鳥栖市中央区(古野) 1EC01011K 石田 愛 1EC01022W 上田 雅子 1EC01035R 岡村 有記 <対応していただいた方> 西山 芳太さん(昭和3年生まれ) 西山 かずえさん(大正5年生まれ) 岡本 政芳さん(大正9年生まれ) 高尾 平良さん ●古野町の区域について 古野町はテンジンギ(天神木)フルノ(古野)マチウエ(町上)の大字からなる町で、大正町、鎗田町、土居町、合町と共に中央区を形成している。合町は昔、田代町であったが昭和29年の町村合併により中央区に入った。この移動には北小学校の設立による校区の問題が絡んでいる。また町の境界線は溝によるものが多い。小さな調整は今でも続いている。 ● しこな・あざな 以前、西山かずえさん宅の付近の田にあざながあったようだが、名前は分からない。 ● 炭について 昔の暖房器具は火鉢、置きゴタツ、木炭であった。炭は自分で焼くのではなく、入り合い山の地主が炭焼き小屋を山に持っており、そこで焼いたのを買っていた。売る人は山を降りるときは炭を、登るときは町の商品を持ち運んだ。または、当時の国鉄の機関車が燃えカスを落としていくので、その中からまだ使える炭を拾いに行った。さらに、炭粉を残りの飯粒で丸めて固め日干しにして豆炭を作り燃料として再利用していたそうだ。 ●入り合い山について 古野町のあたりは、草刈り山といっても入り会い山のことである。この入り会い山から薪の木をとったり、きのこ狩りをしたり、肥料となる下草を刈ったりした。また入り合い山では、女の人がよく集団で松葉かきに行ったそうである。落葉は燃料や肥料に使われるが、松葉は松やにを含むので燃料として使われた。昔は山に松茸が生えていたそうだが、今は生えていない。その理由は松葉かきをしないことにより、山の富栄養化が進み松茸菌が他の菌に負けてしまったからだそうだ。 山焼きはこの付近では行われることはなかった。(しゃくしが峰岳ではおこなわれていたらしい) ● 田に引く水について 古野は地下水があちこちから出て、水に困ることはほとんどなかった。また、田の水は大木川や前川などから引いており水利のよい場所であった。しかし、干ばつが起こると水をめぐって水喧嘩があったようである。昭和14年には大干ばつもあった。その時には村の青年団が千把焼きという雨乞いの儀式をしたそうである。逆に古野よりも低地にある地域は毎年のように水害にみまわれた。その地域では米の収穫はあまり確実なものではなかった。そこの住居は水屋造りで水が入ってこないように高台を作ってそのうえに家を建て、さらにその高台の上にもう一段高台を作り、そこに二階建ての倉庫を建てて二階を米・上等な衣類の保管場所とした。この高台の倉庫は同時にネズミ対策にもなった。また各家には船が一隻ずつあったそうである。樫の木や杉の木のような幹の太い木を住居の周りに植え、上流より流れてくる漂流物から家を守る対策もあった。 ● 農地改革について 終戦後の農地改革で全国には小作民に農地を取られ没落する大地主が多かったが、鳥栖では大地主が工業や運輸業などの別の事業をしていたので没落することはほとんどなかった。 ● 米の収穫について 江戸時代 一反 四表 大正時代 七〜八表 (肥料の導入) 十表 (たい肥の導入) 水掛神社を中心とした鳥栖ノ荘があったので、田は一等田であったといえる。水がきれいなため米はおいしいとされた。江戸時代、収穫した米は筑後川経由で大阪へ運ばれた。当時の運送の85%は船による運送であった。 ● 牛馬について 牛馬は重要な運搬力で、入り会い山から物資を運ぶのは牛馬の役目であった。古野では牛と馬の割合は半分ずつである。肥前にいくと山間部には牛、平野部には馬しかおらず、筑前のほうに行くと圧倒的に牛が多くなる。割合が半分ずつであるのは鳥栖が肥前と筑前の間にあるからではないだろうか。えさは田のあぜ道の草やワラ、米ぬかを湯で溶いたものを与えていた。馬は田植えで泥がついたとき以外は毎日川で洗うことはなく、体を拭いてやる程度であった。 蹄鉄は本鳥栖に専門の鍛冶屋があった。牛はわらじを履いていたそうだ。村にはバクリュウ(獣医)がいた。馬の病気としては、せんきと呼ばれる腸閉塞が一番多かった。集団で飼っていないので、流行病にかかることはなかった。 牛を操作するには一本の手綱を使い、人が牛の右側に立ち、右に歩かせたいときは手綱を引きながら「セッセッ」、左に歩かせたいときは胴をたたきながら「サシサシ」という掛け声をかけた。牛がおとなしくしないで困ったときは、鼻かん(昔は木であった)をつかみ、ひねっておとなしくさせたそうである。 牛馬は車が多くなる昭和30年ごろまで飼われていた。 ● 食べ物について 昔はほとんどのおかずを自給していた。自給できないおかずとしては、かまぼこ・ちくわ等の練り物である。今の鳥栖高校のある場所は三間山を切り開いたところであり、昔対馬藩の処刑場や解き場があった。そこで牛馬が解かれるわけだが、肉が手に入ることはほとんどなく、骨についている肉をこそいで売っている(骨こそぎと呼ばれた)のを買っていたそうだ。また、戦後の食糧難の際、若者が犬を捕まえて食べたという話があり、犬肉が闇市で売られていた。 ● 若者のくらしについて 長期的な若者宿はなかったが、くんちの前になると若者宿ができた。これはくんちや村の風習を学ぶなどの研修的性格が強かった。結婚前の若者たちからなるクラブは男女それぞれあった。女子には処女会と呼ばれるものがあり、踊りや三味線などの練習をしたり、敬老会のときに花馬車や花飾りを作ったりしていたそうである。 ● 結婚について 見合い結婚しかなく、それ以外ではこそこそ駆け落ちするか無理心中する人もいた。婿の家で結婚式を挙げ、引き出物はラクガンなどのお菓子であった。お茶の代わりにすが台という砂糖細工で飾られた机が花嫁の家に送られた。結婚式ではたんす長持ち唄という唄がうたわれた。また、力石といってお見合いのとき力自慢をするために持ち上げる石もあったようだ。 ● もやい風呂について あちこちにあり、部落にひとつは必ずあった。老若男女一緒に入り戦後まで続いていた。鳥栖は花崗岩地質なので水を通しやすく、きれいな地下水が多くあり、もやい風呂はそういった水の便のいいところにあった。 ● 祭りについて 古野は新興地なので祭りが希薄である。祭りは部落のみでするのが普通であるが、八坂神社だけは特別で他の部落からも人が来ていた。祭りは部落中の神家の人が毎年交代で宮総代になり、祭りを取り仕切っていた。古野の祭りは秋・春の年二回であった。秋祭りは本来七月十三〜十五日であったが、現在は夏休みの都合上七月二十・二十一日である。春祭りは本来二月二十日であったが、現在は四月初めである。 ● 長崎街道について 通っていたのは長崎奉行、オランダカピタン、オランダ商館長であり田代の上司屋(対馬藩が作った本陣)に泊まっていた。古野には木賃宿があったそうである。最近見つかった「津田家文書」によると朝鮮人も通っていたようである。日本海沿岸に漂流してくる朝鮮漁民を一度長崎に送るために通したそうだ。他にはラクダ、ダチョウ、オウム、ヒョウなどのめずらしい動物も通っていたようである。 ● 産業について ・ ろうそく 江戸の末に、はぜの実を使って作るろうそく(日本ろうそく)が盛んであった。 ろう屋がはぜの実を粉末にして煮て日光にさらし、さらしろうにして大阪に出荷していた。また出島経由でヨーロッパにも出荷があった。大量にあったはぜの木も昭和30年代半ばに切られてしまったそうだ。 ・ 入れ薬 江戸時代末、肥前田代は四大売薬のひとつであり富山とライバル関係であった。縄張り争いが激しく、肥前田代が熊本を取れば富山は鹿児島を取るといった具合であった。この攻防は石ノ森章太郎氏の「九頭龍」という作品に書かれている。薬売りは一度家を出たら何ヶ月も戻ってこないという大変な仕事であった。昔の子供たちは薬売りがくれる風船をとても楽しみにしていたそうだ。また古野は対馬藩領であり、昔からの対馬藩と朝鮮とは関係が深いので朝鮮奇応丸の旗揚げを行ったものが五人いた。朝鮮といえば、当時の日本から見れば先進国であるので長崎街道を通る多くの人たちが薬を買い求めた。この成功に便乗し朝鮮奇応丸はやがて五十軒にも及んだ。次に朝鮮人参についてである。朝鮮人参は実際に田代に入ってきていたが、田代代官が持っており御仁恵人参として部下が病気をした際に与えられ、一般に出回ることはなかった。しかし、田代以外に住んでいる人は本当に田代に朝鮮人参が出回っていると思っている者もいて、田代の人がごぼうや大根の根を朝鮮人参として売り、捕まった例が何件か記録に残っている。このように製薬が発展し、現在ではヒサミツ製薬という大きな製薬会社がある。 ほとんどのものは水運でまかなわれていたが、薬は小さいけれど高く売れるものなので、陸運で運ばれた。 ・ その他 信州片倉製糸や、曽根崎にある日清製粉などがある。養蚕業も盛んで桑畑も多く、染物屋もあった。また、石鹸も盛んに作られていた。 ●国鉄について 明治19年、明治町に昔の鳥栖駅ができ、明治23年に周辺の土地が寄付され駅を誘致し、今の鳥栖駅ができた。当初、鹿児島本線は小郡を通る予定であったが、小郡の人が土地を手放すことを嫌ったので鉄道を引くことは難しかった。一方、鳥栖は新興地で昔から商業が身近にあったので、商業的な先見の明があり鉄道を誘致したのである。 この国鉄の誘致が鳥栖をさらに発展させたのは言うまでもない。鳥栖の人口が四万人いる中、国鉄関係者は九千人にも及んだという。鎗田・土居・大正町・明治町には鉄道官舎があり、鎗田には鉄道技術を教える学校が、土居には高等官舎があった。また、日清・日露戦争が始まると軍を送るための佐世保線ができ、戦争に行く兵隊に薬を売っていた。 薬だけでなく、製粉業や製糸業も鉄道を活用することで大きく発展している。 <感想> この現地調査をおこなって、地域の古老から昔の貴重なお話を聞かせていただき大変ためになった。また、現地調査という机上の学習とは一味違う体験をして、戸惑うことも多々あったが自分たちの身に付くことはたくさんあった。これから先この経験をいかして何事にも励んでいきたいと思う。 |