水網が町全土に広がっていた。ところで用水源となる二つのため池がある地区は萱方町と名はついているものの、政府的には萱方町管轄ではないそうだ。ただ、ため池は萱方町のものなので町が管理しているという。一方、萱方町内部にはその南方の町の用水源となるため池がある。これは萱方町の管轄下にあるが、その南方の町が管理しているそうだ。この辺りのため池の管理は、高低差を利用したため池だからか、このような具合になっていた。
 また、用水路を書き終えて全体を見てみるとほとんどが萱方町のみに広がっているのが分かった。聞くとやはり町単独の水だそうだ。もちろん水争いなどは昔から一度もないということであった。

○旱魃・水害について
「1994年は大旱魃となりましたが、そのときはどうでしたか?」と尋ねると、皆さんそろって「旱魃・・・」と腑に落ちない様子であった。しかし、しばらくすると「ああ、回し水を一回くらいはしたかもしれんです。」「ああ、そうだったなあ。」と口々におっしゃった。そして青木さんが「この辺は水には恵まれとっとですよ。どんなに上(陸上)が乾いても、地下水だけは豊富やっとですたい。水の良し悪しは少しありましたがねえ。」と付け加えてくださった。そんな皆さんの様子から、本当にこの辺りは水には困らないところなんだなあと実感した。ちなみに回し水というのは一地帯の田のみに水を入れ、そこに十分水が行き渡ったらそこはせき止め、今度は次の田のみに水を行き渡らせる、これを繰り返して町の田全体に水を回すことだ。朝から夜まで24時間、一週間から10日に一度行うのだ、と説明してくださった。また、旱魃の話をするなかで昭和13年頃の旱魃の時も回し水をし、その旱魃が契機となって二つ目のため池を作ったのだということも教えてくださった。
 また、その他の水害について尋ねると、「それはなかです。」と間髪入れず答えが返ってくるほどに昔から全く被害はないとのことであった。これも北方の山々から南方の久留米にかけての高低差に因るものらしい。

 <水利に関する慣例について>
6つの慣例を教えてくださったので1つずつ紹介したい。                       
(1)雨乞い・・・・阿弥陀山(国泰寺にある)に釣鐘が埋まっているという噂があり、この釣鐘を見つける。
(2)田褒め・・・・10月上旬、田がよく育つことを褒め、田耕作者の家で行う。
(3)秋祭り・・・・10月5日
(4)豊穣祈願・・・7月5日
(5)のこし・・・・池の魚をすくって浅くなった池の泥を取る(昔はやっていたが今はない)。
(6)祈願祭・・・・田植えが終わったあと、お宮で行う。

 <米の保存について>
 まず米を農協へ出す前の時代の米の売買について尋ねると、地主は小作に土地を貸し、
それを米(この米のことを上納米というそうだ)で返してもらっていたとおっしゃった。
地主は自分たちが食べる分以外は倉へ入れ、それを商人が買いに来ており、小作人は地主
へ渡さなかった分を自分たちで食べたり、売ったりしていたということであった。さらに
ネズミ対策について尋ねた。何種類かの対策法があり、缶(大きなトタンの筒)や瓶に入
れたり、倉そのものを厳重にしたりしたそうだ。

 <50年前の食事について>
 米:麦の割合は7:3でめったに米のみを食べることはなかったそうで、「お祝いどきに
なると米だけのご飯が出てきて、『銀飯』っていいよったです。」とうれしそうに、また懐
かしそうに話してくださった。お昼は芋を主食として食べることが多かったそうなので、
『銀飯』と言って喜ぶ当時の子供たちの姿が想像できた。またこの地区では稗・粟は作っ
ておらず、食べることはなかったそうだ。

 <村の耕地について>
 まず裏作の有無を尋ねてみた。すると昭和30年ごろまでは全体的に行っていたが、そ
れ以降は専業農家はほとんどなくなり、他の仕事からの給料が入るため裏作をする必要が
なくなり、今ではあまり見られなくなったそうだ。また、特に米が取れる田、取れない田
があったかどうかを尋ねたが、どこも同じくらいだということであった。
 次に化学肥料が入る前後ではどのように変化したかを尋ねた。尋ねた途端、「もうころっ
と違ったですたい。」とおっしゃる。どの程度かと突っ込むと、「反当5,6俵だったのが後
では7、8俵取れとるです。」とおっしゃった。なるほど化学の力はすばらしい、そう思っ
た瞬間だった。右山さんが「環境にはやはり影響がありましたよね、農薬なんかでね、ド
ジョウとかタニシはいなくなりましたねえ。」とおっしゃった。化学の進歩は米の収穫増大
と環境の悪化をもたらした。利益だけの追求ではだめなのだと思った。ちなみに化学肥料
が入る前は牛フン・馬フンをソリのようなものに入れて、牛・馬に田で引かせ散布してい
たそうだ。そのためほとんどの農家で牛・馬を飼っていたという。

 <祭りと行事について>
 5つの祭り・行事について教えていただいたので1つずつ紹介したい。
(1)提灯灯し(チョウチントボシ)
 月に回1日、15日、お宮に子供たちが集まり、4.5人ずつ学校へ行く行事。山津さ
んは、「4,5人の組のなかで悪いことをしたら、お宮のまわりを回れちいわれるとです。」
と昔を懐かしんでいらっしゃった。
(2)ホウゲンキョウ、ドンドヤキ
 1月7日、山の木や落ち葉などに火をつけ、正月のお供えやしめ縄を火の中に入れて邪
気を払う。また、餅つきを行った(ドンドヤキ)が、その際、うすが動かないようにわら
をうすの下に引いていた。そのわらは取っておいて各家の前で燃やし、餅などをあぶって
食べていた。
 現在ではこの行事は残っていないそうだが、右山は区長として「これを復活させたいと
思っているのです。」とおっしゃり、青木さん、山津さんも「復活させないかんち思うとで
す。」とおっしゃっていた。伝統の行事は是非残してほしいと思う。
(3)モグラうち
 1月14日、子供たちがわらを結んだものを竹の先にくっつけて地面をたたき、モグラ
が悪さをしないように追い出す。豊作を願うことも兼ねて、
『こーとーしゃー じんにょうじんにょうりゃしんにゃ 万作万作 逃げだれきゃだれ 
14日 もーぐらうち』
と歌いながらしていたそうだ。お宮で打ち、2グループに分かれ、各家に回る。その後、
公民館でお餅やお菓子をいただくのだという。これは多くの祭り、行事の中で唯一現在で
も行われているものだそうだ。
(4)ボウフラ人形
 8月のお盆の5日間お宮で行う。明かりを灯して小さなお庭のようなものを作って、中
段のところにたるをして水を入れる。また、潜水・人形を作る。人形は口のところにピー
ピーと鳴る草か何かをつけ、竹で管を作ってつなげ、それを吹くとピーピーと鳴るように
してあった。

 12月31日、お宮と鳥居のそばで割れ木などを集めて燃やし、それでお餅を焼いて食
べたり、持ち帰ったりした。

 <昔の子供たちの遊びについて>
 昔の遊びについて尋ねると、皆さんはつい昨日のことかのように即座に答えてくださっ
た。「遊びはそのころは“れん玉”ちあったです。ラムネん玉があったでしょ、ラムネん玉
遊びですよ。それからあのー“パッチリ”。大判やら小判やらあって、つまりメンコね」な
どと教えてくださった。小さいころの思い出というものはやはり色あせないものなんだろ
うなあと思った。ほかにも幾つか教えていたので紹介したい。
○レンガ遊び・・・木を切り先をとがらせ、他の中で交互に打ち込む(くぎでやる地方も
         ある)。
○ こま回し・・・・縄をぐるぐる巻き、相手のこまにひっかけたりなどする。

<しこ名について>
しこ名について尋ねると、山津さんが「人なんかに尋ねてみたばってんが地名とかどういう言われがあるのか調べてみたけどちょっとわからんですね。」とおっしゃり、青木さん、右山さんも「聞かないですね。」とおっしゃる。庄屋さんが大野城へ行ってしまったため言い伝えが今に伝わっていないらしい。どうしようかと戸惑っていると「ただここは古宮と言われとるです。」と現在の前田の一部を指した。おそらく昔はそこにお宮があったということだ。また大きな木の株があり、信仰の対象となっていたそうだ。現在は田となっている。
また、国泰寺のところに「阿弥陀山」という山があるそうだ。その他、萱方町の隣の田代などといったところを含めて「キヤブリ」と言ったそうだ。
ところで萱方町の北方をよく見てみると、本郷寺、国泰寺とまるで寺の名前のような字が見つかる。ここについても詳しく説明してくださった。まず本郷寺であるが、おそらく寺があったのだろうということであった。なぜなら現在その地には頭の大きいお地蔵さんと五重塔のような寺の石像があるからだそうだ。実際私たちは帰る前にその石像を見に連れて行っていただいた。実はそこは現在はゴルフ場の一部で、今でも立派に祭ってあった。また少し離れたところにもこれとは別に一体の石像があった。この地の歴史の古さを物語っているのだった。次に国泰寺であるが、先にも記したとおりここには阿弥陀山があり、禅宗系のお寺があったと考えられているそうだ。
ところでしこ名を調べるに当たって歴史学者である小林先生にもご協力いただいた。この場を借りてお礼を述べたい。ありがとうございました。

<村の古い歴史について>
萱方町付近は昔は対馬藩の天領だったそうだ。これにまつわる話を聞くことができた。「対馬の殿様が米がなくて非常に苦労しちょっなさったげな。それで(天領となった)きっかけというのは殿様が前垂れをして食べよんなさったげな。ご飯が下に落ちたら食べられんじゃないですか。そうだから前垂れをかけて、その中に落ちたのだったら食べられるじゃないですか。それを見て、キヤブリ、これは田代、鳥栖の一部、キザト、キマス、これを対馬にやったわけです。この辺は米ができたから、萱方町の南のほうのミズヤというところから船に積んで運んどったとです。」ということであった。村の歴史の背景まで聞くことができて勉強になったと思う。

こうしていよいよ帰る時間が迫ってきた。話はまだまだありそうな感じだったので悔しい気もしたが、話の中に出てきた記念碑や石像なども見ておきたかったので急いで連れて行ってもらうことにした。
まず見たのが「本郷寺のお地蔵さんと寺」の石像であった。山津さんがおっしゃっていた通り頭が大きい特徴のある像であった。少し歩くともうひとつの像もあった。右山さんは「ここにあるとは知らなかったなあ。」とおっしゃっていた。この辺りは寺があったようだからもしかするとこんな風に色々な所に像が残っているのかもしれない。
次に萱方町の田を守る二つのため池へ行った。ここにもやはり石像が祭ってあった。そしてため池の近くには池の完成を記した石柱が立っていた。第一のため池のものであったから大正時代に作られたものである。右の側面には対象○年などと記してあるようだが、今となっては読むのが困難だった。それが池の古さ、歴史の長さを表しているように感じられた。そこに来たとき池の向こうに見える山を指して「あの辺りをヤマンキャーカタと言うんだよ。」と教えてくださった。キャーカタとは貝方と書き、うータンという修業道があったという話であった。
もっとじっくり見ていきたかったがついに帰る時間になってしまった。帰り際に「また何かあったら来てください。できるだけのことはしますよ。」と言っていただき、本当にうれしく思った。
この日一日の経験はとても印象深く楽しいものであった。そんな一日にできたのも右山山、山津さん、青木さんのおかげである。心より感謝します。

話をうかがった方   右山剛さん  昭和16年生まれ
           山津義明さん 大正14年生まれ
           青木重見さん 大正2年生まれ