1ED01027T 富岡 美香
お世話になった方々1LT01110S 針原 和江 遠藤修造(大正15年8月30日生まれ) 伊藤国雄(昭和2年3月30日生まれ) 松雪生夫(昭和4年4月25日生まれ) 松雪哲二(昭和7年11月21日生まれ) 西依貴夫(昭和11年4月13日生まれ) 10時40分頃、酒井東町に到着し、住宅地図をもとに公民館を目指した。六本松図書館にあった住宅地図は1997年度版であり、農事研修施設と記載されている位置に公民館はあった。時間に余裕があったので、迷わない程度にあたりを散策してみた。後で町民の方々との話にも出てくるが、酒井小学校跡の石碑や宝万宮(その敷地内に老人クラブ会館がある)を見つけた。公民館に戻り、腰を下ろしていると、西依貴夫さんがいらっしゃった。 「あんたたちが中学生ね?」 「えっ九州大学のものなんですが…。」 「中学生って聞いとったばってん。12時過ぎ頃に来るごと言われとったけどね…。鍵もなんも持ってこんかったばい。」 「すいません。私たちが早く来すぎてしまって。」 西依さんはいつの間にかいなくなる。しばらくして再び登場。 「やっぱあんたたちやったばい。(笑)」 「あ、よかった。今日はよろしくお願いします。」 「どうぞ〜。」 「失礼します。」 公民館は2階建てで普通の民家のようだった。1階の台所の隣にある畳の部屋に通された。大きな台(テーブル)が2つと座布団が並べられていた。あたふたしていると、「お客さんは上座たい。(笑)」と言われてしまった。しばらくすると、町民の方々がぞくぞくといらっしゃった。男性が5人と、女性が1人だった。女性の方はお手伝いに来てくださったみたいで、名前を伺うことができなかった。 12時45分頃より質問を開始。(雑談から流れるように) 「硬い挨拶はなしでよかたい。」みんなで笑う。 「あんたたちは何を調べにきたのね?」 「えっとですね、この町のしこ名などをお聞きしたり…」 「しこなぁ!?なんねそれ?」 あたふた「土地とか田んぼとか橋とかについた通称というか、呼び名なんですが、そういうのはないんですかね?」 広げていた地図を眺めて、「昔の呼び名ならここに書いてるやなかと?」 「田んぼひとつずつの呼び名とかいうもっと細かい名前はないんですかね?」 「う〜ん、これより細かい名前っちゅうのはなかねぇ。」 「昔はよう細かのがあったやろう。」 「う〜ん三十六はなかごとなったね。」 「あっそういうのを教えていただきたいんです!」お互いに話し出す。(内輪話?)どうやら昔の呼び名を記録した資料は処分してしまったみたいだ。力の強かもんが燃やした、燃やしたがまし言うて燃やした、などとおっしゃっていたが詳しくは伺えなかった。 「隣町との境を教えてください。」 「これが県境たい、ずーっとね。」 「東川口は高速道路の向こう側も入るとよ。昔は田んぼもしよったばってん、今は耕作者がおらんとよ。」再び内輪話。人によって、知識が違っていて、もめているようだった。 「昔は東川口あたりは、4年に1回ずつ福岡と佐賀の県境の検討をしとったよ。」 「道路の向こうに1町ばかり残っとうもんね。」 地図を見ながら、「三太郎はここじゃなかよ〜。」 「あっそうなんですか!?」 「長市のとこたい。秋光川の堤防がまだ小さくて田んぼのあったったい。」 「ここも三太郎じゃなかと?(地図に書いてある三太郎を指差して)三太郎は2つあったとやもん。わたしんが(おそらく伊藤国雄さん)と○○ちゃんちとあったとよ。」またまた内輪話始まる。あぁそうたいなどと言いながら思い出しているみたいだった。町の境はできた。 「それからですね、これは地域の字名を書き上げた明治頃の一覧なんですが、今使っているものと同じですか?」 「いや、今は使っとらんよ。これは昔の名前やけん。」 「ここにない地名とかはありますか?」 「えーっとね、八の坪とか九の坪ちゅうのがあったよ。呼び名が2つあるところもあるっちゃん。」 「たとえば?」 「横枕ば桜町っても言いよったよ。」 「ほかにはないですか?」 「あとは、'ムランウエ'とか、けどそいは正式な名前じゃなくって家のもんにどこに出かけてくるけんて分かるようにするためのもんやもん。」 「あ、そういう家族の間だけで使うような名前を教えていただけるとうれしいんですが…」 「けどそれは正式な名前じゃなかけん、言われんたい。(笑)」みんなで笑う(なぜか分からなかったが)。 何度もたずねるうちに、だんだん教えてくださった。 「うちんどまー'カワンムコウ'に行ってくるけんて言えば、分かりよった。」 「'カワンムコウ'?」 「そうそう。」 「どのあたりですか?」 「'カワンムコウ'は東川口あたりたい。」 「ほかにはありますか?」 「'ムランウエ'とか'シモダ'とか'ナイダ'ってもあった。」 「それは田んぼの名前ですか?」 「田んぼん名前っちゅうか1枚1枚のじゃなくて、その界隈を区切って名づけたったい。 」 「'ムランウエ'っていうのはどこですか?」 「横枕かな。」 「'シモダ'は?」 「東大坪。」 「'ナイダ'は?」 「瘤町たい。」 「ほかはないですか?」 「あとは名前っていうか、共乾の下ん田とか、お宮ん東ん田とか言うね。」 「地図でいうとどこですかね?」 「えーっと・・こん地図はわかりにくかけん、持ってきたとば出すけん。」田んぼの所有者が記載してある地図を持ってきてくれて、場所を教えてくれた。 「この地図はいただいてもいいですか?」 「あ、よかよ。」 「お宮っていうのは何ですか?」 「宝万宮たい。」 「あ、それさっき行きましたよ。」 「え〜あと橋には名前ついてますか?」 「橋!?橋は上ん橋と中ん橋と下ん橋たいね。」 「上ん橋は動かせん橋とか言いよったね。」動かせん橋と名づけられた由来について盛り上がる。個人名が多く出てきて記録できなかった。 「下ん橋は壊れかけとるけん、修理せんばなかと?」またまた内輪話。 「中ん橋は酒井東のはいるとね?」 「西町じゃなかと?」 「東町と西町と半分半分たい。(笑)」 「用水の名前も教えてください。」 「用水はね、今はポンプでくみ上げよるけんねぇ。ポンプ場は瘤町ポンプと第2ポンプがあるとたい。」 「どこからくみ上げているのですか?」 「水屋たいね。」水屋は宝満川下流にある地域。 「池はありますか?」 「池はなか。」 「で次は、屋号はついていましたか?」 「屋号はあるよ、えっとねぇ〜(地図を指しながら)げた屋、材木屋、庄屋敷、傘屋たいね。」 「早苗んとこは本家やろ?」 「あー」 「船津さんとこは、オックて言いよったかな。」 「厚己さんとこはフロヤンマエって言いよった。」 「あー、共同風呂のあったもんねー。 「ここらへんにも、もう一つあったやろ。」ここから風呂話で盛り上がる。 「一年中ただ風呂たい。」 「共同って混浴よ。」にやり。 「混浴だったんですか!?」 「花嫁さんは最初恥じらいよったもんねぇ。」みんなで笑う。 「町に2つもあったんですね。」 「組に一戸ずつあったもん。」 「組?」 「となり組のことたい。」 「あ〜(納得)」 「北小路とか南小路とか赤川とかって分かれとって、一戸ずつあったったい。」さらに風呂話で盛り上がる。 「風呂屋に貼っとった新聞でいろいろ知りよったもんねー。」 「そうそう。」あまりに楽しそうだったので、次へ進むのが気後れしたが・・。 「えっと・・次に道路に名前はついてましたか?」 「町の中にある道ば、ムラナカって言うばってん、それひとつしかなかとよ。」 「公民館の前の道さ。」 「あーここですね!」 「じゃ次は、さっきポンプの話がでてきましたが、50年前も同じでしたか?」 「50年前?」 「50年前は蓮春川(ベンバルガワ)から引きよったね。」 「ベンバルガワってどういう字ですか?」 「蓮に春たい。」 「ここ辺りはベンバルって読むばってん、上の方ではハスハルガワって読むとよ。」 「水の量は潤沢でしたか?天候によって違ったりとか、思う存分とれなくて水争いしたりしたんですか?」 「ケンカはいつもしよったね。水喧嘩よ。」 「水利権のきびしゅうて、勝手なことできんやったばってん。」 「へぇ〜。」 「水争いはどことしていたんですか?」 「酒井西町とたい。」 「ようケンカしよったぁ。」 「ひとつ井堰のあったとばってん西町がいらんつってつぶしたもんね。」 「じゃあ、水を分けるうえでルールとかあったんですか?」 「あーあったよ。水かけさん、ちゅう世話人のおって水の調整したりしよったよ。」 「今でもポンプのモーターの馬力数が決まっとって、いくらとってよかいう量は決まっとるったい。」 「旱魃とかはなかったんですかね?」 「あったねぇ。ポンプのまだなかったときは川の水の干上がるまで採りよった年もあった。せぼり、ちゅうて川の底ばほってそこに水ばためたりしよった。」 「平成7年に旱魃はあったんですか?」 「ん?いつね?」 「平成7年だから今から7年前くらいですかね。」 「もうポンプやったけん、あんまり関係なか。」 「雨乞いはしてたんですか?」 「しとったよ。昭和11年頃、村中のもんがクセンブ山ば登ってお経をあげたとよ。」 「村んもんが薪ば持っていって燃やしよった。」 「台風予防の神事とかはなかったんですか?」 「それはなかね。今んごといつ台風がくるかとかわからんやったけんね。」 「17,19号台風はひどかったねぇ。立て続けに来たけん被害のひどくなったとやもんね。」 「あと水害はひどかったねぇ。特に昭和28年の大水害がなぁ。」水害話で盛り上がる。水害の記録も持ってきてくれ、コピーもしてくださった。なぜかそこにいる全員に配り、「私たちも勉強せんばいかんんばい(笑)」とおしゃっていた。 「こげな水害のあったけん、堤防もできて、整地もされたとよ。」 「あぁそうだったんですかー。えー次は用水路の中にはどんな生き物がいたんですか?」 「昔ね?今ね?」 「あ、両方お願いします。」 「フナ、コイ、ナマズ、っておったね。ザリガニはおらんごとなったばってん、今でん、フナとかコイはあがってくるよ。」 「ザリガニはよう食べよったぁ。イセエビの代わりやったもん。」 「田んぼの中にはどんな生き物がいるんですか?」 「昔はアマガエル、ドジョウ、コブナがおったね。」 「今はどうなんですか?」 「今はジャンボタニシったい!」 「えっ?」 「ジャンボタニシ、大きかタニシよ!葉っぱを食ってしまうとよ。」 「駆除には50万くらいかかるっちゃんね〜。」薬が大変だとみんな嘆く。 「後、マイマイとか魚も出てきたねぇ。」 「川にはどんな生き物がいたんですか?」 「川はもう、筑後川の風土病でここは有名やけんね。」 「えっ?風土病って何ですか?」 「貝の中に虫がおってー、それが皮膚から肝臓に入ってやられてしまうったい。」 「え〜!?」おびえる。 「久留米医大から年に2回調べに来とったとよ。」 「今はもう大丈夫なんですか?」 「今はもうおらんよ。全滅した。コンクリートになってから環境がよくなったけんね。」 「そうですかー。」安心。 「じゃあ次は、麦の作れる田と、作れない田はありますか?」 「いやぁ、たいてい作れるとよ。」 「それじゃあ、村の一等田はどこで、反当り何俵くらいとれたんですか?」 「いいとこで、8,7俵、次が6俵、悪いとこで5俵くらいかねー。」 「どこが一等田とかいうことはなかねー。たいてい穫れとったけんね。」 「東川口んとこと、シモダは、税金が安いけんランクBで、後はみんなまともに払っとったけんランクAたい。」 「昔はこの辺はみんな小作が多かったとよ。」 「昔はどんな肥料を使ってたんですか?」 「種油とか、かすとかやねぇ。」 「今は?」 「今は化学肥料よ。」 「稲の病気にはどんなものがあったんですか?」 「虫がついたりねー、あとは枯葉病、白葉病ったいね。」 「じゃあどうやって害虫を駆除したんですか?」 「油をたらしてほうきで稲を掃いよった。虫が水に落ちて、油にからまって飛べなくなるけん、そこを捕まえるとよ。」 「あとね、苗田に明かりを立ててたら、ガがよってくるっちゃんね。そしたら田の虫取りをしてくれるばってん、苗に卵を生むけん苗を取って持っていってしまうったい。」 「あ〜あと、田んぼにゃイナゴがおったねー。」 「でもイナゴは駆除せんで食べてたとよー。戦時中、つくだ煮にしてね。」 「タニシも食べよったなぁ。」田んぼの話でかなり盛り上がる。そのままの流れで、3時くらいに休憩することに。お菓子をいただきながら、世間話で盛り上がる。皆さん昼間だというのにビールを飲み始める。大変陽気な方々ばかりで本当に楽しかった。「あんたたちも飲まんね?」と勧められて大爆笑してしまった。ゆっくり話をしていたかったが、時間が押し迫っていることに気づき質問を再開する。 「共同作業はありましたか?それはユイと言いましたか?カセイと言いましたか?」 「ユイ?そんがんことは言いよらんで、普通に共同作業って言いよったよ。」 「田植えは共同作業だったんですか?」 「そうねぇ農薬散布とか収穫なんかだいたいみんなでしよった。」 「田植えの季節になれば、人ば雇ってしよったね。一週間ぐらい泊まりこみでそん人たちの食事の世話からなんからしてやりよったよ。」 「毎年機材ば買い替えたほうが安くつくぐらいお金んかかりよったもんね。」 「田植えの時期にゃあ、家に誰もおらんけん電話のつながらんかったんよ。」 「地ならしが特に大変やった。」 「お手伝いの早乙女は来ましたか?」 「早乙女?」皆さんクスクス笑う。その場の空気を読んでの憶測であるが、早乙女という言葉は全く使われないようである。 「若い女の人はあんまり手伝いのは来んで、おばさんたちが来よったよ。」 「さなぶり(さなぼり)はありましたか?」 「さなぼりって言いよったばってん、あったよ。」 「祝いっちゅうか、田植えの終わったあとの休みたい。」 「飼っていたのは牛ですか?馬ですか?」 「どっちかひとつやったばってん、田の多いとこは両方飼っとったね。」 「餌はどこから運んだんですか?」 「自分ちの草か麦ばやりよった。」 「米ぬかに水ば入れて飲ませたりもしよったね。馬は田んぼに入るのば嫌いよったよぉ。行きはゆっくり歩くばってん帰りはさっさ一人で行きよった。」 「草切山はありましたか?」 「山はなかよ。」 「薪はどうやって手に入れましたか?」 「麦わらば使いよった。冬場に山に行って取ってきよった。」 「クセンブ山にねぇ。雑木林ば買ってから一年分蓄えよったとよ。」 「入り会い山はありましたか?」 「あったよ。基里の山よ。」 「そこでどんな作業をしていたんですか?」 「櫓ば建てたよ。」 「櫓?」 「ヒノミ櫓たい。」 「山を焼くことはありましたか?」 「なかね。川の堤防は焼きよったばってん。」 「昔の暖房具って何だったんですか?」 「火鉢とか湯たんぽたいね。」 「炭はどこで手に入れていましたか?」 「木炭は高価で買いきれんかったけん、もみがらば炭の代わりに使いよったよ。」 「馬は毎日洗っていましたか?」 「夏だけ毎日洗っとたね。」 「どこで洗っていたんですか?」 「大木川か秋水川よ。昔は川に下りられよったけん」 「馬に蹄鉄はしていましたか?」 「テイテツってなんね?」 「馬のヒズメにつけるやつです、鉄の。」 「あぁ〜。しとったよ。馬車ば引くとき、せんと歩かれんけんね。」 「馬の病気はどんなものがあるんですか?」 「センツウって食べ過ぎたらなるとのあったよ。まぁフン詰まりたいね。今から働かすけん力つけるためにいっぱい食べさせたりなんかすると、すぐなりよったよ。」 「他にもあったやろうばってん、専門的なことはわからんもんねぇ。」 「牛を歩かせたり、鋤をひかせるときのかけ声はなんですか?」 「ドウドウって止めよった。あとヘセへセは左にやるとき。」これは馬の場合のようである。 「牛にはなんと言ってたんですか?」 「止まれはワーワーで、左にやるときがサーサー、サーサーって言いよった。牛にはワラジばはかせとったよ。」皆さん楽しそうに話してくださった。 「馬も牛も作業の終わって夕方帰るころには自分でさっささっさ帰っていきよったばい。」 「ちゃんとわっかとるとやもんね。」 「どうやって手綱は操作しましたか?1本でしたか?2本でしたか?」 「馬車ば引かせるときは2本で、普段は一本やったねぇ。牛も1本やった。」 「松雪清さんは馬の扱いの上手かったもんねぇ。ほんにねぇ。でも機械だけは苦手やったねぇ。」清さんの話で盛り上がる。 「ごって牛をおとなしくさせるためにはどうしましたか?」皆さん笑う。 「叩きよった!あとは運動ばよけいにさせて、弱らせよったよ。」 「砂浜で走らせたりねぇ。足の砂にとられるけんすぐ疲れるっさ。」 「馬洗いはあるのにどうして牛洗いはないんですか?」 「ん?牛も洗いよったよ。」 「あら、そうなんですか。」 「米の保存方法を教えてください。」 「かめに入れよった。8俵も入るおっきかかめにね。備前のかめたい。」 「そんなに入るんですか!?すごいですね。」 「ひょうりょう米はどうしましたか?」 「それもかめよ。かめは息ばするけん米の質の変わらんとよ。夏は涼しくて冬は暖かくしてくれるとよ。」 「今はガンガンに入れると。」 「ガンガン?」 「ブリキでできた大きか缶のことたい。」 「ネズミ対策は何ですか?」 「クロロピクリンを閉めきった部屋に置いておくと。」 「けど、それは業務用たい。一般家庭ではネズミ捕りよ。」 「ネズミ捕りっていう籠んごとあるとば置いとくとよ。」 「米作りの楽しみとか、苦しみは何ですか?」この質問が滑稽だったようで、皆さん吹きだした感じだった。 「楽しみちゅうか、籾すきのときによけぇ収穫のあれば嬉かばってん。小作やけん米作らんと収入のなかったけんねぇ。生活のかかっとるけん楽しみとか苦しみとかはねぇ・・・。」 「車社会になる前の道はどの道でしたか?」 「田んぼ道ばっかりよ。今は市道になっとるばってん、今も昔もだいたいおんなじ田んぼ道たい。」 「県道通るより農道とおって鳥栖の方まで行きよったもんね。」 「村には外からどんな人が来ましたか?行商人とか魚売りとか。」 「鳥栖とか久留米あたりから来よったね。」 「果物やら魚やらば自転車で背中にからって来よったよ。」 「塩鯨がうまかったぁ。よう食べよったばい。塩いわしもあったね。」 「川原やお宮の境内に野宿しながら箕を直したり、箕を売りに来る人をみたことがありますか?」 「あるある。来よったね。」 「箕ってなんですか?」 「箕ってね、選別する農具たい。」 「あ、唐箕って教科書で見たことがあります。」 「そうそうそれたい。」 「えっと次に、米と麦と混ぜたりしましたか?」 「しよったしよった。」 「何対何くらいですかね?」 「う〜んえっとねぇ、麦飯はぁ8:2とか7:3やったやろか。」 「どっちが7ですか?」 「多かほうが米よ。」麦のほうが割合が多いかと思っていたので少し驚いた。 「麦はねオオムギとかハダカムギば混ぜよった。」 「自給できるおかずと自給できないおかずはなんですか?」 「自給できるのは野菜よ。」 「それは今もですか?」 「昔も今も同じっくさっ!」 「あと〜昔は、フナをくしに刺して焼いて天日干しにして食べたりしたね。」 「ナマズもおいしかったね〜。」 「それじゃあ、お菓子はどんなものがありましたか?」 「昔は、フナヤキっちゅて、小麦粉を水で溶かして黒砂糖とか味噌を入れたホットケーキみたいのを食べよった。」 「あとポンポン菓子とか〜、ヤキゴメとかコウバシとかいう種籾を焼いたのも食べよったね〜。」 「それはもう、今は薬を入れるから食べれんとよ〜。」 「干し柿の作り方を教えてください。」 「干し柿はぁ皮むいて干すったい。」 「しぶぬきせんばけんね。」 「食べられる野草はありましたか?」 「イゲノメにゲジゲジにクワノミに〜サクランボなんかば食べよったねぇ。」 「あとアマネとかズバナもあったばい。」 「イゲノメって何ですか?」 「バラの新芽たい。塩ばつけて食べよった。」 「結婚前の若者たちが集まる宿とか青年クラブはありましたか?」 「う〜ん何やろうかね?青年クラブはなかったとやなかと?」 「青年団はあったばってんねぇ。演芸会のありよった。」青年団の話に盛り上がっていらした。 「力石はありましたか?」 「あったよぉ。ゆきおさんがこんがんでっかか65キロくらいあるとば持ち上げよったもんねぇ。すごかったばい。」 「・・・干し柿とかすいかとか盗ったりしたんですか?」少しこの質問をするのは気がひけたが、皆さん爆笑してくださって安心した。 「はっはっはそれはしょっちゅうやったよ。」話が盛り上がりそうになったので、先に進めるのをためらっていると、松雪生夫さんが質問の書いた紙を手にとって続きをやり始めてくださった。以下質問はすべて松雪さんが読み上げてくださることになってしまった。 「えっと犬を捕まえてすき焼きやなべにしたことはありますか?はね」 「犬ねぇたま〜に食べよったよ。赤犬がおいしかったね。」 「犬はどうしたら捕まりますか?」 「金の輪ば首にひっかけてピュッてひくとよ。」 「よばいは盛んでしたか?よその村から来る青年とけんかをしたりは?」私たちの左手に座っていらしゃった遠藤修造さんが、 「17歳のときにしよったなぁ。おもしろかったねぇ。」よばいの話で盛り上がる。 「ケンカもようしよったばい。石投げたりしよった。」 「恋愛は普通でしたか?」 「ふつうって普通が何かわかりませんね・・・。」 「あー。演芸会でやなー。」 「はい次はー、盆踊りや祭りは楽しみでしたか?祭りはいつ?」 「盆踊りはあんまりなかったばってん。祭りはお宮の祭りとか獅子舞やねぇ。春と秋におりよった。」 「農地改革前の小作制度はどのようなものでしたか?」 「上納米やねー。2升ぐらい納めよったよ。」 「格差のようなものはありましたか?」 「取れることと取れんとこの差はあったばってん。田の質によるたいね。」 「うーん、あんまり変わらんよ。」 「祭りの参加、運営は平等でしたか?」 「青年団が主たい。運営は平等くさっ。」 「年に1・2回ありよったね。」 「そんときに犬の肉ば別の肉に混ぜて食べよったよ。」 「犬ば食べるとは青年団だけたい。女は食べんもんねー。」 「四月の入団式んとき食べよったねー。」 「戦争はこの村にどのような影響を与えましたか?戦争未亡人や靖国の母は?」 「靖国の母っていうとは独身で戦死した子の母親っちゅう意味やろうかね?」 「あーそうやろぉ。」 「何人ぐらい戦死したとやろかねー。」個人名を出しながら人数を数え始める。皆さん真剣な表情だった。 「15名戦死して、ほとんど独身やったとやなかと?」 「うーん」人数を確認したあと 「おおかた8名たい。」 「村は変わってきましたか。これからどうなっていくのでしょうか?」 「これからねー。もう田んぼも人に委託することが多くなるやろねぇ。今でもそがんしてサラリーマンしとる人もおるし。」 「おいげんとこも絶対百姓はせんて言いよる。」 「あー後継者がいないんですね。」 「質問はここまでで終わりです。ありがとうございました。」 「もうよかとね?他にはなかと?」 「はい、どうもありがとうございました。」終了したのは4時15分であった。「もう行かんばとたい?世間話もできんねー。」とか「また来てください。」とおっしゃってくださり、とてもうれしかったのを覚えている。後ろ髪をひかれる思いで最後にお礼を言い、急いでもと来た道を帰った。中の橋を渡るときいろいろな話をうかがったあとだったからか、行きよりも心なしか踏みしめて渡った。 最後になりましたが、私たちのつたない説明や質問に大変詳しく答えていただいて、ありがとうございました。また、録音つきウォークマンがなかったためにレポートに記録した方言などや省略してしまった会話など若干実際とは異なる点があることを、この場をかりてお詫び申し上げます。 田畑:横枕のうちに―ムランウエ 芥子苅のうちに―キョウカンノシタンタ(共乾の下ん田)、ナイダ 東川口のうちに―ヨシタケ、カワンムコウンタ(川ん向こうん田) ハタチのうちに―オミヤンヒガシンタ(お宮ん東ん田)、ハチノツボ(八の坪) ハキヤのうちに―キュウノツボ(九の坪) 南北小路のうちに―サンジュウロク(三十六) 長市のうちに―シモダ、サンタロウ(三太郎) 三太郎のうちに―ナイダ 瘤町のうちに―ナイダ 西川口のうちに―ナイダ 宅地:三太郎のうちに―ウシダンチ(牛団地) 横枕の別名:横枕のうちに―サクラマチ 橋:柳原(酒井西町)のうちに―ウゴカセンハシ(動かせん橋) 道:村中と南北小路の境―ムラナカ |