佐賀県鳥栖市原古賀町の現地調査レポート


蛭川覚智
山田裕介



私たちは鳥栖市の原古賀町における、あざな、村の水利、水害、町の範囲、牛馬について、村の耕地について、村の祭りについて、村の発達、昔の若者、昔はやった病気について原古賀区長である古賀幸夫さん、区長代理である脇克己さん、古賀さんの昔からのおさななじみである吉田久夫さんにたずねた。

原古賀町の概要・・・佐賀県鳥栖市の中央部。市街地西方の平地に孤立する朝日山の北側に位置し、曲流する安良川ほぼ東部境界となっている。北側の本集落と、東部小集落の大楠からなる。かつては本集落の西部低位台地は、土壌に恵まれ、蝋燭の原料となる櫨の実や、サツマイモの産地であった。近年はこの大地も宅地化されつつあるが、その他の地域は、米作を専業とする農業地域である。市道鳥栖停車場麗線が、中央をほぼ東西に走り、北西端を主要地方道佐賀川久保鳥栖線南西方向に走り佐賀方面に向かう。国鉄長崎本線が南部を東西に走り、その南に浄水場がある。西部の市道北側に九千部学園が建つ。主要地方道の東側に麗郵便局がある。町内中央、市道沿いにある氏神の熊野神社は、昭和43年朝日山にあった日隈権現社、大楠村の氏神天満神社・天神社を合祀したものである。


  ・ あざなについて

まず、今回の最大の目的であるあざなについてたずねた。しかし当の古賀さんたち本人はあざなと聞いてもピンと来ず、「じゃあしこなって知ってます?」とたずねると、やっと何のことか分かったらしく、私たちが原古賀町の地図を見せると古賀さんが「こうゆうことは吉田くんの方がくわしいつたい。」とおっしゃって、吉田さんが地図を広げて圃場整備前後の水田に付けられていた通称地名や用水井堰の名前について教えてくださった。 昔は今みたいに大まかに「一本松」「二本松」「三本松」と分けられておらず、もっと細切れに分けられていたそうである。

しこ名・・・大楠、中副、山の下、高良田、日焼、庵前、空口、向原、化粧田
井堰名・・・笹堰、松原堰、精堰、浦田堰、畠田堰、苗代堰、下車堰、安良川堰、向原堰、日焼堰、高良田堰、上高良田堰
        がある。(地図参照)


・ 村の水利について

原古賀町は干ばつ地帯であり圃場整備前は田越しに水を供給していたそうである。そのため上の人が田植えを始めないと、その下の人たちが困っていたそうである。しかし、 干ばつ地帯であっても溜池の水をうまく利用し回し水を行っていたため、大きな水不足は、昭和14年にだけあったそうである。その時は、近くの山に行って火焚きをして、 雨ごいの儀式を行ったそうである。


・ 災害

水といえば干ばつのほかに、昭和24年に起きた大水害の話をしてくださった。 この時は橋が流されたり堤防が決壊したりして、川の下流に住む人々は大変な被害を被ったそうです。
この大水害は、堤防の高さが違ったために堤防が決壊し、堤防の管理問題について裁判沙汰にもなったとおっしゃっていました。


   ・ 町の範囲

今の山浦団地はかつて松崎といい松林だったらしい。そこは昔、原古賀町と山浦町との共有の土地であったが、今はそうではないらしい。
また山浦町の原古賀上溜池、原古賀下溜池も原古賀町のもので、かつて行われていた水泳大会などはそこで行われていたようである。(後の'昔の若者'にて詳しいことは述べることにする)


・ 牛馬について

原古賀町は農村地帯であったため、今のようなトラクターなど農耕機が無かった昔はやはり、牛馬が必要不可欠であり、全ての農家で飼われていたそうである。農家の人は彼らをとても大切に扱い、また牛馬も農家の人にとてもよくなついていたようである。古賀さんの「隣の町までいとこの結婚式に馬車で行ったつたい。その時かなり飲まされて帰ってる途中、寝てしまったつたい。ほんだら目がさめたら小屋の中にいたっつたい。」という話がその様子をよくものがたっている。
 また、飼料は自分の田んぼの農道の草を刈って与えたり、自分の田が小さいところはそれだけではまかなえないので、JR長崎線から線路に生えている雑草を入札して足りない分を補っていたようである。
 牛馬の手入れの方は安良川の下流(上流は飲料水などに使うため)を使っていたようである。そこは馬洗い川などと区別はつけられておらず、牛、馬、更には洗濯物もそこでされていたらしい。そこからも人と牛馬との仲の良さがうかがえる。  しかし近年、機械化が進んだ上に、衛生上の問題、牛馬の飼育費にみあう収入が得られないとの理由から、昭和35年くらいから徐々に牛馬の数が減っていき、今では一軒の農家も飼っていないらしい。


・ 町の耕地について

圃場整備以前は各個人の土地がばらばらの所にあり、その土地を不平不満なく一箇所に集めるのに10年もかかったそうです。しかし、この圃場整備のおかげで農作業もしやすくなったとおっしゃっていました。
近年では米作以外にもカスミソウ、アスパラガスなども作っており、園芸などもはじめたそうです。


・ 村の祭りについて

1月7日「ほんげんきょう」・・・正月ものを燃やして、家族の無病息災を祈る、一種の儀式みたいなもの。他の地方では、「どんと焼き」などという。
1月14日「もぐらうち」・・・1月14日の夜に子供たちが家々を回って旧正月を祝い、五穀豊穣を祈る行事。子供たちがその地方に伝わる歌を歌いながら、木の棒にわらを巻いたもので地面をたたき、地中に住むもぐらを追い出し1年の豊作をいのるものである。今回、吉田さんが原古賀町に伝わる歌を歌ってくださいましたが、録音機を持ち合わせておらず、それを記録することができなかった。今回は仕方ないので例として椎葉村鹿野遊地区の歌を載せておく。
               「ほってりひよどりホーイホーイ 今夜あやーだあーかーさんばい あしたの晩からかーすばい ほってりひよどりホーイホーイ」


・ 村の発達について

電気は古賀さん達が生まれる以前からつながっており、小さいころはテレビが無いのでラジオを聞いていたそうです。しかし電気は町の方にしか通っておらず、山の方に住んでいた人は自分で自宅まで電線をつながなくてはならず、そんなお金はとうてい無かったので、ランプを使った生活を送っていたそうです。また、原古賀町は藩と藩の境目にあったため物流交換が盛んでとても栄えていたそうです。


  ・ 昔の若者について

昔は現代のようにゲームなどもなかったので、季節におうじた遊びをしていたそうである。 冬・・・現在でも正月の遊びとして親しまれているコマまわし、凧揚げなどをしていたそうである。
  夏・・・試肝会(肝試し)、水泳大会が必ず行われていたそうである。試肝会は臆病症を治すためにおこなわれており、近くの神社で行われていたそうである。昔は電灯もなく、真っ暗闇の中で行われていたので、かなり怖かったと古賀さん達がおっしゃていました。この肝試しは、学年ごとに行く範囲が決まっており、きちんとそこまで行ったかを証明するものがあったそうである。水泳大会は近くのため池で行われていたそうです。学年があがるにつれて岸から離れていき、最高学年が岸のほうで、長い竹ざおを持っていたそうである。もし溺れたときは、そのとなりの学年が助け、いちばん端の学年は溺れても竹竿につかまるかなにかをして、自分でどうにかするしかなかったそうである。昔は今の競技にあるクロールのようなもでなく、いぬかきなどで泳いでいたそうである。この水泳大会のために、近くの川で泳ぐ練習をしていたそうです。
  その他、一年を通しての遊びとして、パチンコ、魚とり、野球、ねん棒をしていたそうです。パチンコではうっつめ鳥やつぐみ、ひよどりを獲り持ってかえって食べていたそである。野球は今のようなバットはないので、竹や木をバットがわりにしていたそうです。ねん棒とは木を槍のように先の方をとがらせ、地面の土をやわらかくし、そこに刺していき、相手の棒たおしていくあそびだそうです。
  夜は各家庭にある電球が少なかったため、少しでも明るいうちに勉強をすませ、昼間 の遊び疲れをとるために、早くから寝ていたそうである。また寄合いもよく行ってい たそうです。昔は食料事情が悪かったので、おやつの代わりによく木の実などを取っ て食べていたそうです。古賀さん達が小さかったころは、鳥を獲る仕掛けを作ったり 遊びの道具を作るために常に小刀を持ち歩いていたとおっしゃていました。遊びの話 しをしてくだっさているとき、古賀さん達は昔を思い出したかのように楽しそうに話 しをしてくださいました。


(一日の行動記録)

9:45   六本松出発
       みんな時間通りに集まり予定時刻に出発できた。
11:30  原古賀町到着
       約束の時間までにかなりの余裕があったが、
       原古賀町は広く区長事務所を
       探すのにいがいと時間がかかった。
12:20  原古賀町区長事務所に到着
       約束の時間より10分早く着いてしまった。
       私たちが着いたら古賀さんが
       電話で吉田さんを呼んでくれた。
12:40  聞き取り調査開始       
13:40  話を聞き終わり区長事務所を出る
       帰りのバスの迎えまでに時間がなかったので、
       すぐに集合場所にむかった。
       帰り道に熊野神社があったので少しのぞいていった。
18:20  六本松到着



・ 感想

今回の聞き取り調査をとおして一番思ったことは、古賀さん達はどうして自分たちの住んでいるところについてこんなに詳しくしているのだろうということです。実際、同じところに10年近く住んでいるけど、こんなに詳しく自分の住んでいる土地についてしりません。このような知識をいつまでも絶やすことなく伝えていくために今回の調査はとてもためになったと思う。