2013725

1TE13810 藤田拓己

1TE13835 八木敦史

 

鷹島の人たちへのインタビューレポート 〜殿ノ浦地区〜

 

 

 

今回私たちは長崎県松浦市の鷹島、殿ノ浦地区のご年配の方々にご協力いただき、インタビューをしました。その目的は失われつつある通称地名や忘れられつつある昔の村の姿を記録し、後世にのこすことです。以下にその調査の内容を逐語記録しました。

 

調査日:平成25年7月15日

 

担当者:1TE13810 藤田拓己

1TE13835 八木敦史

 

 

協力していただいた方々:北野 音次郎さん(大正14年生)

           :坂本 尚弟さん (昭和3年生)

           :岩永 實さん  (昭和6年生)

           :坂本 養次郎さん(昭和6年生)

           :石田 勇さん  (昭和11年生)

 

目次

 

1.        通称地名について                                              2

2.        農業、漁業について                                            3

3.        昔の若者の生活、青年宿を中心に                                5

4.        昔の人々の生活                                                6

5.        戦争の影響                                                    8

6.        今と昔の違い                                                  9

7.        まとめ                            10

 

 

 

1.通称地名について

 

最初に海の地名や磯の地名など、お聞きしていいですか?

瀬があったら瀬の名前もお願いします。海岸線にそってどんな名前がありますか?

:「そこはトウジンバトといったね。」

波止があったのですか?

  :「元寇のときに、使ったんじゃないかな」

深かったのですか?

  :「いやぁ、浅かった。」

船が着くのですか?

  :「大潮だけ船が着く。」

  :「むこうからきたらちょっとでっぱっているとこね?」

ここはカワマツリでいいのですか?

  :「はいはい、カワマツリ。」

  :「そこは昔タイノアジロって言ってね。」

鯛の網代があったのですか?

  :「いやいや、ただの地名。」

ここは黒木坂なのですね?

  :「いや、ハルノサカっていうとね。」

  :「ここは中通免に位置していてね。うらに面している関係上殿ノ浦は静かです。」

こういう水田があったところには名前がついているのですか?

:「全部ついている。」

通称なようなものはありますか?

浜とか磯、瀬の地名とか。

  :「海岸の田んぼのところを池尻というね。池はないが池尻。

   今は減反で作っていない。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2.農業、漁業について

 

田んぼの干ばつはないのですか?

  :「ないね。毎年大丈夫だ。そこは川からではなく山から水をとっていて、イノシシの水浴び場になっている。」

定置網とかはあったのですか?

:「殿ノ浦はごちあみ漁と養殖と、タコ漁とえびをしていた。定置網はしていない」

ますあみのようなものはありますか?

:「以前はしていた。殿ノ浦の湾とその周辺に合計7個のますあみの場所があった。その場所を8件の家々が2日ずつで交代してやっていた。ますあみというのは一種の定置網。今はつぼあみといっている。以前とは違って小さく個人でするようになった。つぼあみにはつぼ袋というのがあって、それに袋をつけて魚をとっています。今の時期はブドウイカがとれる。昔のおおきな定置網は、模型が資料館にあります。」

つぼあみは袋をかえるのですか? それとも網ごと替えるのですか?

  :「網はそのままで袋だけかえる。網は汚れたら変える。

魚がはいらなくなるからね。」

それは、イカがはいる量が違うから二日ずつ交代していくのですか?

:「場所によって好きな場所があるから交代する」

  :「いまは坪網に権利があり一週間ごとに交換する。くじで順番は決まっている」

農家をやっている方は殿ノ浦にはおられるのですか?

:「自分ところで食べる分だけは作るが、漁師のほうが主な仕事。」

田んぼの大きさはどのくらいですか? だいたい3反ぐらいが平均なのですか?

:「そうですね。あとはみんな畑。きゅうり、とかつくっています。なので米は外から買うことが多い。」

船の中でくらす人はいるのですか?

:「いないねえ」

:「はえなわのことをナガノといい、その人は泊まってたのかも。

    はえなわっていうのは10m位の縄に針をたくさんつけるもの。

えさはえびなどを使う。」

(元寇の時代の)つぼはひっかかるのですか?

:「ひっかかります。資料館で預かっているのは ほとんど殿ノ浦のものですよ」

ここは避難港としては適していますか?

:「沖からの風はすべて防げるが、

元寇の風があってそれは弱い。 通称はえの風。 ※ハエの風=南風

   元寇はそれで沈んだからね。」

木造船をつくっているひとはいたのですか?

:「いるよ。船大工さん 阿翁にもいたよね?」

水がもれないようにするにはどうやって切るのですかね

:「釘で止めるだけさ。釘はのこで合わせて。それだけで水が漏れない、そういう技術を船大工は持っていた。」

板はななめに切りますよね? どうやって切るのですかね?

:「それはのこずり。それでやる」

木船は何丁ロだったのですか?

:「ロは、2丁ロですね。2丁ロの船には2人でのりました。ロの船ではそんなに遠くには行かない」

その船には帆をかけるのですよね?

:「風が出たらだす 風がないときは巻いていた。

   沖に出たら帆をだす。風上にも帆を斜めにして進める。帆を使うことで風上にもすすむことができた。その時は風上に向かって斜めに固定する。」

動力船の登場は?

:「うちは昭和23年に動力船が来ました。

その当時は4万円です。昭和23年に。もちろん動力船と和船では動力船のほうが高価でした。」

木造船の寿命はどのくらいですか?

:「その人の手入れによってねぇ、何十年も持つよ。だいたい30年くらいが普通だと思う。長く船を持たせる手入れとして煙にいれるという作業がある。月に一回ぐらい、大潮のときに陸にあげて、潮が退いたらそこで火を燃やして、船に煙を当てる。そうすることで船底についた虫たちを煙の熱で殺すことができて船の長持ちにつながる。今は木ではない素材でできた船なので年に1回ぐらいしか行わない。」

  :「あんまり燃やしすぎると船燃えちゃうよね。(漁師ジョーク)」

和船は一生で1台ぐらいですか?

:「そういうわけにはいかないねぇ。一生に2台くらいですか。」

網干場は共同であるのですか?

:「竹でタケダシっていうんですけど、もうこ竹で個人じゃなくて共同で使っていた。」

網は寿命はどれくらいですか?

:「昔はすぐ破けるので、破いては修繕してという感じでしたね。汚れを落とすために、しいの木の皮を湯がいてその汁につけたりしました。」

柿渋とかはぬるのですか?

:「柿渋はまわりで染めよった。塗ったのは昔のはなしだが、山で自分達で取ってきてつくっていた

網の大きさはどのくらいですか

:「サイズはいろいろだよね。たとえばごちあみはいろんな魚をとる

   規定で決まっていて、8mくらい? 破ると海上保安庁が飛んでくる。」

ごちあみでは何が取れるのですか

:「イサキとかですね。今は鯛がおわって、イトヨリなどがとれます。」

 

 

3.昔の若者の生活、青年宿を中心に

 

青年宿あったのですね?

:「あった。夜這いとか。」

追っかけられなかったですか?

:「おっかけられないですけど。家に行った。」

夜這いで結婚したりするのですか?

:「あるある。夜這いで子供できちゃってそのまま結婚とかね。

    子供できちゃったらもう結婚しなと。なってくれと。」

:「昔は船頭津まで歩いて行ったねぇ。遠かったな。」

戸締りとかはあけとくのですか?

:「昔はほら、扇風機とかもないじゃない? だから全部開けっ放しだとですね。

    風通しのために。だからどこからでも入れるわけ。」

だいたいは知り合い?

:「もうほとんどそうですね。」

夜這に来る人に恋愛関係はあったのですか?

:「そうじゃなくて、一方的ですね。一方的じゃなきゃ夜這いじゃない。だけどすでに恋人同士の関係というひともいた。」

一年中青年宿にいるのですか?

:「うんそうだね。ただ青年宿に泊まるわけではなく、ただ集まって話をするだけです。名前に宿ってありますが実際には泊まらない。」

夜這いで他の島に行くことはあるのですか?

:「それはない。そこまではしない。それだけ昔は島にたくさん女性がいましたか

らね。人口も多かったけんですよ」

だけど船頭津まではいくのですね

:「歩いてですよ」

:「青年宿は青年宿に緊急の場合は青年宿に。消防とかに使われました。」 

4.昔の人々の生活

 

:「診療所が昔アワオにあってですね。」

じゃあ先生は島にひとりたんですね

  :「はい 鷹島の有名なかたが。山本さんというのですけど、

銅像がたっていますね。」

電気やガスはいつごろきたかわかりますか?

  :「電気は1935年、昭和10年、一斉に来ました。みんな手をたたいて喜んだそうですよ。電気は福島からきていますね、海底ケーブルで。それまではランプで暮らしていました。最初は家に電燈が1個ありました。その時の電球はだいたい10Wくらいでしたので、ランプよりは明るいが、今と比べると暗かったです。ちなみにその時は九州電力でした。」

ガスはいつごろですか?

  :「それは個人でプロパンガス。終戦後にきた

   小さい頃はフロも釜でしたから。ガスの前に冷蔵庫があったのを覚えています。冷蔵庫のやつは電気のやつです。ガス屋さんは日進丸で伊万里から運んできていたんですよ。遠かったですね」

その前は山にいって木を切ったのですか?

  :「そうですね 焚き物。焚き物の仕事は男だけでなく女もしました。1週間に何回というわけではなく、仕事の合間に行きました。木の種類としてはまてばしいや樫の木が多かった。まてばしいの木は多かったから木の実で焼酎を作ったりしました」

じゃあその木は焼くのですか

  :「焼くことを仕事にしている人がいたね。炭焼き

   朝鮮人とか。」

朝鮮のひとは儲かるからきたのですね?

  :「そうですね。無理やりではないですね。」

生活に使う薪はどこへ取りに行きましたか?

  :「個人個人で裏山へ行って薪を取りに行った。山全部は切らない。年ごとに薪を取りに行く山を変えていた。一つの山の木を切ってから次また切るまでに20年かかった。炭焼きは朝鮮や韓国の人がしていた。窯作りが朝鮮人は上手。こっちのひとはそれをまねていた。」

朝鮮人の方とは何語で話していましたか?

  :「かたことの日本語で話していた。朝鮮の人は日本語がうまくなっていた。日本では、朝鮮の人に“大和さん”などの名前を付けていた。」

山では薪のほかに山菜とか木の実とかはとれましたか?

  :「山桃、そこらへんや道端に落ちている。秋はしいのみ。そのまま食べる。薪用の木を伐採した後の山には、野いちごがよくできていた。真っ赤になったものをそのまま食べる。あけびとかもとれた。」

米はこのあたりで保存していましたか?

  :「保存していた。」

写真 道端で見つけた木の実米を保存しているところにねずみなんかは出てきましたか?

  :「出てくる。」

それはどのように対策しましたか?

  :「べたべたした“とりもちという罠を使っていた。米小屋に入れておいた。」

こどものときにこのあたりでどのような遊びをしていましたか?

  :「竹馬、鬼ごっこに似た遊び、けんぱっぱ、木製のこまを戦わせていた。あらかじめ回しておいたこまに自分のこまを入れて戦わせていた。」

海に潜ったりはしましたか?

  :「しました。サザエなどを取ったりしていた。」

山で遊んだりはしましたか?

  :「足を締めて、ぽとっと落とす罠をかけて小鳥をとっていた。とれた小鳥は焼いて食べていた。今の子は木登りが下手。怖がって登ろうとしない。」

病気になった時はどうしていましたか?また、病院はありましたか?

  :「軽い病気、けがのときは中通りに向井さんという人に診てもらっていた。その人は医師免許を持ってない。でも、外科も内科もやっていた。ひどい病気のときは、伊万里の大きい病院に船を使って行っていた。」

昔は麦を食べていましたか?

  :「米に混ぜて食べていた。割合は、米:麦=3:7。ほとんどのとこは畑を持っていて米は少なかったから。麦は健康にもいい。」

牛とか豚とか鶏とか家畜はいましたか?

  :「中通りに牛がいる。肉牛だけ。高島には乳牛はいないため。よそから買っていた。モンゴル村に何匹かヤギがいる。お客様観覧用。今は春地区に養豚場がある。昔は、たくさん養豚している人がいたが、今は少なくなってきている。」

この地区でお祭りはありますか?

  :「鷹島町のお祭りと地区のお祭りがある。今年はそのついでに運動会をしようと思っている。」

この村に身分格差とかはありましたか?

  :「ない。みんな平等。」

テレビ、ラジオはいつごろ来ましたか?

  :「ラジオは早かった。昭和30年ごろ。テレビは遅かった。高崎さんの家にテレビを見に行っていた。プロレスとかを見ていた。」

5.戦争の影響

 

この村は戦争のどのような影響はありましたか?

  :「あまり影響はなかった。空襲警報が何度かなったくらい。でも、本島の家々が焼夷弾で燃えているのが見えた。あらかじめ油がまかれていたらしくとても燃えていた。また、昭和1849日に兵士の見送り用の124トンの船に定員をおおきく超えた123人乗っていたが、沈没して105人亡くなって助かったのが18人。兵隊さんと見送りに来たその親戚が乗っていた。」

戦争に兵隊として招集されましたか?

  :「兵隊に来いっていう命令が国から出ていた。1番最後の兵隊として昭和19年に徴兵審査を受けて、昭和20年に6か月兵隊をして帰ってきた。四国の陸軍の専属兵として配属された。半年間の軍隊生活はマイナスとはならなかった。教育がそういう戦争思考になっていた。」

日本が負けていると知っていて兵隊に行っていましたか?

  :「わかっている人はわかっていたと思う。はじめは勝てると言っていた。その後も全滅している軍がいたにも関わらず、ずっと日本が勝っていると嘘を言われ続けていた。」

戦争の間、この村での普通の生活(漁業など)はどうなっていましたか?

  :「共同で漁をしていた。島に男がいなくなって女が稼ぎにでていた。」

昔と比べてこの村の生活は変わりましたか?

  :「変わっている。とても良くなってきている。前はよその畑の大根を取って食べたりもしていた。もちろん怒られた。」

長崎の原爆はここから見えましたか?

  :「見えなかった。でも、四国から広島の原爆は見えた。そのとき、広島の人々は全滅だろうと思った。町は真っ赤に焼けていた。また長崎に落ちた原爆は実は、小倉に原爆を落とす予定だったが、その日の天候が曇りだったため長崎に落とすことになった。」

終戦の放送があった時の気持ちは?

  :「もう戦争に行かなくていいと安心した。終戦の明後日に戦地に行くという予定だった。」

 

6.今と昔の違い

 

昔の島での移動手段は?

  :「徒歩だけ。昭和30年くらいに“ダビット”という車が1台きた。それからだんだん増えて、それから長崎のバスを鷹島町に持ってきた。5年後に鷹島町の町営バスになった。」

このあたりの道路は昔からありましたか?

  :「最近できた。だんだん道路はできてきた。」

昔は犬を食べる習慣はありましたか?

  :「犬はなかった。でも、食べたことはある。おいしかった。」

今は普通には食べないけど、昔は食べていたものはありましたか?

  :「飼っているウサギとか鶏とかを食べた。兵隊へ行く送別会で鶏の素焼がでたこともある。」

エサはなにを使っていましたか?

  :「草なら何でも食べた。」

この島に朝鮮の人以外でよそからどんな人が来ていましたか?

  :「具体的にはわからないが、結構な数の人はきている。」

元寇の船が出てきたときどう思いましたか?

  :「やっぱりあったかと思った。この周辺で船が多く沈没していたことは知っていた。ナマコ網でたまに沈没物がかかることがあり、漁師の人が持っていることもある。台風のときなどによその船が避難してくることもあった。」

天気予報などのない昔は大荒れになりそうだとか台風が来るということはどのように知ったのか?

  :「勘を頼りにしていた。風の吹く方向などから予測する。」

テレビやラジオのないときニュースはどのように知っていましたか?

  :「漁師の勘で。昔の人の勘は今の人に比べてよく当たっていた。潮の満ち引きもわかった。」

昔と今で海の様子は変わりましたか?とれる魚の変化は?

  :「昔はいなかったような熱帯魚がでてきたり、お盆ごろにしか出ないはずのクラゲがずっといるようになったり、磯焼け(海藻が生えなくなること)が見られたりする。水温が上がった影響ではないか。」

村はこれからどのようになっていくとおもいますか?

  :「もっと良くなっていくと思う。」

 

 

 

7.まとめ

 

 今回鷹島を訪れて貴重な経験をすることができた。私たちの調査にご協力いただいた、殿ノ浦地区の地区長の加藤秀一さんをはじめとした、鷹島町の方々には感謝の意を申し上げたい。

今回の調査を通じて昔の人々の生活を垣間見ることができた。特に昔の方々の自然を最大限に活用している生活には今の私たちの、すべて文明の利器に頼って生きる生活について、考えさせるものがあった。昔の人々が活用してきた「勘」という能力が失われてきているのは、少し残念に思う。

 このレポートには今と昔の、島の様々な姿を記録できたと思っている。もっと先の時代を生きる人々に自然を頼った生き方や、若者同士の交流などを伝えたい。

 

 

 


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