田代大官町現地調査レポート 調査地 佐賀県鳥栖市田代大官町 調査日 2002年1月6日(日) 調査者 L1-13 1EC01170W 渡辺花絵 L1-13 1EC01209T 小八重知予子 話者 中冨正義氏 明治38年生まれ 96歳 中冨さんは、久光製薬の元取締役相談役である。中冨さんのお宅に入ると壁一面に感 謝状などのたくさんの賞状が飾ってあり、二人で驚いていた。96歳とは思えないほど元気で、フルマラソンを70歳から始めたくらいである。しかも20年完走しているのだからとてもすごいと思った。田代大官町で一番物知りだそうで紹介された。 1、一日の行動記録 11:00 鳥栖市田代大官町に到着 昼食 12:30 鳥栖市教育委員会の久山さんと合流 13;00 中冨さん宅に到着 調査開始 16:00 中冨さん宅を出る 16:10 中冨さん宅周辺を写真に収める 調査終了 2、屋号名 サイフヤ・ワタヤ・ナニワヤ(浪花屋)・コマツヤ(小松屋)・ベニヤ(紅屋)・アブラヤ(油屋)・タバコヤ・シマヤ・サワヤ(沢屋)・センコウヤ(線香屋)・ナカムラヤ (中村屋)・タワラヤ(俵屋)ヒラカワヤ(平川屋)・上使屋・チクゴヤ(筑後屋)・キョウヤ(京屋)・ギンヤ(銀屋)・サカヤ(酒屋)・クスリヤ(薬屋)・ハコヤ(箱屋)・ アメヤ(雨屋)・ウシヤ(牛屋)・ゾウシュヤ(造酒屋)・サカナヤ(魚屋)・フロヤ (風呂屋)・西依薬屋・ヒイラギヤ(柊屋)・ 3、田代地区の歴史 戦国時代、田代地区は対馬藩に属していた。対馬藩は筑前・筑後・肥前の境界に存在していた藩である。最初は対馬藩は27000石だったらしい。また昔は、神社と寺が同じ敷地内に存在したようである。明治以降に切り離された。明治14年に近くの家から出火して、200戸ほどを焼く大火事になったようだ。現在の田代小学校に代官所があったので、そこから今の「田代大官町」という名前がつけられたそうだ。 しかし初めからその名前がついていたのではない。代官所を中心に西側を「田代下町」、東側を「田代上町」と呼ばれていた。しかし下と言う文字がどうも良くないということで、昭和29年に鳥栖市に合併された時に田代下町から田代大官町に変更されたようだ。市になるとあざ名が使えなくなるようだ。 4、店の種類 代官所のまわりに店が多く並んでいた。中冨さん家も昔は旅館を経営していたようだ。しかし旅館だったものがそのうち仕事を変えていった。 ・ナニワヤ→衣料品 ・サワヤ→呉服 ・センコウヤ→ようかん ・ヒラカワヤ→旅館 ・キョウヤ→旅館 ・ベニヤ→呉服 ・ヒイラギヤ→醤油 ・フロヤ→武蔵風呂 また薬屋が多かったようだ。薬屋の店先に縦20cm、横40cmの紙に「売薬営業」と氏名を書いたものを貼ってあった。薬売りは久留米〜熊本〜阿蘇山〜高千穂のコースで歩いていった。 5、交通手段 江戸時代は天秤を使っていたのだが、その後シャリキ(車力)と呼ばれる木製のものを使っていた。次ページに絵を描いたので参考にしてもらいたい。 6、昔の生活 ・風呂 農村地域は共同風呂を利用していたようだが、田代地区は家ごとに風呂があった。 水は井戸からつるべを使ってくんでいた。 ・トイレ 大小便は農家が肥料用に使うために取りに来ていた。一度臭いを取るために土の中 に入れて、何日か置いた後、取り出して農家にあげた。そのお礼に収穫した野菜をもらっていたのだ。 ・食料 家の裏に自給用に小さな畑を持っていて、大根、とうきび、芋、とうもろこし、人 参を育てていた。米は米屋さんで買っていた。その頃は麦ご飯や粟ご飯だった。おかずにえびの塩漬けや梅干しが出されていた。味噌、醤油は各自で作っていた。 ・正月の過ごし方 正月が近づくと、どこの家でもうすときねで餅つきをしていた。12月25日頃から行われていたようだ。栗の枝としだの葉でハシを作っていた。山に行って枝を取ってきたようだ。年が明けると、学校に集まって年賀のあいさつをしていたようだ。また「二日おこし」と呼ばれる仕事があった。それは、夜中の3時頃から夜明けまで仕事をしてその日の仕事は終わり、というものである。その他三社参りには必ず行っていた。これは現在でも残っている。1月7日頃には「ホンゲンギョウ」と呼ばれる行事を行っていた。それは、正月に飾ったしめなわや餅を焼くもので現在は1月15日頃に行われるようだ。 ・彦山参り 中冨さんも一度は行ったことがあるそうだ。「それはそれはきつかった」と言っていた。毎年1〜2月頃に彦山に登り、白装束を着て水をかぶりながら歩いていたようである。精神統一のためである。 ・土地や家 田代地区は短冊型の土地割りが多い。それは、土地税を横幅でとっていたため、税金対策らしい。家の窓は大小にかかわらず、京都にあるような格子窓だったようだ。 7、町の外観 田代大官町は昔から店が多かったせいか田んぼはあまり見られなかった。代官所跡に田代小学校がある。校門前に代官所があったことを示す看板があった。久光製薬の大きな工場があった。道路が狭い割には大きな家が多かったように思う。昔ながらの家があまり残ってなかったようだ。やはり大火事の影響かと思われる。 8、調査を終えての感想 渡辺花絵 大学に入ってから教室を出て学ぶような授業ははじめてで最初すごく戸惑った。事前に手紙を出していくわけだが、まったくの初対面で、また今回は話者が久光製薬の元会長さんと聞いていたので本人に会う前から非常に緊張していた。実際お会いしてみると、中冨さんは96歳とは思えないくらい元気なかたで、自身も私たちが質問したなかでわからないことがあると知人に電話して調べてくださったりと和やかな雰囲気のなかで話を聞くことができた。 過去にあったことから学ぶことは多いと思う。消えるがままにされている状態があるのは非常に残念なことだ。地道な作業だが、それを調査し、記録していくのは大切なことだと思う。今回、それに参加できていい経験になった。 小八重知予子 今回たまたまこのような調査に参加することになり、初めは少し戸惑いと不安が入り混じっていた。話をお伺いした中冨さんは久光製薬の元会長ということを聞きとてもびっくりしたのと同時にとても楽しみだった。中冨さん本人は96歳には本当に見えなくて私の祖父よりも元気で驚いた。しかもフルマラソン経験があると聞き、私よりも体力があるのではないかと思った。鳥栖市教育委員会の久山さんのご協力もあり、とても和やかな雰囲気で調査ができてよかった。ひとつだけ反省点があるとすれば、テープレコーダーなどの録音機を持っていけばよかったと思う。中冨さんがとても聴力の弱い方だったので、質問内容を伝えるのに苦労したけれど、様々な話をしてくださって良い調査が出来てよかったと思う。このような過去のことを記録として残す作業はとても重要だと思う。その作業に参加できてよかったと思う。 |