2002年7月6日 佐賀県鳥栖市下野町におけるしこ名調査 (調査者)1EC01047川崎 剛一 1EC01010E石田 貴幸 1. はじめに 私たちは、しこ名の収集、および地域の歴史、昔の生活などについての調査を行うため に、佐賀県鳥栖市下野町の調査を行った。 まず、この地域の説明を行うと、この地域は鳥栖の南部、筑後川沿いに位置しており、1 80世帯が暮らしている。大きな集落である。この町は筑後川とともに生きてきた町なの である。 道自体は完全に舗装がなされており、自動車などは容易に通行することができる。また、 圃場整備が行われ、大型で機械の導入が容易な田んぼになっている。ビニールハウスもあ った。 お話をしてくださった区長の方は、最初この町の地名(しこ名)を中心にお話を聞かれる とは思っていらっしゃっていなかったようで、地名のことを聞き始めると、最初戸惑われ たが親切に話をしてくださった。あらためて地域の人のやさしさに触れることができた。 これより、現地での聞き取り調査の会話内容を元に、地区にあるしこ名と町の歴史、そし て昔の生活などについて書き示していこうと考えている。 2. しこ名 今回の調査の目的として、まず挙げることができるのが、しこ名の収集である。現在では 圃場整備が行われたことで、昔の地形をとどめていない地域もあり、もう呼ばれることが なくなったしこ名もあった。それらを含めて、様々な地名のお話を伺うことができた。今 回の調査でわかったことは、しこ名のほとんどがその土地の特徴、またはその土地で行わ れたことに基づいてつけられているということである。馬を洗ったことから、ウマアライ という地名が形成されたように。また、京都に似せてつけた地名「サンジョウドオリ」と いうのもあった。「オッポゲ」という地名は、洪水で土地に穴があいたことから名づけら れている。「クモハラゼキ」という、昔あった堰の名前も残っていた。「トイヤキ」とい う、昔の「何でも屋」の名前も収集することができた。 下野町の農地で、現在の土地の呼び方と昔のものがほとんど変わっていないということが ある。集落にはしこ名が存在しても、水田にはそのようなしこ名が存在しないようであ る。今の小字と、通称地名に変わりがないのである。なぜなら、昔、下野の水田は水没し ていたからであろう。水害に見舞われ、水浸しであったことが、地名の形成に影響を与え ていると考えられる。 今回我々が収集することのできたしこ名・古地名は、以下の通りである。 宅地・集落: 小字上分のうちにヒラカワ(平川)、サンジョウドオリ(三條通)、シロウマル(四郎 丸)、ニシスエヤス(西末安)、ヒガシスエヤス(東末安)、ツジ(辻)、ササノウチ (笹ノ内)、トイヤキ(問屋)。小字五郎丸のうちにエサキ(江嵜)。小字下畠田のうち にスエヤスノテンジン。小字谷のうちにキタマツヤマ(北松山)。 注)「ササノウチ」は、小字下畠田まで範囲が伸びている。また、「ツジ」は、小字下畠 田にもかかっている。 水田・耕作地: 小字上畠田のうちにミヤウラ(宮浦)、キョウヅカ(経塚)。小字八反田のうちにオッポ ゲ。小字孤原のうちにカガノ(加賀野)。小字谷のうちにオノリコシ(御乗越)。小字下 田のうちにゴホンマツ(五本松)。小字下川原のうちにオドロ(荊)。 注)「カガノ」は、小字登り縄手・小字谷にも範囲が伸びている。「ゴホンマツ」は、小 字上畠田にもかかっている。 墓地: 小字谷のうちにシンバカ。 川(筑後川)・水路・堰: 小字上ノ濱のうちにナカシマ、ウマアライ。小字下ノ濱のうちにセンダンジマ(センダン ジマは「ネンドジマ」と呼ばれることもある)。小字孤原のうちにクモハラゼキ。 筑後川の中にあり、小字の範囲外のしこ名: センドグチ(船頭口)、エサキノチンショ 三島町の地名: 小字四本松の内にニホンマツ(二本松)。水田である。 3. 筑後川に育まれた歴史 前に述べたように、下野町は筑後川とともにあった町である。下野町と筑後川のかかわり から歴史を見てみたい。 まず、筑後川は、かつて千歳川(千年川とも)と呼ばれていた。昔の下野は川底で、大 水で土がたまって田んぼになったそうだ。沖積層の土地だそうだ。昔は筑後川に大きな本 流が存在せず、明治の初めになって堤防ができたことで本流が形成された。昔は川が蛇行 していたので、現在も福岡・佐賀の県境が複雑になっているという。また、洪水はたびた び地形を変えたのである。 洪水で川の流れを直流にするのは、困難を極めたそうだ。昔は川が深く、下野町は常に水 害にあっていた。中でも大きい水害は、明治6年と昭和28年にあったという。話者の方 は、昭和の水害について記憶にあるとおっしゃっていた。その規模はすさまじかったとい う。しかし、悪い面ばかりではない。筑後川を通じて昔から人々の往来が盛んであった。 舟が一番の交通手段であり、渡し舟もあった。しかし筑後川に橋がかかると、渡し舟の利 用者が激減し、廃止されることになった。また、大水などで土がたまり田んぼができ、さ らに土をためる柳を植えて田んぼを広げていたらしい。 また、「筑後川駅」が一時期存在し、人の往来を盛んにしていた。しかし筑後川にフラン ス人が設計した鉄橋がかけられた。その後、筑後川駅はなくなったという。 以上のように、下野町は筑後川とともに生きてきた町なのである。 4. 安徳天皇と地域の祭り・信仰 さて少し話は変わるが、話者の方々は歴史的に見ても大変価値のあるお話をされた。ここ ではそのお話を記しておく。 源平の騒乱記 壇ノ浦で平家が敗れたとき、まだ幼少であった安徳天皇を連れてその母 建礼門院とその他数名の女中たちが入水したという話は有名だが、実はそのとき入水した のは安徳天皇本人ではなく、身代わりであり、安徳天皇は下野町の立石家へと落ち延びて きたらしい。当時の文献も残っており、我々もそれを見させていただいた。文献の「立石 家据置記」によると、安徳天皇それほど長い期間ではないが、立石家にかくまわれ、25 歳のときに疱瘡にかかって亡くなったという。そのため、この地域にある水難よけの神様 「水天宮」は、安徳天皇とその母である建礼門院を祭っている。このことからわかるよう に、この地域は平家全般と深い関係があるということだ。この地域では12月25日に平 気の落人の祭りを、菅原道真の祭りに見せかけて行っていた習慣があり、「天神祭」と呼 んでいる。 また、その他のお祭りとして、10月10日に秋祭りが老松宮にて、また5月5日には水 天宮で水神祭が開かれている。 この地域は筑後川に面しているため、水難に悩まされることがよくある。そのため水天 宮といった水難よけの神様もあり、水難よけのお守りがちゃんとある。 一方で水不足に悩まされることはあまりない。しかし雨乞いの儀式はちゃんと存在するの である。雨乞いとしてオナゴズモリを老松宮で行うのである。女が相撲を取るのである。 効き目があって雨が降るのだと、話者の方はおっしゃっていた。 なお、この水天宮は、堤防工事などにより、昔より300メートル移転したそうだ。 下野にある塚で立ちションベンをすると、たたりで高熱が出るそうだ。お茶で清めていた という。 5. 昔の食生活 ここで下野町の昔の食生活についてお話してくださったので記載しておく。 食生活だが、主食は非農家と農家では違ったようだ。農家でなければ大豆、こうりゃん飯 を食べていたというのに対し、農家は戦時中でも白米を食べていた。 肉といえば鯨の肉であったという。牛肉を食べるのは祝い事のときぐらいである。また、 昭和25年ごろまでは犬肉を食べることがあった。ごった煮(がめ煮)にして食べていた という。「赤犬の肉がおいしかった」とおっしゃっていた。「この前中国に行ってきた ら、普通に犬を食べていた」と語りながら。大寒・小寒の頃、餅つきが終わると青年団で 犬を食べていたそうだ。 筑後川沿いの立地のせいか、魚は川魚を食べていたという。筑後川から、豊富に魚が取れ ていた。フナ・コイ・エビ・貝などが取れていたという。柳川からあさり貝・めがじゃ (二枚貝)・うみたけ(海茸)を売りにくるものがいた。 おやつと言えば、桑の実、むくの実、柿、みかんなどがある。桑の実は木が直径20?3 0センチになって、実が赤黒いときに食べると美味しいのだそうな。むくの実は甘いのだ そうだ。話者の方は何か感情をこめて語っていた。 6. 人同士のかかわりあい まず、14・5歳から24・5歳くらいまでの若者で青年団が結成されていた。彼らの年 代は、日曜のみ農作業に従事し、ほかの日は日本ゴム、アサヒコーポレーション、日化ゴ ム、月星化成、ブリジストンなどに出稼ぎに行っていた。 我々が食べ物の話をしていて、干し柿の話題が出たときに、話者の方が語ってくださった ことだが、12月14日に14・5歳の男子たちが寺にこもって騒ぐ「みやごもり」とい う行事があった。この行事のために農家は米一升を寄付していたそうだ(米がなければお 金だったそうだ)。ちなみに川をはさんだ久留米の人たちとは仲が悪く、けんかが絶えな かったらしい。「久留米の人は頭がいいから柳植えて自分達の田畑を少しでも増やそうと する」とおっしゃっていたのも、仲が悪かったことの証拠かもしれない。 この町では、男女の規律が厳しく、他地域で見られるようなクラブといった、男女で寝 泊まりすることは無かった。もちろん、普通の男女交際はあり、酒を飲むことはあったそ うだ。 今の公民館から見て南東部の位置に、昔は「トイヤ(キ)」(問屋)といって、何でも屋 があったそうだ。物売り、旅館、渡し舟をしていたそうだ。 7. 昔の農作業 下野町では、昭和37年に圃場整備が行われたのだが、圃場整備や農作業用の機械が導入 される前は、どのような形態で農業が営まれていたのだろうか。 昔の田んぼは当然ながら四角いものではなく形はばらばらで、大きさは最大でも4反ぐ らいだったそうだ。田植えは完全に人力で行っていた。下野町の人々は出稼ぎに出ること が多いため、田植えの労働力として、三潴郡の人を呼び、雇う形で協力してもらっていた らしい(10人程度雇う)。下野町は、今も昔も、兼業農家が多いのが特徴である。この 点は注目すべき点かもしれない。昔も半分くらいの家が兼業農家だったそうだ。農業以外 でも生計を立てていたことにも関連するだろう(ゴム工場への出稼ぎなど)。 牛を用いてしろかきの作業をしていたそうだ。大農家では馬も飼っていたという。我々が 問い掛けてみると、話者の方は、馬は筑後川で洗っていた(「ウマアライ」という地名が ある)とおっしゃった。この牛馬は死ぬ前に共済に頼んで引き取ってもらっていたといわ れている。そのため、牛馬の墓が無いそうだ。 昔、上畠田より北は水田で、下畠田より南は桑畑だったそうだ。いまでは、大半の地域が 水田として利用されている。 下野町は筑後川沿いにあるために、雨がふれば土地は水浸しになっていた。田んぼになる ところは集落の土地よりも標高が低く、昔は、稲刈りは船上から行っていたというくらい である。その土地も、昭和になって大牟田の石炭を動力とする排水場・ポンプ場(通称: 機械場)ができ、今では佐賀県トップクラスの収穫量を誇る水田となったのである。 ちなみに、昔の稲の収穫量は、今の10分の1もなかったのだとおっしゃっていた。 8. この地域の変化そして現在 下野町は、何百年も前、北松山・南松山と呼ばれていた。 明治の頃、下野町は隣の三島町の不動島・田出島を包括していたという。明治時代の村の 区分では、下野町も三島町も下野村に属していた。鉄道(鹿児島本線)が開通してから、 三島町と下野町に分かれたという。田出島にある浄福寺は、3つの地域が協力して建築さ れたとおっしゃっていた。今回の調査で、三島町の地名も一部教えてくださった。このこ とから、下野町と三島町は同じところであったことが考えることができるであろう。もっ とも、今は鹿児島本線の線路が盛り土の上にあり、高くなっているので、2つの町はほぼ 分断さている。 今でも、下野町は180世帯が暮らしている大きな町なのであるが、昔は今よりもさらに 世帯数が多く、250世帯あったのだとおっしゃっていた。 昔は下野町に小学校があったそうだ。明治40年代まで、朝日分校があったそうだ。分校 のあった場所は今では水田になっている。 戦争中は、筑後川で、機銃艦載機が襲来したこともあったようだ。 橋がかかる前は、渡船場があり、渡し舟が存在した。しかし、橋ができると継続が困難に なり、閉鎖になったのだった。 最初に述べたように、この地域は筑後川とともにその歴史を作り上げてきた地域である。 その生活は筑後川を中心に成り立ち、水害など川の厳しい面など苦しいこともあったが、 それ以上に筑後川からの恩恵が大きかったことは現在のこの町の様子からも容易に想像が できる。川による人の往来、豊富な川魚など、筑後川の恵みによってこの町は発展してき たのである。公民館から出てすぐにある小高い丘を登ると眼下に筑後川を見下ろすことが できた。現在でもこんなに大きい河なのに一昔前までは今の何倍も大きかったというのだ から自分たちには想像もつかない雄大な流れだったのだろうと思う。 この地域はこれからも筑後川とともにその歴史を歩んでいくことだろう。「筑後川ととも にある町」として。 9. 謝辞 今回の調査で、下野町の区長さんであり、私たちの聞き取りに応じてくださった池尻靖様 (昭和7年生まれ)、前区長である古澤安男様(大正13年生まれ)、そして資料(『立 石家据置記』、久保源六(佐賀県史調査員)『安徳帝御遺蹟に関する報告書』昭和15年 4月)の提供をしてくださった立石様にこの場を借りて感謝の意を申し上げます。 |