歩いて考える歴史 現地調査
佐賀県鳥栖市「本町」
理学部地球惑星化学科 二年 国貞安奈、古川真衣、戸田真実子
〔調査に協力してくれた皆さん〕
諸長 只冶さん、緒方 鉄良さん、松永 正悟さん、松雪 信昭さん
〔しこ名〕
カミマチ(上町)、ナカマチ(中町)、シモマチ(下町)、
ジゾウマチ(地蔵町):お地蔵様があったことに由来
《村に関する情報》
『祭り』:八坂神社の祇園祭(ぎおんさん)。博多の山笠を真似して始まった。本町通りには30年位前まで山笠の日に家の門口に提灯(御神燈)を一対飾る習慣があった。今年はその習慣を取り戻そうと、一台19000円かかる提灯を、有志の方の協力により34台作成した。また、各家庭でも協力がえられた。ぎおんさんでは、夜店や幽霊屋敷、のぞき屋さん(紙芝居を隙間から個人で見るもの)などがあり、大盛況だった。夜店には、玩具屋、花火、金魚すくい、風船つり、かき氷などがあった。また、相撲大会やカラオケ大会(歌謡曲と言った)も行われた。佐賀ニワカを本町青年団がやっていた。
『村の範囲』:道沿い(長崎街道)に家が並んでいたのみで、あとは田や桑畑だった。道沿いを今では本町一丁目と呼ぶ。上町、中町、地蔵町、ドンドンオテが町の範囲だった。ドンドンオテとは、水がどんどん落ちるところである。
『動物』:馬、牛がいた。馬には蹄鉄がついていた。蹄鉄は鍛冶屋さんがつけていた。犬は食べなかった。
『道』:本町は長崎街道沿いに栄えた。もちろん昔は砂利道だった。道には恵比寿様が置かれてあった。昭和27年に大黒さん(当時のお金で一対5800円)も増設された。道には薬売りや大道芸人、がまの油売りなども来た。道にはもみが干してあって、3分の1くらいしか通れなかった。長崎街道は、その昔はシーボルトや参勤交代の行列、伊能忠敬や、東京へ向かう珍しい動物(象、孔雀など)も通った。殿様に見せるためである。やんぶし(ほら貝を吹く人)も修行しながらほら貝を吹き、お米をもらっていた。ドウアン山で修行していた。
昔は長崎街道は国道で、バスも通っていた。
『家』:長崎街道と裏道のあいだに細長い家屋が並んでいた。どの家も同じつくりで、畑、竹林がある。家の前(道の中)には木が植えられていた(目印であったのかもしれない)。木は柳や、さんご樹、大山木や、なつめなどがあった。家の裏には排水溝があり、ここの水は火事の際に防火用水としても使われた。
『行事』:(1)モグラ打ち
1月14日にモグラ打という正月行事が行われた。モグラ打とは、竹の先をわらで縛って棒を作り、これで地面を打つ。地面を固める意味である。新婚の家や新築の家を訪ね、玄関ををたたくというものである。新婚の家などでは、お嫁さんが〔ひさご菓子〕を一握りずつ与えた。
(2)出初式
昔は1月7日に行われていたが今は1月の第二日曜日に行われている。
消防車の代わりにリヤカーを用いた。鳥栖中から八坂神社に集まり、手押しポンプで、水の高さが神社のもみの木を越すまでの時間を競った。
『わさび売り』:昭和10年代、福岡県の一の瀬から若い女の人が徒歩でやってきていた。わらで作ったかごを肩から下げてきていた。朝早くから夜遅くまで提灯を持ってやってきた。得意先があり、帰りには化粧品を買って帰った。掛け声は「わさびよござっしょ」
『大座組』:12/14に毎年八坂神社へしめ縄を奉納した。しめ縄は毎年新しいものに変えられ、古いしめ縄は横にある大木に巻きつけていた。一番組みから七番組まで順番にお祭りをした。
『田』:田蟹(たんがに)という蟹がいた。田では、米が取れた後に菜種を作っていた。油屋に菜種を持っていくと絞った油をくれた。油屋は新町(秋葉町)にあった。
『勤労奉仕』:毎月1日、小学生(四年〜六年)が八坂神社に参拝・清掃に行った。しかし戦後には宗教の自由で廃止された。
『わかっもん宿』:田舎にしかなかった。本町は鳥栖の中心地、都会であったのでなかった。もやい風呂もこの辺りにはなかった。
『鉄道』:鳥栖駅ができてから、戦時中、戦後に国鉄職員が増えた。国鉄の官舎があったからである。鳥栖は鉄道の町であり、三分の二は国鉄でもっていた。子供たちはみんな国鉄職員にあこがれた。汽車は、子供山笠のモチーフにもなっている。貨物の仕分けがあったからさらに栄えた。汽車の方向を変える汽車回しもあった。
『戦争』:中国に行った。三人とも銃を撃つ練習はしたが、戦場で打ち合いをしたことはない。無線兵と気象兵だったので実戦に加わることはなかった。気象兵は海軍に所属し、天気図を書いたりしていた。上海航空隊と上海陸戦隊に天気図を持っていったりした。持っていくときに拳銃などを腰につけていたが、実はさびていて使い物にならなかった。中国は貧富の差が激しく、豪華な食事をしている家庭は自慢するために外で食事をしていたりした。上流階級の女の人は顔を見せなかった。揚子江はトイレでもあった。豚を自分の家で飼っていて、人の糞を餌にしていた。水牛の糞は乾かして燃料にしていた。防空壕のような洞穴があって、そこに食料を隠しているのを知っていたので、そこに盗みに行った。村には、鶏やアヒルがたくさんいた。暗号はマニュアルがあったが、盗むのがうまい中国人によく盗まれていた。朝おきると、自分の服が盗まれていることもあり、それらが売られていた。現行犯逮捕でないと品物は取り返せないから、どうしようもなかった。
『恋愛』:女の子と手をつないで歩いていたら大変なことであった。昔は、“三歳にして籍を同じにせず”、といって男女は完璧に分けられていた。結婚は、お見合いか、親戚の人に世話をしてもらっていた。女の子としゃべるのは恥ずかしかった。恋愛したら駆け落ちしないといけなかった。学校は五組あって、二組ずつ男だけ、女だけのクラスで一つは混合だったので、みんなそのクラスに入りたかった。(区長の松雪さんのときは共学で、恋愛結婚もありえた。)みんな女の子に関心はあったが話せず、恋愛しているのはほんの一割程度だった。体育祭が一番の楽しみだった。
『片倉製糸』:現在のジョイフルタウンのところにあった。片倉製糸の後に専売公社ができたが、いまは二日市に移動した。よく桑の木を植えていた。桑畑は大正町に多くあった。
『はぜしぼり』:はぜ、というろうそくの原料の木が多くあった。加工は油屋さんがしていた。木には小さいはぜの実がなる。鳥栖は全国で有数のはぜの産地であった。はぜは紅葉で有名で、山のほうに行くとまだ残っている。真っ赤に紅葉するともみじよりきれい。
雨が降ったときにはぜの木の下を通るとはぜ負けしてかゆくなる。はぜの木を噛んで登ったらはぜ負けしないといわれていた。
『遊び』:子供のときの遊びは凧揚げ、こま回し、ねんがら。(ねんがら:棒の先を尖らせて、田に突き刺して、相手の棒が倒れたら勝ち、という遊び。倒した棒は自分のものになる)。それぞれの遊びで季節感を感じていた。ビー玉でも遊んでいた。パッチ(メンコ)は瓦の上でしていた。女の子は“けんけんぱ”をしていた。小刀を常にもって山に入って、自分で遊び道具を作っていた。山で茸を取ることもあった。
『銭湯』:建物の下が銭湯でその上は現在で言うカフェだった。ビリヤードもあった。トドロキとマキというところに銭湯はあった。風呂をもってない人が行った。自分の家に五右衛門風呂などがある人は行かなかった。昔の家は敷地が広かったので、大きなたらいにお湯を張って行水していたところもある。
『伝統工業』:本町は都会だったので、水車を使った粉引きのような伝統工業はなかった。水車は田んぼに水を入れるのに使っていた。自分で足で踏んで水車を回していた。
『こじき』:歌のうまいこじきなどは、珍しい歌を歌うと、家に上げてもらって酒などを飲ませてもらっていたりもした。こじきのことはホイト、と呼んでいた。
『盆踊り』:八坂神社で行われていた。八月十日に行われる。踊りの先生たちがやぐらの上で踊る。
《海に関する情報》
『前の川』:家の前に川(前の川)があった。雨が降るとどじょうや鮒やどんぽがとれた。たまにうなぎやハヤもとれた。どんぽは、なまずを小さくしたようなハゼのような魚で、乾燥させてあぶって食べるとおいしい。ざらざらしているので手づかみで取れた。山太郎蟹という蟹(味噌がおいしい)もとれた。大水(梅雨)の時は道に魚が打ち上げられ、道で魚を拾っていた。中町は床上床下まで水が入った。昭和28年に大水害が起こり、それを基に用水路が作られた。
『海の魚』:貝や魚を売りに来ていたが、家の前まで行って貝から身をはがしていた。リヤカーに魚をたくさん積んで行商にきていた。魚はかごいっぱい10銭であった。
《その他の情報》
『売薬』:本町は昔から売薬が盛んであった。売薬といえば鳥栖・奈良・肥前だった。富山から薬を売りにくる人もいたが、やはり地元が有利だった。丸薬は丸める技術が必要なため、そういった道具をもっている家が少なかった。製丸は鳥栖に一軒しかなかった。区長さんの家庭には“やげん” や“乳鉢”もあった。
「調査に関する感想」
調査に協力していただいた皆さんには、温かく迎えていただき、本当にいろんな話が聞けて勉強になりました。小さなことも細かく丁寧に話していただきとても感謝しています。どうもありがとうございました。子供の頃の遊びなどを聞いていると、今の遊びよりずっと楽しそうでうらやましかったです。本町は都会ということで、ビリヤードがあったことなどにはとても驚きました。方言は、佐賀の中でも微妙に違うらしいのですが、さすがにそこまで聞き分けることはできませんでした。私にとってはじめての佐賀、鳥栖だったわけですが、とても暖かい町だと思いました。月日は経っても、いい伝統は残していこうという(特にちょうちんなどの)姿勢はすばらしいと思いました。昔から鳥栖に住んでいて、鳥栖をとても愛している方たちばかりだと感じました。調査以上に、得るものがあったと思っています。
(1sc01147 国貞安奈)
私は佐賀出身で、祖父に良くかわいがられていたので、今回の現地調査で年配の人の話を聞くのがとても楽しみでした。同じ佐賀県でも、私の出身地と鳥栖ではまったく違った風習があって、とてもおもしろかったです。方言も、微妙に違って、意味が分からなくて聞き返したこともありました。九州各地に届けられる物資が、鳥栖駅で仕分けされていたと聞いて、鳥栖は昔から九州の中でも重要な位置を占めているのだなと思いました。私の町でもそうですが、小字は方言が混じっていて、一筋縄では読むことが難しいと感じました。今回の調査で鳥栖の発展していく様子が、現地の人の話を通して肌で感じることができ、とてもうれしかったです。 (1SC01170 古川真衣)
私たちが質問を始める前に、すでにいくつかの項目を事前に紙にまとめていてくださったのには本当に感動しました。おかげで調査をスムーズに進めることができました。本町は、歴史のある街で、昔から鳥栖の中心地だったのだということが良く分かりました。日常生活や、恋愛の話は、目に見えてくるようで、とても楽しかったです。こちらの質問に、みなさん何事も明るく楽しく話してくださり、とても気持ちの良い、楽しい調査をすることができました。貴重なお話をどうもありがとうございました。
(1sc01161 戸田 真実子)