1.はじめに
調査場所:黒島 調査者:影山幹浩 西元隆雄 黒島は長崎県佐世保市の北部に位置する島である。私たちは鷹島からフェリーを利用してこの島を訪れ、黒島の地名と歴史に関する調査を行った。今回の調査に協力してくださったのは、部落長の水田竜美(みずた たつみ)さん(昭和28年生まれ60歳)と金井田軍人(かないだ ぐんと)さん(昭和18年生まれ70歳)です。
2.黒島における特有の地名の呼び方について
―――黒島の地域特有の土地の呼び方を教えてください 金田さん「黒島の部落は5組に分かれて、上方組・村組・崎組・向組・浜組ってあります。今は35所帯くらいで、私たちの昭和35年くらいは80くらい。今となっては独り暮らしで病院に行ったりして帰ってこれない人もいて、実際に住んでいる人は66人くらいかな」
黒島では地名を人が住む部落を小分けして「○○組」という形で呼んでいる。 その組は、村組、崎組、上方組、向組、浜組の5つある。 村組、崎組、上方組、向組、浜組がある家の戸数はそれぞれ10、7、8、7、3である。ただし入院などの理由により、形だけの戸数となっている家もある。 この組の位置を説明してもらう際に、地図では分かりづらい面があった為に、水田さんの車に乗せていただいて、実際に道を上りながら、位置を説明してもらった。道中には多くの迫力のある自然に囲まれていて、滅多に出来ない体験をさせていただきました。特に道すがらに見た、墓石がすごく綺麗だったのがまた印象に残った物でした。
―――谷という地名について聞きたいのですが 金田さん「ない。地名に入ってるってことはないですね」
事前調査で谷という地名が発見できなかったが、金田さんに聞いたところ、谷という地名は存在しないという。
―――磯の名前で特別なモノってありますか 金田さん「磯場ですか。ありますよ。カタカナ言葉ですね。ネエネエ・タリタリ」
―――すごい名前ですが語源とかってあるんですかね 金田さん「その名前の付け方を聞かれても皆分からん」 笑いながら金田さんは言った。
金田さん「それでタリタリの次が船オロシ、何で船オロシかって言うたら、昔あそこで船をつくって海岸に下ろしていたから船オロシって名前をつけましたってこと。次にウゲ岩。それで山見。山見っていうのは昔黒島で大型定置網があったんですね。その大型定置網を山の上から見下ろしておったから山見って名前になったんですね。それで後海にハゲの下、そこに見えるのが明石ですね」
―――ハゲの下もすごい名前なんですけど、語源は何なんでしょうか 金田さん「ハゲの下というのは、岩山があって、木なんかもなくてハゲた頭のように見えるからハゲの下って言うんですね」
瀬の名前の由来は、山見は定置網の位置をみるためにつかわれていたためである。フナおろしはそこが船を下すために使われていたためである。ハゲの下は木がなく岩ばかりだからである。ネエネエとタリタリについては、現地の人も由来がわからないようだった。
3.黒島の文化や生活について
黒島の歴史について 金田さん「私たちが子どもの時は周りは石屋さんばっかり。墓石とか作る人ですね。ほとんど皆ですよ。20tくらいかな……よく外に石を積みに行ってましたよ。ただ37、8年前かな……あの、ブロック建築ってコンクリートで出来た石ができて、売れなくなってしまったんですよ。それで黒島の人は皆出稼ぎに出てしもうたんですよ。それで人口も減ってしもうた」
―――昔は何人くらいいたのでしょうか
金田さん「200人以上おったんじゃないですか。私が中学三年くらいまで多かったですよ。他所から働きにくる人も多かったですよこの島は。そのコンクリートの石が出来んかったらまだ皆ここに働きょったんでしょうけど、売れんくなったから―――墓石っちゅうたら、今は外来のモノばっかでしょう、中国からとか。昔は黒島の石がよう売れよった。今は日本の石はもうダメよんな」
金田さん「あの日本三景の、厳島神社ですか。あそこの鳥居には黒島石って書いてあるって見てきたんですよ。ただ磯にある鳥居じゃなくて他の―――それに名前が黒島なだけかもしれないし分からん」
昔は黒島の石からつくられた墓石が売られており、この石をとることが黒島の収入源であった。しかし、コンクリートという別の素材が主流になっていったために、黒島の石は売れなくなっていった。現在は中国の石など、外国産の物に取って代わられているのが現状である。このことが原因で、稼ぎ口がなくなっていったために、出稼ぎなどで、黒島の人口は減少していったのだという。
金田さん「今はもう葬儀とか、葬儀屋に頼むんですがね、昔はここは二つに分かれててですね、半分に分かれて皆葬儀を手伝っていたんですよ。昭和46年頃には、120人くらいおったそうですよ此処には。丁度その頃には私は大阪に住んどったんですよね。ここの島で運動会もあるし、村組、崎組なんかで組別の子どもで出ていた。昔は子どもも多かった。どこの家庭も5人以上は子どもを持っとった」
―――此処では漁業は盛んなのでしょうか 金田さん「漁業は二人しかおらんですね」
―――農業はどうでしょうか 金田さん「農業は自分が食べていくだけ」
金田さん「畑もいっぱいあるですよここは。だけど最近は百姓をしとる人も、イノシシにやられてですね。昔は野菜を作る人も多かったですよ。その、じゃがを作ったりしとる人は電気を張ったりして、そういうことが出来る人しか、婆ちゃんの一人暮らしには何もできない」
黒島には漁業はほぼ栄えていなかった。また、農業に関しても、イノシシが畑を食い荒らすため、電気で網をはれる人しかつくることができず、ほとんど行われていなかった。
金田さん「魚は私が小さかった頃磯の周りをたくさん泳いでいた。そこで石山でダイナマイトを使うでしょう。偶にダイナマイトを海に投げ入れるのがおって、魚がたくさん浮いてくる。それをかますに入れて担いで持ち帰ってましたよ。あとは竹を細く切って先っちょに突き刺して、持ち帰っとった」
昔はサザエやウニなどは海岸に行けば取れていたのだという。現在、黒島の人々は年金で暮らしている。
青年会・壮年会について 金田さん「昭和33年頃かい、黒島では中学を卒業したら25歳まで青年団に入らないといけない。それを上がったら壮年会という団体があったんですね。男女で青年会には50人くらいおったんかな」
―――青年会に入ったら何かあるのでしょうか 金田さん「この島のしきたりで、中学校を卒業したら青年会に入団せんと、一人前の―――部落の行事とかあるでしょう―――それに認めない、入らないと。だから黒島で、奉仕作業とかで働く時にでも、賃金が悪くなるんですよ。要するにですね、あの、昔の封建制と同じですね。酷かったですねぇー」 笑いながら金田さんは言っていた。
金田さん「年上の人にちょっとでも悪いことして見つかりゃあ青年会で、往復ビンタですよ。女子も男子も、前に列で並んでバチーンって。私が19の時、その時というと37年か、その頃と言うと石がダメになってしもうて、若いもんがあちこちに出稼ぎに出て行ってしもうてるんですよ。そうすると周りも分かってくる。こういうことをしている、この島はもうダメって。そうなると人間は少なくなって、封建制もダメになってしまったんですよ。私が中学を卒業した頃には、年上のモンはビリビリしよった」
中学を卒業後、黒島の人々は25歳になるまで青年会に入らなければならなかった。仮に入らなかった場合は、島で仕事をしても、その収入が入っている人と比べて明らかに低くなる。このような封建制の残る社会だから、若い人たちがどんどん黒島を離れていったと、金田さんは言っていた。そして青年会の後は壮年会に入ることになる。これら二つの会は掟が厳しく、もし青年会の若い人がおかしな事をしているのを壮年会の年配の人たちに見つかった場合は、男女関係なく並ばせられて往復ビンタを受けなければならなかったという。金田さんは、若い時は年上の人たちにずっと怯えていたと言っていた。
夜這いなど恋愛事情について 金田さん「ところが、島には島のいいところがあってですよ―――いや、これ言うたらダメか……」 誤魔化すように金田さんは笑い声をあげた。
金田さん「その青年団に入ったら、女のとこに遊びに行く。私は大阪の方に10年おったのですがね、そこで車の免許を取りに行ったときに、向こうの講習場の人がですね、「九州では夜這いって流行っとるんですかー? いつか生徒さんから聞いた」って言ったんですよ。そりゃあこの島でもあったとですね。それには年上の人はなんも怒らん。……今私が言いよる言葉が分かりますか?」
恥ずかしながら、私は苦笑いしながら「大丈夫です」と答えるのみだった。 黒島には夜這いの風習があったということが分かった。昔は女性が多く住んでいたので、青年会の集まりにおいて男性が女性を訪ねていき、関係を持つことがしばしばあったのだという。そのため、当時はほとんどの男性が結婚をしていった。しかし現在では、墓石が売れなくなったことにより、黒島に稼ぎ口が少なくなってしまい、若い人たちが多く出稼ぎに出ていってしまったために、女性がほとんどいなくなってしまった。このような理由で現在では結婚の機会がほとんど設けられないのだという。
インフラ整備とその弊害について ―――地図とか見ても川が無かったのですけど 金田さん「川ですか。井戸ではなくて。昔は田んぼが水をそのまま溜めて、その頃は水が毎日のように流れよったですね、夏も冬も。蛍も多かったですよここは。ドジョウやエビ、いっぱいおったですよ。それで土地の整備が進んでから何もおらんくなった。ただそこから水が流れている時に、ウナギが偶に海の方におったくらい。後はエビ・フナ・ドジョウ何もおらん」
事前調査をしていて気になったのが、黒島には川が地図上に存在しておらず、大きなため池も見当たらないことである。黒島は最高で標高70mもあるのにも関わらず、川が存在しないのは異質であるので、その点を金田さんに尋ねてみた。金田さんは、昔は雨が降れば自然と高いところから低いところへと水が流れていき、川が自然発生していたのだという。そこでは蛍も多く、ドジョウやウナギも見られるくらい生物の多い川だった。しかし、土地の整備が進んでいくにつれ、川は消失し、生き物もウナギが偶に見つかるくらいになったのだという。それを聞いて私は空しく、勿体ない気持ちに襲われた。
黒島の挨拶について 金田さん「昔は、年長者が挨拶をしていた。朝、私たち若いもんが年上の人におうたら「おはよなー」って言うんですよ挨拶で。すると年上が年下に「うん、おはようにゃぁ」と答えるんです。それから昼は私が行くと年上に会うでしょどこでも。「どうしよんにゃあー」って言わなきゃならんのですよ。そしたら年上が年下に向かって「うん、どうしよんよー」って答えるんですよ。それを必ず言わんとならない。で、夜、夕方は「きばったなぁー」って言うて、年上に会った場合は、年下から年上にそう言わないといけない。すると年上が「うん、きばったにゃあ」それで家に入る時には「しもったなぁ」って言うて入るんです」
挨拶は年下の者が年上の者に先にしなければならない。朝の挨拶は年下が「はよなー」といい、年上が「うんはよにゃあ」と答える。昼の挨拶は「どうしょんなー」と年下が言い、「うんどうしよるよー」と年上が答える。夜は、「きばったなー」と年下が言い、「うんぎばったにゃあ」と年上が答える。帰った時は、「しもおたなー」と年下が言い、「うんしもうたなー」と年上が答える。先に年上に「どうしよるや」といわれると、年上から往復ビンタをされるようで、「とてもひどかった」と話している。
黒島の方言について 「おおばんみゃーなー」とは「大きいことをいう」ということ。「ひょうしもなか」とつぜんいいだす?「めんどかー」は「ぶさいくだという意味。「みゃーらしか」とはきれたひとに使う言葉である。子供が夜遅く帰ったら、「うすたらず」という言葉を使っていた。これは、「すててもたらん」という意味があった。語尾には「きゃー」や、「にゃー」がつくことが多かった。「おやこうこうするしぇんよかねえ」「あしたびょういんいくしぇん」はそれぞれ「親孝行するといい」「明日病院に行く」という意味で、「するしぇん」が「するです」の意だという。この「しぇん」は、現在でも頻繁につかわれている。孫と話すときは、全く方言が通じないようで、そのために電話をかけてくれないと嘆いていた。
黒島にやってくる行商人について 金田さんに行商人について聞いたところ、ここ数か月はやって来てはいないが、よく来るのだという。しかし年配の人を騙したも同然の悪質な、詐欺紛いのことも結構あるのだという、例えば、長い間話して、打ち解けた後に30万もの布団を、月賦など様々な工夫を凝らして買わせることもあったのだという。金田さんの周りの人も被害にあったということが多く聞くらしく、また金田さん自身4回ほどそのような行商人がやって来たのだという。経験が度重なったので、金田さんはある程度話せば、相手の人がそのような人か否か判断がつくようになったのだという。
黒島における戦後の生活について 金田さん「私は18年生まれだから―――終戦が20年でしょう? 黒島も、終戦後は、私が小学生の頃までは食べるものは芋ばっかりたい。芋で通じる? 芋ってサツマイモのこと。それと畑があったから麦ですね。んで米は全然無しですね。麦もずーっとある訳ではないから、終わりは朝起きたら芋、昼にも芋、夜帰って食べるのも芋。芋の作り方を変えるだけで同じ芋も違うモノにしとった。小学三年生の時はよう覚えとる。ホントに三食芋だった。それで盆とか正月には米を食べるでしょ? それが一番の楽しみだった。ただ、米だけが楽しみだったんですね、小さい時は。ほとんど麦とサツマイモだけやった」
戦後期の厳しい生活を伺わせる言葉だった。今の物資もあり、豊かな生活からは想像もつかないような食生活なのだと分かった。
黒島の電気事情について ―――電気についてお聞きしたいのですが 金田さん「えーっと電気はですね……、27年に丁度私の手前の家に電気がパァと点いたのですよ。自家発電で、ですね。ところが今はですね、向組というのがあったでしょう。そこに発電機があって、上方組からはちょっと離れているから変換器とかなかったから、トロかったんですよ。近くだけ明るくて。それで36年の時に、九州電力がやって来た。自家発電の時は、映画なんかをするときは、個人の電気なんかは切ってしもうて、そこだけ電気をつけて、運動会でも運動場だけに電気をつけたり―――そうしないと、足りんもんだから」 水田さん「400人住んどったもんねその時は」 金田さん「80所帯やったね、そん時は」 水田さん「子どももたくさんおった」
発電所などもなく、電気が乏しかった当時は、協力をしながら上手くやりくりをしていたようだ。人数も多く、映画や行事の時は村全体で団結をしている様子が想像できた。
戦後より過去の歴史について 金田さん「黒島で昔のことを調べようと思ったら何も残っとらんもんね。戦争当時、この島には石碑を建てていたかな海軍の。ずーっと調べたのですが無かったんですね。それがあったら戦争当時のことも分かりやすかったんでしょうがね、だから尋ねてこられてもよー分からんです」
金田さん「ただ、今は潰れていますが、昔はようけぇ防空壕がありましたよ」
黒島における現在の平均寿命について 水田さん「今、平均年齢は77才くらいかな」 思わずビックリして私は声を上げてしまうほどだった。 金田さん「あと十年もしたら半分もおらんくなる。外からも帰ってもこん」
平均年齢の高さには本当に驚いた。出稼ぎに若い人たちが出て行った状況が改めて実感できる数字だった。
お盆時における黒島の様子 金田さん「この島は夏だけですね。夏やったら、ここは大阪・名古屋から帰ってくるでしょう。そうするとそれに付いてくるでしょう友達が。それで泳ぎに行って、アワビ・サザエを取って食べるんですよ。冬は寂しいところですよここ。シケばっかり嵐ばっかりで。盆はこの島は最高。ここに住みたかって言い出す。1年住んだらいけない、冬が来る。ホント夏は最高ですねぇ。ほんで贅沢でしょうこの島。盆に帰ってくるでしょう、友達とか子どもとか。夜なんてバーベキューばかりですよ。肉・アワビ・サザエを焼いてね。この島に来た人は「ホンマこの島は贅沢ですねぇ」って言って帰る。それで車で来るから、肉とか飲み物とかは向こうで買うてくるでしょう。磯物ならここに売っとるから。300人くらい此処に来たこともあるんですよ。水道が足りるかなぁってくらい。道路も畑も車で一杯やった。正月は知れとるから、やっぱりお盆が多かね」
お盆の時には黒島は盛況しているようだった。ある種の避暑地として、黒島は非常に過ごしやすい場所なのだという印象を受けた。確かに穏やかな雰囲気でもあり、都会の喧騒から飛び出して、自然に囲まれるにはうってつけの場所だと私は思った。
黒島におけるラジオやテレビが入ってきた時期について ―――ラジオとかテレビが入ってきた時期とかは分かりますか 金田さん「ええっとね。昭和36年ぐらいかな。うちにSONYのラジオが入ってきて他に2軒が持っているって言うとったかな。テレビはですね、そりゃあ自家発電だけでは点けられない。ただ3軒くらいは持っていたかな。皆3軒の家に集まって、映画館と一緒やった。相撲とかですね。ラジオは多かったですねここ。若いモンが皆持っていましたよ」
特定のテレビを持つ人の家に集まって、映画館のように見ている様を想像すると、ほのぼのとしていてアットホームで暖かい印象を受けた。
偶の魚の取り方について 金田さん「魚は私が小さかった頃磯の周りをたくさん泳いでいた。そこで石山でダイナマイトを使うでしょう。偶にダイナマイトを海に投げ入れるのがおって、魚がたくさん浮いてくる。それをかますに入れて担いで持ち帰ってましたよ。あとは竹を細く切って先っちょに突き刺して、持ち帰っとった」
随分と豪快なやり方に思わず私も笑ってしまった。当時は漁師も少なく、近くの岸部の周りに多くの魚が見られたのだという。サザエなどもズラッと並んでいるような状態であったらしい。
当時のアルバイトについて 金田さん「35年頃は昔は日当が300円だった」 水田さん「キツかったのがそれが、半年払い」
日当300円については、物価などの違いもありそうなのかな、という印象を受けたが、半年払いには驚いた。そのような給料の支払われ方だったため、お金のやりくりなども難しく、緊急にお金に困ったときは、他の家を訪れてお金を借りていたのだという。アルバイトとして、定置網を行っていた漁師の下で働くモノや、石を船に積む仕事などがあったようだ。
4.感想
このような実際に現地を訪れて聞き取りをするという体験は座学とは全く違い、とても新鮮かつ刺激的なものだった。この島の人々はかなり高齢化が進んでいるようなので、歴史を知っている人が生きているうちに調査を行い、文章という形にして後世に伝えるということはとても有意義に感じた。最後に、この調査に協力してくださった水田竜美さん、金井田軍人さん、ありがとうございました。
5.写真
船から撮影した黒島
島にあった神社
村の風景
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