鳥栖市牛原町レポート


鳥栖市牛原町811-1 大塚嘉人さん
1EC01138W 南野 琴
1EC01108R 林 志保



牛原に着いたわたしたちはまず、そののどかな風景を見ながら約束の時間まで周囲の散策をしていました。のどかな田んぼの風景画広がる中に、二人が最初に興味を持ったものは、まるで遺跡であるかのような墓地でした。よくあるきれいなお墓が立ち並ぶ普通の墓地とは大きく違い、田んぼと田んぼの間に7〜8個のお墓が立っていました。大きさやお墓の形はさまざまで、中には自然の岩をそのまま使っているようなものもありました。お墓のほとんどの文字は風化してしまって読めないものが多かったのですがかろうじて読めたものの中に「享年」という文字を見つけ二人で驚いていました。来て早々歴史を感じさせるものに会いこれからの調査に期待が持てました。他にもコンクリートの用水路の上に古い木の用水路跡のようなものも見つけ昔からここには用水路が通っていたのだなと思いました。

わたしたちが牛原のしこ名や、昔の生活、風習についてお話を聞いたのは大塚嘉人さんでした。わたしたちが大塚さんの家を探していると、大塚さんもわたしたちが来るのを待っておられたらしく、家の外に出られていたのですぐにわかりました。家の中に入って挨拶をすますと早速しこ名について聞き始めました。大塚さんの奥さんも一緒に「〜というとはここで、〜はここで・・・」というように次々と教えてくださいました。けれどもしこ名の前に小字が大変多かったので、小字の中にしこ名があるというよりもしこ名=小字という感じでした。まず場所を聞くことのできたものを下記に記したいと思います。


しこ名(読み方)・・・なまえ由来または場所

川原(コウラ)・・・川原の近く。
宮後(ミヤノウシロ)・・・香椎宮の後ろ。
宮前(ミヤマエ)・・・香椎宮ノ前。
道光(ドウコウ)・・・近くに寺があったかららしいが寺の跡は確認されていない。
上田(カミダ)・・・上のほうにある田んぼ。
養父ノ上(ヤブノウエ)・・・養父の上のほうにある。
山田(ヤマダ)・・・山の上にある田
牟田(ムタ)・・・??
津久田(ツクダ)・・・香椎宮の南西、古賀に近い。
城山(ジョウヤマ)・・・二箇所あるがひとつは勝ノ尾城のある山のことを、もうひとつは古賀第一溜池の近くにある。
皿谷(サラダン)・・・群石山にある。
西谷(ニシダン)・・・西にある谷。
芦谷(ヨシダン)・・・群石山、皿谷よりも北。
平町(ヒラマチ)・・・現在の平町よりも北。
堀ノ頭(ホリノカシラ)・・・お堀の一番端。始まるところ。
石田(イシダ)・・・蔵上溜池の南。
原田(ハルダ)・・・現在とほぼ同じ。
前田(マエダ)・・・蔵上溜池の北。
宮西(ミヤニシ)・・・香椎宮の西にある。
重谷(シゲダン)・・・群石山のふもと。
別石(ワケイシ)・・・別石がある。水を分けたあと。
篠林(シノバヤシ)・・・??
浦田(ウラダ)・・・重谷の北。
高椋(タカムク)・・・蔵池溜池の北。前田に近い。
野田(ノタ)・・・川原井手(コウライデ)の北東。
井川口(イガマグチ)・・・現在よりも川より。
丸林(マルバヤシ)・・・大塚さんの家の北。
東川内(ヒガシゴウチ)・・・現在とほぼ同じ。
君出(キンデ)・・・長田(オサダ)のすぐ西。
若林(ワカバヤシ)・・・現在とほぼ同じ。
長田(オサダ)・・・ドンドンオテの南。
道祖前(サヤンマエ)・・・道祖神があったのではないかといわれている。
舘(タチ、オタチ)・・・二ヶ所ある。ひとつは舘の屋敷(武家屋敷)のこと、もうひとつは勝尾ノ城の西。
堂ノ前(ドウノマエ)・・・昔近くに寺があったのではないかと言われているが今はない。
石塚(イシヅカ)・・・ドンドンオテの北。
庵地(アンジ)・・・四阿屋宮の東。
四阿屋(アズマヤ)・・・四阿屋神社の近くにある。
古川(フルゴウ)・・・古い川の跡がある。
道場原、鰌原(ドジョウバル)・・・大井井堰の西。
春門(ハルカド)・・・川原門(コウラモン)の北。
松葉(マツバ)・・・君手(キンデ)、長田(オサダ)の南。
蓮輪(ハスワ)・・・??
刺寄(キリヨセ)・・・苔香園の東。
友清(トモキヨ)・・・刺寄(キリヨセ)のさらに東。
古賀田(コガタ)・・・古賀の田。
上方(ウエガタ)・・・上のほうにある。
西春口(ニシバルグチ)・・・堀ノ頭(ホリノカシラ)と上方(ウエガタ)の間。
車(クルマ)・・・その場所に水車があった。水車は全部五つあった。
皿山(サラヤマ)・・・昔ここで陶器が作られていた。
牛原河内(ウシワラゴウチ)・・・??
養父(ヤブ)・・・現在とほぼ同じ。
善慶寺(センケイジ)・・・近くに寺があったからと考えられているが本当に寺があったのかは不明。
鋸切(ノコギリ)・・・??
鐘搗(カネツキ)・・・??
下宮(シモミヤ)・・・??
西原(二シバル)・・・??
かまのほか・・・??
たちのおもて・・・舘の屋敷(タチノヤシキ)の正面にある。


・ 水利についての地名

大井堰をオオイデ、新町井堰のことをウシイシイデと呼んでいた、ウシイシイデについてはこの周辺のことを牛石と呼ぶらしく、その由来はウシノオヤマのふもとに牛の寝ている姿にそっくりの岩があることからきている。またイシズカとオサダの間の水路のことをドンドンオテと呼んでいたそうです。

牛原では川原のことをコウラ河内のことをゴウチ、谷をダンと読んでいたようです。また原や田のことはバル、ダというようににごらせて読む場合が多いようでした。 次に昔の村の習慣について訪ねてみました。大塚さんは驚くほどに昔のことを覚えていらっしゃいました。


◎ 農耕について

・ 山仕事に入ることを「デゴト」ではなく「デシゴト」といった。
・ シノバヤシとウラダの西側の山に草切り場があり、其の辺りでは牛馬を放牧していた。
・ 村の共有の山林・・・井河口のクスノキヤマ  浦田のムレイシヤマ
・ 日常生活に使う薪は自分が所有する山から採っていた。
・ お米の保存法はカメ、またはモミびつに入れていた。
・ 戦時中に馬の飼料として備蓄していた高梁(こうりゃん、満州から)大豆カスなどが戦後人々の食料として食べられていた。
・ 湿田のことをジュルケダ 乾田のことをヒヤケダとよんでいる。
・ 古賀との境の養父ノ上は田が固く余り米が取れなかった・
・ 昭和25〜6の頃は一反当たり八俵、昭和5〜10の頃は5〜6俵取れればいい方だった。
・ 肥料は戦前アジ子や牛馬の堆肥、硫安(硫酸アンモニア)を使用。
・ 共同作業については川上の田のほうが早く水が入ってくるので、上の他の作業の時には下のものが、下の田の作業時には上の田のものがお互い協力してやっていた。おたがいに手伝うので御礼などは特にしなかった。
・ 牛を借りたときに対してのお礼はあった。
・ 昔はあぜに大豆を植えていたが現在ではあぜがきれいに整備されているので行っていない。
・ 害虫対策
@ 水面に石油をたらして、ほうきで掃いて広げることで虫が飛べないようにした。
A虫の卵をかえる前に取り除いていた(田の虫取り)これは主に子供の仕事だった。
B誘蛾灯に灯油を置いて虫を殺した。


村の水利

・ 水利は他の村(古賀、養父、宿)と大井手を共有。
・ 牛原は川上にあるので水利に対する権力は強かった。他の村から水利費をもらうこともあった。
・ 水利を巡る水争いがおこったので別石で水利を三つに分けた。
・ 牛や馬を洗う場所は特に決まっていなかった。近くの川で洗っていた。


                                     ◎ 村の祭り

・ 香椎宮の秋祭り
   祭りは十三名の神座と呼ばれる人々が執り行なった。神座は普通世襲制だったが時に神座株の売買も行われた。交代で宮田を耕し祭りを運営した。また祭りでは宮田で作ったサトイモをふるまった。宮田は農地改革でなくなり。神座も二十年前になくなってしまった。
・ 四阿屋宮の祭り
   昔は神輿が牛原までも来ていたが今は来ない。牛原からは獅子舞を奉納する。


◎ 災害

・ 昭和14年に渇水が起こった。城山で木の束を燃やしたり(千杷炊き)、宿から川に神輿をつけるなどの雨乞いを行った。
・ 昭和25年に大水で下宮橋、東橋など8つの橋が流された。
・ 平成1年に台風で四阿の鳥居が倒れた。


◎ 周辺について

・ 山に囲まれていて昔は山には勝尾上があった。この城には別名が多くあり、三ヶ山城、三上城、築紫城、勝山城、山浦城、とも呼ばれていた。応永三十年に築城され城の遺跡やお堀の跡、武家屋敷などが今も残っている。葛籠城、鷹取城、鏡城、鬼ヶ城の四つの支城と1つの砦を持っていた。このうち葛籠城については中原の人たちが指す葛籠城と他の地域の人たちが指す場所は」異なっている。しかし後者のほうが正しかったと一般には言われているそうです。


お話を聞いたあと、大塚さんが「家の裏のほうに別石を作った磯野家のお墓があるので見てみるといいよ」とおっしゃられたので行ってみることにしました。大塚さんが案内してくださいましたが、結構険しい裏山だったので私たちは何度もこけそうになりながらも大塚さんのあとをついていきました。五分ほど裏山を登ると開けた場所に出てそこには10個ほどのお墓が立っていました。そのお墓の中にも大きな自然石を墓石に使ってあるものがありました。ほとんどがとても古いものでつたがおお生い茂っていて字が読めないものが多かったように思います。一番古いものには「元禄」の文字が刻まれていました。はでした。そのお墓の写真を採った後バスの時間も迫ってきていたので大塚さんと金隈先生にお礼を言って裏山を下りました。

帰りに別石の写真を取ろうと思ってそれらしきところを探していると、通りがかりの人が「別石はここだよ」と親切に教えてくださいました。私たちは間違えて別石の少し手前の用水路を取ろうとしていたので、二人で「よかったねー」と言いながら本物の別石を撮影することができました。実際の別は石きちんと三つに分かれていました。話に聞いていたことを実際に目で見て確かめることができたので感動しました。  今回の調査にあたって大塚さん夫妻と松隈先生、教育委員会の方には大変ご迷惑をおかけしました。牛原村について多くのことを調べることができ大変ありがたく思っています。


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鳥栖市牛原町 大塚嘉人さん

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