藤木町レポート
1LT02096Y 冨田恵子  1LT02101R 中野恵里

鳥栖市藤木町の現在の様子は、所帯数449、人口約1500人で35
班から成っている。この班は8つのマンション班と27つの普通住宅で
一班ごとに班長がいて一班は12〜20人で構成されている。また、こ
の班とは別に、農家で生産組合を作っていて、10人の実行班長がい
る。藤木町にはお年寄りが多く、敬老会員(75歳以上)は190名と
のことだ。所有している田は40町2反5畝。昔は45町くらいあった
が、佐賀県がいったん買い取った後に鳥栖商工団地に売買した。現在
は、土地の値段が安くなったので売買は少なくなった。鳥栖商工団地に
は、石鹸業者や乾燥工場を含む約113社の企業が入っていて、藤木町
の人々も働きに行っているそうだ。現在残っている田も、自分で耕す人
は24〜25名程度と少なく、多くは人に貸している。
藤木町には重要無形文化財に指定されている藤木獅子舞がある。この獅
子舞は推古天皇の613年に百済から伝えられた伎楽(くれのがく)系
のものが日本化されて受け継がれたものである。獅子頭が奈良の法隆寺
に伝わる伎楽面の獅子にそっくりであったり、獅子釣の衣装が朝鮮半島
影響が強いと言われる高松塚古墳の人物に酷似しているなど、大陸系の
影響がかなり強いといわれている。この獅子舞は毎年10月の第4日曜
日に藤木町にある宝満神社で執り行われるお祭りの時に、土地の邪悪の
精霊を鎮め、農作と子供の無病息災を願って奉納される。獅子頭は、雄
4k200g。雌4kg。獅子衣装は雌雄共に2kg。獅子の体長は
2.5m。鉦は現在6丁あり、そのうち1つは戦前からのもので、蔓延
2年作。5丁は戦後のものである。バチは松材使用。昔はカヅラを使用
していたそうだ。演舞は2人1組で行われる。雄はカキ色、雌は紺色で
2頭が対の動きを演ずる。舞は鐘と太鼓の伴奏で、獅子釣り棒で雄蝶雌
蝶の獅子釣りの子供が持つ棒の先の毬に、獅子が戯れつつ舞うという趣
向になっている。獅子舞の奉納はまず、獅子釣りの踊りに始まり、獅子
釣りの子供と獅子が「言い立(謡い)」を唱え、かつ舞う。船に浮かされ
て、仙人がもてあそぶ獅子舞を「はーじめよ、ハーヤせ、うーち込め、
ハーエ」で、鐘と太鼓の伴奏で雄獅子から演舞が始まる。この舞の見せ
場は、獅子が寝転んで見せる「足食い」である。これは獅子が戯れて自
分の足を食べるような動作をすることである。そして、雌雄ともに舞う
連れ合い獅子もまた見せ場である。演舞は約45分。藤木では、獅子舞
のことをドンキャンキャン節とも言う。これは、囃しのドン(太鼓)と
カンカン(鉦)の擬音からきている。獅子釣りは小学校1・2年の男の
子で、彼らが唱える「言い立て」の中に「ルールガチャーワルール」な
ど意味不明の文句があるのも異国風だ。獅子はまず入場すると舞う場所
を探す「場所取り」を行う。獅子がツカツカと音を立てて歩くことから獅
子の歩きをツカツカ。地面を踏みしめることをドドド。また、獅子が口
をカポッと音を立てて歩くことをカポウサッサ。首を振ったり、頭を低
く垂れて廻ることを流し込み。片足で跳ぶことをスッケンギョと呼ぶ。
雄獅子に比べて雌獅子の方が優雅である。鉦は6人で、演舞の間交代は
ない。練習は7月下旬から行われ、約40人が参加する。昔は獅子舞に参
加することは誇りとされてきたが、現在は有志が減り、師匠長老格の林
次郎さんを中心に若い人に参加を依頼して回るそうだ。しかし、いっぽ
うで平成8年から始めた子供獅子が好評で後継者育成の手段として期待
されている。また、今年は獅子舞の全国大会に出場するなど藤木町の獅
子舞は活気づいてきている。
付近に鳥栖駅・操車場のある藤木町は昔から国鉄機関車が出す煙に悩ま
されてきた。国鉄車庫に大量の石炭が貯蔵されていて、それらが機関車
に積み込まれ真っ黒い煙が吐きだされるのである。そのため、農作物は
真っ黒になり食べる時は油で洗っていたそうだがそれでもとれなかっ
た。そんな具合だから外に洗濯物も干せないし、夏に暑いからといって
窓を開けることもできなかった。シャツの襟は黒ずみ、鼻の中まで黒く
なった。たんすの中にも煤煙が入ってきた。昔は、いい石鹸が無かった
ので、いくら風呂に入っても黒さはとれず、学校にいくと藤木の子供だ
け黒いので一目でわかったそうだ。煤煙によって結核にかかる人もい
た。煙だけでなく30〜40両も繋がった貨車が夜遅くまで通る振動も
藤木の人々を悩ました。親戚の人が藤木に泊まりにくると、一晩中眠れ
なかったという。振動防止のために線路沿いに3mの溝を掘ったがあま
り効果はなかった。我慢できずに一度、門司にある国鉄の事務所に訴え
に行ったことがあったが「おまえの家が建つよりも線路が通ったほうが
先」と相手にされなかった。結局、藤木の人々は汽車が電車に変わるま
で我慢するしかなかった。話をして下さった方の中で、最も線路近くに
住んでいた方は「今、蒸気機関車がブームとかで、写真を撮ったりして
皆騒いどるけど、昔のことがあるけん虫唾が走る」と語っていた。いま
だにそう感じるのだから、本当に耐え難いものだったのだろう。
藤木では田の耕作に馬を使っていた。藤木は平地なので牛よりも馬のほ
うが使い易かったそうだ。毎日夕方になると馬を前川(通称・馬入川)
に馬を連れて行って一日の汚れをとるのが子供の仕事だった。馬のえさ
は、わらや麦をゆがいたもの、草が主流。ただし農繁期は力をつけさせ
るために、だのこという米のとぎ汁を30℃くらいにしたものに、ての
こという米ぬかを混ぜて食べさせていた。普通、馬のえさになる草は自
分の田でできるものだけでは足りないので土手などにとりに行った。特
に、国鉄の土手には草がたくさんはえるので、お金を払って草をとるこ
との許可をもらっていたそうだ。毎朝、4時ごろから3里もあるいて草
取りに行っていた人もいる。草に朝露がついているうちは、鎌で切りや
すいのだそうだ。そして草を背中にしょって(これを「ぶり」という)
帰る。忙しい時は、朝の4時から夜の10時ごろまで働くこともあった
とか。また、肥料は馬がえさの草を食べ残し、それが地面に落ちて馬に
踏まれて地面の土やフンと混ざったものを主に使っていた。大正・昭和
のころは石灰も肥料として使用していたがこれは、あまり効果が無かっ
たそうだ。しかし、馬が病気にかかることもあった。そんな時は、馬が
死ぬ前に屠殺場に連れて行く。死んでから屠殺しても、1銭の価値も無
かったのだそうだ。そして殺してから肉を検査した後、馬刺しにして肉
を食べたり、しっぽを筆にしたり、馬油(やけどに効く)をとったりす
る。また、イナゴや稲の根を食べるメイチュウ、ネズミやモグラにも悩
まされたそうだ。メイチュウはかぶきりといって、12月や1月、まだ
苗のうちに一本ずつ鎌で切って駆除していた。真冬の作業なので、物凄
く寒かったそうだ。これは小学生の仕事で10本くらい切って区長さん
のところに持っていくと学用品と交換してくれたり、5銭で買い取って
くれたそうだ。ネズミやモグラは捕まえて食べたり、モグラが嫌いな彼
岸花をあぜ道に植えたりしたそうだ。モグラは彼岸花の球根が嫌いなの
である。モグラが穴を掘ると水路が崩れて大きな損害をこうむるので対
策をたてるのは重要な事であった。ほかにも、作物を鳥から守るために
麦わらをかけたり、蚊の防止として米ぬかやもみがらを燃やしたりした
そうだ。
昔の風呂はどうだったのかというと、藤木では昭和5・6年頃まで、も
やい風呂という共同風呂を利用していた。もやい風呂は4箇所程度あっ
て、10軒ほどの家が共同で使用していた。この風呂には老若男女かか
わり無く一緒に入り誰も恥ずかしいなどという意識をもっていなかっ
た。この風呂を沸かすのもまた、小学生の仕事だった。燃料は薪や石
炭、それから国鉄が走っている藤木ならではのものとしてコークスがあ
る。コークスとは汽車が線路沿いに落としていく石炭の燃え残り〔ガ
ラ〕のことで、これが非常に良い燃料になるという。町の人は、線路沿
いにコークスを拾いに行ったそうである。薪の入手方法は1年分の雑木
を業者から買い取ったり、自分たちで愛宕山に拾いに行ったりした。た
だし、薪を割るのは自分たちの仕事だった。藤木のもやい風呂は昭和
5・6年までだったが、轟木町など遅いところでは、昭和30年、40
年くらいまであった。
共同の施設といえば、昭和25〜26年ごろまでは共同洗濯場もあって
町の人は皆そこで洗濯をしていたそうだ。
昔の暖房器具にはどのようなものがあったのか。まず挙げられるのが、
ゆたんぽ。これは、現在のものと違って陶器や金でできていた。同じく
コタツも陶器でできていた。それから、今のものと大きく異なるのがカ
イロである。昔のカイロは棒状になっていて、自分で炭をいれて火をつ
けて使用していた。そのため、うまく火がつかなかったり、火が消える
と再び自分で火をつけなくてはならなかった。
昔の食生活はどのようなものだったのか。主食は米と麦を混ぜ合わせた
もので、比率は米8割・麦2割。奉公人を雇っている家では、奉公人に
麦の多い所を割り当てていた。他にも、イモ類をいっしょに炊いて量を
増やしたり、あわを食べたりしていた。あわは、炊き立てならば卵ご飯
のような味がしておいしいのだが、ひえるとパサパサするらしい。あわ
には脚気を予防する効果があった。昔の人は、雑穀米を食べることによ
って結果的に健康を維持することができていた。副食としては主に野
菜。それから、にぼし・いわし・クジラ。クジラの塩漬けもよく食べら
れていたようで、クジラをたっぷりの塩で漬けているので少しのクジラ
でたくさんのご飯を食べることができた。
また、行商もさかんで海の魚を干しものや塩ものにしてよく売りに来て
いたそうだ。富山の薬売りも半年に一回のペースでやって来ていて、各
家庭に配置といって薬箱を置かせてもらい、無くなった分だけ補充して
その分の代金をもらうというシステムだったらしい。それから子供たち
が食べていたお菓子には、木の根からつくるニッケというアメ〔食べる
とスーッとする。一粒5厘〕や、棒についた円柱状のアイス・アイスケ
ーキ〔一本1銭〕、おこし、米からつくるポン菓子、桑の実〔食べると
口の周りが紫になる〕、グミの実などがある。またお産のお見舞いに、
もち米で作ったアメがた〔アメもちともいう〕や水あめを持っていった
そうだ。
子供の遊びには、めんこ〔パッチリとも言う〕、こま、竹馬。それか
ら、めんがらといって土に竹の棒を突き刺して、その棒を別の竹でたた
いて倒す遊
びや、ラムネのビンに入っているビー球をたくさんかためて置いて、少
し離れた場所から別のビー球をころがして、かたまりに当てて弾く遊び
などがあったそうだ。
それから藤木に自転車が普及し始めたのは大体、大正の終わりごろで当
時は子供でも28インチの自転車に乗っていて、足がとどかなかったと
いう。
戦争は藤木町にどんな影響を与えたのか。空襲というと、大都市が標的
になることが多いように思えるが、ここ藤木町も空襲の被害を受けてい
る。それは、終戦間際の8月11日のことで、約110名が犠牲になっ
た。町内には、立派な慰霊碑があり、花が供えてあった。今でも、町の
慰霊祭では、町内から出征して亡くなった人と共に、この空襲で亡くな
った地元の人の冥福を祈っている。なぜ、藤木町が狙われたのか。それ
は、近くの久留米に爆撃した後、飛行機の重量を少しでも軽くするため
に、残った爆弾を付近に落としたという説、また、操車場を守るために
設置された、飛行機を地上から撃ち落す施設を爆撃するためであったと
いう説など諸説あり、はっきりとは分からないという。ただ、その施設
は実際に役割を果たしたのかどうかは疑問だ。いくら、見た目を誤魔化
していても、空から見れば一目瞭然だったそうだし、実際には1発も撃
たずに終わったとも言われているらしい。それでも、そこを守るために
兵隊が配属されていて、町内の長福寺で寝泊りしていた。長福寺にも爆
弾が命中し、兵隊さんが犠牲になった。また、町内の多くの防空壕にも
直撃して、住民が多数被害を受けた。お話の中で、特に印象的だったこ
とがある。空襲の日、町内の千福寺へあるお婆さんが3歳になる、自分
の孫娘をおぶって出かけた。その帰り、突然爆撃が2人を襲った。お婆
さんは必死に地面に身をかがめ、爆風を防ごうとした。しかし、爆撃が
おさまって、背中の孫を見てみると、いない。付近を捜しても、どこに
もいない。狂ったように、女の子の行方を捜すも、結局遺体すら見つか
らないままだという。
いつも戦争の犠牲になるのは、武器をもたない女子供なのかもしれな
い。町内の工場に動員された、女子挺身隊の人々も空襲の被害を受けた
という。田んぼにも爆弾が落ち、50ほど跡が残っていたという。人的
被害は大きかったものの、結局鉄道はほとんど被害を受けなかったとい
う。それは、アメリカ軍が進駐する際に、交通手段のためにわざと残し
ておいたのではないかということだ。他にも、この日の空襲の爆風によ
って「桶」が藤木町から曽根崎町まで飛ばされたというエピソードもあ
り空襲の凄まじさを物語っている。
藤木町の近くでB29が日本の飛行機の体当たりによって、墜落したこ
ともあったそうだ。人々はB29が墜落した時はバンザイをし、日本機
が墜落した時は拝んだという。日本機に乗っていた人は病院に運ばれる
途中で死亡したらしい。B29に乗っていた人を見ると、まだ十代と思
われる兵隊が亡くなっていた。が、数人は重傷ながらも生きていた。そ
れでも、おそらく生き残った人は殺されたと思われる。それが、戦後に
戦犯問題になった。墜落した2つの飛行機を見てみると、日本の機体が
ぺらぺらなのに対し、B29のほうはかなり頑丈に造られていた。なん
と、板金の得意な人がその機体の破片を持ち出し、薄くのばして鍋を作
ってしまったという。そのエピソードから、日本軍とアメリカ軍の兵力
の差をまざまざと感じさせられる。話してくださった方も、「あれじゃ
あ、日本は負けるはずだよ」と語っておられた。
今回話を聞いた方は、全員男性だったので、従軍した時の話もちらほら
でてきた。戦時に飛行機にのっていた方は、いまだに旅行などでも飛行
機に乗るのは怖く、戦後2回しか乗っていないという。「生き残るのは
恥、と教え込まれてきたけど、実際そんな気持ちで死ねない」とおっし
ゃっていた。とはいっても、軍隊の中には終戦を知った後に自決した人
もたくさんいたらしい。友人の姿が見えないと思って探してみると戦闘
機の中で自決していたというお話を伺った。
戦後すぐも、混乱があった。アメリカ軍が進駐してくるというデマであ
る。
市長や助役などが発言したため、皆信じてしまい、特に女子供は何をさ
れるか分からないということで、大八車に荷物を積み込んで約2週間も
山に避難したそうだ。同時に、福岡の人々も同様のデマを信じ、屋根の
ない電車にぎゅうぎゅうで乗ってきて、こちらに避難してきたという。
実際のアメリカ軍はもちろん、そんなことは無く、とても紳士的だっ
た。というより、近くの学校に数人のアメリカ兵がやって来たほかは、
ここまでアメリカ軍が来ることはなかった。
しかし、日本人も中国や朝鮮の人たちからしてみれば加害者である。鉄
道のあった藤木町では中国人や韓国人を半強制連行のような形で連れて
きて厳しい労働をさせていたらしい。当時、町の人は中国人のことを
「チャンコロ」と呼んでいた。(ちなみに、アメリカのこともアメちゃん
と馬鹿にして呼んでいたらしい)また、線路の向こうには朝鮮人部落があ
った。その部落に住んでいたソン・マサヨシさんという朝鮮の方がその
後コンピュータ関係の仕事で大成功して今や資産4億とも言われてい
る。そのソンさんに、藤木の人が近くの高校に寄付を依頼した時「昔、
自分たちにあんなにきつい仕事をさせたことを自分は忘れていない。」
といって断られたそうだ。藤木の方々は「今の人たちからしてみれば信
じられないことかもしれないけれど、昔は確かに差別があった。」と言
っておられた。やはり時代の影響とは恐ろしいもので、そういうふうに
教育されれば差別という意識が無くなりそれがあたりまえになってしま
うのである。
今回お話してくださった方々は全員男性だったので、残念ながら女性の
戦争体験や子供のころの遊び、どんな家事手伝いをしていたのかなどは
聞くことができなかった。しかし、数多くの貴重なお話を聞くことがで
きた。
                               
               感想
中野:知らない土地に行き、知らない人に話を聞くという作業を目の前
にし、正直言って初めは少々億劫に感じていたのだが、実際に 藤木町を
訪れ、町の方々のお話を聞いていると、そんな気持ちは消えていった。
むしろ、時間がたつのが早く感じられ、もっとお話を聞いていたいとい
う気持ちでいっぱいだった。皆さん、見ず知らずの私たちに親切に町の
ことを話して下さった。
1つ1つの話が、大変興味深かった。
私が今回一番の驚きだったのは、田んぼの脇に咲く彼岸花は、実は もぐ
ら対策だったということだ。今までは、ただ何となく生えているだけだ
と思っていた。「昔は人と自然が共存し、無駄なことは何 も無かった」と
いう町の方々の言葉を思い出す。それに比べ、今の 私達の生活はなんと
無駄の多いことか。何もかも、昔の方がよかった、などと言うつもりは
無いが、昔の生活から今の私達が学ぶことは多いのではないかと思う。
また、年配の方々が生き生きと昔のことを話すのを聞いて、亡くなった
祖父を思い出した。祖父もよく、私に若い頃の話をしてくれた。今とな
っては、断片でしかその話を思い出せない。もっと、色々な話を聞いて
いればよかったな、と悔やまれた。過去には二度と戻れない。だから、
このように昔の話を後々まで語り伝えるべきだと感じた。私たちが生き
ている 今も、数十年後には「懐かしい昔」となり、若い人に話して聞か
せると「そんなことがあったの?」と驚かれてしまうのだろうか。そう
考えてみると、とても不思議な気がする。が、その前に、私はここまで
自分の生まれ育った町について知っているだろうかと思った。私よりず
っと長く生きていらっしゃるのだから、色々とご存知なのは無理もない
のかもしれない。だが、お話を聞いていて、
それだけではないと感じた。何より、この町を愛していらっしゃるんだ
な、
と思った。
今回の訪問で、どんな事にも「歴史」があるということを改めて感じた
気がする。それは、藤木町などの町にも言えるし、話を聞かせてくださ
った方々1人1人にも言える。今まで、歴史は京都や東京などの中央で
起こったことが中心で、有名な人物が出てくるものが大事だと思ってい
た。しかし、あらゆるものが、何十冊もの本になるくらいの歴史を抱え
ているのだ。私はまだ18年しか生きていないが、これまでの私の歴史
はどのくらいの分量になるだろう。これからの人生、内容の豊かな本に
なるよう生きていきたいものだ。
最後に、お忙しい中、貴重な話を聞かせて下さった藤木町の皆さんあり
がとうございました。単なる町の調査だけでなく、人の温かさにも触れ
ることができて、本当に有意義な体験だったと思います。いつか、伝統
の獅子舞をこの目で見てみたい・・
冨田:事前に行った地図のコピーなどはとても大変だったけれど、わた
しはお年寄りの話を聞くのが大好きなので現地調査をすごく楽しみにし
ていました。調査地である藤木町を訪れると区長さんをはじめ、無形重
要文化財である獅子舞の師匠格の方や、昔からの藤木を知っている古老
の方など合計5名であたたかく迎えてくださいました。私たちが参考に
なるようにと獅子舞のビデオを見せてくださったり、家の2階から見え
る遠くの景色まで親切に教えてくださったり、しこなを聞く際に地図を
広げると皆様で身を乗り出して熱心に説明してくださったりと本当にう
れしかったです。藤木町は鳥栖駅にとても近いため、昔から国鉄と非常
に密接な関係があります。煙や震動に悩まされていたのはもちろんのこ
と、汽車の燃料である石炭の燃えかす(コークス)を線路沿いから拾っ
てきて燃料にしたり、線路沿いの土手に生える草を馬のえさにしたりし
ていたそうです。戦争中は攻射砲があったことから終戦間際の8月11
日に大空襲をうけ110名もの命が奪われたそうです。それから、古く
から町民に親しまれているのが宝満神社です。この神社は町の人から
「お宮」と呼ばれて生活と深く関わっています。10月に獅子舞が奉納
されたり、昔は町の中に神社専用の田があってその田でとれた米によっ
て行事等の運営費が賄われていたそうです。それから、お宮の近くには
もやい風呂もあり人々が集まる場所になっていました。毎年5月3日の
憲法記念日には戦争の犠牲者の追悼式が宝満神社で行われるそうです。
このようにこの土地ならではの話も盛りだくさんで、今まで知らなかっ
たことをたくさん聞くことができました。藤木に実際長い間住んでいる
方でないとなかなかこのようなお話はできないと思います。昔の食事に
ついては学校で習ったり祖父母の話で聞いたことのあるものもありまし
たが、どんな味なのかやお菓子に関してはいくらだったのかまで細かく
教えてもらい、新たな驚きがありました。同世代の話では決して感じる
ことのできない喜びが感じられました。私たちが驚いたり感心したりす
るともっともっと熱心にお話してくださいました。こんなに時間が短く
感じられたのは久しぶりです。日常の何気ないことでも、5人のお年寄
りの方が「これは、こうだった」とか「いやいや、そうじゃなかった」
とかお互いに言い合って懐かしそうに語ってくださいました。そしてど
こまでも興味深い話は広がっていきました。最後にお別れの挨拶をした
とき「もっともっとお話を伺いたかったです。」というと「あなたたち
に時間があれば夜どうしでもはなしてよかけどなぁ。」といってくださ
り本当にうれしかったです。お年寄りの話はひとつひとつがとても貴重
でかけがえのないものだと思います。わたしも今回の話を今後語りつい
でいけたら、と思います。いままで習ってきた歴史はみんなによく知ら
れているような人物や出来事中心でしたが、今回のように私たち一般人
の生活をテーマにするのもとても興味深く、歴史の流れを身近に感じる
ことがでたと思います。このようなことを知らない若い人が多いと思い
ますが、今の生活しか知らない若い人こそがこういった貴重な体験をす
べきだと思います。機会があれば、ぜひまたお年寄りの話を聞いてみた
いです。