1ED02026P 古賀千尋 1LT02048N 久我裕美子 1LT02008T 石井千鶴 【大水と渇水】 大水: 豊満川〔ホウマンガワ〕、新豊満川(旧筑後川)、大木川〔ダイギガワ〕という3つの川に囲まれた水屋町は毎年大水に襲われてきました。大石さんがおっしゃったことばですが、水屋の歴史はまさに「水との戦いの歴史」なのです。毎年1回は家の1階部分がつかるほどの大水に見舞われ、年に数回くる膝上までぐらいの大水は、大水の数に入らないそうです。今までに最も被害の大きかったのは明治26年と昭和28年の大水です。特に昭和28年次には大石さんと塚本さんは30代。地元の青年団として活動されていたそうで、当時の惨状をよく覚えていらっしゃいました。 「あのね、大水が入るじゃんね、大水がこの程度(と手を顔のあたりにかざす)まできて、これからあの堤防の上までまっすぐ水になってしもうた。久留米のね、あの高専のところにね、コモンノバシちゅうてあったと。そこに大水見物に行った人が20人ばっかいそのまま流れたったい。(塚本さん)」 ひとたび大水が町を襲えば作物も、家財道具もすべて流されてしまいます。しかし水屋の人々は様々な工夫と知恵を使って大水と戦いました。 <家地盛り〔ヤジモリ〕> 畑の土と川砂で家の土台を高めて大水に備えました。高さ1?1.5m。 <水屋〔ミズヤ〕> 家地盛りの上に立てられた、2階建ての倉庫兼避難場所です。1階は米倉(高さ2m)、2階は板張り(2間か3間)。たいてい敷地の北面の隅にあります。現在、水屋のある家は一軒しか残っていないそうです。 <屋敷森> 洪水時に流されてきたもの(流木など)が家屋に被害を与えないようにストッパーの役割をする木々です。また、牛や馬が流されないようにつないでおくためでもあります。大きく、太く成長する榎が植えられることが多い。実際に見た屋敷森の木は大きく、ふた抱えはありそうでした。 <揚げ舟> 避難用というよりも、御救い米(洪水時に近隣の部落から握り飯を分けてもらっていたそうで、そうしないと食事もできないくらいだったそうです。)をもらいに行ったり、麦や稲を収穫するために使いました。麦や稲が流されないように縄でつないだり、収穫しておいた菜種を舟の上でもんだりしました。そういった船には屋号が記されていました。 大水に関連して: 大水後には疫病が流行ることがありますが、水屋ではその後の病気の感染というものはあまりなかったそうです。大水の後すぐに消毒が行われたからです。 農業の労力として牛や馬も飼っていたので、大水に備えて家畜用の避難所も作られました。 「そのころは庭で養蜂をしよったとですけれども、大水のときに巣箱も水につかりまして、見に行ったら蜂が腕にしがみついてきよると。刺しはせんとですよ。蜂も命がけですけん。(大石さん)」 昭和28年の大洪水の後、筑後川に水門が建設されました。昭和30年に建設計画が立てられ、34年に完成したこの水門は現在も水屋やこの地域の人々の生活を守っています。 「そういうところに住んでね、昔から親父どんもお袋どんもよー長う住んどうばってんが、水屋から逃ぎゅうちゅうもんはおらんとけんね。やっぱい住めば都。大水がきてもここにおらにゃならん。(塚本さん)」 渇水: 3つの川に囲まれている水屋ですが、昭和14年には大干ばつも経験しています。その干ばつでは、約113町(1町が約1ヘクタール)が植付け不能となりました。そこで九千部岳の頂上まで行ってお経を読み、同時に焚き物をたくさん燃やしてその煙で雨を呼ぶ、といういわゆる雨乞いの儀式・『千把だき』が行われました。山の頂上で行われた理由には、天に(お天道様に)少しでも近いところで、というこの地域の人々の思いがありました。その結果、帰り道で本当に雨が降ってきたそうです。話者の大石さんも千把だきに参加されたそうです。 「牛の背にお経さんをつんで、頂上までみんなして焚きもんをかろうて(背負って)登っていったとですよ。ああ水屋ばっかいじゃなくして。高田も。安蔵寺も。人数の多いから、焚きもんもそりゃあ山んごてあったですね。・・・そして山から下りて帰りよっとですよ、雨の降ってきたですもんねえ!やっぱい、山の上で神さんに通じて、雨を呼んだとでしょうねえ。(大石さん)」 現在では、水屋潅水機があるため、川さえ枯れなければ干ばつ対策は大丈夫ではありますが、大水はいまだに大きな問題として残っているそうです。 【祭りについて】 山王宮〔サンノウグウ〕の祭り: 12年ごと申の年に、山王宮では氏子の祭りが行われていました。祭の時、戦前はチクゴの方から芸人を雇って芝居小屋を建てて歌舞伎が演じられました。戦後になると、村の青年たちが芝居をして祭りを盛り上げました。祭りには、よその村からもたくさんの人がきて賑わい、出店等もたくさん出たそうです。また、祭りの時には殺人事件も起こったという話から、この祭りがいかに盛大でまた熱狂的な興奮に包まれていたものだったかがわかるでしょう。また申年に行われることについて、山王宮にはガードマン的存在として、神の使いとも言われている猿、ここでは三猿(ミザル、キカザル、イワザル)が置かれているという事実に何か関係しているのではないかと思われます。 水屋の宮相撲(祭り): 毎年9月15日に相撲祭りがありました。その当時、ヒゼン・キヤブ・チクゴも相撲が盛んでしたが、水屋の宮相撲はもっとも盛んだったそうです。娯楽やご馳走の少ない時代だったので、若衆はこの祭りの乗じて力を試して自分の男前を見せたり、酒を飲んだりして楽しみました。その時にはいつもは食べない銀飯(白米)やお酒をもらえたそうです。また相撲祭りは"社交の場"でもあったそうです。 「みんな縁組の下見もしようたとです。『あん人は色は黒かばってん強かごた』、『あん人はほんに顔はよかばってん弱か』とかいうてね。男の集まっとこには女も集まる。女のおる所には男んくる。今も変わらんでしょ?(大石さん)」 ダブリュウ: 水屋には春先(大体五月ごろ)川祭り・河童祭りとしてダブリュウという祭りがありました。ダブリュウは川開き、つまり川での事故がないようにと安全祈願をするためや、河童の川引きの予防に行われました。実際に水屋には河童に化かされた人がいるという話もあり、河童へお願いするような形でこの祭りが行われたのではないだろうか、と考えられています。現にこの祭りではツト(縦30?40cm、直径15cmくらい)という藁にご馳走を詰めたものを竹につるし、川べたの洗い場等の所に立てるということが行われていました。このご馳走とは河童の好物とされているキュウリをはじめとして豆の煮たやつなどでした。そのご馳走は村の人々も川べたで食べたそうです。 御粥試し(通称御粥さん): 毎年1月15日に豊満川でお米を洗って、そのお米を砕いて山王宮でおかゆに炊き上げ、障子紙でしっかり密封して神棚に2ヶ月間(3月15日まで)放置し、お粥に生えたカビを見てその年1年の豊作を占うという神事です。現在も毎年行われています。 【天満宮山王宮について】 天満宮: 1743年に建造されたといわれています。菅原道真を奉ったお宮で、水屋に建造される以前から天満宮は各地にあったそうです。しかし1353年頃にはハタザキ・シゲタにすでに天満宮が建造されていますが、何故水屋だけこのように何百年も経った後に立てられたかというと、その当時にはもう既に浄土真宗の正行寺(しょうぎょうじ)が建立され、山王宮もあった(?)らしいので、そう急いで作る必要がなかったからだそうです。 山王宮: 詳しい建造年はわかっていませんが、そういったことに興味をもたれている塚本さんの話によると、少なくとも宝暦11年(1761年)頃にできたものではないかということです。その理由として、前述のお粥試しがあげられます。お粥試しに使う粥箱に宝暦11年に作ったということが記されているからです。お粥試しは山王宮で昔から行われていたもの。ということは宝暦11年前には山王宮ができていた確率が高いということです。山王宮で奉られているのはオオヤマギノミコトです。 【昔の遊びについて】 男の子は川遊び・もぐら打ち・けり馬など、女の子は貝でおはじきをしたり人形で遊んだりというのが普通だったそうです。男女共通の遊びとしてはラムネの玉を使った遊びがあったそうです。また柳の枝を地面に打ち付けるという遊びもありました。14?20歳ぐらいの青年たちには、お宮ごもりというものがありました。10月30日から次の日にかけて行われました。これは男性のみの行事で、お宮にこもり、出雲大社から帰ってくる神様を出迎えるということで、酒を飲んだりして祭りのように騒いだそうです。話者の方もこの行事には参加されたそうです。 【共同風呂について】 昭和30年まで、共同風呂(もやい風呂)が話者の塚本さん宅の庭にあったそうです。その風呂は男女共同で、酒の桶のようなもの(8人入ることができる)に入っていたといいます。現在は残念なことに(?)残っていません。 【農業について】 畑でよく作られた作物として藍(染料)や粟や里芋があげられます。そういった作物が作られるようになったのは、水屋が大水などの水害が多発する地域であったため、水に強い作物のほうが都合がよかったということと、それらが換金作物であったからという理由があったそうです。水害が多い地域であっても、やはり昔は水がとても重要であったため、農業で生産した米やお金を水と交換していたそうです。またそれだけでなく、水で部落を分けるということも行われていました。その重要な水を引くためには「サイホン」という仕組みが使われていました。それは特に土地の高低が激しく、川から水を引くことが困難な所へ水を運ぶために、地下にパイプを引きそしてその管を通して水を運ぶというものでした。また肥しとしては糞尿をかめに入れて腐らせたものや、泥を乾かしたものが使われていました。 【戦争の話】 話者の一人である大石さんは30代のころ現役で4年半ぐらい戦争に行かれていたそうです。そういうことで戦中の水屋については人から聞いた話をしてくださいました。まずやはり戦中は物資不足、軍隊・軍需産業・従軍看護婦による人手不足などがありました。よって村は女性が守っていたそうです。 その当時鳥栖は交通の中心となっており、鳥栖の交通を止めれば、県内の交通が止まるといわれていたそうです。空襲の標的としては工業面よりもそういった意味で狙われていました。防空壕も各家庭に作られていたましたが、水屋から12キロ離れた河内という所に大きな防空壕が作られたそうです。沖縄に米軍が上陸し、B29の基地がつくられ、空襲が激しくなったため、九州にも米軍が上陸することが想定されました。よって軍の命令でその大きな防空壕が作られました。本来は空襲時の緊急避難所であるはずの防空壕がこのように離れた場所に作られたのは、軍の応援基地と追い詰められた最後の最後にに全住民がこもるという二つの目的のためだったそうです。 【水屋町に関して】 水屋町の範囲: もともと国道から水屋町側半分は水屋分でしたが、今は高田町の土地になっています。また水屋で発見したことはアスパラガスはたけのこのように生えてくることでした。これには驚きました。 【感想】 今回の現地調査で、私は年表の上の歴史ではなく、現実の、人々の息遣いが聞こえてくるような歴史に触れることができたと思っています。お話を聞き、揚げ舟や家地盛りを実際に見て、大水と戦ってきた水屋の歴史に触れられたような気がします。また歴史を認識する際には決して固定観念に固執してはいけないことなど、貴重なことを学べました。例えば佐賀市民にとっては治水の父である成富兵庫茂安の造った石井樋の堤防も水屋にとっては大水の被害を拡大させる一因であった、などあっけに取られるような事実が聞けました。 水屋町に着いて、よし、まずは塚本さんちを探そう、と思い、道を尋ねに入った1件目の家がなんと塚本さんのお宅でした。時刻はまだ11:15。明らかに早すぎる訪問だったにもかかわらず、快く私たちを迎えてくださった塚本さんと大石さん、そして塚本さんの奥様とお孫さん。本当にありがとうございました。 |