2013年度 少人数セミナー 服部英雄教授

「長崎県鷹島町三里免での調査」

九州大学 1年 工学部 木下詔彦

九州大学 1年 理学部 田窪秀行

九州大学 1年 法学部   吉村充生

 

<はじめに>

私たち三人は徳島県、愛媛県の出身ということもあり、現地の方言に対して悪戦苦闘したが、地元の方の、身振り手振りを交えたお話により、無事に、調査ができたと思う。

 平成25年7月15日の午後一時、三里地区生活改善センターにて、待ち合わせ、お話を伺うことになった。

 

<ご協力していただいた方々>

山崎哲也さん

猪原義一(いはら よしいち)さん 昭和4年 6月21日生まれ

 

<調査当日の流れ>

一日の予定

 

7時45分   九州大学出発

 

11時     三里免生活改善センター到着

 

三里免の神社や遺跡をまわり、地元の人々と触れ合う。

 

12時     昼食

 

1時      三里免生活改善センターで聞き取り調査

 

6時30分   伊都キャンパス到着

 

<調査結果>

まず、山崎さんたちとお会いする前に行った、聞き取り調査で得た情報を書こうと思う。元寇のお話らしい。「元寇が首を切られ、血が川から灯台にかけて、真っ赤に染まった。浜には、体のいたるところを切り付けられた、モンゴル兵の遺体が流れ着いていた。そのため、付近一帯は“血ヶ崎”といわれ、恐れられた。衝撃だった。また、血ヶ崎付近の山は無縁仏が多数あり、子供のころは怖くてとても近づけなかった。今では、付近の道路は舗装され何もわからないが、当時は、いたるところに骸骨が落ちていた。」私たちは一瞬凍りついた。正直に言って怖かった。だが、今後一生聞くことのできないような、貴重なお話だった。

 続いて、山崎さんたちのお話について書こうと思う。山崎さんはたばこ農家だ。聞き込み調査中に見た、見たことのない植物は、実は、たばこだった。

 

 

 

鷹島町はたばこが主な農作物であった。現在は昔に比べ、農家数も減り、やや、衰退気味だそうだが、聞き込み調査中にたばこをたくさん見たため、まだまだ、たばこ農業は盛んなのだろう。「煙草に対する世間の反応が厳しいから煙草栽培も厳しい」と厳しい顔をしながら、山崎さんはおっしゃっていた。

 

つづいて、今回は同席された、猪原さんからほとんどのお話をいただいた。これからは、猪原さんの体験談に基づく、お話である。

 鷹島町には子供が少ないそうだ。小学校の生徒数は120ぐらい。高校もなく、部活はテニスやバレーだった。野球場がなく、野球は盛んではなかったらしい。つづいて、この地域の水道は平成14年に開通し、水不足が多く、干ばつも起きたため、普段は湧き水を用い、足らないときは水道を用いるそうだ。しかし、水争いや水泥棒はあまりいなかったという。だが、ずる賢い人もいたみたいで、川に泥をまき、それによって水流を変化させ、より多くの水を得ていた人がいたらしい(これはほとんど水泥棒ではないか…)。だが水番という人がいて、こういった行為を厳しく、取り締まったという。水番のおかげで平等が保たれた。また、昔の人の知恵というのだろうか、風で雨が降るのかが分かったという。田についてだが、役人から逃れている田を隠し田というがこの地域にもその隠し田があったらしい。しかし、その意味での隠し田ではなく、“人里離れた地域にある田”という意味で“隠し田”という言葉を使っていたらしい。地域によって“隠し田”という言葉の使い方がこんなにも違うなんて実に興味深いことだ。それぞれの田の名前はなく、地区の名前で呼んでいたそうだ。牛が入れないような、深田はなく、昔はたいてい、牛が田に入っていたという。昔は、農作業中に田にはまむしがよくいた。今は、田植えの時期を早めて、出なくなった。石垣の中によく潜んでいて、湧き水を取るときは怖かったという。長靴などの農具の発展で噛まれる確率も減った。前述したようにこの地域には干ばつが多かった。地区の端と端で収穫量が大きく異なっていたし、収穫できなかったこともあるらしい。この地域は、6等田が多く、昔から“やせている”と言われていた。このやせ具合で、米には大きな影響が出たらしい。しかし、麦に対してはそんなことはなかったという。麦畑には海草を畑にまき肥料の代わりにした。そのおかげで、やせ具合にあまり影響されなかったのだろうの。かせい、ゆいは実際に存在していたが、雇うことはなく、近所の農作業を手伝う感じだったらしい。さなぶりといわれる田植えの後の打ち上げ会があったらしく、童心に返ったよう楽しそうに話していただいた。年によって何時からということが決まっていたらしい。農作業で牛を使うとき、あるかせるときの掛け声は、右に行かせるときは「コシャ」、左に行かせるときは「タッタッタ」、前進させるときは「ホイ」であったらしい。牛に関しては、凶暴なごって牛は飼育せず、雌のみを飼育した。オス牛は恐ろしかったし、荒かったとのお話をいただいた。そして、商人が来て肥えた牛を持っていく代わりに、痩せた牛を置いていったという。馬の体は海岸で洗ったり、バケツに水をくんで洗ったという。日常生活についてだが、ガス以前は、薪で火を沸かしたそうだ。もちろんご飯も薪で炊いた。電話は昭和15年、五月に一つできたという。役場の周辺には公衆電話がたくさんあったとのこと。ごろに山の幸は様々なものが採れたという。例えば、ムベ、イタビ、シイノミなど。食べられる野草はほとんどなかった。ヘビイチゴには毒があるらしい。

 

 

米の保存方法について。米にはネズミが寄ってくるため、トタンや竹で作った箱に米を10俵ぐらい入れ、防いだという。農作業の楽しみだが、期待していたものとは裏腹に、「苦しみが多かった。牛の尻を叩いて歩かせるのが大変だった。」というものだった。冬季、農業につかれ、家に帰宅し、体を温めてくれるものは、囲炉裏のみだったらしい。のちに、掘りごたつや、電気ごたつが普及してきた。村の交通についてだが、車社会になる前は、道は舗装されていなかった。そして、昭和三十年頃に、道が発達した。土地開発は、鷹島が組合を作ったため、周りと比べて、比較的早い時期に進んだ。船を持っていた人は30人ぐらいで、30隻ほどあり、すべて和船だったとのこと。村にはほとんど物資は入らず、伊万里が経済の中心で、物を買うのは伊万里だったし、米を売りに行くのも、伊万里が中心だったという。かまどのお経をあげる目の見えないお坊さんザトウさんは各部落をまわってお経をあげていたという。村人が病気になったときは、昔から診療所があったのでそこに通っていた。「車がなかったので本当に歩くのが大変だった」とのこと。薬売りはほとんど預け薬が普及していた。河原や、境内にはこじきが寝ていた。村の人ではなく、よそから来ていた人だったとのこと。

鷹島での結婚について。家父長制度の時代、鷹島では、昔、家父長制度が浸透しており、個人で結婚相手を決められなかった。結婚相手を決める条件として、お互いの気持ちではなく、権力や富が優先されたのだ。もし、自分の気持ちを優先して、父に逆らうようであれば、駆け落ちしなければならない。山崎さんは、つらそうな顔をして話してくださった。鷹島でも、日本古来の風潮である家父長制度に苦労していたようだ。恋愛結婚が解禁へ。鷹島で恋愛結婚が始まったのは、青年クラブで夜這いが行われてからだそうだ。夜這いはどこか強引なイメージがあるが、男が好きな女に近づくという行為は、個人の意思を結婚に反映していく上で大いに役立ったのだ。こうして、富と権力を重視していた結婚から個人を重視する結婚へと変化したのだ。鷹島の人たちの遠距離恋愛について。「今日、携帯電話が普及し遠方の人々とも容易に連絡が取れますが、携帯が無かった時代の遠距離恋愛は、どのような方法で行われていましたか?また、そもそも、遠距離恋愛はそんざいしましたか?」と尋ねてみた。「遠距離恋愛は、ありました。しかし、連絡手段は、主に文通でした。」と答えてくださった。祭の差別について。「お祭では差別のようなものは、ありましたか?」と質問したところ、「祭りでは差別はなかったよ。皆、平等だった。」と、にこやかな顔をして話してくれた。もやい風呂(共同風呂)について。もやい風呂はありますか?」と質問したところ、「あったよ。でも、必ず男から入浴することになっていた。」とおっしゃられた。厳しい男女差別の様子を物語っているようだ。

最後に猪原さんの体験したつらい経験について書かせていただく。昭和18年4月9日、定期船の遭難事故が起きたそうだ。定員が120人の船に定員オーバーで乗車し、定期船が転覆して、100人の方が亡くなったそうだ。残りの二十人のうち、10人は生存、残り10人は当時は行方不明だったそうだ。後に、9人の遺体が釣竿にかかり、発見されたそうだ。この事故で、猪原さんの兄が亡くなり、相当な悲しみを受けたそうだ。この体験は、最初に書くべきなのか、迷ったが、猪原さんが必死に私たちに伝えていただいたので、ここに記した。私たちは、今後の人生でこの日、話していただいたことは絶対に忘れないだろう。

 

<おわりに>

山崎さんたちと、お会いする前は、きちんとお話をお聞きすることができるか、緊張していたが、実際に会ってみると、皆さんが、気さくな方で、緊張が解け、いろいろな貴重なお話をお聞きすることができた。私たちが生を受けた、平成の時代には考えられないことや、昔の人たちの知恵をお聞きすることができ、感心した

最後に、今回の調査にご協力していただいた方々に心から感謝します。私たち九州大学生が責任をもって、後世にこの貴重な体験談を語り継いでいきます。本当にありがとうございました。

 


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