飯田町史調査結果レポート 飯田町は農業を生活の中心とした地域である。昭和29年の町村合併により鳥栖市に併合される以前は、現在の飯田町、原町、桜町が基里村大字飯田であった。 ・飯田町の人々と水害について 「飯田もんはビキが正面向くと鐘叩く」という言葉がある。ビキとは蛙のことである。つまり、水が氾濫しそうになると警鐘を鳴らし、土嚢などで堤防を作っていたという意味である。それほど水害の多発する地域であったということである。そのため、昔は地域全体を堤防で囲んでいたのである。そこから取ったのであろう「ヒラケン戸」という地名も残っている。 ・下水について 下水(シモミズ)とは下流の筑後川、宝満川から逆流して上ってくる水のことである。飯田では「下水は10日はひかん」と言われている。筑後川の逆流が収まらないからである。昔は下水対策として「フルカワ」というものを作っていた。「フルカワ」とは、本川の横に沿うように、逆流した水を溜めておくための川である。下水を「フルカワ」に逃がす(遊び水にする)ことによって氾濫や決壊を防いだのである。と同時に、農業用水の確保にも役立っていた。そのため、本川と「フルカワ」の二本の川で川は二重になっていたのである。その後、宝満川が筑後川に流れ込む場所に水門ができ、逆流時には水門を閉めて逆流を防いでいる。また、水門を閉めることで溜まる上流の水は排水ポンプで排水を行うシステムになっている。今は筑後川にはバイパス放水路ができており、そちらが本流となっているため宝満川に逆流することはないと思われる。 ・昭和28年の水害について 飯田町を語るときに外すことができないのが昭和28年の大水害である。6月〜7月半ばまで約40日間降り続けた雨は降雨量1000_を超える大災害になった。堤防と「フルカワ」は決壊し、田は一面水浸しになった。川は膝の高さまで増水し、道路も見えないほどであったそうだ。 この大水害を受けて、建設省河川管理所や福岡県は筑後川工事事務所を設置し、筑後川およびそれにつながる河川の河岸補修、堤防補強、河川工作物建設に尽力した。木製の井堰は増水すれば自動的に倒れる自動開閉井堰に改良され、上流には水量調整のための松原ダムなどのダム建設が進行した。 その後、昭和38年にも水害は起きたのだが、飯田町は28年以後の防御策の効果によって被害は最小限であった。 昭和28年の大水害を経験したことにより飯田町は水害に耐えられる地域になったのである。 ・水利について 主水源は宝満川、筑後川へとつながる秋光川であり、飯田、重田、大井手の三箇所の井堰から田へと水を供給していた。現在は油圧式の自動開閉井堰であるが、昭和初期においては木製のはめ込み式井堰というような簡素なものであった。また、用水利用における規律としては、過去からの既得権を最重視していたようだ。有権者は自由に権利規定内の水量を確保することができ、それ以外の人々は利用料を支払うことによって水を確保していた。また、同時に有権者に井堰管理の義務も課せられていた。 ・秋光川について 飯田町の主水源である秋光川は基山を源流としている。現在一部直線になっている河岸があるのは、高速道路建設時に高速道路と秋光川の間に田が小さく残るのを避けるために河川工事を行ったためである。また、今は高速道路が堤防となっている。 ・子供たちと川について 子供たちの水遊びの場は年齢によって変わってくる。「ウマレガワ」と「クロツスワラ」という場所は小学生くらいの子供たちの水遊びの場所であった。少し歳をとると今度は「ウマレガワ下流〜井堰」が水泳場になる。ここは多少深くなっている。さらに中学生になると中学校の裏にあるガタガタ橋(前古賀橋)から飛び込むようになる。ここはさらに深く、 年長の子供たちには最高の遊び場であった。また、雨で川が増水すると、年長の子供たちは「八幡橋」から飛び込んで「ガタガタ橋」まで滑り下るのだそうだ。しかし、ルールとして水泳場へは上級生の引率がなければ行けなかったようだ。 ・旱魃について 2〜3年間隔で旱魃は起こっており、その対策としては、井戸を掘ることが第一である。また、主水源である秋光川の水量が著しく減少した場合、「瀬掘り」を行っていた。「瀬掘り」とは、川底に流れているわずかな流れを一つにまとめることにより一定量の水量を確保する作業のことである。 雨乞いの神事としては「センバタキ」を行う慣習があった。センブ山の山頂へ薪を担いで登り、のろしをあげ、御酒をささげ雨乞いを行うのである。のろしをあげることにより上空の気流を変えるという理論らしい。また、この地域ではこのような祈祷行為全般を「願成就」と呼んでいる。 ・用水路中の生物について 昭和前期においては、現在は少なくなってしまっている小鮒、鮠、ドンコ、小鯰(ギュギュタロウ)が生息していた。河川から生物が消え去ってしまった理由は、日本住血吸虫(ジストマ菌)病撲滅のための河川のコンクリート舗装に原因がある。山梨県と佐賀県に発生したこの寄生虫病は、ミヤイリガイに寄生し成虫となる。その後、川に入った動物の毛穴から体内に侵入し感染を引き起こす。シブナール注射を打たないかぎり、肝臓が膨れ上がり(チョウマン)、20歳までに死にいたる危険な寄生虫感染病だ。シブナール注射は何十回と打たなければならない。そのうえ注射した日にはすさまじい倦怠感に襲われ、後遺症が残る場合もある。撲滅のためには、まずミヤイリガイの住む素掘り水道水底の泥を流す必要があったのだ。そのため、素掘り河川を改修し、コンクリート舗装河川にしたのだ。 ・農耕用家畜について 牛や馬が主な農耕用家畜である。牛や馬の主なエサは川土手や畔に生えた雑草を乾燥させたもので、そのほかに大麦などの麦類、米糠などを用いていた。また、馬を洗う場所は馬入川(ウマレガワ)と決まっており、馬が降りられる坂や洗いやすい砂浜があったようだ。牛も同様に川で洗った。爪の間に糞がたまるからである。洗うときには大きなブラシで川に入れた牛や馬の汚れをこすり落とすのだそうだ。 馬の蹄鉄を売る家を金靴屋と呼んでいた。蹄鉄には数箇所の穴が開いており釘で馬の蹄に打ちつけ装着する。 年1回地区で獣医と契約して、家畜の定期健診を行っていた。基本的に牛よりも馬のほうが気を使わなければならない動物であり、爪の病気などにかかりやすいので爪を切ったりマッサージなどをしたりしていた。また、気の荒い雄牛や牡馬の去勢や、牛の鼻ぐり通しも同時に行われていた。他にも、話者の皆さんも理由はわからないとおっしゃっていたのだが、鉄の棒を焼いて馬の後ろ足に焼き当てていたりもしたらしい。このような行事を「馬つくり」という。ちなみに医者は養父(ヤブ)郡から来ていた。謝礼は米などの作物であった。 牛の訓練は綱で行う。訓練しだいでは綱で軽く叩くだけで言うことをきくようになる。さらに、右に曲がること時は「さし」、左に曲がるときは「へせ」と言うのだが、訓練ができている牛は言うだけで曲がるらしい。言うことを聞く牛は右の綱だけだが、言うことを聞かない牛は両側に綱をつける。そこから言うことを聞かない人のことを「左綱がいる」というようになったらしい。 ・農業について 現在、専業農家は少なく兼業農業が主流になっている。専業農業で食べていくには、20町〜30町の田が必要となるため、今は他の職での現金収入に頼る部分が増えてきているようだ。また、昔から麦との二毛作も行われている。化学肥料なしでは米、麦ともに生産が三分の一以下になってしまうらしい。 田に撒かれるのは肥料、除草剤、殺虫剤である。これらを取り入れる前は牛馬の敷き藁を乾燥させたものや人糞など、今では悪臭のために使用を控えられているものをつかっていた。また、昔はイモチ病などの虫害には直に田に入り虫を殺し、畔の雑草は自分の手で刈っていたのだが、除草剤や殺虫剤を散布し続けたため、最近になると害虫や雑草が耐性を身につけ薬剤の散布量を増やさざるを得ないのだ。昔はちょっと叩いたらすぐ死んだ虫も今はなかなか死なないらしい。 米の保存方法は主に甕や米櫃である。籾殻がついているときは「モンビツ(籾櫃)」に入れ、「ウッスリ(籾摺り)」(籾殻をとること)を行い玄米にする。その後に甕に入れて保存したり、ワラ袋に入れて国に供出したりしたらしい。甕にはナンテンの葉を入れると良い。家で食べる分は一石程度ずつ甕からブリキの缶米櫃にうつしかえる。ねずみ対策はその缶米櫃や甕が有効であった。また、甕には湿度調整と湿気吸収の効能もあった。ちょうど酒蔵元の木樽と同じ効果がえられるというわけである。国への供出の仕方は決まっている。抜き取り検査によって等級を決め、値段に換算するのだ。固有米(自分たちで食べる米)以外はほとんど供出し、金収入にしていたそうだ。 ・農業に関る行事について 農業は重労働だったので、秋には「休み期間」をつくる。「オクンチ(里帰り)に行く」という表現がある。これは厳しい労働を課せられている農家の嫁の骨休めの行事を表している。「オクンチ」で実家に帰るとご馳走が用意してあり、ゆっくり日ごろの疲れを癒せるというわけである。ほかにも、正月元日には「女は火をつけない、男が湯を沸かす」という言葉に表れるように農家の女性をねぎらう習慣があったようだ。また、決まった日に春祭りや秋祭りといった祭りを行い疲れを癒すといったこともあった。 農業は苦しいばかりで、重労働と後継者不足に悩まされている。そんな中楽しいことといえば、収穫と金収入、そして「サナブリ」だ。「サナブリ」とは、田植えが終わったあとの打ち上げである。このように農家では普段の重労働の疲れを癒すために年数回骨休めに行事をひらくのである。 ・結について 戦時中などは兵隊に出た人の穴を埋めるため、その人の実家に行き農作業を手伝っていた。また、農作業以外にも、屋根の葺き替え作業なども結で行われていた。屋根は、麦わら葺きであったため15年〜20年ごとに葺き替えなければならなかった。 ・山の利用について 終戦後15年ほどプロパンガスが普及するまでは、薪を田代、麓といった山間部の地域に荷車を引いてとりに行っていた。取りに行く先は、親戚や結仲間の家である。鋸で切り落としておいて、小さくしてから荷車に載せて家まで持ち帰る。その後、薪割りをして使いやすい大きさにするのだ。薪割りは小学生くらいの若い子供の仕事であった。昔の子供には家に帰るとこういった仕事が待っていたのだ。 山焼きはこの地域では行われてはいない。土手を焼くことはあったらしい。草を焼くと同時に害虫を焼くという意味もあったらしい。 ・暖房について 主な暖房は火鉢であった。木炭と籾殻を入れて暖をとるのだ。当初は生の籾殻を燃やしていたらしいのだが、生の籾殻を燃やすと目にしみてたまらないらしく、そのうち籾殻を燻製にして用いるようになった。子供時代にはその中で焼き芋をつくって食べたのが最高のオヤツだったと話者の方々は口々におっしゃっていた。 ・屋号について 「シングヤ」・・・染物屋を昔は紺屋(コンヤもしくはクウヤ)と言った。新しい染物屋ができた時、人々は新紺屋といったが、これが「シングヤ」となった。 「ショウヤ」・・・村長、庄屋の家のこと。「庄屋ン屋敷」とも。 「ヒゼンヤ」・・・肥前から来た人の屋敷。肥前屋。 「モンノキワ」・・庄屋の屋敷の門のそばにあった家。門の際。 「ショオケヤ」・・竹細工の笊をショオケという。オケヤとも。桶屋。 「ウサギヤ」・・・ウサギがいた家。 「アタラシエ」・・分家してできた新しい家の意。 「シンヤ」・・・・同上。新屋。 「タシロ」・・・・田代(あるいは大代)から来たから。 「リョウゴクヤ」・筑後との県境にある家のこと。両国屋。同じ由来で「両国橋」もある。 他にも「サカヤ(酒屋)」「クスリヤ(薬屋)」「オカシヤ(お菓子屋)」といった屋号も。 ・ショオケヤについて 話者の一人の方の話によると、62〜3年前、当時小学生だったその方は地域の相撲大会で五人抜きを果たした時の景品がショオケであったらしい。当時91,2歳であったが、非常に優秀な職人であったタカオクニヘイ氏の作であったため、話者の方はその桶を未だに持っているとおっしゃっていた。 ・国意識の違いについて 肥州と筑州の国境であるこの地では不思議な現象が起きている。わずか深さ1.5mの水道を隔てて言葉がまったく異なっているのだ。たとえばカイツブリという鳥だが、佐賀側ではキャーツブロ、福岡側ではケツゴロウと言っている。これは国意識の違いが顕著に現れている事例だろう。それだけに子供のけんかは毎日のことであったらしい。ただ大人になるとそういったことも少なくなり、両国間で結婚することもよくあることだったようだ。 |