真木町 
1EC01073W 白石牧子   1EC01074P  進藤晶子

私たちはまず真木町公民館で、緒方忠さん、斎藤正文さん、野下貞道さんにお話を伺った。公民館までは市役所の田中さんが車で送ってくださった.。田中さんは公民館での聞き取りにも付き合ってくださるということで、大変心強くありがたかったが、貴重な休日を潰してしまって申し訳なかった.。途中で大きな屋敷の横を通るときに、ここは八坂の家で、八坂甚八という人が貴族院をつとめていて、ここ真木町の大地主だったということを田中さんが話してくださった。たぶん公民館で話しを聞くなかでも名前がでてくるだろうということだった。
公民館に着き、みなさんにあいさつを済ませ早速聞き取りを、と思っているところで野下さんが「それでなんば聞くとね。」と私たちに聞いてきた。初めての調査で慣れていない私たちが「えーっとですね、しこ名というものをお聞きしたいんですけど・・・。」としどろもどろになっていると「小字ぐらいまでしか役所はわからんのです。地元の人が呼びよる通称を知りたいらしいんです。」と田中さんが助け舟をだしてくれた。やはり田中さんがいてくださって良かった。
野下さんは、現地調査の前の確認の電話で、私たちが真木町の水路などについても調べたいと言ったのを覚えていらっしゃったらしく、その関連資料を持ってきてくださっていたのだ。そしてその資料というのは、先ほど田中さんがおっしゃっていた八坂甚八、その人の資料だった。その資料には甚八の功績が記されおり、真木町の水路も八坂甚八によってずいぶん整備されてきたらしい。野下さんはいかに八坂甚八という人物が真木町にとって大きな存在かを語り、「甚八を語らずして真木町はなし」と強く断言し、他のお二人もその通りというふうにしてうなずいていらしたのが印象的だった。私たちは甚八というひとのことも気になったが、とにかくしこ名は集めねばと思い本題のほうに話しを移した。野下さんたちは甚八の話しがすぐに終ってしまい少し物足りない様子で、ちょっと申し訳ないかなと思ったが、小字の載っている地図を広げながら、「しこ名を教えていただけますか?」と聞いてみる。「村の人たちだけが呼んでいたような名前なんですけど」と説明をするが、なんのことだろうというふうな感じの三人がた。緒方さんが「しこ名っちゅうたらあざのことかね?」とおっしゃると斎藤さんが地図に載っている小字をさしながら「それはこの原田でないの?」としこ名が何であるか、まだ理解してもらえず。ここでまた田中さんが「この原田とかの中でですね、例えばここをなんて言いよったとかですね」と説明を加えてくださる。しかし三人がたは腕をくまれてみなさん「うーーーん??」さらに「この人の田んぼば何て呼びよったとかですね。」と説明を加えると、野下さんが「それならここらへんばノブラキとかって呼びよった。」とあっさりでてきた。しこ名がでてこなかったらどうしようと心配になっていたので「それです。そういう名前を教えてください。」と三人がたに詰め寄ると、「ここらへんはヤシキダって言いよったね。」と地図を指しながら二つ目のしこ名を教えてくださった。そこは八坂家と川をはさんだ場所で、八坂さんが貴族院をしていらっしゃったときに、その来賓の方々の部屋があったらしい。やはり真木町には八坂さんと関係した名前が多くあるのだろう。
その後もショウヤ、カムラ、サンボンマツなどのしこ名とその範囲を教えてくださった。しこ名を聞くとき、小字ののった地図ではいまいちわからないということで、住宅地図のほうでしこ名の範囲を教えていただいた。「ここは斎藤○○んとこの家やけん・・・。」とどうやら人の家で範囲を覚えてらっしゃるらしい。そしてほとんどの家のひとのことをわかっていらっしゃるのにとても驚いた。みなさん区長などをなさっていたということもあるだろうが、私は近所の家の人の名前など覚えているのはせいぜい5,6軒だけである。結びつきの強い町なのだろう。また町をいくつかの班にわけていて、その班名は役所などでは使われていない名だという。その班名ののったプリントをいただいた。班名は調査しているしこ名とほとんど一緒で、ガラン、クウジ、ウシロダなどである。真木町ではこのようにしこ名が今でも使われているのだ。
しこ名のいくつかは、その由来も聞くことができた。ナエダ(苗田)は、そこで苗を作っていたかららしい。またここはナエダ(苗田)からウシロダニシ、ヒガシ(後田西、東)そしてナエダ(苗田)というふうに名前が変化していった場所でもあるらしい。インキョヤ(隠居屋)はそこに住んでいた人が自ら、隠居している自分の住んでいる場所をインキョヤとよびまわりの人もそう呼んでいたかららしい。チャヤは漢字ははっきりとはわからないけれどたぶん茶屋だろうということだった。船着き場があり、そのちょうど休憩所のようなものだったかららしい。このような話しを聞くと、しこ名は本当にその土地に住んでいる人々の生活を表わす名だなと感じた。それはしこ名の範囲からも伺える。というのは、この聞き取りとりで集めたしこ名は真木町の北に集中しており、南の田んぼのほうはみなさん知らないというのである。どうしてですかと尋ねると、南の田んぼは真木町のなかにあり、地主は八坂であったが、真木町の農民のかたは耕作しておらず、久留米地方の人たちが耕作していたため、真木町の人々は南の田んぼについてのしこ名は知らないということだ。しこ名というものは、そこに住んでいる人々が呼んでいる名なのだから、関係のない場所のしこ名を知らないのは当たり前である。そして逆に真木町ではないが、隣町で真木町の人が関係している場所にはしこ名があった。ヒゼンダという名がそれである。
しこ名の次は田んぼの水についての話しになった。真木町は近くに筑後川が流れており土地も低いため、すぐに洪水が起こり、たびたび田んぼや家が水につかっていたらしい。ここでまた八坂家の話しがでてきた。八坂家の家はこのような水害に遭わないために家を高い位置につくっているということだ。そういえば横を通ってきたとき、石がつんでいて、他の家よりも高かったなと思いだした。
田んぼ以外に、橋や川のしこ名があるかも尋ねてみたところ、今の薬師川をニシゴンカワ(西郷川)、轟川をバンショ川と呼んでいたと教えてくださった。また今はもうなくなったけれど、昔八坂橋というのがあったことも教えていただいた。
このような話しをしているうちに約束の時間がきてしまった。今日は、明日お宮で行われるほんげんきょうの準備があり、みなさんそちらのほうに行かなくてはならないということだった。私たちは次にその準備も調査させていただくことにした。三人の方々にお礼を言い、また宮であう約束をして、いったん別れた。田中さんはここでお帰りになるということで、田中さんにもお礼を言って、私たちはお宮に向かった。
お宮は天満神社という名前で、私たちが待っていると徐々に集まってきてほんげんきょうの準備が始まった。準備というのは、宮の横にある竹林から竹や笹の葉をとってきて、一ヵ所に集めまわりを縄でしばっていた。私たちは先ほどもお話を伺った緒方さんと、山口和敏さんにお話を伺った。まず「これはどういう行事なんですか」と聞いてみる。しこ名の調査よりも質問する側と答える側両方が、何を聞いて何を答えればよいかわかるので、調査はスムーズに進んだ。緒方さんも山口さんも質問にスラスラと答えてくださった。ほんげんきょうというのは、毎年1月7日の早朝6時半から始まり、8時ぐらいまでの1時間半行われているらしい。具体的に何をするかというと、各家庭の神棚にかざってあった御札などをお払いして燃やし、それには厄払い、魔除けの意味があり、無病息災、五穀豊穣を願うのだそうだ。飾ってあったおもちなどを持ちより、燃やしている間お酒を飲んだりするらしい。ただ、現在ではこのようにお宮で集まって燃やしているが、昔は各家庭が柔らかい竹をつかったものを家の入口に魔除けとして立てていたものや御札をそれぞれの家庭で燃やしていたらしい。このように集まって燃やし始めたのは戦後からで、環境の問題や各家庭では面倒くさがってやらなくなったからだそうだ。このほんげんきょうは昔は鳥栖市のどの地域でもあったらしいが、この集まり自体もなくなった地域もあり、それは公民館やお宮など集まる場所がなかったり、燃やすということで煙がでたり、早朝からの行事ということで苦情がでたりするかだそうだ。真木町ではこのほんげんきょうの他にも夏の盆踊り大会など一年を通していろいろな行事があるらしく、結びつきの強い地域だなと感じた。













しこ名の範囲は以下のようになる。
小字宮前のうちに―カムラ(上村),ガランシタ(伽藍下)
小字赤井手のうちに―ナエダ(苗田),ナガタ(長田),アカイデ(赤井手),ハシグチ(橋口)
小字橋口のうちに―ハシグチ(橋口),インキョヤ(隠居屋),ジョンマエ(城前)
小字後田のうちに―ナエダ(苗田),スギノモト(杉の本),ガランウエ(伽藍上)
小字長田のうちに―ナガタ(長田),ハシグチ(橋口),ジョンマエ(城前),タンナカ(田中)
小字荒巻のうちに―アラマキ(荒巻),ナガタ(長田)
小字田中後のうちに―サンボンマツ(三本松),アラマキ(荒巻),ナガタ(長田),タンナカ(田中)
小字前田のうちに―ヤシキダ(屋敷田),クウジウエ(小路上),クウジゲ(小路下),
ショウヤ(庄屋),ガランシタ(伽藍下)
小字原田のうちに―ガランシタ(伽藍下),シマバタケ,ハルダ,ノブラキ,シマメグリ,テンジンチャヤ
小字巻上のうち―イガワ(井川)

薬師川のしこ名―ニシゴンガワ(西郷川)
轟川のしこ名―バンショガワ