永吉町 1EC101099堂免和代、1EC101093寺澤亜里沙 鳥栖市永吉町の久保敏明さんにお話を伺うことになった私達は、バスから降ろされ地図を見ながら歩くこと1時間、約束の公民館のある本町にたどり着いた。そしてある民家の奥さんに公民館の場所を尋ねました。すると公民館は通り過ぎていた神社の隣にあるとのことでした。200mくらい引き返すと、永世神社という大変立派な神社の横に公民館を見つけました。 神社にお参りをして間もなくすると、久保さんがいらっしゃいました。 「こんにちは、九州大学の者です。」 と言うと、 「お待ちしていましたよ、ご期待に沿えるかわかりませんが・・・。」 と久保さんは苦笑いをして、私達を公民館の中へ案内して下さった。部屋に入ると、冷えきった室内を暖める為にストーブをつけ、あたたかいお茶を入れていただいた。自分達にとって初めての聞き取り調査で落ち着かないなか、久保さんがお声を掛けて下さった他の4人の方々もおいでになり調査を始めました。 まず最初に、地図を広げながらこの調査の主旨・目的を説明し、次に皆さんに自己紹介をしてもらうことになった。 「久保敏明、74歳、昭和2年12月5日生まれ。永吉町の区長をしております。」 「中川太郎、大正15年9月19日生まれ。」 「横枕久次、大正10年5月8日生まれ。」 横枕さんは永吉の長老なのだそうだ。 「秋山瑞穂、昭和5年8月1日生まれ。農協の組合長をしております。」 「山本健、昭和6年8月26日生まれ。永吉町の会計をしております。」 皆さんはきちんと正座して座られ、私達の質問に身構えておられるようだった。しかし、一人の方が話し始めると皆さんで気負うことなくお話をして下さった。 「永吉の歴史ねぇ、昔とあんまり変わってなかけどねぇ。」 「戸数は増えたけどね。」 「そこに走っとるおっきな高速のあろ、それん出来る前はここのお宮はもっとこの辺にあったとばい。」と地図を指差しお宮のもとの場所を示して下さった。この大きな高速道路を建設する際民家も2、3軒移動しなければならなかったそうだ。そして民家だけでなく、田んぼも2つに割れたりし交換したりして調整を図ったらしい。その他、昔は生活用水と排水が一緒だったのが、別々になったそうだ。この高速道路と県道の工事は永吉の人々の生活に大きく影響してきたのだと思われる。永吉町には川が2つ流れていて、左を流れる方を山下川、右を流れる方を秋光川と言う。 「川の幅は変わらんけど、昔の川はくるくる曲がとったもんね。それば県道の通す時、今んごとまっすぐ川の走ようにしたと。」 県道建設の際に川もまっすぐに走るよう整備したそうだ。山下川はポンプ、秋光川は自然流水で流れている。川の水は昔から田んぼにのみ使われていた。昔飲料水は井戸からくみ上げたものを使っていたらしい。 「井戸からはどうやって水をくみ上げていたのですか?」 と聞いてみた。 「昔はモウソウダケという竹で作って、口を近づけたら溢れるくらい水ん出てきよったばい。夜は竹に水の溜まるごとして、ポタンポタン夜通し水の垂れよったとばい。」 永吉町は昔からかなり水に恵まれていたらしく、干ばつの際の対策について質問した時も、 「最近は水路の綺麗に整備されたけん、そげん水に困ることっちゃなかけどね。」 しかし、昭和12年の大干ばつは大変なものだったようだ。当時皆さんはまだ小学生くらいでいらしゃったと思われるが、 「雨乞いと言ってねぇ、背振まで行って煙を雨雲みたいに見せて火をたくとね。村中みんなで夜もたいまつを掲げて川から水を引いてきたりね。」 とその印象が今でも強く残っていて、鮮明に覚えていらっしゃるようだった。 そして‘しこな’についての質問もしました。 「永吉町のこの地図に書いてある‘あざな’の他には何か呼び方はあるんですか?」 「呼び方は、このまんまで呼びよるもんねぇ、他の呼び方っち言われてもなかよ。」 「どこかの田んぼとかを指すときもこの地図に書いてある名前で呼ばれているんですか?」 「そうそう、‘むらうえ’の田んぼて言うたら永吉ん人はみんなわかると。」 「あっ、じゃあ永吉に‘しこな’とか、‘あざな’とか地名のあだ名みたいなものはないんですか?」 「明治からこの地図の名前で呼びよるけんねぇ、他になかけど。」 調査の一番の目的であった‘しこな’がなかったので困惑していた私達に一人の方が 「何か他の呼び方ば探しよるとでしょ?でも永吉じゃこの名前で呼びよるけんねぇ....。」 とおっしゃって下さり、やはり聞き出せなかったのではなく、永吉では‘しこな’はないのだと確信できた私達は時間も迫りつつあったので、次の質問へと移ることにした。 まず、永吉の農業について、田畑では何を作ってるのかを聞いてみた。 「田んぼじゃ米ね、畑じゃ家用の野菜とかを作りよるよ。」 昔、高台では水が引けないため、水田にするのが難しいので畑にしていたそうだ。 次に戦前には何を肥料にしていたのかを聞いてみた。やはり、牛や馬のたい肥を使用していたらしい。 昔されていた害虫駆除の方法も教えて下さった。その方法というのは、竹の筒に‘くさあぶら’と言う油を入れ、それを使って田んぼの油をまき、稲の穂をたたいて虫を油の中に落とし、油にまみれた虫がやがて死ぬのを待つのだそうだ。農薬のない時代、昔の人はそうやって知恵を使って虫に対処していたのだ。 そして、共同田植えはいつまで行われていたのか聞いてみた。 「機械化されたとが、30年代。それからは、もう一人二人で田植えも終わるようになったとよね。昔はどうやったか、田植え言うたら、20人くらい雇うとったねぇ。」 「今はもう、百姓もだいぶ楽になったもんね。」 と嬉しそうに話して下さった。鳥栖は佐賀でも機械が早いうちから投入されたそうだ。 次に、牛や馬の他にはどんな動物を飼っていたのかを聞いてみた。 牛や馬は一家に1頭ずつはいて、それらが、まだ機械化されてない頃は田植えなどに使われていたらしい。そしてそれ以外には鶏や豚を飼っていたそうだ。特に鶏は縁のに飼われていたらしい。 次に農協の出来る前は、米をどうしていたのか聞いてみた。 「私んとこは酒屋にもって行きよったねぇ。」 「久留米ん方まで荷車引いて持って行ったりね。」 「仲買人の山田とかに、うどんとか素麺とかに変えてもろうたりもしたばい。」 昭和10年には農協が設立され、仲買人は昭和12年に召集され自分たちで米を売ることができるようになったそうだ。 次に家庭で食べる飯米と売る飯米の違いがあったのかを聞いてみた。売る米、それは‘ほいふまい’と呼んでいたそうである。‘ほいふまい’は、共同乾燥所に持っていき、綺麗にして出すのだそうだ。そして、自分たちの口にする米は‘ぎんめし’と呼ばれていて、それはくず米を混入したものだったそうだ。あとはその‘ぎんめし’のほかにも麦飯やいも飯も食べられていたそうだ。 「昔はもう百姓は生かさず殺さずでしょう。いい米は出してそういうのを食べよったもんねぇ。」 と苦笑いしながら語って下さいました。 「私達が子供の頃は、3杯も4杯もご飯を食べよったよ。今の子は、朝からパンになってしもうた。」 昔一家庭で180kg食べられていた米は、今その3分の1の60kgにまで減ってしまったそうだ。そして30%の減反を行い、代わりに大豆などを作っているのだそう。減反の際は補助金が国から支払われたそうである。 「遠足の時には、校長先生が日の丸弁当ば持ってきなさいって言って、みんな日の丸弁当ば持って行きよったとよ。」と懐かしそうに話して下さいました。 次に耕作に伴う慣行について尋ねてみた。 9月1日 田褒め : 自分の田んぼを褒めて、田んぼにお神酒をかける。 9月 サナボリ : 田植えの終わりに稲が育つようにとお宮に祈願に行く。 ウシオイトリ : その年毎に決められた宮に毎年行く。 10月14日 宮座 : 無事稲を収穫したお礼のための祭り お話によると永吉町では以上のような慣行をしているようだ。やはり収穫や田植えの時期に多い。今度は、永吉町の祭りについてうかがってみた。 1月1日 新年祭 : 新しい年を祝う祭り。 1月7日 ホンゲンギョ : 神様にお供えしていたもちを竹にくべて焼いていただく。焼いたもち を食べると無病息災となる。 1月14日 モグラウチ : モグラを退治するためにわらで地面をたたく。使ったわらは柿木などにかけておく。子供が家々を回ってモグラウチを行い、お菓子をもらう。 8月1日 夏越祭(ナツゴサイ) : 汚れ、疫病を罪滅するために行う祭り。萱でチノワと呼ばれる輪を作り、それを鳥居にかけ唱えながらくぐる。帰りに1本萱をもらい各家庭の玄関に飾る。そうすることで魔よけとなる。 9月15日 放生会 : 秋祭り。 以上のような祭りのほかに中秋の名月という行事もあったそうだ。皆さんの話によると中秋の名月は子供の楽しみのためではないかとのことだった。このような祭りや行事が人々の楽しみや娯楽となっていたのだろう。しかし以上のような祭りや行事の他にもまだたくさんあったそうだが、年々失われてきているそうだ。 「住民の数も減ってきとうからね。隣の姫方ではやっとう祭りも永吉ではしとらんばい。」 「他の町んとこは祭りば復興しようとしとうらしい。そうゆうのはよかことばい。」 と寂しそうにおっしゃられた。永吉町のことに限らず伝統行事がなくなることは悲しいことである。昔から行ってきた祭りをやられていた世代の方々も少なくなりこのままでは永久に失われてしまう。祭りや伝統行事は昔の人々の生活や文化、宗教が詰まったものであり、家族や地域住民とのふれあいを作ってくれる大事なものである。皆さんの話は私たちにその事に気づかせてくださった。 祭りや行事の話を聞かせていただいたので今度は永吉町にある神社―神についてうかがった。まず、永吉神社について尋ねた。すると一人の方が、 「あん神社は永吉神社じゃのうて永世神社ゆうとったそうだ。昔おれんお袋がそん話についてよう聞かせてくれとったばい。12代天皇がこん地を訪れてあそこん秋水川で休んどった時鎧の色がさあーって変わったとばい。そんため天皇は近くにあったこん神社に参拝して、こん神社がなごう世に保ちますようにっちゅう願いをこめて永世神社って付けたっちゅうことばい。」 と話してくださった。その方のお母様が昔話のように話していらっしゃったならかなり昔に名前が変わってしまったのだろう。今回持ってきた地図もやはり神社の名前は永世神社となっていた。名前が変わった理由ははっきりとは分からないそうだがたぶん何かの折に地区の名前にそろえたのではないかとのことだった。次に永吉神社の敷地内にある小さな小屋に奉られたお地蔵様についてうかがった。そのお地蔵様は私たちが公民館にたどり着くまでに3つほど見かけた。 「あんは普通のお地蔵様ばい。御大使さまって呼ばれとうよ。特別に何かあるわけじゃなか。お参りする人は春と夏のお彼岸にお参りしとうみたいばい。」 と1人の人がおっしゃると次の方が 「昔の心の拠り所だったんじゃなかね。昔はそうゆうんとしか無かったばいね。」 とおっしゃった。お地蔵様にはその土地を守るという意味だけではなくて、人々が大事にし崇めることでその人たちの精神の支えとなっていたということをはじめて知った。今は多くの宗教や価値観の多様化などにより精神の支えは人により様々なものになっているが、昔は神社やお地蔵様に心の拠り所を求めたのだろう。 祭りや神様などのお話は十分伺うことができたので、昔の生活の様子について尋ねることにした。永吉町に電気、ガスが来たのはいつか尋ねてみると、 「電気は早かよ。大正頃からじゃなかね。」 とのことだった。電気の供給は昼はこなく夜だけだったそうだが、福岡からの供給でかなり昔から来ていたらしい。使用燃料の変遷について尋ねてみると電気の無いころはランプを使用し、電気が普及した後に石油コンロが使われるようになった。石油コンロと聞いて私たちが首をかしげると、 「ポンプにこう空気ば入れて、火をおこすとばい。こうやって。」 とやり方を実際見せて下さった。ガスは来るのが遅く、昭和30年以降だったらしい。ガスはあまり使う必要が無かったので普及が遅くても支障は無かったそうだ。現在永吉町はプロパンガスを使用していて、都市ガスはまだ来ていないということだった。 次に自警団の活動が無かったか聞いてみた。するとすぐに、 「あった、あった!終戦後に米、牛泥棒対策のためにやりよった。」 とおっしゃった。皆さんの話によると、自警団は若者が交代でやっていたそうだ。また、自警団は泥棒対策のものだったが、夜小屋の中で仲間と将棋を打つのが若者の楽しみになっていたそうだ。 自警団の話から若者についての話になった。成人式も近いので昔は成人式のようなものはあったのかどうか伺うと、 「なかなか。あれは戦後からやりはじめたんじゃなかね。ああゆうのは無くてもよかよ。」 とのことだった。成人式の無いころには何か成人になるお祝いの行事が無かったのか尋ねてみた。 すると、式のような特別なことは無かったが、皆さんのお父様の時代では、子供の頃と成人してからの名前を変えていたそうだ。‘けんぞう’から‘けんたろう’というように昔の人は2つ名前を持っていたようだ。 自分の名前は1つと思っていた私たちにとっては衝撃的な話であった。 残る時間もわずかとなり隣町との交流について尋ねた。みなさんは、少し考え込んで、 「うーん。なかったんじゃなかね。交流って言うのは、他ん村の人たちとなんか行事たてて一緒にするっちゅうやつやろ?そうゆうんはなかね。」 とおっしゃった。他の方が、 「しいて言うなら子供ん頃のけんかかなあ?」 と笑いながらおっしゃった。すると周りの方もその頃のことを思い出してか、笑いながら、 「何であん時はあんなにけんかしちょったんかね。いっつもしちょったばい。」 と話してくださった。学校の帰り道に他の地区の前を通るとそれだけでけんかになったそうだ。そのため帰り道はわざと遠回りしてけんかする子の地区の前を通らないようにして帰ったりしたらしい。だから今、お孫さんたちが他の地区の子と仲良くしているのが信じられないそうだ。 最後の質問として昔の娯楽について伺うと、 「えーと、あん頃は何も無かったけんね。放生会ん時の浪花節聞くくらいかね。」 と一人の方がおっしゃると、隣の方が、 「あとは野芝居とかやなかね。ほら、畑でやっとった。」 と話してくださった。他には無いか尋ねると、 「そんいえば、とかやりおった。あん時のスイカはうまかったばい。」 と楽しそうに話してくださった。他の方も懐かしそうに頷いておられた。若者の娯楽について伺ったので次は昔の子供の遊びについて尋ねると、 「子供ん頃の遊び?そんなんたくさんあるばい。陣取り、コマ、縄跳び。」 と返ってきた。他の方も次々と遊びの名前をあげていかれた。 「竹とんぼ、夏とかはラムネの玉かねえ。あと蝉取り、鉄砲、川遊び。」 としだいに興奮してきているようだ。目を輝かせながら。楽しそうに、 「秋はパッチリなんかしとった!」 とおっしゃったので私たちがパッチリについて尋ねると、 「パッチリ知らんのか?パッチリはこうやって相手のパッチリをひっくり返せば勝ち!」 ともう子供時代に戻ったような感じでパッチリの仕方を教えて下さった。皆さんのしぐさでパッチリはメンコの事だとわかった。子供のころの遊びについて伺ったときから皆さんは嬉しそうに話して下さった。その話しぶりからどんなに子供の頃が楽しかったかが分かる。ある方が 「あん頃は金のかからん遊びが多かったし、よく遊んどった。遊ぶだけじゃなくて子供の仕事も、風呂焚きとかもちゃんとやりおった。遊びながらに仕事をしとったちゅうかね。」 とポツリとおっしゃられた。 ここでバスの時間が近くなったため皆さんとのお話を終えることとなった。昔の永吉町の様子、人々の生活、耕作など十分なほどのお話を聞かせていただいた。 私たちのたどたどしい質問にも丁寧に答えていただいき、また、質問に困ると何でも聞きなさい、とおっしゃってくださった。今回の調査の目的はしこ名の収集と昔の村の様子について調べることだったが、なによりも人生の先輩から直接お話を聞けたことが大きな収穫になったような気がする。 久保敏明さん、中川太郎さん、横枕久次さん、秋山瑞穂さん、山本健さんの皆さんにはお正月の忙しいなかありがとうございました。貴重なお話を聞けてとても感謝しています。本当にありがとうございました。 |