歩き・見・ふれる歴史学

木曜四限

レポート制作者:1S−14 1TE01365G 福原 康洋
1S−12 1TE01288K 小宮 宏之


調査に協力してくれた方たち:
        西 定男さん 昭和8年生まれ
        有馬 秀弥さん 大正9年生まれ
        西 明男さん 大正6年生まれ
        伊希 正美さん 昭和3年生まれ
        楠田 久男さん 大正5年生まれ

調査場所:佐賀県鳥栖市平田町

調査日:1月6日

調査目的:失われつつある通称名称を古老から聞き取り、それを記録して後世に残す。そのほか記録されずに忘れつつある昔の村の姿・記憶を記録する。


知っておられた字名:

地蔵原(ジゾウバル)、平田(ヒラタ)、土井上(ドイノウエ)、鬼迫(オニサコ)、鬼砂子(オニザコ)、九方夫谷(クダイウタニ)、東前(ヒガシノマエ)、源蔵原(ゲンゾウバル)、十丁分(ジュチョウブン)、大平田(オトリタ)、 神田(カンダ)、久保田(クボタ)、三十六(サンジウロク)、沼尻(ヌマシリ)、浦田(ウラタ)、東屋敷(ヒカシヤシキ)、谷(タニ)、汲谷(クミタニ)、武者土居(ムシヤドイ)、岩見田(イワミタ)


  知らなかった地名:

日焼(ヒヤケ)、泥染(ドロソメ)、四郎兵衛谷(シロウベイダニ)、 大渡(ヲーワタリ)、地蔵(ジゾウ)、笹ノ本(ササノモト)、 坂ノ下(サカノシタ)、迎野(ムカヘノ)、虎谷(トラタニ)、柿副(カキソヘ)


行動記録:

いよいよ待ちに待った調査日。9:30分に六本松正門前集合。お互いこの授業でペアになる前は全く知り合いではなく、初めはなんとなく気まずい雰囲気が流れていた。デジカメを借りて準備万端。いざ出発。楽しい旅を願い上機嫌で乗車。しかし、、、、バスの中ではなにもすることがなく、とても退屈だ。しかも僕たちが調査する平田町は一番最後の下車になる。二人とも朝ご飯を食べておらず、これまた二人ともバス酔いが激しいとあって、一気に元気がなくなった。バスの中から見える景色も次第と田舎模様に変化してゆきたくさんあったお店も僕らが降りるころにはほとんどなくなっていた。やっとのことで平田町に到着。準備していた現地の地図で目的地である平田町公民館の位置を探したが、なかなか現在位置を把握することができなかったので、町の人に道を訪ねることにした。と、そこにたまたまおじいさんが通りかかったので、道を尋ねると、
「そこの道をまっすぐいくと、十字路があるからそれを左に曲がればつくよ。」と、親切に教えてくださった。やっぱ田舎はいい人がたくさんいるのだなぁと思い教えてもらった道を進むが十字路などなく、ガーン。。。。。逆に道に迷ってしまった。その後、別の人に道を聞いて公民館に向かい、また道に迷いそうになりながらも、やっとの思いで目的地に到着することができた。
公民館に到着すると、一人の古老が窓から顔を出して
「九州大学の人ね?」
と笑顔で迎えてくれた。中に入ると、公民館は思っていた以上にきれいで、思っていたイメージの公民館とはだいぶ違っていた。部屋に通されて、この人に話を聞くのだと思い準備をしていると
「手紙に書いていた時間より随分速く来たねえ。もっと遅く来ると思っていたから、みなさんまだいらっしゃってないよ。」
と言われ、時計を見てみると一時間も速く着いてしまっていた。なんだか気まずいなあと思っていると、
「今電話したから。もう少ししたらいらっしゃると思うから、それまでお茶でも飲んで待っていてください。」
と言って、お茶とお菓子を持ってきてくれた。お茶を飲み、源氏パイを食べながらくつろいでいると、一人、また一人と次々に人が部屋に入ってきた。いつのまにか部屋はいっぱいになり、結局五人の話をしてくださる人がいらっしゃった。こんなに人が来るとは思っていなかったため驚いたと同時に緊張し、そしてまた自分たちのためにこれだけ集まってくれたことが嬉しかった。

まず、最初にしこ名や字名について尋ねてみた。僕らも最初の質問だったので、上手く尋ねることができなかったこともあり、質問の答えを聞くことはできなかった。そこで、用意してあった字名の書いてあるプリントを見せ、この名を聞いたことがあるかどうか尋ねてみると、
「ああ、昔こんなんもあったな。」
と言われ、ぼくらは次々に字名を尋ねた。しかし、全ての字名を知っている方はおられず、一つの字名でも知っている方と知らない方に分かれた。知っている字名でも、言われてみると聞いたことがあるな、という程度のものもあり、 「私たちが知らない事はもう誰も知らないよ。」
と言われ、詳しい位置まで知る事は難しく、結局地図に字名の場所を書き込むことは残念ながら出来なかった。

次に昔の農業について尋ねた。
「昔は当然稲作をやっていたよ。裏作では麦を作り、他には桑を作っていたな。その桑で蚕を育てて、養蚕で現金を得ていたね。今は、野菜や大豆なんかも作っているけどね。」 昔の食べ物について尋ねると、
「ここは山の村だから、ここでは魚や塩を取ることはできない。だから、魚や塩は町へ行って買ってきたり、売りに来ている人から買ったりしていたねえ。魚は、塩いわしや塩くじらなんかを良く食べていたね。ご飯もよく麦飯を食べていたなあ。米と麦の割合は、米一升に麦三合くらいだったかな。」

昔の生活について尋ねると、
「電気やガスは当然ないから、子供の頃はご飯を炊いたり、風呂を沸かしたりするのは全部まきを使っていたね。まきを取ってくるのは子供の仕事だったから使うまきは一日に二回、鬼迫の上の方まで取りに行っていたね。その後、燃料はまきから石炭へと変わっていったけどね。昔の風呂は五右衛門風呂だったよ。子供の頃は、近くの家五・六軒、もっと多いところもあったけど、風呂を沸かすのを順番に回して、男も女もみんなで同じ共同風呂っていう五右衛門風呂に入っていたのだよ。五右衛門風呂は、しだいに桶風呂に変わっていって、共同風呂もなくなっていった。昔は、石鹸もなかったから、焼いた米ぬかを使って体を洗っていた。」

子供の頃の遊びについて尋ねた。
「子供の頃は、毎日外でこま・めんこ・ねんぼう・おにごっこなどをして遊び、家の中で遊ぶ事はほとんどなかったなあ。夜は真っ暗だから暗くなったら寝る以外する事はなかったね。若者の男女が知り合う場所は共同風呂くらいしかなかったよ。あなた達の世代の人には考えられないかもしれないけど、昔は混浴が当たり前だったんだよ。」
おもいきってヨバイの話を切り出してみると、
「ヨバイ??ガッハッハッハッハ。ぼくらの頃にはそんなことはなかったよ。もっと昔ならそんなこともあったんじゃないかな。」

ガス・電気・水道について尋ねた。
「電気は1920年前後にはきていたかな。ガスは、都市ガスは今もまだきていないから、プロパンガスなどを使っているよ。水道は今もまだ、村の半分くらいしかきていないよ。水道がないところは、今も昔も井戸水。井戸水を使う軒数が増えたから、今では昔ほど水が湧いていないのだよ。トイレも下水道がきていないから、今でも汲み取り式の水洗便所だよ。」

テレビやラジオについて尋ねてみると、
「ラジオは1930年前後にはあったのじゃないかな。テレビは1950年前後かな。東京オリンピックの時に普及したのじゃなかったかな。」

昔の農作業について尋ねると、
「基本的に、自分の田んぼは自分で耕していたね。牛または馬も一家に一頭はいて農作業に使っていた。肥料には糞や草などを使っていて、それは同時に虫除けとしても役に立っていたのだよ。とれた米は、農協が出来る以前は米屋がいて、その人らに売っていたね。良い田んぼ、悪い田んぼ、良い米、悪い米ももちろんあったよ。楽しい事も少しはあったけど、やっぱり農業自体は苦しいものだったなあ。」

地主と小作人の関係については、
「地主の中には、自分で田んぼを耕す人もいたし、小作人に任せて自分は耕さない人もいて人それぞれだったね。小作人は、地主に小作料として米を払っていたな。だいたい収穫した米の一割くらいを地主に渡していたのじゃないかな。」

農作業の楽しみ・苦しみについては、
「稲刈りが終わった後、田植えをした人たちだけが集まって、早苗振をして楽しんでいた。他には百姓祭りというのがあり、それは大勢で楽しんでいた。
17件で百姓祭りの組合をつくって、三段の田んぼを組合で共有し、その田んぼで取れた米を売って、それを資金にして祭りを一年に一回行なっていた。でも、その祭りも戦後に共有財産を持つことを法律で禁止され、共有の田んぼは廃止されてしまい、その結果、百姓祭りは昭和24,25年頃になくなってしまったのだよ。農業における苦しみ?ガッハッハッハッ、そうだねぇ、、農業自体が昔は苦しみだったね。」

水利と水利慣行については、
「平田町は昔から鬼迫の山の上にある2つの用水器によって成り立っていて、それぞれ灌漑用水用と防火用水用の用水器だった。用水器の水は、町の田んぼを流れた後、沼川に流れ込む。水利権についての他の村との争いはほとんどなく、あったとしても口けんか程度のものだったなぁ。用水器の水はほとんど平田町が独占していて、下のほうにある他の村に自然と流れていく感じだったな。
旱魃は2,3度くらいしか起こった記憶がないよ。なぜ起こらないかというと、この地方は昔から植林が盛んだったからねぇ。旱魃対策としては、ポンプを村で共同購入して水をふりわけたり、ため池や井戸を掘ったりしていたよ。あっ 、それと防火用水用の用水器から水を引いたりもしたもんだ。」
この質問を終えたあたりでもう残り1時間程度。まだまだたくさんしたいことがあるのに、、、、。急がなければ!

災害については、
「水害はあったことなんてない。植林のおかげなんだよこれが。台風の被害もほとんどないなぁ。周りが山に囲まれていて盆地になっているから風をもろに受けないんだよ。でも、さすがに数年前の台風19号のときはすごかったね。」
この話を聞きぼくたちは、自然を大切にすることがどれほど大事かということを強く感じた。植林1つをとってもこんなにも村が平和になるのだ。それにしてもよく考えてみると、水害もなく、旱魃もなく、水利権問題も、台風の被害もない。平田町は、とても平和な町であるようだ。古老の方もみな口をそろえて、
「この町はまとまりがあって、とてもよい部落だよ。」
とおっしゃっていた。

村の道については、
「昔は学校道が2つあってみんなそこを通って毎日登校してたんだよ。」
と、地図に道を記入してくださった。道を書いている手がスラスラと動く。かなり昔のことなのにその頃の記憶は鮮明であることに驚かされた。

祭りと行事については、
「毎年11月29日にお籠りという行事があるよ。この行事は、出雲からの氏神の帰村をお迎えする行事なんだよ。普段各地の氏神様は、出雲にある出雲大社におられるのだが、毎年この日になるとすべての氏神様はそれぞれの神社に帰られるんだよ。その日は、小学8年生がこの公民館の裏にある天満宮に集まり、夜に薪を焚いて氏神様をお迎えするんだよ。他にも5月3,4,5日のどれかの日に鬼迫の山で水利の神様をまつる祭りがあるよ。昔は楽しみが少なかったから、お祭りや行事の日が近づくとみんな喜んでたなぁ。」
残り時間もあと20分を切り最後の質問になった。

村のこれかについては、
「どうだろうなぁ。あまり変化はしないと思うよ。現在の平田町には家が350戸1200人くらい住んでる。昔は40戸くらいかな。あえて言うなら、今後新幹線が近くに通るようになるから今よりもっとにぎやかになるだろうね。あとはこれからもこの自然を守っていきたいね。」
まだまだ質問したいことはたくさんあったが時間がないのでここで終了。あっという間に終わった感じだった。親切に質問に答えてくださった古老の方々にお礼を言いみかんをいただき玄関に向かっていると、一人の方が、
「あと5分だけ時間をくれんかな。ここの裏にある神社を案内してあげようと思ってな。」
と、おっしゃったので連れて行ってもらうことにした。神社は階段を100段くらい登ったところにあった。古老は、
「ここに来ると昔のことをよく思い出すね。楽しいことが沢山あって、うんうん。。昔は良かったなぁ。」
と、思い出にふけっていらっしゃった。

神社を案内していただき古老との別れ際に、
「今日は、遠いとこどうもありがとう。またなにかわからないことがあったら電話でもくださいな。もう1度個人的にも来てください。では、気をつけて帰ってください。」
と、おっしゃってくれた。

「ふうっ。」
古老と別れ緊張が解けると、どっと疲れが出た。バスに乗りみんなにみかんをくばり、あとはもちろん二人とも爆睡。九大にたどり着きぼくらの調査は無事終了!
今回は、直接現地に調査に行きお話を聞くことができとても貴重な体験ができた。こんな体験をする機会は今後二度と訪れないだろう。そして、長い時間ぼくらの調査に付き合ってくださった古老の皆さんに心から感謝したい。