鳥栖市三島町田出島に関する聞き取り調査(H.14.7.6) 1ED02003R 有川 未央子 1ED02031T 城 朱美 1ED02042P 西田 さやか 当日は不動島代表の宮原鉄夫さん、田出島代表の原忠男さんからお話を伺った。この二つの集落は300メートルほどしか離れておらず昔から頻繁に行き来があったようだ。また両方の集落の東を流れる筑後川が原因の洪水にしばしば見舞われていたという生活環境も同じである。 1、 地名について 「三島」の由来:不動島、田出島、江島の総称として付けられた。 現在、三島町に含まれるのは不動島、田出島、小保里で江島は江島町として独立。 <会話> 不動島も田出島も島がつきますが本当に島だったんですか。 ―はい。昔はここは有明海じゃったけんさ。津もあるもんね。津っちゅうたら港やろうが。 ソネ岬ってある。岬やった。 海の水が引いたのはいつごろですか。 ―ちょっと掘ると貝塚が出よったから何千年も前じゃろう。 ということはその頃から田出島や不動島という地名があったんですね。すごいですね。 ―島に名前はついとったやろうと思う。 地域に住む人しか知らない地名などはありますか。 ―自分たちで勝手につけて五郎丸をマイゴって。どんな字を書くかは私も知らんです。 どうしてそんな名前が付いたかはご存知ですか。 ―ちょっと分からんです。なんせ昔からですから。明治生まれの人たちなら知っとろう。 こまい時傑作な名前を聞きよったです。「キケンギョ」っていうんです。なんか危ない ところなのかなと思いましたね。それから「ミズマシ」とか「マガリ田」とか。大水が 出よったから「ミズマシ」とか田んぼが曲がってたら「マガリ田」とね、不動島なら不 動島、田出島なら田出島の人が勝手につけたんじゃなかですかね。 どこの田んぼがそう呼ばれていたかはご存知ですか。 ―戦時中に各田んぼの呼び名が書いているものを持っていたんですが失くしてしまって。 2、農業について 5年に1回くらいの豊作しかないためお二人が幼いころは一人当り3俵を一年分の食料として確保していた。米すり(=脱穀)してから保存すると虫がつくので各農家は「もみ倉」という土蔵を造りその中に殻のついたままの米を保存した。大水(=洪水)も出なくなる8月くらいに初めて米すりを行った。 風土病と水害に長年悩まされてきた結果、昭和41年から鳥栖市による大規模な土地改良事業が行われた。田の基盤整備と河川敷の改修が主な内容である。昭和49年に完成。 <会話> 圃場整備前後の村の様子の違いを教えていただきたいのですが。 ―改善事業をするまではね、田ん中と川がつながったり、1反ぐらいの広か田ん中やら7せとか6せとかばらばらだったけれども、今は100メートル四方で全部ざっとそろって広か田んぼばっかです。私のうちも1町2反ぐらいの田んぼが昔は15枚今は3枚。 残りの田んぼはお売りになったんですか。 ―いや、一枚の面積が大きくなりましたから。小さいのをいっぺんに寄せて。それで、昔は小さいでこぼこの農道を使っていたけど、今はもう立派に舗装してね。まあ、軽トラックなんかを田んぼの中に入れて、 (驚いて思わず)軽トラックをですか? ―今はもう楽なことね。稲刈り機でもコンバインでもみんな田ん中に入れて。 それから風土病って皆さんこれ知っちょるかな。 言葉は習いましたけど・・・。 ―ミヤイリガイって。これは私がひもといたところでは1677年じゃったかな。その当時に対馬のイズハラからタジロのほうにカガさんって人が見えとるっちゃんね。この人が勤めるときにそういった風土病が初めて発見されてね。小さい頃には夏は筑後川で泳いでいた。この辺はずっとレンコン畑で蓮の花、蓮は見なすったことないかな。あれが一面に咲きよった。それで、その実が何よりの好物だったです。そのころは何もなかったから。それで沼にだぶだぶ入っていって、顕微鏡で見らんと分からんようなそれ(=ミヤイリガイ)が皮膚から入ってきて黄疸を起こして肝硬変になって腹水がたまって死んでいくばっかしですよね。(ミヤイリガイの撲滅宣言は平成2年の3月に出された。) 水車は使っていらっしゃいましたか。 ―私どもがぐるぐる回しちょったけん、夏に。ぶらさがってたったったっと車の上を走ってね。もち米2斗ですから30キロのもち米をいっぺんにつくような大きな水車もありましたが、それも大水が流してしまった。 牛や馬は飼ってましたか。 ―農耕作用にね。 蹄鉄はつけてましたか。 ―ええ、蹄鉄屋さんも幼い頃にはありました。久留米に製糸工場があってね、蚕も飼いよった。この辺りは大方蚕の桑の実畑やった。家の床をみんな板張りにして。 どうしてなくなったんですか。 ―結局これだけ人工の絹がでてきたからね。昔は着物や特攻隊のマフラー、落下傘もあれを使ってた。 先ほど耕作用に馬や牛を飼われていたというお話でしたが、そのたい肥を肥料がわりに使 われたりしたんですか。 ―はい。私の家にも馬は一頭おったです。馬も働きますから、いいものを食わせておかんと。大きな鍋で麦とばれいしょを炊いて。お不動さん(=かまど)で。12月くらいまではそれでまかなえますが、12月になると今度はわらをとって切って、それに米をついた後のもみがら、私どもはさくって呼ぶんですがそれを混ぜて食わせていました。春になると一戸あたり一反のれんげ畑を作っていました。皆さんに言うてもよかかな・・・。アヘン戦争が始まったときは日本政府が奨励してね、うちでもケシの花を作っとった。真っ白な花で、背丈は150センチぐらいになって。実がなると、金網で作った歯ブラシのような形の刃で夕方傷をつけて、翌朝溜まったヤニを集めて乾燥させて、竹の葉に包んで。 3、 大水(=洪水について) 大水を経験されたことはありますか。 ―筑後川の堤防が切れてね。鹿児島線が今走りようが、あれが全部流されてですね。線路が橋ごとぶら下がりようて。 いつの話ですか。 ―昭和28年。28年の6月、家も何軒か流れた。全部江島っちゅう部落までいったもんね。浮羽郡とか近くに材木の町があったもんで大きな材木がどんどん流れてきて。 水害の範囲ってどれくらいだったんですか。 ―んにゃもう、ダーって全部。屋根しか分からんくらい。リュックサックに米いろうて線路沿いを歩いて駅まで行って。 そのときはどこに避難されたんですか。 ―江島のほうに。(宮原さん宅の近くに)自衛隊が水陸両用の船をもってそこからみんなは高台に避難して。土間になんか取り行ったら床上3尺まで水があって、もう背がとどかんですよ。 昭和28年の大水を経験したことで何か施設など工夫されたことはありますか。 ―そうね、特にはちょっと・・・。立地条件が限られてるからね。沼川に察知機が出来たのと筑後川に排斥場ができたくらいですかね。ちょうどあの鹿児島線の鉄橋からだいたい500メートルくらいに大きな鉄筋の建物があっていわゆる大水のときに水を筑後川のほうに動力でもってこっちの水をひかせる装置があるわけです。 それから大水の被害は減りましたか。 ―だいたい今ではもう大水はでらんですね。 それほど水害がひどいのに移動などなくこの場に部落があり続けていることが不思議に思えるのですが。 ―・・・・その点は私なりに思うのは、昔からいわゆる土着民の根性ちゅうかね。 ―先祖からの土地を離れるっていうことは度胸のいることで、あなた達は簡単に出て行こうかということになるけど、そういうことが出来にくい時代だったね。結局日本の村っていうものは村の領分が決まっとるからですね、領分から出てよそに行くっていうのは意識の上でそれを捨てていくことになる。それからよその村に入るということは大変なことなんです。(教育委員会の石橋さん・談) 4、 生活について 1) 住宅 金持ちは2階建てを建て、不動島には宮原さんが幼いころ3,4件建っていた。だいたいはわらぶきの屋根で瓦はわずかだった。また、一階で生活し二階はたきものを保存していた。 2) たきもの 仕事のない冬場(1月〜3月)に自分の山に行き、切り出してシイタケ栽培のように向かい合わせにして並べ、春(4月くらい)にだいぶ枯れてから稲枝棒で家まで運んできていた。2階からおろした綱に結びつけ引き上げていた。一日一把が標準的な使用量。 3) 商業 買い物はお二人が幼い頃からだいたい久留米で済ませる。生活圏は昔から同じ佐賀県内の鳥栖ではなく久留米だった。行商もそこからやってきていた。塩鯨や塩鰯などの保存食を竹で編んだかごに入れ大きなリヤカーに乗せてやってくる干物屋や何でも屋のようなものなどで、昭和30年頃まで来ていた。店は原さんの祖母のあたる方がされていたものと、鹿児島線よりに『しぶや』という大きな店の2件があった。 4) もやい風呂 原さんのお宅に原さんが7歳の頃まであった。 5) 神事 不動島地区は大水防止のためではなく台風防止のために、暦の上で立春から210日経った9月1日に、風の神様であるアヤベ神社まで願掛けに行った。現在もこの風習は残っており、麻で織った旗状の布が竹に巻き付けば台風が来ると言われていた。その占いのようなものが終わると公民館に戻って来て子供相撲をする。 6) 食料 生魚はお二人が幼い頃に食べた覚えがなく、刺身といっても近くでとれる鮒や鯉だった。犬の肉は(お二人は食べたことはないが)福岡県の屠殺場で分けてもらえた。 7) 動植物 昭和48年の基盤整備で埋め立てが行われ絶滅した生物はミヤイリガイ。他にもたにし、どじょう、フナ、れんこん、柳、トモナエも姿を消した。 8) 部落 戸数は昔からほとんど変わりなく、田出島・30戸、不動島・30戸、小保里・40戸。嫁のやりとりは『上女に下男』『下女に上男』という昔からある言葉どうりに行われていた。また、仲人を務める庄屋が自分の勢力範囲の拡大を狙って選んだりもしていた。 同集落内で同じ苗字の方が多いのは、やはり昔から出入りが少ないから。田出島と不動島の同じ苗字の方たちは先祖をたどれば同じである。 5、 戦争について <会話> 戦争はこの村にどのような影響を与えましたか。 ―久留米の鉄橋にだいぶ爆弾が落とされよった。 交通の要所だからですか。 ―もう少し掘り下げて聞きたいですか。そんなら私の経験談になりますが。当時学校に行くには条件が高かですからね。それで昭和19年、ちょうど私が高等の3年生だったとき。忘れもせんが9月1日、長崎のオオムラに第21海軍航空省があったんで、そこに行ったら勉強はせんでいいし、遊び半分で勇んで行った。着いた日はオオムラの海岸からプロペラがどんどん飛んで『あー、やっぱりけっこうだな』と思って。一日目は良かったです。 それは志願されたんですか。 ―いや、学校からの動員。佐賀県では私の鳥栖高校と沼津、武雄温泉のある武雄中学、カシマ中学、アベ中学とか、全部で7校くらい行った。私達は第2飛行機部いうてね、皆さん方もよう知っとっちゃでしょ、ゼロ戦いうてね、それを作る工場ですね。とにかく食べ物がないものです。ひもじかったもんでね、昭和20年の7月におふくろがトン豆を送ってきた。それをパリパリ食べて水を飲んで。水道の生水を飲んだら2日目辺りには赤痢を患った。 食事は出なかったんですか。 ―食事は出とりますけれども麦ご飯一杯でね。食事係に行くのが楽しみやったです。というのも10人くらいがいっせいにおってね、その中で食事当番というのが毎日毎日変わる。それで大きな容器に入ったご飯とおつゆを皆についで回る。自分のとこには山盛りにしよってね。(一同大笑い)ご飯なんかは箸で押さえつけてね。食べる前に海軍の仕官、今で言う自衛隊さんのような人がね、ちょっと来て『はい、一度起立。右向けー、右。3歩前進。』言うて。自分のいっぱい入れたのに当たらんように。もう情けなかったです。オオムラから家まで門司港行きの夜行列車に乗ってご飯食べに行きよった。 何時間くらいかかるんですか。 ―11時くらいの夜行に乗って鳥栖に朝の4時ちょっと過ぎに着いて。話は戻るけれども、赤痢になった時海軍病院に入院して、あの当時は海軍病院で外出証明をもらうと家に帰ってもよかったからね。海軍病院の手前にちょっとした食堂があって、残飯で作った駄菓子みたいなのが1個5銭やった。ひもじかったもんで、11時頃だったか買うつもりでおった。その時ピカーッて光ってちょっとしてドーンッて、いなびかりみたいなんと原爆の煙が上がってくるのが見えた。原爆を直に見たというのはあまり人にしゃべらないんですが・・・。それでその晩に諫早にトランクを取りに行ったんですが、トランクを持たずにすぐ家に帰って。その時に死体とか黒い黒いまだ半分生きちゃる人とか荷台車にばーっと乗せてあって、もう人間かなんかわからん。 既に広島に原爆が落ちていたのはご存知でしたか。 ―はい。広島は6日やったかな。 同じものだというのはわかったんですか。 ―それはわからんやった。風船爆弾って言いよったもんね。 この辺りに影響はなかったんですか。 ―あんまり知らんね。私はそんなわけで一人早めに戻ってきとって、友達はみんな14日 くらいに帰ってきた。まあ、一番びっくりしたのは昭和19年の9月25日に航空省にB29の来ること来ること。爆弾がね。その前の23日に熊本のミフネっちゅうとこから中学生が100人くらい来とった。その方たちが運の悪かったですね。たった2日目の25日に十何人亡くなって。 終戦後はどのような生活でしたか。 ―物々交換ですね。当時私んちはソラマメを作っとったですが、中がふわふわでソラマメの格好があるかないか言うくらいのを、『これを分けてください。』って。実も入ってないのにどうするか聞いたら『ご飯に混ぜて食べるから。』って。かぼちゃなんかもへちまかぼちゃ言うて、あんまりおいしゅうなかったですがそれでも換えてくださいってきてましたね。久留米の行商よりここの辺りの農家のほうが潤いがあったように思います。 お二人とも終始丁寧に説明してくださった。資料とは別の字名はあまり聞けなかったが 、それを介さなくても村の生活の様子を細部まで聞くことが出来たと思う。またお二人の家族のことや戦争のことを初対面の我々に気兼ねなくお話してくださったことにも感謝したいと思う。学校外にも『先生』がいることを実感できた一日だった。調査のお世話をして下さった教育委員会の方々、調査に協力してくださった原さん、宮原さん、本当にありがとうございました。 |